「プリズンホテル 冬」 浅田次郎
■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。ヤクザ小説がベストセラーに。
荻原みどり/丹青出版の若い女性社員。 孝之介から仁義の黄昏シリーズの原稿が欲しい。
清子(お清)/孝之介が金で買った女。病気の母と娘とともに暮らす。
富江/孝之介の育ての母。
阿部マリア/通称<血まみれのマリア>・救命救急センターの名物婦長。
サチコ/国道沿いのレストランでウエイトレスをする、笑顔の素敵な女子大生。 しかし強盗に頭を撃たれて死亡。
黒田旭/ホテルの副支配人&若頭。 孝之介の生みの親と駆け落ちし添い遂げる。
花沢一馬/支配人。カタギの雇われ支配人。誠実なホテルマンの鏡。
花沢繁/支配人の一人息子。 学校を休学してこの秋からホテルでフロントマンをしている。 元暴走族。
木戸仲蔵/ヤクザの親分であじさいホテルオーナー。 孝之介の叔父である。
平岡正史/仲蔵の担当医。 仲蔵に招かれ、ホテルに宿泊中。
8
雪が止んで星月夜があらわれると、風景は怖いぐらい瞭らかになった。
雑木林の中でいちど横たわってみたのだけれど、襟首を刺す雪が冷たいばかりでいっこうに眠くはならなかった。 雪の中にいれば体温が奪われ、すうっと眠りながら死ねるのだという話は嘘なのだろうか。
寒さに耐え切れずに、太郎はまたあてどもなく歩き出した。 CDのボリウムを上げる。
『冬の旅』は、一面の雪景色が似合いすぎて、まるで映画の中の美しい風景を見ているようだった。
スノトレに雪がしみこんで、爪先の感覚がなくなった。 こうして少しずつ凍えて行くのだろうか。
峠の分岐から山道に分けいると、雪は膝を埋めるほど深くなった。
ともかくこうしてどこまでも歩いて行けば、しまいには眠くなって行き倒れるだろう。
さしあたって、死ぬことに理由はない。
だがこの一年ばかりの間、太郎は死ぬことばかりを考え続けてきた。
もしかしたら何の責任もない先生や友人を困らせることになるかもしれない、と太郎は歩きながら後悔した。 死ぬことには理由がない方がよかったと思う。 理由のない死が、一番ロマンチックだとも思う。 理由は自分が死んだあと、みんなが勝手につけてくれるだろうし、それはたぶんもっともらしい、きれいな理由になったろうから。
やがて森を抜けると、ところどころに熊笹が顔を出す雪原に出た。
坂道を登りきったとたん、突然目の前に現れた大神楽岳の威容に太郎は立ちすくんだ。
太郎は大神楽の岩壁がいっせいに切り落ち、左右を稜線に囲まれた千の倉沢の雪原に立っていた。
じっと立っているだけで、山塊がもろ手を拡げてのしかかってくるような気がした。
とうとう引き返すことのできない場所に行き着いてしまったのだと太郎は思った。
魅きよせられるように雪原を進む。 深雪は腰までを埋め、手足は痺れているのに額からは汗が噴きでた。 こんなに辛い思いをするのなら、初めに考えた通りマンションのベランダから飛び降りればよかった。
泳ぐようにして歩くうちに、まだ真新しいラッセルの跡に行きあたった。
ラッセルは一直線に雪原を切り裂いて、なかば雪に埋もれた山小屋へと続いていた。
一瞬、助かったと思ったのはおかしなことだ。 とたんに足は勝手に小屋の灯に向かっていた。
指がちぎれそうだ。 山小屋の灯は手の届くほど近くにあるのに、まるで歩くそばから遠のいて行くようだった。 太郎は四つん這いに這いながら進んだ。 手足の動きを止めると、雪の底に引きずりこまれるように頭の仲が真っ白になった。
急にどうとも動けなくなった。 膝を抱えたまま卵のように転がって、ああこのまま死んでしまうのだと思った。 噂に聞いてきた死の眠りというものが、そんなふうに突然に襲いかかってくるものだとは考えてもいなかった。
―――もうちょっとで助かったのに。
ふいに強い力が太郎を抱き上げた。
たくましい肩に軽々と担がれて、暖かな小屋の中に入る。
火のそばに放り出されたとたん、男の掌が続けざまに太郎の頬を打った。
体がとろけ出し、耳の奥に血の流れる音が聴こえた。
「おい、起きろ。 指を切り落としたくなかったら、手袋を取れ」
凩のような嗄れた声で男は言い、太郎の足から雪の詰まったスノトレを脱がせ、靴下も剥ぎ取り、足指を熱い掌で包んだ。
「火に当てるな。 一本ずつしゃぶれ」
太郎は言われるままに、凍えた指先を一本ずつ口に入れた。
男は掌の中でしばらく太郎の足指を温めると、今度は脛から血を送り込むように擦り始めた。
「おまえがどこで寝ようと勝手だが、少しは他人の迷惑も考えろ。 よし、もう大丈夫だ。 あとは火に当てろ」
コップに固形スープと乾燥米を入れて湯を注ぎ、太郎に差し出した男の手には指がなかった。
「それ、凍傷ですか?」 男は答えずにスープを啜った。
火にかざされた右手には親指と人差し指が残っていない。 長い間を置いてから、男はぽつりと答えた。
「グランド・ジョラスでなくした」
山の名であるらしい。 だがそれがアルプスなのかヒマラヤなのか、太郎は知らなった。
「グランド・ジョラスって?」 男はやはり長い間を置いてから、面倒くさそうに答えた。
「グランド・ジョラスの北壁。 クライマーの聖地だ。 ヨーロッパ・アルプスの大氷河の奥にある」
「高いんですか?」
「富士山よりはな。 グランド・ジョラスは高度差千二百メートル、垂直に切り立った氷の壁だ。 まる八日かかって、四人でやっつけた。 そのとき取られた指が、合計十三本だ」
「四人で、十三本・・・・・」
「俺は二本だけだったがね。 小指はその二年前に、ヒマラヤのナンガ・パルバットに置いてきた。 ついでに足の指も二本な」
太郎は愕く(おどろく)よりも怖くなった。 手足の指を奪ってしまう雪山に対してではない。
ヒマラヤで三本の指を奪われ、アルプスで右手の日本を奪われ、それでもこうして山に向かう男が、人間ではない未知の生物のような気がしたのだ。
「どうして右手ばかりなの?」
「いい質問だな」 男は髭面に真っ白な歯をこぼして、初めて笑った。
「垂直の氷壁にはホールドも足場もない。 右手のピッケルと左手のアイスバイルを交互に打ち込み、アイゼンの爪を蹴り込んで足場にする。 虫けらみたいにほんの数センチずつそうやって登っていって、すばやくアイス・ハーケンを打ち込んでザイルを通す。 グランド・ジョラスは晴れた昼間でも三十メートルの突風がくる。 風を読みながらハンマーをふるうと、右手の指を氷にぶつけて痛める。 わかるだろう。 まる八日間もそんなことを繰り返せばまず犠牲になるのは右手のこの三本ってことだ」
男はそう言ってハンマーをふるう仕草をした。
「そんなことになっても、まだ山に登るんですか? 死ぬのが怖くはないんですか?」
男は赤い髭をわさわさと音立てるように笑った。
「そりゃ怖いさ。 誰だって死ぬのは怖い」
「他の3人の人たちも、やめようとはしないの?」 「三人、とは?」
「グランド・ジョラスを一緒に登った人たちですよ」
「ああ―――あいつらはみんな死んだよ。 一人はその翌年に、グランド・ジョラスに忘れ物を取りに行くって出かけたきりだ。 指どころか体ごと置いてきちまった。 もうひとりのやつはナンガ・パルバットのルパール壁で吹かれた。 あとの一人はそこの―――
そこの第四スラブのてっぺんからまっさかさまだ。 あんなところで落ちるようなやつじゃなかったが、まあ無理もないだろうな。 なにしろ五本の指が揃っている手足はもうなかったんだから」
「どうして?・・・・・僕にはわからないよ」
「わからなくて当たり前だ。 本物のクライマーはいつか必ず山で死ぬことになっている。 仕方のないことさ」
「必ず、死ぬって?」
「クライマーは困難を目指すんだ。 齢とともに体力は衰える。 だが、それに応じたレベルに下りることなどできはしない。 もちろん山をやめるわけにもいかない。 だから本物は、いつか必ず山で死ぬんだ」
男はいちいち咽にからみつくものを吐き捨てるような、ぶっきらぼうな話し方をした。
「ばかなやつだな、おまえは」
男は大人げないぐらい敵意をこめて太郎をにらみつけ、言葉と一緒に勢いよく痰を吐いた。
「おやじやおふくろは知っているのか」 思いがけないことから訊かれて、太郎は答えにとまどった。
「それなら、おじさんだって同じことでしょう。 いつ死んだってふしぎじゃないことをしてるんだから」
「俺のおやじやおふくろは、とっくにあきらめている。 おまえはまだそこまでの親不孝をしちゃいないだろう」
「あきらめてるよ。 学校もサボってばかりいるし。 成績もガタガタだし」
「そんなもので親があきらめるものか。 今頃はまっさおになって行方を探してるぞ」
太郎は咄嗟に家族のあわてふためいているさまを想像した。
もし自分が死んだら、母や姉よりも、ニューヨークに単身赴任中の父よりも、祖父が一番悲しむだろう。
男は二本だけ残った右手の指をしげしげと眺めながら呟いた。
「俺が何度死にぞこなっても、おやじやおふくろはあきらめなかった。 グランド・ジョラスをやっつけて凱旋したとき、二人共着の身着のままで成田まで駆けつけた。 あの姿は忘れられん。 おやじは地下足袋をはいていやがった」
話しながら男は、まるで自分を責めるように手にしたアイスバイルの柄でごつごつと額を叩いた。
「俺たちは英雄だった。 世界で初めて厳冬期のグランド・ジョラス北壁を完登したんだからな。 空港のゲートには記者団とテレビカメラが待ち構えていた。 ところがおやじは、カメラの砲列を押し分けてきて、いきなり俺の頭をゲンコでぶん殴った。 ボコボコと殴りつけたんだ。 それから記者団に向かって、まるでいろりばたでそうするようにちんまりと正座をして頭を下げた。 『申しわけねっす。 わしが満足な教育をしなかったばかりに、こんたなろくでなしに育っちまった。 申しわけねっす、堪忍してくだっせ』 おやじは伜が英雄だなどとは考えてもいなかった」
「親不孝だね」 太郎の言葉を噛み締めるように、男はうなじを垂れて肯いた。
「山岳会の遠征メンバーが発表されるたびに田舎から出てきて、行っちゃなんね、行かないでくれ、と俺を止めた。 ようやくあきらめたのは―――俺がエベレストの頂上で日の丸を振ったときだった」
「エベレスト! エベレストに登ったの」
「ああ。 海抜八千百四十八メートル、地球上の最高点だ。 しかも絶対不可能といわれた南壁を第六キャンプから一気に落とした。 世界中の新聞が、頂上で日の丸を振る俺の姿を一面のトップに掲げた。 前人未到のチョモランマ南壁。 俺はその瞬間から、サー・ヒラリーやラインホルト・メスナーと肩を並べる、世界のトップクライマー、武藤嶽男になった」
「おじさんが、あの武藤嶽男! すごいや、信じられない!」
太郎の愕きをよそに、男は黙って小枝を火にくべた。 そして屈強な体をぎしりと軋ませて立ち上がった。
「どこへ行くの?」 「疲れたから寝る」
「おじさん・・・・・」 小屋から出ていこうとする山男を、太郎はすがるように呼び止めた。
「まだ何か用があるのか?」 武藤は振り向きもせずに言った。 答えようもない冷淡さだった。
「独りにしないでくれ、か? おまえ、ここがどこだが知らんのだろう。 知らなきゃ教えてやる。 八百人の命を呑み込んだ大神楽岳の千の倉沢だ。 やつらはみんな、この出合の小屋から風を読んで出て行った。 そして粉々に砕かれて、またここに戻ってきた。 死にたけりゃ勝手に死ね。 俺は関係ない」
武藤の言葉は衝撃的だった。 どうしてこの人は事情を訊いてくれないのだろう。
「こんなところにいたら、死んじゃうよ・・・・・」
「だったら本望だろう。 さっきは邪魔をしてすまなかったな」
武藤はグローブを外してヤッケのポケットを探った。 投げ渡されたビニール袋にはウイスキーの小瓶が入っていた。
「それを飲めば眠くなる。 中で寝るか外で寝るかはおまえの自由だ」
扉を押すと、雪が激しく舞い込んだ。 わずかの間に外は吹雪になっていた。
「ほんとに、死んじゃうからね」
「どうぞ。 俺は何とも思わん。 山に死にに来るようなばかやろうとは口もききたくはない」
「みんな死ににきてるようなものじゃないか。 おじさんだって―――」
「ふざけるな!」と、武藤は肩ごしに怒鳴った。 太郎は思わず背筋を伸ばした。
雪の中に一歩踏み出すと、武藤は戸口に転がったCDを、穢らわしいものに触れるように靴先で蹴り込んだ。 それからピッケルの石突きを太郎に向け、恐ろしい声で言った。
「いいか小僧。 死んでもいいというのと、死にたいというのは大違いだ。 最高の男と最低の男の違いだぞ。 一緒くたにするな」
9
厨房には時ならぬ雪山讃歌の合唱が響いている。
「雪よォ、岩よォ、われらァがやァどりィー、ハイ!」
小節のきいた演歌調の声は梶平太郎で、弟子たちのよく通る職人の声がそれに和する。
「俺たちゃ、住めないかァらァにー」
ちょっと小粋なシャンソン風の、服部シェフの声も混じっている。
人々は白衣のうえにヤッケを着込み、あるいはチロリアン・ハットを冠り、梶板長に至ってはほぼ完全なカルペンスタイルで、磨き上げたピッケルを振っていた。
「あれ、こりゃダメだ、板長。 また吹いてきちゃった」
一節を唄い終わってから、服部シェフが窓の雪囲いを見上げて言うと、若い弟子たちはいっせいに絶望的なため息をついた。
昨年の秋に梶板長の音頭で結成された「あじさい山岳会」は、けっこう本格的な装備を整えて、暇をみては大神楽岳に通っている。 当初は自称アルパイン・ガイドの梶のゴリ押しで始まったのだが、何度か山行を重ねるうちに全員がすっかり山の魅力にたり憑かれた。
ことに大神楽に雪が来て、アイゼンをはきピッケルを握って沢登りに挑むころになると、他に楽しみもない若者たちはすっかり嵌ってしまった。
服部シェフはことさら嵌った。 この山奥のホテルにゆえあって飛ばされる前は、名門赤坂クラウンホテルの料理長まで務めたほどであるから、根はこり性である。 初めのうちはいやいや付き合いで同行していたものがすっかり嵌って、「山と渓谷」「岳人」等を読みあさっては、通販で高価な道具を買い揃えた。
「ちょこっとならいいじゃないですか、板長」 そうだそうだと若者たちも声を揃えた。
元旦に龍神尾根からご来光を拝んで以来、ずっと悪天候が続いている。 覚えたての体はどれもウズウズとしているのだが、リーダーの梶板長は許さなかった。
「おい、ちょこっとたァどういう言い草だ。 そういう安易な考えが事故のもとなんだぞ。 勇気ある撤退は無謀なアタックよりも難しいんだと、あの名アルピニスト、武藤嶽男も言ってるじゃねえか」
登山家としての腕はどうかしらんが、こと包丁さがきに関しては神のごとき名人である板長の言葉には説得力がある。
「そんじゃ、またビデオですかァ。 むなしいなァ・・・・・」
町のビデオショップから借りた「武藤嶽男アルパイン・ガイド」シリーズ全十巻は、どれもすり切れるほど見ている。 秋口に借りたままだが、善良な店主は電話一本かけてはこなかった。
たしかにビデオは虚しい。 見ている間はそれなりに興奮し、頂上に登りつめたときはちゃんと達成感もあるのだが、ティッシュで手の汗を拭ったあとは決まって虚無感に襲われる。
いい齢こいて、なんでこんなことしちゃったんだろう、と思う。
服部シェフはビデオの中の、チョモランマのベースキャンプからはるかなサウスコルを見つめる武藤嶽男の横顔を思い出した。 ヨーロッパ・アルプスの三大北壁と、ヒマラヤの八千メートル峰四座を征したそのトップクライマーは、日に灼けた精悍な顔を高みに向けて呟くのだ。
「いつ死んだっていいんですよ、男は」と。
しぶい。 しぶすぎる。
板長ならずとも、五人の「あじさい山岳会」会員はみな、武藤嶽男のとりこだった。 かつては怪奇趣味一色に塗りつぶされていた服部シェフの部屋にも、今では護符の一枚すら見当たらない。
神棚も仏壇も十字架も、パワーピラミッドもコックリさんのウィジャー盤もない。 そのかわり山岳雑誌から切り抜いた武藤嶽男のプロフィールと、チョモランマの頂上で日章旗を振る巨大ポスターがびっしりと張り巡らされているのだった。
思い余って二本山岳会あてにファンレターも書いたのだけれど、返事はない。
もし本人に会えたら、きっとどうかなってしまうだろうと思う。
梶板長はもういちど雪囲いのすきまから外を覗き、横なぐれの吹雪に溜息をついてからおもむろに装具を解いた。 弟子たちは肩を落として、厨房の掃除を始めた。
「娘さんよくきっけよっ、山男にゃほォれェるなよっ、か・・・・・いいなあ、山男は。 男の仕事ってのは、命がかからなきゃ嘘だよな。 包丁一本さらしに巻いたって・・・・・べつに命はかからねえもんなあ」
板長は頑固一徹の顔を自嘲的に歪めて呟いた。
「そりゃまあそうですけど。 でもね、板長。 命のかかる仕事なんて、そうそうあるものじゃないですよ」
「そうかなあ。 でもよ、服部。 オーナーにしたって黒田さんにしたって、支配人にしたってけっこう体張ってるぜ。 こないだオーナーがお連れしたかかりつけのお医者さんだって―――」
触れてはならない話題に触れてしまったように、板長は口をつぐんだ。
「・・・・・安楽死事件ね」
「ああ。でかい声じゃ言えねえけど、あれにしたって命懸けの仕事だろうよ。 実はさっきな、離れに茶漬けを持っていったら、あのお医者さん、竹やぶの中でじいっと立ってるんだ。 裸足でよ」
「裸足、で?」
「そうよ。 ありゃあきっと、注射しちまった患者のことを考えていたんだ。 人の命を助ける医者がよ、ガキの頃から野口英世とかシュバイツァーに憧れて、一生懸命に勉強して、今までにだってたくさんの人の命を助けてきた医者がよ、先生たのむから楽にしてくれって患者に頼まれて・・・・・俺ァそんなあの人の苦しみを考えると、様子を窺いながら涙が出た。 なんだか、献立がどうの、うめえのまずいのって、そればかり考えてるてめえの仕事がよ、情けなくなっちまったよ」
「夕食、半分も召し上がってなかったですね」
「ああ。 ずっとそうだ。 たぶん飯も咽を通らねえんだろうな」
服部はアイゼンをしまうと、エプロンをかけ、シェフ帽を冠った。
「なにするんだ?」
「夜食をお持ちします。 リゾットでも作りましょう」
トマトベースに日本酒と醤油を隠し味にしたシーフードリゾットには自信がある。
シャンゼリゼの並みいるグルメたちを唸らせ、東洋の神秘と称賛された味である。
「あれ板長、きょうは競らないんですか?」
服部がリゾットを作れば、必ず雑炊で対抗してくる板長は何も言わない。
「いや、この季節じゃ、旬のもののねえ分だけかなわねえ。 おめえのリゾットはたしかにうめえからな」
医者の苦悩する姿がよほど身に応えたのだろうと、服部は思った。
「やっと終わったみたいですねえ―――」 花を生ける手を休めて、女将は廊下の先を振り返った。
山の合唱がとだえ、厨房からは板前たちの働き出す気配が伝わってきた。
「なんだかかわいそうね。 遊びたいさかりの若い衆がこんな山奥の宿に押しこめられて、『あじさい山岳会』だなんて」
女将はほっと小さな溜息をついた。
それはまるでようやく落ち着き先の決まった水仙が洩らした溜息のようだ。
花沢支配人は女将の居ずまいの美しさにみとれた。
今年還暦を迎えると聞いているが、ことこの女性に関する限り、六十歳という年齢がその美貌のさまたげにはならない。 むしろ齢の数だけの美しさが、層をなして嵩んでいるように思える。
ふしぎな人だ。 温泉宿の女将につきものの、騒々しさやしたたかさはどこにもない。
従業員たちをことさら取り仕切るふうもない。 客をもてなす宿の主人は、こうでなければならないと支配人はいつも思う。
「黒田君は幸せですね。 奥さんがおきれいで。 うちの女房なんかまだ四十だというのに、すっかりかまわなくなっちゃって」
「あらあら、お上手ね。 べつに私にまでお世辞を言わなくてもいいのよ」
ホテルの人間関係は複雑である。 仲蔵親分は「オーナー」であって「主人」ではない。
だから本来なら黒田が「主人」でその女房が「女将」になるはずなのだが、花沢一馬というエキスパートをヘッドハンティングしてきたがために、黒田は番頭ガシラという役職に甘んじることとなった。
温泉宿に女将がいなくてはさまにならないので、女将は女将のままである。
誰が決めたというわけではなく、成り行き上そうなった。
黒田を部下をして扱い、そのつれあいを女将と崇めなければならない矛盾は明らかなのだが、それぞれの役目を考えれば形はそれしかないのである。
黒田旭は偉い男だと、支配人は今更しみじみと思った。
「でもねえ、花沢さん。 私、なにも黒田のためにおめかししてるわけじゃないのよ」
「あ、それはもちろんですよ。 そんな意味で言ったわけではありません」
「―――私ね、あの子のためにきれいにしているのよ」
支配人はぎくりとした。 ひどく冷淡な物言いに聴こえた。
「先生のため、ですか」
「そう。 私、あの子が七つのときに家を出たでしょう。 黒田と手を取り合っての駆け落ち。 それからずっと思い続けてきたんですよ、四十の時も五十の時も、私はあの子と別れた三十二でなけりゃいけないって。 もちろん今もそう思ってるわ。 ちょっと無理があるけど」
「どういうことですか?」 花を眺めながら、女将は肩ごしに微笑んだ。
「どういうことって―――あの子の時間は、七つの齢で止まってしまったままだから」
母の時計も止まったままなのだろう、と支配人は思った。
くろぐろとした時間の闇の中で、母と子は老いることも成長することも許されず、三十二歳と七つの少年のまま向き合っている。 永遠に。 言葉を交わすことも、身じろぎをすることもできず。
「去年の春にこのホテルを始めたとき、仲蔵さんと黒田と、三人で相談したの。 孝ちゃんも立派になって、そろそろいい潮時だからここに呼んできちんと説明しようって。 私たちもみんな齢だし、あの子に負い目を負ったまま死ぬのいやだから」
「あのね、おかみさん。 もしかしたら私の邪推かもしれませんけれど―――」と、花沢は女将のかたわらに屈み込んだ。
「もしや、オーナーがこのホテルを買い取って、おかみさんと黒田君に任せたのは、その目的のためじゃないんですか?」
ずっと考えていたことである。 いつか誰かしらに問い質してみたいと思っていた。
女将はしばらくぼんやりと花を見つめ、それから黒目の勝ったまばゆい瞳を、物憂げに吹き抜けの天井に向けた。
「やっぱり、あなたもそう思う?」
「ええ。 だってそうでしょう、暴対法がどうの、シノギがどうのと言ったって、話は極端すぎますよ。 こういうご時世なんだから、東京の木戸組は企業舎弟に任せて、古い子分たちはどこかに引っ込む。 それは、わかります。 でもよりによって―――」
「このホテルの前の経営者と仲蔵さんとは、お金の貸し借りがあったから」
「ですから、そこがおかしいと思うんです。 このホテルが永久に採算の取れない代物であることは、私が誰よりも知っています。 オーナーほどの人物がそれをわからないはずはありません。 だから私は―――」
聞きながら打ちしおれてしまう女将の姿に、支配人は言いよどんだ。
「仲蔵さんはあの子のために、このホテルを始めた。 あの子にすべてを知らせるために、この舞台をこしらえたって、そう言うんですね」
フロントの奥から、黒田の太い指先が探るコンピューターのキーボードの音が聴こえてきた。
寡黙な男の、悲しい呟きのようであった。
「もしそれが本当だとしたら、私たち、支配人に何ておわびしていいんだか」
ちがう、と花沢は思った。
仮に自分が、彼らの目的のために用意されたスタッフであったにしろ、クラウンホテルを捨てたことに悔いはない。 妻も子も救われた。 いらっしゃいませという言葉にこめられた真実の意味を、自分はここで知った。 できることなら木戸仲蔵の前に頭を垂れて、心の底からありがとうございましたと言いたかった。
「いいんですよ、おかみさん。 私はね、本物の実業家に会うことができたんです。 助けられたんです。 いつかお礼を言わなきゃと思っているんですが、言葉が見つからなくて」
「仲蔵さんはそういうの苦手ですよ、照れ屋だから」
「女房と相談しましてね、いちど家に来ていただいたんです。 たまには女房の手料理でも、って。 それで改まってお礼を言おうとしたんですけど、機先を制されちゃって」
「なんて言いましたの?」
「ひとことだけです。 『おい花沢、頭下げるんなら、世話かけた順にしろ』って。 思わず女房の横顔見て、もうなにも言えずに泣いちゃいました」
女将はその場面を心に思い描くように、目で肯いた。
「私と黒田なんか、三十年もずっと同じこと言われっぱなし。 仲蔵さんて人は、何しろ他人に恩を売ることが嫌いなの。 政治家や社長さんに対してはあんなに横柄なのに、仲居さんがちょっとお礼を言っても、プイと横向いちゃう」
ふと支配人は、去年の暮れにオーナーからこっそり命じられた仕事を思い出した。
東京の事務所に呼び出され、紙袋にぎっしりと詰まった大金を手渡された。
仲居たちの母国の銀行口座に、サンタクロースの名義で送金しろというのだった。 法外な金額に支配人が異論を唱えると、親分は「なあに、どうせ政治家どもの汚れた銭だ。 施しじゃねえよ、マネーロンダリングさ」と、意味不明の注釈を加えた。
「あんな山奥に縛り付けてたんじゃ、国の子供らにクリスマスプレゼントも送れねえだろう」
そのとき花沢は、ほんもののサンタクロースを、たしかにその目で見たのだった。
「偉いですね、オーナーは」
「そう。 偉い人ですよ。 ただの偉い人じゃなくって、おしゃれで、やさしくって、神様みたいな人・・・・・」
突然、背後に人の気配を感じて女将を花沢は振り返った。
髪を逆立て、浴衣の前をはだけてパンツを丸出しにした仲蔵親分を、二人はたしかにその目で見た。
少なくともサンタクロースではなかった。
親分は切迫した形相で、ぜんぜん神様のようではなく追い詰められた獣のように叫んだ。
「花沢、おまえ、知ってるな。 知ってるんだな!」
いきなり胸ぐらを掴み挙げられて、支配人はうろたえた。
「ななななな、なんですか! いったい何のことですか、オーナー!」
「とぼけるな。 俺は癌なんだろう、そうだろう」
「知らない、知りません、そんなこと。 ええっ、癌! ほんとですか」
親分は支配人を突き飛ばし、じたばたと逃げ惑う女将の襟首を引き寄せた。
「ちーえーちゃあん。 たのむよオ、本当のこと言ってくれ。 あんたきのう、平岡先生の部屋で飲んでたろ。 告知されたんだろ。 やっぱり俺ァ癌だな、そうなんだな」
「ちょっと、気をしっかり持って、仲蔵さん。 えっ、癌! そりゃまあ大変だわ、跡目どうするの、当然黒田でいいのね」
仲蔵親分は絶望のあまり浴衣のもろ肌を脱いだ。 すでに前ははだけ切っているので、浴衣は尻尾のように腰から垂れ下がった。
「オーナー、あんまりみじめです。 どうせなら脱いでしまった方がまだしも・・・・・」
「うるせえ。 ああ、いやだ。 俺ァじきに死ぬんか。 たぶん地獄だよなア、こえェーよー、おっかねーよー」
茫然自失として歩きながら尻尾を踏んづけて転び、親分はフロントまで四つん這いで進んだ。
カウンターからぬっと浮かび上がった獄門首のような顔に、黒田は悲鳴を上げた。
「くろだー、おめえだけは本当のことを言ってくれ。 俺は癌だよな、そうだよな。 C型肝炎が肝硬変になっちまって、ついに肝臓癌になったんだろ。 知ってるぞォ、しめえには動脈瘤破裂で、天井まで血ィ噴いて死ぬんだ。 こえー! おっかねー!」
「親分!」 黒田はフロントをくぐり出て、仲蔵親分のあられもない姿を抱き起こした。
「頼む、本当のことを言ってくれ。 俺は癌だな、そうなんだな。 はっきりそう言ってくれりゃ、俺も男だ。 決して取り乱しやしねえ」
「もうとっくに取り乱しておりやす」
「えっ、あ、ほんとだ―――ともかくはっきり言ってくれ。 いいか、黒田。 俺はちっともこわかねえ。 ただ、おめえらに隠し事をされるてえのがたまらねえ」
「・・・・・親分。 いま思いつきで言いなさったね。 とりあえずはお気を確かに。 いいですかい、親分は脂肪肝でござんす。 決して癌なんかじゃありやせん。 これで、よござんすね」
「信じられねえ。 俺ァゼッタイに癌だ」
「信じなせえ。 信じるものは救われると、あのイエス・キリストも言ってるじゃねえですか」
黒田の落ち着き払った説得に、親分はようやく気を取り直した。
「俺にゃひとっつだけやり残したことがあるんだ。 なあ、アキラ。 どうともそれだけァやっておかねえと、俺ァ死んでも死にきれねえ」
「へえ。 そいつァ何でしょう」
親分はただれ落ちるほどの悲しい目でじっと黒田を見つめ、それからおもむろにロビーを振り返った。
「わかるだろ。 孝の字のことさ。 俺ァ、あいつをまっとうな人間にせにゃならねえ。 偉い先生なんかにならなくたっていいんだ。 せめて人並みに、ふつうの大人にしてやらにゃ・・・・・」
花籠に目を落としたまま、女将の肩が揺れた。 支配人は女将の正面に膝をついて話題を変えた。
「ねえ、おかみさん。 白や黄色の花ばかりで、少し寒々しくはありませんか。 お客様もおいでになったことだし、あした繁のやつに町まで行かせましょう。 どんな花がいいんでしょうね」
支配人のやさしさに、女将は涙ぐんだ。
「そう・・・・・だったら、バラの花がいいわ。 あの子の好きな、真っ赤なバラの花・・・・・」
女将は花籠の花を着物の胸に抱え寄せ、声を押し殺して泣き出した。
10
―――なんて辛気くさい花だろう。
清子に耳掃除をさせているうちに、床の間に生けられた水仙の一輪挿しが妙に腹立たしくなって、ぼくは爪先で花瓶を蹴飛ばした。
青磁の首がぽきりと折れて、水が床を浸した。 ざまあみろ、とぼくは唇を歪めて笑った。
「あっ、だめだめ先生、そんなことしたら」 清子はとっさにぼくの頭から膝を抜き、床を拭いた。
自分が犯した過ちのようにかしこまって、折れた花瓶の首をつなぎ合わせようとする。
こいつは何てばかなんだろう。 そしていちいちばかみたいなその動作や物言いが、何でこんなにも美しいのだろう。 ぼくは横向きに枕を奪われたまま、しみじみと浴衣の尻を見つめた。
「これ、きっとおかあさんが生けてくだすったんですよ」 糊のきいた浴衣の尻には、淡いブルーの下着が透けていた。
「おかあさん? 誰だそれ。 おまえのおふくろなら、今頃発作おこしてヒーヒー言ってるだろう。 きょうは冷えるからな」
「ちがうちがう。 そうじゃなくって、先生のおかあさん」
「俺のおふくろ?―――ハッハッ、そんなもの俺にはいない。 実はな、お清。 ここだけの話だが、俺はおやじのケツの穴から生まれたんだ」
「ええっ! それ、ほんとですか!」 清子は愕きのあまり花瓶を取り落として振り返った。
「うそだよ。 そんなわけねえだろ、バカ」
「おい、風呂に入るぞ」 「お風呂? いま上がったばっかりですけど・・・・・」
「俺はこの部屋の内風呂が好きなんだ」 「じゃ、湯加減を見てきます」
清子は立ち上がって、内廊下を挟む湯殿に走った。
「沸かし湯じゃないんだから、湯加減なんか見ることない。 おまえ、先に入ってろ」
「え?・・・・・はい」
一瞬はじらうように立ち止まってから、清子はからからと湯殿の引き戸を開けた。
柏木のボロアパートは普及型のちっぽけな浴槽だし、生理的な逢瀬には都心のシティホテルを使う。
だから日頃一緒に風呂に入ることはない。
だとしても、清子のはじらいが僕には理解できなかった。
春にここへ来て、初めて一緒に風呂に入った時も、清子は湯につかる前から白い肌を薄桃色に染めていた。
さんざ男どものおもちゃにされたあげく、やくざ者の子供を産み、しまいには売春宿も同然のピンクキャバレーに身を沈めていた。 今更守るべき貞操などあるはずもないのに、清子は初めてぼくに抱かれたときから、処女のようなはじらいを見せた。 そして何百回も抱かれた今でさえ、ぼくの目の前では巧みに胸をかばい、肌を染める。
理由などあるはずはない。 清子という不可思議な女の生まれついての習性だ。
帯を解く気配がした。 ぼくは座敷に手枕をしたままうっとりと、清子が脱皮する昆虫のように浴衣を脱ぎ捨てるさまを想像した。
槇の湯殿が軋む。 白い硫黄の湯が、片膝たった清子の、石膏像のようになめらかな裸身を伝う。
狂おしいほどに愛している女のその姿をありありと思い描いたとたん、とうていせき止められぬほどの勢いでぼくの目から涙が溢れ出たのはなぜだろう。
ぼくはしばらくの間、手枕の袖がしとどに濡れるほど、声を殺して泣いた。
ぼくはおもむろに立ち上がった。 湯殿に入り、まず鏡に向かって、まさか太宰治のようにみじめな顔をしていやしないだろうな、と考えた。 当たるを幸い女と見れば愛の言葉を大安売りし、好きだ、愛してる、僕と死んでくれ、と連呼するようなその作家の顔が、ぼくは昔から大嫌いだった。
幸い鏡に映ったものは、太宰とは似ても似つかぬ冷酷な男の顔だった。
細い鼻梁、切れ長の目、薄い唇。 自慢じゃないが生まれてこの方、好きだ愛しているは言ったためしがない。 清子と心中する気遣いはまずない。 たとえ絞め殺すことがあったにしろ。
湯口から流れ出る白濁した湯は滔々と溢れ、槇の床を瀬のように浸していた。
清子はぼくに気づかぬように背を向けて、ぼんやりと湯につかっていた。 湯舟をめぐる窓の外には凄惨な感じさえする真夜中の雪景色が拡がっていた。
いや、凄惨な感じを受けたのは、その一幅の画額の前に、清子の白い背があったからかもしれない。
「なにボンヤリしてるんだ。 惚れた男のことでも思い出してるのか」
ぬるめの湯に滑り込んでぼくは訊ねた。
窓の外で清子が肯いたように見えたのは、ぼくの思いすごしだろう。
「先生のこと、考えてました」 「俺のこと?」
「いつもはミカとかおばあちゃんのことで頭がいっぱいだから。 いろんなことを考えると何が何だかわからなくなっちゃうし」
「そうか、よかったな。 ここへ来るとようやく俺のことまで気が回るってわけか」
「そうじゃないけど。 ほんとは先生のことばかり考えていたいんだけど」
「ガキとかババアとか、別れた亭主とか昔の男どものこととか、いいなおまえは、考えることがたくさんあって」
「ちっともよくないです」
清子の頭の中がぼくの与り知らぬおびただしい愛憎の記憶でうずめつくされていることは、これで明らかになった。
偏屈で狭量で、原稿用紙の枡目をひとつずつ刻むように埋めていくしか他に芸のない男の入り込む余地など、どこにもあるまい。
手の届く場所にいる清子が、遥かな霧の中に佇んでいるような気がしてならなかった。
「あたし、先生のこと好きだから―――」
ぽつんと告白した清子の愛の言葉にぼくは感動した。
しかしじきに、感動を被う嫉妬の大波がぼくの上に押しかぶさった。
嘘も見栄もないこの女は、きっと今まで何十人もの男に、同じ言葉を呟きかけたことだろう。
「もういっぺん言ってみろよ」
「・・・・・先生のこと、好きです」
「もういっぺん」
「好きです、愛してます。 先生のこと、大好きです」
「よおし。 これから一晩じゅう、俺がもういいと言うまで言い続けろ。 ババアが題目となえるみたいに、ずっと言い続けろ」
清子は何のためらいもなく、好きです、愛していますと呟き始めた。
言い続けるほどに清子の肌がみるみる上気して行くのは湯のせいではあるまい。
愛の言葉には明らかに、清子自身を昂らせる祈りの力がこめられていた。
ぼくは清子を湯舟から引きずり出し、柔らかな湯が瀬となって流れる床の上に押し倒した。
唇をむさぼり、乳房をもみしだき、獣のように清子を抱きながら考えた。
ぼくはどうして、清子を他の女のようにやさしく抱くことができないのだろう。
なぜこんなにも性急に不器用に、まるで初めて女を知った少年のような抱き方しかできないのだろう。
それでも清子は、柔らかく包むでもなく、きつく縛めるでもなく、ぼくを呑み込んでくれる。
好きです、愛していますと繰り返しながら、ぼくとともに天の高みへと昇って行く。
「お願いです、先生。 あたしのこと、好きだって言って」
ぼくは答えなかった。
「愛してるって、こんなあたしでも、愛してるって言って」
愛の呪文はやがて嗚咽に変わり、とうとう清子は声を上げて泣き始めた。
極みを迎えられずに、ぼくは清子を突き放した。
湯舟に転げ込み、呆然と横たわる清子の白い裸身に向かって、口に含んだ湯を吐きつけた。
「何で俺がおまえなんかに、そんなこと言わなきゃならねえんだよ」
顔をそむけた窓の外は、凄惨な吹雪だ。
続く