「プリズンホテル 冬」 浅田次郎


■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。ヤクザ小説がベストセラーに。
荻原みどり/丹青出版の若い女性社員。 孝之介から仁義の黄昏シリーズの原稿が欲しい。
清子(お清)/孝之介が金で買った女。病気の母と娘とともに暮らす。
富江/孝之介の育ての母。
阿部マリア/通称<血まみれのマリア>・救命救急センターの名物婦長。
サチコ/国道沿いのレストランでウエイトレスをする、笑顔の素敵な女子大生。 しかし強盗に頭を撃たれて死亡。
黒田旭/ホテルの副支配人&若頭。 孝之介の生みの親と駆け落ちし添い遂げる。
花沢一馬/支配人。カタギの雇われ支配人。誠実なホテルマンの鏡。
花沢繁/支配人の一人息子。 学校を休学してこの秋からホテルでフロントマンをしている。 元暴走族。
木戸仲蔵/ヤクザの親分であじさいホテルオーナー。 孝之介の叔父である。
平岡正史/仲蔵の担当医。 仲蔵に招かれ、ホテルに宿泊中。





「ひえーっ、さみーっ、つべてえーっ、死ぬ、死ぬ、死んじまうー!」

眉も睫毛も真っ白に凍らせて玄関に駆け込んだなり、繁はハッと立ちすくんだ。
番頭たちは一列に並んで腰を割り、フィリピーナの仲居たちは三つ指をついていた。
かわす間もなく黒田の鉄拳が飛んだ。
「このタコスケ! お客人より先に飛び込んで寒いのつめてえのはねえだろっ!」
「いてっ、すみませんカシラ。 こりゃ皆さんお揃いで」
「みろ、てめえがあんまり遅いからみんなかれこれ一時間もこのまんまだ」
「え? 一時間も、このまんま?」
「あったりめえだ。 当館のモットーは誠意と真心。 愛情と根性。 お客人ご着倒の五分前から、この格好のまんま身じろぎしちゃならねえ定めだ」
「へえ。 知ってやす」
「知ってたら何でこんなに時間がかかるんだよ。 駅に電話すりゃとっくに出たって言うし、警察にゃ電話したくねえし、消防署に電話したら居留守つかわれた。 みろ、この気の毒なこと」

ふと見ると、中腰のままズラリと並んだ番頭たちの掌は、膝を握ったままワナワナと慄えている。
正座したままの仲居たちの額には、ビッシリと玉の汗がうかんでいた。
「す、すまねえ、みんな・・・・・」
「おかげでゴンザレスは治りかけのヘルニアが再発した。 アニタは貧血で倒れた。 いってえどこで何してた。 零下二十度だぞ、イチかバチかでブッ飛ばしてこにゃ凍傷にかかるってあれほど言ったろうが」
「それが、その―――途中のカーブでタライを落っことしちまって」
「バーカ。 そんなものァ明るくなってから拾いに行きゃいいんだ。 まったくてめえってやつは・・・・・なに、タライ?・・・・・ええっ! てめえ、拾ったろうな。 ちゃんとめっけたろうな!」
「へい。 なにせ親不知峠の坊主落としから、熊ころびの岩場をまっさかさまでやんすからね」
「わわっ。 で、どうした。 あのひよわな先生じゃひとたまりもあるめえ。 いかにも生命力に欠ける感じだし」
「ところがですね、カシラ。 運良く鬼殺し岩にひっかかって」
「ひえーっ、さむい話だなァ! まいったな、警察や消防じゃ遺体の回収はムリだ。 自衛隊のヘリに出動要請しなきゃ」
「カシラ、ソバ屋の出前じゃねえんですぜ。 ご安心下せえ。 タライは回収しやした。 死人もケガ人もありやせん」

「・・・・・え? どういうこった?」
「実はですね、オロオロしているところへ、駅で行き合った登山客がノッシノッシとやってきやしてね。 いやあ、ありゃタダモノじゃねえ。 きっと名のあるアルピニストだ。 なにせこの時刻から大神楽岳に入って、千の倉沢の小屋に泊まるってえんですからね。 で、ザイルを松の木に結びつけやしてね。 鬼殺し岩のオーバーハングを、まるでムササビみてえにスルスルと」
「うわあ、すげえ。 で、どうした」
「どうしたも何も遭難者をタライごと背中にくくりつけて、今度はモモンガみてえにスルスルと」
「登ってきたってのか! すげえ。 サインもらっといたか」
「いえ、せめて今夜はうちのホテルにって言ったんですけど、タワシみてえなヒゲヅラをちょいとほころばせやしてね、せっかくだが、俺はフトンじゃ眠れんって」
「バカ。 命の恩人だぞ。 ベッドの部屋もあるって言ったか。 なんなら廊下に寝袋でって言ったか」
「いやね、お引き止めする間もなく、峠の分岐からノッシノッシと山に入えってっちまったんで」
「・・・・・しぶい。 しぶすぎる!」

侠気(おとこぎ)が唯一のテーゼであるホテルのロビーに、おお、と感動のどよめきが湧き起ったそのとき、玄関の自動ドアが左右に開いて粉雪が舞い込んだ。
「だれだ、こんな所に植木を出しっぱなしにした奴ァ。 樹氷になっちまったじゃねえか」
「いけねえ、すっかり忘れてた。 カシラ、樹氷じゃありやせんや、お客人です」
ラッシャイマッセー、とタガログ語なまりの挨拶がロビーにこだました。
「あっ、こいつァ、お客人。 お足元のお悪い中、遠路はるばるのご着到、ご苦労さんにござんす。 かように夜も更けましてお越し下されたからにァ、さぞかしご事情もございましょうが、いずれも一天地六の賽の目渡世、狭え世間はお互え様でござんす。 まずはそちらさんから、お控えなすっておくんなさんし―――」

「クロダクン・・・・・仁義ハ、イイ」
くぐもった声がそう言うと、まんなかの背の高い樹氷の壁がボロボロと崩れて、小説家の青ざめた顔が現れた。
「ややっ、こいつァ先生。 つい反射的に仁義を切っちまった」
「トモカク、フロ、フロ」
「かしこまりやした。 おいっ、野郎ども! お客人を風呂場にお運びしろ。 いきなり放り込むんじゃねえぞ、身が崩れるといけねえからな! 板長、おめえが段取りしろ。 パーシャル解凍の要領だ!」
番頭たちは痛む腰をかばいながら、仲居たちは七転八倒しながら立ち上がり、凍りついた三人の客を手際よく風呂場へと運んだ。


やわらかな湯に体をほぐされてようやく人心地つくと、マリアはこの上なく幸福な気分になった。
人間なんていいかげんなものだと、つくづく思う。 
毛細血管の隅ずみまで血が行き渡ったとたん、寒さも怒りも、嘘のように消えてしまった。
スノーモービルの曳いていたロープがほどけて清子さんが谷に落ちたとき、自分は彼女の生命について何も考えなかった。 怖くて、寒くて、それどころではなかった。
自分の生命が保証されているという大前提がなければ、他人の命を心配することができない。
人間としても理性も、看護婦の使命も、肉体に危険がさし迫ればどこかに消えて飛んでしまう。
脳みそも内臓なのだ。

だから幸福な気分になっても、湯舟の端でじっと温まっている清子に声をかけることができなかった。
あのときの自分を恥じるのではなく、そうする資格はないのだと思った。
小説家も人心地がついたのだろう。 男湯からひどい調子っぱずれの演歌が聴こえてきた。
「ああ、あったかい・・・・・生きてて、よかった・・・・・」
天井を見上げて呟く清子の声には、もののたとえではない実感がこもっていた。
会話を恐れてマリアは湯から出た。 手探るほどの湯気の中を歩き、露天風呂に滑り込んだ。
青竹を組んだ間仕切りが中程まで続き、その先は混浴であるらしい。
冬場は訪れる客も稀であろうに、湯殿の清潔さといい、露天風呂の植栽の手入れといい、細やかな心遣いが感じられる。 宿にはすさんだ心をなごませる温もりがあった。

湯気の合間に、紅色の山茶花が咲いていた。 心惹かれて、マリアは湯の中を進んだ。
ほてった肩やうなじに、降りかかる雪が心地よい。
山茶花に手を伸ばしかけて、マリアは背後の人の気配に胸を被った。
「あ、失礼しました―――」 間近の岩蔭から男の声がした。 
「いえ、こちらこそ。 ごめんなさい」 マリアは顎まで湯に沈めて答えた。
「いま、お着きですか」 「ええ。 終列車で」
小説家の調子っぱずれの歌声が湯殿から聴こえてきた。 男はたぶんその歌に閉口して外に出てきたに違いない。 耳を澄ますと、歌の間に清子の合いの手が聴こえる。 きっとそんなことまで躾けられているのだろう。

清子が谷に落ちたとき、小説家は胸までつかる深雪をかきわけ、狂ったように、「お清、お清」とわめき続けていた。 折よくあの登山客が来なかったら、たぶん谷に身を躍らせていただろう。 あの二人はいったいどういう関係なのだろうかとマリアは首をかしげた。
「駅から、大変だったでしょう」 「ええ。 死ぬかと思いました」
「いろんなことを考えさせられちゃいますよ、ここは。 たぶん、ゆっくりもできません」
「え?どうしてですか」
「さあ―――よくはわかりませんけど。 実は僕もここのオーナーからこう言われて連れてこられたんです。何も考えないでゆっくりしろ、って。 でも、いざ来てみたら、いろんなことを思い出しちゃって」
「静かすぎるんですよ、きっと」
「そうかもしれません。 いや―――やっぱりそうじゃないな。 いろんなことを考えさせられる。 変わったところですよ、ここは」
男は髪に降り積んだ雪を払い落とし、湯に浸した手拭いを頭に載せた。 ふと、かすかな消毒液の匂いが鼻をついたのは気のせいだろうか。 自分の体臭だろうと、マリアはあわてて顔を洗った。
「じゃ、お先に」
男が岩から身を起こして中腰になったとき、マリアは目を疑った。
痩せた男の背には、思い出があった。

「平岡先生―――」

「え?」と男は顔だけを振り返った。 二人の間を隔てていた白い帳が、まるで神の手で開かれたように押し払われた。
「マリア?・・・・・」
平岡は厚いメガネをざぶざぶと湯で洗った。 どよめきと哀しみが同時にマリアの胸を被った。
「偶然、だわよね。 こんなことって・・・・・あるのね」

もし街中で会えば、気づかぬふりをして通り過ぎるだろう。 そらとぼけることも、逃げることもできない場所で二人は再会した。 これは偶然ではない。 神様のひどいいたずらだ。
平岡は夜空を見上げて、深いため息をついた。
「―――だから、言っただろう。 ゆっくりできるところじゃないって・・・・・まいったな」
マリアは湯の中で過ぎ去った年をかぞえた。
ちょうど両手の指を折ると、その長い歳月の間ひとときも忘れることのなかった思いが一度にのしかかってきた。

「結婚、したのか?」
「おあいにくさま。 相変わらず救急センターの血の海をはいずり回ってるわ。 あなたは?」
「僕も、相変わらずさ―――」
相変わらず不器用な男だと、マリアは思った。 何をどうしてよいものかわからず、呆然とストレッチャーの前に立ちすくんでいた若い研修医の姿が目に浮かぶ。
だが、マリアはその愚直なまでの誠実さを愛した。
この人はたしかに何も変わっていない。 安楽死事件が大々的に報道されたときもそう思った。
「さんざんだったわね。 このたびはご愁傷様って言うしかないわ」
岩を枕にしたまま、マリアは言った。 何でこんな言い方をするのだろう。
かつての平岡の不器用で誠実な愛の言葉にも、ベッドの中でこんな答え方をした。
「ご愁傷様だけじゃないだろう。 君には言いたいことが山ほどあるんじゃないか」
「救急ナースとして? それとも、女として?」
「ナースとしてさ。 僕は女としての君を、いまだに理解できない」

あのとき、医師としてのプライドも男の誇りもかなぐり捨てて求婚した平岡を、どうしてああもきっぱりと拒否したのだろうとマリアは思った。 自分が年上だからとか、平岡がまだ研修医だからとか、そんな理由にならない理由を並べて、かけがえのない愛の告白をマリアは斥けたのだった。
自分はうろたえたのだ、と思う。 交通遺児として育ち、奨学金を受けて看護婦になった自分が医者の妻になるなどとは、野望にせよ抱いたことがなかった。 だからいつも、どれほど狂おしく平岡に抱かれたあとでも、するりと腕をすり抜けて、「ありがとう、先生」と言った。
その一言の持つ卑屈さにすら気づいたことはなかった。

夜勤明けの病院の屋上だった。 平岡は階段を駆け上がってくるなり、しどろもどろで言ったのだった。
「阿部さん、僕と結婚して下さい。 お願いします」と。
慄える手で差し出されたものは、売店で売られている花束だった。
「お願いします、お願いします、お願いします」と繰り返しながら平岡はぽろぽろと涙をこぼした。
もし平岡がもう少しましな方法でそうしていたなら、せめて男が白衣を着ていなかったなら、マリアはたぶん迷いもなく肯いたことだろう。 心の底から平岡を愛していた。

だがマリアは、とっさに花束を叩き落とした。
「ばかにしないでよ。 あんた、医者じゃない」 たしか、そう叫んだ。 言葉の意味は今もって不明である。
本当は医者になりたかった。 車椅子に乗せられて父母の変わり果てた姿と対面したとき、心にそう誓った。
寮に駆け戻って鍵をかけ、カーテンを閉め、父母の写真を胸に押し当てて膝を抱えたまま、マリアは一日中泣いた。
泣きくれてようやく気を取り直し、廊下の大鏡の前に立ったとき、マリアはそこに純白の衣をまとい、誇り高いナースキャップを戴いた一人の天使を、たしかに見た。
もういつ死んでもいい。 男の真心だけを胸に抱いて、血まみれで担ぎこまれてくる人たちを、一分でも、一秒でも、私の手で生きながらえさせてやろう。

それで、すべては終わった。
平岡はやがて大学病院を去り、マリアは永遠に、救急センターから出ることはなくなった。
「僕は―――」 と、湯から顔を上げて何かを言いかけた平岡を、マリアは大声で遮った。
「なんてぶきっちょな人。 身から出た錆だわ」
湯を蹴立てて立ち上がり、マリアは湯殿に駆け戻った。

僕は―――いったいあの人はそのさき何を言おうとしたのだろう。
清子が湯舟の縁に腰をおろして、天井から降り落ちてくる小説家の歌声をぼんやりと見上げていた。
白い背のあちこちに、いたぶられた青痣が浮いていた。
歌声がやみ、呪わしい小説家の声が聴こえた。 「きィーよォーこォー。 殺すぞォー」
言葉とともに天井のすきまから手桶が飛んできて、まったく計ったようにポカリと、清子の脳天に命中した。
「あいたっ。 ごめんなさい、先生。 お歌、続けてください。 はい、チョイナ、チョイナ」
なんて運の悪い子だろう。 男運ばかりじゃない。 たとえば宇宙から隕石が降ってきても、この子はその真下にいるんじゃないのかしら、とマリアは思った。
でも、もしかしたら―――マリアはふと気づいて、上がりかけた湯殿を振り返った。
清子は微笑みながら手拍子を打っている。

もしかしたらこの子は、恋人の投げた手桶に偶然あたったのではなく、手桶の下に頭を差し出したのではないかしら―――。




「えー、おばんでございやす。 湯加減はいかがでございやしたか。 おくつろぎのところ誠に申しわけありやせんが、ひとつ宿帳など」
襖を開けたなり、窓辺の籐椅子にもたれて雪景色を眺める女の姿に、黒田は見とれた。

はっきり言ってタイプである。
小柄だがどことなく身に付いた貫禄が、女の浴衣姿を一回りも大きく見せている。
意志の強そうな、男勝りの、たとえていうなら大姉御の風格である。
女はまるでカルテを書く医者のようなぞんざいな字を書いた。

「阿部まりあ様? へ?―――アベ・マリア。 お客さん、思いつきにしたって度がすぎやすぜ」
女はキッと、きつい目を剥いた。 「親がつけてくれた名前よ。 文句あるの」
「え、い、いえ。 文句はありやせん。 そうですか、何とも酔狂な、いや風流な親御さんで・・・・・えー、三十九歳。 女盛りですな」
「いちいちうるさいわね。 ところで『稼業』ってナニ?」
「あまり深くお考えにならずに。 お仕事のこって」
「職業ね。 職業は看護婦、と。 ちょっと、これなによ。 『前科・前歴』って」
「ですから、ありのままを・・・・・なけりゃないでけっこうでございやす」
女はボールペンを指先で弄びながら、少し考えるふうをした。
サラサラとこともなげに書かれた文字を見て、黒田は仰天した。

「ナニ! 殺人―――こいつァお見それいたしやした。 で、いってえどんなご事情で」

「いちいち覚えてないわよ。 数が多すぎて」 「ゲッ。 覚えてねえ!」
「だって、二十年でざっと五千人だものさ。 日本一の大量殺人者だわよ」
「・・・・・どうりで、すげえ貫禄だ」
「まあ、深くは訊かない方が身の為よ。 ええと、家族はいないわ。 みなごろしにされたからね」
「・・・・・へ、へい。 それじゃここ、前夜の御投宿先と、今後のご予定を」
「どういうこと?」
「つまり、前日は網走だとか新潟だとか府中だとか、明日はどこどこの警察とか東京地検とか、いろいろありやすでしょう」
「ふうん―――」

前日「地獄」。 明日も「地獄」と、マリアは書いた。
「へえ。 垢抜けたご返事で。 かしこまりやした。 この黒田アキラ、誠心誠意、命懸けでお守りさせていただきやす。 どうぞごゆっくり」
まったく恐れ入ってにじり下がる黒田を、マリアはきつい声で呼び止めた。
「ちょっとあんた」
「へ、へい。 なにかお気に障ることでも」
「命懸けなんて、簡単に口にするもんじゃないわよ」
「へいっ! どうかご勘弁。 姐さんには及びもつきやせんが、この黒田、渡世にゃ命を張っておりやす・・・・・二人ばかし殺めやしたけど、少ねえですか?」
「二人? ちゃんちゃらおかしいわ。 私ゃゆうべだって二人殺したもの。 最高記録は一晩九人よ。 枕ならべてみなごろし」
「ひ、ひえ・・・・・一晩九人!」
「わかったら、根掘り葉掘り他人のことなんて訊くんじゃない。 私の前で命懸けなんて言葉を二度と口に出したら、タダじゃおかないからね」
女の見えぬ貫禄に気圧されて、黒田は廊下に転がりでた。


帳場では女将が浴衣を繕っていた。
小説家の先生がやってくるたびに目に見えて老け込んで行くような気がして、黒田は切ない気持ちになった。
ちょっとした動作が、薄気味わるいほど小説家と似ている。
血を分けた母と子なのだから少しのふしぎもない。 
しかし当人たちもおそらく気づいてはいないそんな相似を見るにつけ、黒田は悲しくなる。

こともあろうに雇い主の女房と駆け落ちをしてから、三十年近い歳月が流れた。
二人のただならぬ関係に気づいて心の内を問いただし、情に押されて道ならぬ駆け落ちの手引きをしたのは、雇い主のやくざな弟だった。
元の亭主は誰が見ても粗野で偏屈なメリヤス職人だった。 だから女房が愛想をつかしたことも、若い職工とねんごろになったことも、不倫にちがいないがさほど不自然なこととは思えない。 だからこそじつの弟までもが肩入れさえしたのである。
しかし悔悟しなければならないことがある。 雇い主の元に捨ててきた七歳の子供は、後添いとなった女工に育てられ、思いもよらぬ方向に成長して、流行作家になった。
ただし、父親の血のせいか複雑な生い立ちのせいか、親に輪をかけて偏屈者なのである。

去年の夏にたまたま叔父のホテルを訪ねてきた小説家は、ひょんなことから事実の全容を知り
激怒した。
しかし紅葉見物にこと寄せて秋にもやってきた。 そしてまた、今晩も。
小説家がいったいどんな気持ちでここを訪れるのかはわからない。 母恋しさの一念かもしれない。
現実を見つめることで、歪んだ性格を喪われた時間を回復しようとしているのかもしれない。
あるいは―――ただのいやがらせかもしれない。

「今更過ぎたことを悔やんだって、どうなるものでもあるめえ。 少しっつ、少しっつ、ヨリを戻して行こうじゃねえか」
黒田は女将の肩に手を置き、半分は自分に言い聞かせるつもりでそう言った。
「・・・・・私は寝られない。 あの子はきっとまた、仕事に行き詰まってやってきたんだろうから、あの子が寝ずに小説を書いている間は、とても寝れやしないわ」
言いながら、女将は空気のしぼむようにうなだれてしまった。 それ以上の慰めの言葉を黒田は思いつかなかった。母親ほどではないにしろ、その気持ちは自分とて同じである。 たぶん仲蔵親分も眠りはしないだろう。


突然、ロビーに小説家の下卑た歌声が響いた。
「おォやァのォ意見ォ承知ィーでェすねてェー、だっ!まァがァりィくねったァ六区の風よォー、とくらァ!」
一杯機嫌の小説家が清子に体を支えられて、湯殿から戻ってきた。
「つゥもォりィかさねェたァー、不孝の数をー、何とわびよォか、おふくろォにィー、とくらァ!」
小説家は階段の上り口で立ち止まり、フロントを振り返って繰り返した。
目は少しも酔っておらず、なすすべもなく見守る黒田を、じっと見据えているのだった。

「先生、そういうの、よくないよ。 そんなふうに、イヤミみたいに言うのは―――」
と、清子は懇願するように言った。 とたんに小説家は平手でパシリと清子の頬を打った。
髪の毛をむしるように引きずり上げ、怯える清子をさらに脅かす。
「おまえ、俺に意見をしたな。 そういうのよくない、だァ? おまえ、そういうのがどういうのか知ってるのか。 親に捨てられた子供が、どんなにみじめなものか、おまえ、わかるのか?」
「すみません、ごめんなさい先生」
「いいか、二度と俺に説教するなよ。 もういちどでも言ったら、山に捨てるぞ。 おまえなんかぜったい帰ってこられない山奥に連れて行って、雪の中に埋めちまうからな」
小説家は清子の髪を掴んで引きずるように、階段を上って行った。 女将は唇を噛み締め、肩を慄わせていた。
「何とか言ってやって、あんた・・・・・」
「・・・・・何とかって、何言やァいいんだ。 地のつながった親分だって何ひとつ言えねえんだぜ」

胸に抱いた鉛の球がずしりと重みを増したように思えて、黒田は帳場つづきの座敷に上がった。
六畳の座敷には造り付けの書棚がめぐっている。 仲蔵親分の蔵書であるが、ほかに楽しみもない山の宿にこもってこのかた、小難しい本を読むことが黒田の習慣になった。
去年の春、東京の事務所を企業舎弟たちに明け渡してここに引っ越してきた。 都落ちをするはめになった時代おくれの子分たちを呼んで、仲蔵親分はこう言ったものだった。
「これからのヤクザはなんたってリベラルじゃなきゃいけねえ。 斬った張ったの時代は終わったんだ」
リベラルという意味不明の言葉を辞書で引いたら、「自由なこと」と書いてあった。
斬った張ったで代紋を支えてきた自分たちはリベラルではなく、カタギの背広を来てコンピューターを駆使する企業舎弟どもがリベラルなのだろう。 自分たちは親分の厄介者なのだ。

帳場に女将の姿はなく、花沢支配人がいつの間にかコンピューターの前に座っていた。
ふしぎな男だ。 まるで空気のように存在感がなく、何がそんなに楽しいのか知らんが、いつも花束を抱いてでもいるように微笑している。
「遅くまで精が出るね、黒田君」 支配人は笑顔を向けた。
「べつに仕事じゃありやせんや。 恥かかせねえで下せえよ」 「恥、って?」
「だってよ、バリバリの大学出て、天下のクラウンホテルの副支配人までやったあんたにそんなこと言われたら、コケにされてるみてえでしょうが」
「コケ? いや、そんなのじゃない。 僕は君を尊敬しているんだ」
「冗談はやめてくんねえ。 俺が支配人に尊敬されるとしたら、腕っぷしと声のでかさだけだ」

「そうかなあ」と、支配人はコンピューターのキーを叩きかけて、ふと手を止めた。
「いや、やっぱりちがうな。 僕は二十何年もホテルマンをやっていて、部下にそうしう精神教育をしたことはただの一度もなかった。 いつも叱言ばかり言って、実務を教えるだけだった。 君は組織を率いる力があるし、それだけの努力も怠らない」
「そりゃあまあ、一応はこれでも木戸組のカシラでござんすからね」
「そればかりじゃないさ。 親の僕がどうやっても更生させられなかった不肖のセガレを、君はいとも簡単に改心させてしまった。 いったい何とお礼を言っていいかもわからない」

黒田は唇の端にタバコをくわえたまま、花沢支配人の律儀な表情を見つめた。

「シゲの野郎は、親の考えるほどの悪タレじゃありやせんぜ。 たかだか眉毛をそって、化物バイクをブッ飛ばしていただけじゃねえですかい」
「たかだか、って―――立派な不良だよ。 学校は退学になるわ、母親に暴力はふううわ、あげくのはてにはケンカだ恐喝だで、何度も警察の厄介になった」
「そんなもん、不良のうちにも入りやせん」 と、黒田は声を殺して笑った。
たしかにこのホテルで働いている木戸組の若者たちの過去に比べれば、繁は不良のうちには入らない。

「支配人さん。 あんたセガレのこと、叱ったことがねえでしょう」
「そんなことはないさ、 叱りっぱなし、怒鳴りっぱなしで十七年だ」
「いやいや、叱っちゃいねえ。 怒鳴ってもいねえ。 仮にそうだったとしても、あんたはホテルの従業員にそうするみてえに叱言を言ってただけだ。 シゲの野郎はね、十七年の間、叱れるのを待ってたんです。 ぶん殴られるのをね、頬っぺた差し出して待ってやがったんですよ」

花沢支配人は腕組みをして押し黙ってしまった。 考え込む仕草が繁とうりふたつだ。
そういう素直な性格を、息子の繁がそっくり受け継いでいることに、この父親はなぜ今も気づかずにいるのだろうと黒田はふしぎに思った。
世の中が豊かになるにつれ子供の成長は早くなったが、心の成長は貧しい時代に育った自分たちに比べて七つも八つも遅れている。 どうしようもない悪タレを百人も叩き上げてきた黒田には、そのことがわかりすぎるほどわかっていた。 年を追うごとに、子供らの体と心のバランスは悪くなっていく。

「要するに、ガキどもにとっちゃ、リベラルな世の中なんてのァ、不幸なだけでさあ」

窓を拭うと、いつしか雪は降やんで、冴え返った満月が峰の端にかかっていた。



続く