「プリズンホテル 冬」 浅田次郎


■登場人物表(登場順)■
木戸孝之介/偏屈な小説家。ヤクザ小説がベストセラーに。
荻原みどり/丹青出版の若い女性社員。 孝之介から仁義の黄昏シリーズの原稿を欲しい。
清子(お清)/孝之介が金で買った女。病気の母と娘とともに暮らす。
富江/孝之介の育ての母。
阿部マリア/通称<血まみれのマリア>・救命救急センターの名物婦長。
サチコ/国道沿いのレストランでウエイトレスをする、笑顔の素敵な女子大生。 しかし強盗に頭を撃たれて死亡。




奥湯元あじさいホテル―――通称「プリズンホテル」の番頭ガシラ兼若頭の黒田旭は、獅子舞のようにダイナミックな大口を開けて受話器に噛み付いた。
「なんだと、客だあ?―――てめえ、ヨタ飛ばすのもたいげえにしろ! よもや観光協会の金看板を笠に着て、素人衆をだまくらかしてるんじゃねえだろうな。 そういう了簡だってんなら、若い者ン飛ばすぞ。 新宿の出張所なんて木っ端みじんにすっぞ。 は?・・・・・ナニ本当に客? 静かな山奥の、雪に埋もれた一軒宿、ってか。 そりゃ自殺だろう。 でもなきゃ指名手配犯か。 ま、そりゃうちは静かだわさ。 自慢じゃねえが年が明けて丸一月、客と言ったら県警の張り込みだけだ。 しかし、信じられねえな。 客か? 本当に客か?」

「ちょっと黒田君」と、支配人の花沢一馬は、ホテルの全従業員中数少ないカタギの顔で黒田を睨んだ。
「そういう言い方はよくありませんよ。 本当に客か、はないでしょう。 貸しなさい」
受話器を奪うと、花沢支配人はかのクラウンホテル・インターナショナルじこみの慇懃きわまる口調で予約の受付を始めた。
黒田はまだ信じられん、という顔で人っ子ひとりいないロビーを横切り、玄関に出た。
かれこれ一週間、昼も夜もてんで止む気配はなく、これでもかとでも言っているような豪雪だった。

火の国熊本の出身で、生来雪とは縁がない黒田は、ひどい寒がりであった。
つごう四度、合計九年と六月にわたる懲役も静岡、姫路、府中、また府中、という具合で北の刑務所に落とされたためしはない。
だから開業以来初めての冬を迎えて、網走帰りの「フランケンの安」や「鉄砲常」は喜んで庭先を駆け回ったが、黒田はコタツで丸くなった。
根がミエっぱりだから半纏の下はダボシャツ一枚だが、胴巻きの中にはひそかに一ダースのホカロンを忍ばせていた。 おかげで腰のぐるりのひどい低温ヤケドを負っている。

玄関の車寄せでは、フロントマンの繁がスノーモービルを磨いていた。
暴走族あがりのこの小僧は花沢支配人の不肖の伜(せがれ)で、とりたてて褒めるところは何もないが、几帳面さだけがなぜが父親ゆずりである。 もしかしたらいい極道になるかもしれんと、近頃黒田は考え始めていた。 男にとって執念深さは、何者にも代え難い。
「ウオッス、カシラ。 ごくろーさんです!」
「おお。 いつ見てもピカピカだな。 感心、感心」
「へいっ。 きょうは町まで仕入れに行ったもんで、エンジン分解して組み立てときやした」
「そうか。 だがよ、エンジンの分解はせいぜい三日に一度にしとけ。 毎日やらにゃ持たねえほど、ヤマハはゲスな会社じゃあるねえ―――それよりシゲ。 ちょいとおめえに言っておかにゃならねえことがある。 気をしっかり持って聞け」

繁は肚(はら)をくくったように目を据えた。 「へい・・・・・で、的は誰です?」
「・・・・・そうじゃねえ。 そんなイージーな話じゃねえ。 聞いて愕くな(おどろくな)」
「・・・・・」

「客が来る」

「ええっ!」と繁は二、三歩も後ずさった。
「それも、ふつうの客だ。 たぶん自殺か指名手配だとは思うが、それにしたって信じられねえ。 最終で着くらしいから、駅まで迎えに行ってやれ」
繁はいまだに生え揃わぬ眉をひそめて困惑した。
「ダッセー! マジすか。 カタギの客? それも最終でェ! わー、信じらんねー!」
「急にゾク言葉になるんじゃねえ」
「アッ、すいませんカシラ。 でも、どうしましょ。 最終じゃ、小説家の先生とお清姐さんがおいでになりやす。 もう一人って言われてもスノモじゃ三人が精いっぺえです」
ううむ、と考え込んでから、黒田は万有引力を発見したように手を叩いた。
「カシラ。 この間みてえに、重ねて乗せるってのは無理ですぜ。 あんとき谷に落ちちまった客人はいまだに発見されやせん。 まあ、身内だから、いいようなものの」
「そうじゃねえ。 スノモのケツにスノーボードをくっつけろ」
「ああ、山岳救助隊がやってるやつね。 でも、そのスノーボードがありやせん」

「タライでよかろ。 清子姐さんと客人はスノモのケツに乗せて、木戸先生はタライに座らせりゃいい。 なにせジッと座るのは馴れてらっしゃる」
「そースかァ? ロープでタライ引っ張って、そこに正座? どーかなー、また落っことしちまうんじゃねーかなー」
「大丈夫だ。 先生はスノモの三段重ねを耐え切れずに遭難した大曽根一家の若い衆なんぞとァ根性がちがう。 うちの親分の甥御さんだ」
「だったら、いちおう親分のご了解をとっときましょ」と、離れに向かおうとする繁の襟を、黒田はグイと引き寄せた。
「おい、シゲ。 親分はな。 春の総会シーズンも近けえことだし、今がてえへんな時期なんだ」
「そうスか? 毎日ヒマそうにしてますけど」 「いらぬ心配をおかけするな」
「あ。 そんなこと言って、カシラ。 やっぱ自信ないんでしょ、そうでしょ」
「うるせえっ!」 黒田は繁の顎にあざやかな鉄拳を見舞った。 「四の五の言わずに言われた通りにしろ」


駅ごとに通勤客が減り、近場のスキー場で若者たちのグループが降りてしまうと、夜汽車の中は悲しい記憶でいっぱいになった。
まるで喪われた時間を遡るように列車は走る。
まどろみから覚めたとたん、沈黙の重みに耐え切れなくなって、マリアは席を立った。
記憶の中に蘇るものは、血の色と内臓の手触り、そして救いきれなかったおびただしい死者の顔ばかりである。 人並みの恋の思い出など、幼い頃に死に別れた父母のおもかげよりなお薄い。
せめて生きた人間の声が聴こえる席に行こうと思ったのだった。

重い手動ドアを引いて、隣の車両に入った。 乗客の頭を四つ数え、マリアはほっと息をついた。
ともかく死者たちで満席になった車両から抜け出すことができた。
終着駅までのしばらくの間、世間話をする相手が欲しい、とマリアは思った。
たくましい登山客が、ぼんやりと天井の灯を見つめながらウイスキーを飲んでいる。
足元に置かれた赤いザックには、ピッケルやアイゼンやザイルが、まるで荷送りする小包のように、きっちりとまとめられている。 雪やけの肌や満面を被う髭を見るまでもなく、その完全な荷物だけで、彼が冬山の単独行に向かうベテランのアルピニストであることはわかる。
女に声をかけられて喜ぶような人ではないだろうけれど、その巌のように傲岸な男の口から、ヒマラヤの夜明けや、マッターホルンのたそがれや、千年の氷河の軋みを聞いてみたいとマリアは思った。

「こんばんは」 「やあ、こんばんは」
男はマリアの顔も見ずに、山道で行きあったようにそっけない返事をした。 風の唸りのような嗄れ声だった。
「ご一緒させていただいて、いいですか」
男はちらりとマリアを仰ぎ見た。 まるで未踏峰を遥かに望むような目だった。
「席ならいくらでもあいている」 どうしようもない答え。 
面倒くさそうに顔を背け、ポケット瓶をキャップに注ぐ男の右手には、親指と人差し指しかなかった。
たぶん雪山で喪ったのであろうその鞠のような掌を見たとたん、言葉をつなぐ勇気が消えた。

横揺れに踏みこたえながら奥へと進む。
ヘッドホンをつけた少年が、窓枠に肘を置いて夜の雪を見つめていた。 中学生だろう。
窓の中で、立ち止まっていたマリアに気づき、少年は振り返った。
「こんばんは」
いきなり声をかけられて、少年は物怖じするように軽い会釈をした。 
「だれですか?」気弱な、神経質な声で少年は呟いた。 都会育ちの、旅なれぬ子供なのだろう。
「何を聴いてるの?」 片耳から外したヘッドホンから流れてくるのはロックのリズムではなかった。
「シューベルトの、『冬の旅』です」 「受験の帰り、かな。 それともおじいちゃんの家へ行くの?」
「ちがいます―――」 少年はヘッドホンをかけ直すと、窓に向いてしまった。
人並みの人生を送ってきたなら、自分にもきっとこのぐらいの子供がいることだろうと、マリアは窓の中で怯えるように自分を窺う少年の、白いうなじを見つめながら思った。
もう子供を産める齢ではないと悟ったときの、曠野に佇むような淋しさは、誰にもわかるまい。
たしかに自分は死すべき人の命を幾千も救った。 だが、自分の支払った代償はあまりに大きすぎる、と思う。

マリアは少年の席から離れた。
ぶっきらぼうな山男と、冬の旅の少年に、ほんのわずかな声をかけただけであるのに、
まるで重篤患者のベッドを回りおえたような疲れを感じるのは、なぜだろう。
夜汽車は沿線に降り積む雪を窓高く巻き上げながら走り続けていた。


男女の旅行客が向き合っている。 通路を隔てた席に、マリアは腰を落ち着けた。
たぶん夫婦なのだろうが、二人の旅人にはなんとなく声をかけづらい、暗鬱な雰囲気があった。
考えすぎかもしれない。 だが二人は、それ自体が前代の遺物のような夜汽車に、まったく似合いの哀愁に包まれていた。たとえば―――都会で小説家になりそこね、胸を病んだ夫を、いたいけな若妻が里に連れ帰る―――そんな筋書きがふさわしい。
二人を包み込む古写真のような愁いが、彼らの居ずまいの美しさのせいだと気付いたのはしばらく経ってからである。

男はうっとうしいほどの長髪を片手で弄びながら本を読んでいる。
細い鼻梁と切れ長の目は端整だが、とりつくしまもない頑迷な顔に見える。
マフラーに包まれた唇でぶつぶつと文章を呟き続け、ページを操るごとに必ず、向かいの女を盗み見る。 そうするときの男の一瞬の表情は、まるで叱られた子供のようだった。
女は美しい。 たぶん百人の男とすれちがって百人を振り返らせずにはおかないだろう。
美しすぎて、どこか茫洋として見える。 黒目の勝った目でじっと向かいの男を見つけ続けるさまは、まるですがるようだ。 女の目元にはまだ生々しい青痣があった。
べつにそれを会話のきっかけにしたわけではないが、マリアは見かねて席を立った。

「どうしたの? あら、腫れがきてるわね。 冷やさなくちゃ」
見知らぬ女にいきなり声をかけられて、二人はぎょっと顔を上げた。
マリアは女の手からハンカチを奪うと洗面所に向かった。 反射的にそんなことをする自分が惨めになった。
こういうことはよくある。 自分の周囲にいる人間はみな何かしらの病巣を持っているという前提があって、もちろんそれは思い込みには違いないのだけれど、顔色のすぐれぬ通行人や膝小僧をすりむいた子供にまで、つい声をかけてしまうのだ。
席に戻って冷やしたハンカチを女の患部に当てる。 相当に痛むのだろう。 女の目元が歪んだ。
「あいたっ、ありがとうございます。 ご親切に」 女は平身低頭した。 しかし連れの男はこう言うのである。
「バカ。 そんなことは自分でやれ。 たいした怪我でもないのに他人様に迷惑をかけて」
「すいません、先生・・・・・あの、けっこうです、ありがとうございました。 かまわないで下さい、叱られますから・・・・・」

素知らぬ顔で読書を始めた男を睨みつけて、マリアは言った。
「ちょっと、あんた。 たいした怪我かどうか、なんで他人のあんたがわかるのよ」
男はぎくりと顔を上げ、両拳を腰に当てて目の前に立ちはだかる中年の女をしげしげと眺めた。
「どこのどなたかは存じませんが、あいにくぼくらは他人じゃない」 ヒヤッヒヤッ、と男は下品な笑い方をした。
「いえ、他人よ。 あんたはこの子の痛みや苦しみを理解しようとしないもの」
「そんなのわかるわけないでしょう。 ぼくとこいつの間に神経がつながってるわけじゃないんだから。 もっとも、時々はつながるけどね、ヒヤッヒヤッ」
マリアは心の底から男を軽蔑した。

「たしかにこの子の痛みは私にもわからないわ。 でも、わかってやろうと思う。 理解してやろうと思う。 誰かがそうしてやらなければ、人間は一人も生きてはいけないわ」
「な、なんと大げさな・・・・・」と、男はたわいもなく絶句した。
信念の前には理屈が無力であることを、マリアは多くの医師たちとの交友から学んでいた。
この際に男の屁理屈を粉砕してやろうとマリアは思った。


「いい。 つれあいならつれあいらしくしなさい。 人間は一人じゃ生きて行けないから家族を求めるの。 恋をして、結婚をして、子供を作るの。 だから、夜行列車の中だろうがベッドの上だろうが、あんたはこの子のつれあいである限り、この子の痛みをわかってあげなければいけない。 いつだってそうしてあげなくちゃいけない。 それがあんたの責任、伴侶としての最低の義務だわ」

向けられたマリアの指先に追い詰められて、男はしどろもどろになった。
「な、なんですか、あなたは。 よくはわからんがすげえ迫力だな。 論理性には徹底的に欠けているけど、ただならぬ説得力がある・・・・・いったい、誰です、あなた」
問われて名乗るのもおこがましいとは思ったが、暇な旅でもある。 マリアは生意気な研修医をよくそうして恐れ入らせるように、両足を踏ん張り、拳を腰に当てて言った。
「名前は、ないわ。 看護婦に名前はいらないからね。 でも、みんなは私をこう呼ぶの―――”血まみれのマリア”」

「ち、ちまみれの、マリア!」

「そうよ。 この二十年の間に、一万五千人を救けた聖母マリア、そして五千人を殺した、血まみれのマリア様よ。 自慢じゃないけどね」
「それは自慢だ。 自慢にはちがいないけど、自慢するだけの値打ちはある、なんだって、一万五千人を殺して、五千人を救けた?」
「逆よ。 見損なわないで」
「どっちにしたってすごい。 ぼくも商売柄けっこう人を殺したが、それにしたってせいぜい五百人だ」
「・・・・・? ナニ言ってんの、あんた」
男は立ち上がって網棚から荷物を下ろし、ごそごそとかき回して一冊の文庫本を取り出した。
「おみそれいたしました。 実はわたくし、こういう者です。 知ってらっしゃるでしょう、木戸孝之介です。 あの<仁義の黄昏>シリーズの、木戸こおうのすけです!」

「ぜんぜん知らないわ」

男はガックリと腰を落とした。 いったい何がそれほどショックだったのか、うなだれて額を手に当てる。
「ごめんなさいね。 私、本を読むヒマなんてないから。 そう。本屋さん、ですか」
「・・・・・まあ立っているのも何ですから、おかけなさい。 なるほど、どうもただならぬ貫禄があると思ったら、あなたはナースですか」
ハンカチを目尻に当てたまま、女がきょとんと美しい顔を上げて言った。 「八百屋さん?」
突然おどりかかって首を絞めようとする男の襟首を、マリアは引き戻した。
ともかく、これで大体二人の正体はわかった。 男はどういう字を書くのかは思いつかないが
「きど・こおうのすけ」という本屋の主人で、女はちと足らないそのつれあい。

「あのな、お清。 このひとはナース。 いいか、ナスもベッタラ漬物じゃないぞ、えらい看護婦さんだ」
「えっ、看護婦さん!」 お清と呼ばれた女は、大きな瞳をいっそう見開いて愕いた。
「・・・・・きれいな、看護婦さん」
「きれい? 私が? ―――お世辞はよして。 おばさんつかまえて何を言うの」
お清は見惚れるように目を据えたまま、小さな顎を振った。
男が横合いから口を出した。 どういうわけか手がマリアの膝に置かれている。
「とすると、勤続二十年ということは、小学校を出てからすぐにお勤め」
このやろう、とマリアは胸の中で呟いた。
「おあいにくさま。 あんたよりはずっと年上よ。 ちょっとこの手は何? 奥さんの前で」
「あ、いかん。 つい飲み屋のクセが出ちまった。 こいつは女房じゃないですから」
一言で女はうつむいてしまった。 事情はわからないが、これは言葉の暴力だ。
「じゃあ、何なのよ。 はっきり言ってごらんなさい」

「こいつはぼくの奴隷です」

「え?・・・・・なにそれ」
「奴隷。 奴婢。 はしため。 月二十万円の餌代を払ってぼくが飼っている家畜です。 だからぶとうが蹴ろうが手ごめにしようが、ぼくの勝手なんです」
「なんて人なの・・・・・あんた、最低の男ね」
言い争おうとする二人の間に、お清はべこべこと頭を突き入れた。
「いいんです、それでいいんです。 本当なんですから。 怒らないで下さい。 私、先生のそういうのなんです」
フッフッと、男は勝ち誇るように笑った。

チャイムが鳴って、放送が終着駅を告げた。
男は唇をひしゃげて笑ったまま、重そうな革鞄を女の膝にどさりと置いた。
まるで石を抱かされた罪人のように、女はうらめしげな目を上げた。
「なんだその目は。 文句があるなら口で言え。 降りるぞ」
男は下卑た鼻歌を唄いながら、さっさと席を立った。 男はデッキから飛び降りると、子供のようにホームの雪と戯れる。 荷物を抱えて立ち上がる女に、マリアは訊ねた。
「何なの、あの人―――」
女は言葉を探すようにうつむき、扇のような睫毛をもたげて呟いた。
「えらい小説家の先生です。 木戸孝之介―――」
「えっ。 ああ、それなら聞いたことあるわ、”きど・こうのすけ”ね。 有名じゃない」
女は嬉しそうに微笑む。 それが彼女の小さな誇りであることを知ると、マリアの胸は痛んだ。

「でも、あれじゃしょうがないわね。 幻滅だわ」
「本当は、いい人なんです。 とってもやさしい人です」 「やさしい?どこが」
「それは・・・・・よくわからないけど。 夜中に枕元でシクシク泣いてます。 お清、お清って。 それから娘の―――ああ、前の亭主の子なんですけど、そのベッドに行って、ミカ、ミカってまた泣いてるんです。 それから母の寝床に行って、ババァ、死ぬな。 死んじゃだめだぞって、また泣くんです」
「・・・・・おかしいんじゃないの、それ」
「おかしくなんかないです。 あの人、本当はやさしい人だから。 七つのときにおかあさんに捨てられて、それで成長が止まっちゃったみたいなんです。 だから、子供とおんなじで・・・・・すみません、ここだけの話にして下さい」
女は重い鞄を抱えて、屈み込むように頭を下げた。





「ったくよー、ダッセーよなー。 終電がついたってのに、迎えも客引きもいやしねーってか。 不景気のうえにこの雪じゃムリもねーけどよー。 けど、うちにゃーいるもんねー。 それも3人だぜ、3人。 町の連中はやれヤクザのホテルだァ、やれプリズンホテルだァ、なんぞとぬかしやがるけど、うちにゃーちゃんと客が来るもんねー」

改札に出てきた駅員はちらりと繁を見たなり、かかわりを避けるように顔を背けた。
跨線橋を渡って、客が降りてきた。
「えー、お寒い中、ようこそお越し下さいやした。 はい、奥湯元あじさいホテルはこちらでご案内いたしやす。 お客人の木戸孝之介様。 田村清子様。 ならびに本日ご予約の阿部まりあ様。 ささどうぞ、こちらへどうぞ」
駅員はうんざりした顔で切符を受け取る。
「あっ、こりゃ先生。 ごぶさたしてます。 あいにくの雪で車が出せやせんけど、お迎えに上がりました」

小説家は不機嫌そうに繁を睨んだ。 「車がない? じゃあどうやって行くんだね」
「へい。 その点はぬかりなく。 スノーモービルでひとっ走りいたしやす。 少々寒い思いをいたしやすが、なあに、ものの十五分でさあ」
登山姿の男と暗い顔をした少年が改札から出てきた。 迎えは誰もいない。 とっさの機転で繁は声をかけた。
「ありゃ、お客さん方、きょうのお泊りは?何でしたら当あじさいホテルにご投宿下せえ。 お安くしときますぜェ」
もし泊まるといったらどうやってご案内しようかと、言ってしまってから繁は考えた。
四段重ねに挑戦するか、いや駅でもう一個タライを借りるか、さもなきゃごくふつうに考えて、ピストン輸送という手もある。
しかし山男も少年も、全く興味なさそうにそっぽうを向いて、待合室に置かれた重油ストーブに手をかざしていた。

清子姐さんともう一人、年増だが妙に小股の切れ上がった感じの女が出てきた。
並々ならぬ貫禄からすると、もしかしたらどこぞの大親分の姐さんのお忍びかも知れねえ。
「ささ、姐さん方、こちらへ」
清子とマリアはにっこりと微笑みをかわした。 「あれ、看護婦さんもあじさいホテル、ですか?」
「そうよ。 ご一緒みたいね。 嬉しいわ」
小説家は革コートの襟に顔をうずめて、静まり返った駅頭の雪景色をじっと見つめていた。
先生はふとそんなふうに物思いにふけることがある。 きっとめぐりあった景色の中で、新しい小説の構想を練っているのだろう。 そういうときの先生は、ものすごく偉い感じがする。

繁は三人を、駅前に止めたスノーモービルにいざなった。
「えー、女性の方は、あっしの前と背中。 吹いてやすから髪はお縛りになって下せえ。 凍えつきやすとさながらメドゥーサの首になっちまって、せっかくのご器量が台無しになりやす。 それから先生は、こちらへ」
スノーモービルのうしろに、ロープで結んだタライが置いてある。

「こちらって、まさか、コレ?」
「へい。 そのマサカなんで。 なあに、心配はいりやせん。 今さっき黒田のカシラを乗っけて試運転しやしたが、まあ面白えやらおっかねえやら、雪をかぶって冷てえやら排ガスモロで熱くてたまんねえやら、ヒーヒー言ってました」
「・・・・・あまり名案とは思えんが・・・・・そうだ。 おい、お清! おまえこっちに乗れ」
はい、と素直に答えて、清子は何のためらいもなく鞄を抱いてタライに座った。
「先生。 こりゃちょいとヤベエんじゃねえですかい。 体重が軽いとカーブで振られますぜ」
「いや、鞄の重さを加えればぼくと似たようなものだよ。 それにこいつは根性がある。 ぼくが乗るよりはマシだろう。 万が一のことがあっても、文化的損失にはならんしね」

マリアが大股で歩み寄った。
「ちょっとあんた、いくらなんだってそりゃないんじゃない? まったく思いやりのない人ね」
清子は笑顔をつくろって答えた。
「いいんです。 私、こういうの好きですから。 タライのお舟って、いっぺん乗ってみたかったんです。 ほら、一寸法師みたい」
小説家はヒヤッヒヤッとおかしそうに笑った。
「バーカ。 一寸法師はお椀の舟だよ。 だとするとタライなら、まさに大船に乗ったようなものだ。 よかったな、お清。 無事に帰れたら美加に話してやれ、喜ぶぞ」
人々は何となく思考停止のまま、スノーモービルに跨った。
「そんじゃ、お清姐さん。 お気を確かにね! ゆっくり行きやすか、それとも飛ばしやすか!」
「どう違うんですかァ!」
「ゆっくり行きゃ安全だけど凍っちまいます。 飛ばしゃ危ねえけど、その分早く着きまさあ!」
「じゃあ、早いのにして下さあい! 寒いのいやですからァ!」

山男がピッケルを突いて、駅頭に佇んでいた。 まるで山を睨んで立つ雪像のようだと繁は思った。
「旦那、本当にお宿はお決まりなんで?」
「ああ、決まっている」 風の唸りに似た嗄れた声だった。
「決まってるってったって、迎えも来てねえじゃないスか」
すると男は輝くような歯を剥いて、にっこりと笑った。 ピッケルの先を闇の彼方に向けて挙げる。
吹きつのる雪の帳(とばり)のすきまに、国境の峰が黒々とそそり立った。

「俺の今夜の宿は、あれだ」




雪に埋もれた光悦垣の小径を抜け、あやうくたわみかかる竹藪をくぐると、たしなみのある者なら誰でもはたと立ち止まるほどの、時代がかった茶屋が姿を現す。 数記者として知られたこの宿の元の主人が小田有楽斎の「如庵」を模して造った逸物である。
しかし仲蔵親分はもっぱら生活上の便宜から、使い勝手の悪い舞良戸をアルミサッシに替え、水屋を増築してドイツ製の高級システムキッチンを入れ、ユニットバスを造りつけた。
三畳の主室は余りにも狭いが、ポンコツ社長や悪徳議員を拐ってきてギチギチと締め上げるのには、むしろこの圧迫感は好もしい。

アルミサッシの舞良戸ごしに、しんしんと降りしきる夜の雪を、仲蔵親分は腕組みをしたままじっと見つめている。
「―――先生。 本当のところを言っておくんない。 俺ァ・・・・・癌だろう」

平岡正史はうんざりと溜息をついた。 宿に招かれてから今日で一週間。
親分は朝、昼、晩、夜中と、日に四度も同じことを言いに来る。 もしかしたらその疑念のために、わざわざこの山奥の温泉宿に連れてこられたのかも知れない、と平岡は考えた。
「ですからね、木戸さん。 いったい何の根拠があって、癌だと言うんですか。 僕は医者ですよ。 医者がちがうと言ったら、ちがうんです」


遠い目で雪山を見つめる親分の顔は、悲愴である。
これで立派な癌ノイローゼ、いわゆる「思い込み症候群」であろう。
「ほら、根拠なんてないでしょう。 何度も言いますけど、あなたは脂肪肝です。 酒の飲みすぎ、脂物のとりすぎ、運動不足。 エコーのフィルムも見せたじゃないですか」
「いや・・・・・根拠はある」 「じゃあ言ってください。 僕は何でも答えられますよ」
「先生は、相良の総長(オヤジ)を看取って下すったじゃねえですかい」
「は? ―――たしかに相良さんは僕が担当しましたけど、それが何か?」
「本人にはとうとう癌だなんて知らせずじまいだったじゃねえですかい。 潰瘍だ潰瘍だっておっしゃってたじゃねえですかい」
「それで―――ご高齢の末期癌の患者さんには、告知をしないのがふつうなんですよ。 ご家族にはたしか―――」
そこまで言いかけて平岡は口をつぐんだ。
そうだ、相良さんには身寄りがなかった。 何人かの子分たちを集めて病状を説明したのだ。
八代目関東桜会総長・相良直吉の五人の子分―――この人はたしかその中にいた!
平岡医師の顔がみるみる青ざめるのを、仲蔵親分は見逃さなかった。

「・・・・・やっぱり・・・・・そうか」
「ち、ちがいます。 そうじゃない」
「俺も身寄りがねえ。 てことは、なるほど、黒田に本当のことをお話しなすったんだね。 くそ、あの野郎どうりで態度がよそよそしいと思った」
仲蔵親分はガックリと肩を落とした。 痩せた体をかしげ、畳に片手をつく。
生来が口下手な平岡は誤解を解く言葉を探しあぐね、ただおろおろとするばかりだった。
医師の狼狽はさらなる誤解を生んだ。
「木戸さん―――」
「いや。 みなまで言いなさんな。 わかってる、わかっています。 せんだっての戦じゃ特攻隊を志願して死にぞこねた俺だ。 残りの五十年、おつりにしたって長すぎる。 そうか・・・・・すべてはやっぱりアレだったんだな」
「アレって?」

「輸血ですよ。 実はさること二十年前(ぜん)、稼業のもめごとから二、三発ハジかれましてね。 そんときの輸血でC型肝炎に罹っちまったにちげえねえんで」
「あのね、木戸さん。 仮にそのC型肝炎にしたってね、いや―――ちがいますよ、あなたはC型肝炎なんかじゃないけど、仮にそうだとしたって、べつに不治の病じゃないんです」
「先生、なぐさめはやめてくんない。 AやBよりCの方がヤバイってのァ、きょうび中学生だって知ってらあ」
「だからね、C型肝炎にはインターフェロンっていう特効薬が―――」
「そのインターなんとかは三割がたの患者にしか効かねえって、朝日新聞の日曜版にも書いてありやした。 三割がたに効くつうことは七割がたは死ぬつうこって、三割に入えれるぐれえならハナからヤクザなんぞやっていやしねえわけだから、どのみち俺ァ死ぬんです」
「悲観しちゃだめですよ、木戸さん。 人間は誰だってどのみち死ぬんです」
まずい。 これじゃまるで告知ケアだ。

「ま、考えようによっちゃ相良のオヤジの後を追って死んじまうってのも悪かねえ。 なにせオヤジあっての俺だったんだから。 みんな俺を九代目に推すけど、いやいや、どだい、桜会の代紋をしょって立つほどの器量じゃねえんだ。 やっぱお天道様はお見通しなんだなあ・・・・・で、先生。 はっきり言っておくんない。 あとどのぐれえ持つんです? 一年ですかい? それとも、月単位で?」
総会屋の大立者という噂だが、さすがに口はよく回る。 
平岡正史はふと、昨年の秋に死んだ相良直吉老人の穏やかな表情を思い起こした。
病院中の語り草になるような、立派な最期だった。 たぶん、自分が末期癌であることは知っていたと思う。 しかし決して疑念も嘆きも口にせず、従順に医師の指示に従い、苦痛にもよく耐えた。
一代の侠客の名に恥じぬ、誇り高い死だった。
その従容たる姿を、木戸さんはずっと見ていたはずなのに、と平岡は思った。
「あと十年は保証しますよ」 平岡は立ち上がった。

「待ちなよ、先生―――」
「まだ、なにか?」 振り向くと、仲蔵親分は畳に両手をついて頭を下げていた。
「おやじが、迷惑をかけちまって。 すまねえ、この通りだ」
「そんな・・・・・相良さんは立派な方でした。 迷惑だなんて・・・・・」
「いや―――」 と、とうてい七十に近い老人とは見えぬ端整な顔を上げて、親分は言った。
「おやじの最期を看取らなかったら、先生は”あんなこと”なさんなかったろうが。 誰が悪いわけじゃねえが、結果的におやじが先生に迷惑をおかけしたことにちげえはねえ」
「相良さんとは関係ありませんよ。 医師の良心においてやったことです―――その話は、もうやめて下さい」


夜の雪が舞っていた。 にじり口を閉めると、平岡は悪夢から遁れるように早足で歩き出した。
つまずき、下駄の鼻緒が切れた。 裸足で立ちすくんだのは、藪の小径だった。

そうかもしれない。
たしかに、あの相良老人と出会わなければ、”あんなこと”はしなかったかも知れない。
マニュアル通りの延命治療に、老人はよく耐えた。
苦痛を訴えないので、化学療法や放射線療法が効果を上げているのだと思ったが、そうではなかった。
相良老人はひたすら耐えていたのだった。

(先生、痛み止めに麻薬は使わないでくれろ。 てめえでてめえを破門にせにゃならねえから)

そう言って、モルヒネの投与も拒否した。 結果的に老人は先進の鎮痛医療(ペインクリニック)を受けることなく、無意味な延命術に伴う苦痛を、ただひたすら耐えて死んだ。
死が間近に迫り、意識が混濁してからも、あらゆる延命措置を施した。
呼吸が困難になれば気管にホースをねじこんだ。
なぜ自分はこんなことをしているのだろう。 これが医療と言えるのだろうか、と平岡は心臓の止まった八十半ばの老人にまたがってマッサージをしながら考えた。

相良直吉は死んだ。 孫のような三十五歳の内科医に、人生最悪の不幸を体験させられ、およそ考えつく限りの拷問を受け続けたあげくに死んだ。
モニターの波形が老人の死を示したとき、平岡正史の感じたものは、日頃の臨終につきものの敗北感でも達成感でもなかった。 ただ身の凍るような良心の呵責だった。
先進の延命治療―――それは医学という名の暴力だと、平岡はそのときはっきりと思ったのだった。

そう―――相良老人に会わなければ、きっとあんなことはしなかったろう。

年も押し迫ったある晩、当直についた平岡は末期癌患者の女性に、二十ccの塩化カリウム原液を注射した。 致死量である。 
苦痛のない、安らかで緩慢な死のために、注射には二時間もの時をかけ、そして彼女の不幸を少しでも分かち合うために、平岡はずっと言葉をかけ続けた。

子宮頸部に発生した癌は、手の施しようのない状態だった。
それでも医療チームは抗がん剤を投与し、放射線治療を行った。 発熱と吐き気と火傷とで、患者は泣きわめき、のたうち回った。
ついに患者は医師団の中で一番やさしそうな、口下手で不器用で、古い入院患者たちからはヤブと噂されている内科医に、人間としての最後の願いを打ち明けたのだった。
「私を殺して下さい」と。

二時間にわたる真夜中の診察を不審に思った看護婦が病室のカーテンを開けた時、平岡は注射器を握ったまま呆然と死体のかたわらに佇んでいた。 いいわけの口封じもしなかったのは、それが医師として当然の医療行為だと信じていたからである。
もちろん今でも、そう信じている。
相良直吉は超人だった。 病理解剖に立ち会ったとき、痩せさらばえた体の内側をうずめつくした癌細胞を、平岡は確かに見た。
自分は延命治療の名のもとに、八十半ばの老人をいたぶり殺したのだと思った。
いたぶり殺すのが医療であるのなら、一本の注射で安楽に殺すことが医療でないはずはないと、平岡は確信したのだった。

遺族と医師団によって平岡は告訴された。 当然、病院は平岡は解雇した。
医師免許の取り消しも、実刑判決も大いにありうる。
しかしあのとき自分が患者に対してなしえた最善の医療は、それしかなかったのだ。


―――平岡正史はあしうらを刺す雪の痛みに、じっと耐え続けた。
自分が三ヶ月にわたっていたぶり続けた老人の苦しみは、こんなものではあるまい。
あらゆる抗癌剤を試され、脇腹には胆管ドレーンを打ち込まれ、コバルトの外部照射のほかに局部からラルス球を押し込まれて内臓を焼かれる女の痛みは、こんなものではあるまい。

このまま凍え死んで氷のかたまりになってしまっても、患者たちの苦しみは決してわかりはすまい、と平岡は思った。



続く