浅田次郎さんのプリズンホテルシリーズ第3弾です。
今回もプリズンホテルに来るのはワケありのお客さんばかり。


「プリズンホテル 冬」 浅田次郎



ぼくは月のうち一週間か十日を、神田駿河台にある「山の上のホテル」で過ごす。

そう、昔から文化人の宿として有名な、そして現実にいつ行っても小説家の二人や三人はカンヅメになっている、あのクラシックホテルである。
べつに伊達や酔狂ではない。 遁世して小説を書くにはまことに適した場所だからそうするのである。
なによりホテル側に、締切に追われてカンヅメになっている作家に対する十分な配慮がある。
ここの従業員たちは客がカンヅメになって書いている原稿がいったいどこの出版社の依頼によるものなのかということまで知っているらしい。


古いホテルの窓に凩(こがらし)の鳴く夜のことだった。
ぼくはそつなく用意された作家専用の大机に向かって、<哀愁のカルボナーラ>のクライマックスに挑んでいた。 それは<仁義の黄昏>シリーズの大ヒットにより極道作家の烙印を捺されてしまったぼくが、アイデンティティーの回復をかけて世に問う、ぶっちぎりの恋愛小説である。
原稿の半ばまでは、すでに大日本雄弁社の編集者に渡してある。 半ばといったって五百枚もあるから、先方が気に入ろうと気に入るまいと、もはや取り返しはつかない。
もちろんヤクザの出番はなく、お得意の法的医学的用語を駆使した露骨なセックス・シーンもない。
物語はさしたる盛り上がりもなく、ただ哀しく美しく、ダラダラと進む。
数日後、件の編集者がすっ飛んできて、「そろそろマフィアが出てきますよね、そうですよね」と言ったので、すかさずバックドロップを決めてやった。

電話が鳴った。
ぼくは呪いの雄叫びを上げて原稿を撒き散らし、壁に十回も頭突きをくれてから受話器をとった。
フロントマンは怒鳴り返す気にもなれぬほどの文化的な声で言った。
「―――大日本雄弁社の荻原(荻原様がご面会です」
ぼくは静かなバリトンで答えた。 「はい。今おりて行きます。 ロビーで待たせて下さい」
オギワラという名の編集者は知らない。 おおかた新入社員に差し入れ弁当でも持たせて寄越したのだろう。
神の配慮により、ホテルの従業員はぼくが大日本雄弁社の原稿を書いていることを知っている。
すなわち、牢屋番の配慮により、ホテルが取り次ぐ訪問者は、同社の編集者とぼくの家族だけだ。

エレベーター前の大時計は午後九時三十分をさしていた。 じきに清子がやってくるだろうから、雄弁社とは面倒な話はせず、弁当だけひったくって追い返すとしよう。
ロビーでは獄中の小説家が何人か、思いつめた顔でコーヒーを飲んでいた。
革張りの古い応接セットに、齢の頃なら二十八、九とおぼしき女性編集者が痩せた背を伸ばして座っていた。 どうしてそれば編集者だとわかるかというと、つやのないパサパサの髪をうなじでひっつめており、化粧っけのない硬質の顔に、牛乳瓶の底を並べたようなメガネをかけているからである。
女はぼくに気づくと、ちょっとおろおろした感じで立ち上がり、最敬礼をした。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
はて、新人ではなさそうだし、弁当も見当たらない。 どうしたことだろう。

遠目にはひどい醜女に見えたが、存外美人である。
いったいなんの因果でパーマ屋にもブティックにもメガネ屋にも行かないのだろうとぼくは思った。
「して、用件は?」 ぼくは脂じみた縁なしメガネをハンカチで拭いながら訊ねた。
「木戸孝之介先生ですね」
今更何を言うのだろう。 男だったらたちまち踊りかかって首を絞めるところだが、そうもいくまい。
早いとこ追い返して明日は一日中編集長あてに無言電話をかけ続けてやるとしよう。
「いかにも、木戸ですが」
メガネをかけ直すと、視野が明るく開けた。 女は思いつめた表情でぼくを睨みつけている。

こいつは雄弁社の社員ではない、と気づいたとき、総身がざわりと鳥肌立った。
古い窓の外に風は蕭々と鳴っていた。
分厚いメガネが光を反射して表情は掴めないが、それは明らかに標的を追い詰めた刺客の顔だった。
「だ、だれだね、君は。 名乗りたまえ」
女はぼくを睨みすえたまま、ハンドバッグの口金を開けた。
青ざめ慄え(ふるえ)ながら、女は一枚の名刺を差し出した。
「申し訳ありません。 こうするしか方法がなかったんです。 仕方なかったんです」

名刺には、<株式会社丹青出版文芸部 萩原(おぎわら)みどり>とあった。

ぼくは安堵も憤りも忘れて、ただ絶句した。
「許して下さい。<仁義の黄昏>の原稿を、どうしても今月中にいただいてこいって言われてて、でも先生はつかまらないし、上からは毎日やいのやいの言われるし、私、どうしようもなくって、それでつい・・・・・」
「・・・・・それでつい、雄弁社の名を騙ったというわけですか」 ぼくは切実に詫びる女の細い首を、一気に締めてしまう衝動によく耐えながら、なるたけ文化人のようにそう言った。
「とんでもないことです。 いけないことです。 でも、でも仕方がなかったんです、他に方法が見つからなかったんです」 荻原みどりはテーブルの上に額を打ち付け、拳を慄えわせて泣き出した。


たいへん意外なことだが、ぼくは女の涙には弱い。
富江にしろ清子にしろ、じっと苦痛を耐え忍ぶタイプの女だからこそ、殴れるのである。
ぼくはただおろおろとして、荻原みどりを宥めるしかなかった。


毎年春と秋に二冊の勢いで突っ走ってきた<仁義の黄昏>シリーズは、九巻目の途中で頓挫している。
<パート9・吹雪の誓い>は、長い懲役をおえた若頭が網走刑務所を釈放され、地吹雪の中に立って復讐を誓う、という場面で終わっていた。 これではまさか完結とは言えないし、読者も黙っているはずはなかった。
頓挫した理由は簡単である。 長い懲役をおえた若頭が復讐を誓う場面は、これで三度目だったからだ。 一度目は長ドス片手に殴り込み、二度目はダンプで突っ込んだ。 そのたびに本懐を遂げず懲役に行き、三度目の出所でまたまた復讐を誓ったのだから、この続きはチャンドラーだって無理だろう。
身から出た錆ではある。

「わかった、わかった。 他社の名を騙るとはたしかに不届き至極だが、君の情熱はよおくわかった。 ぼくは決して君を責めない。 怒りもしない」
すると突然、荻原みどりは泣き止み、からりと顔を上げた。
「では、<仁義の黄昏・パート9>、月末までにお願いします。 わあ、よかった。 私、ずっとつききりでお世話します。 お隣の部屋とりますから、お茶でもお食事でも、その他なんでも言いつけて下さい。 もしお邪魔でなければ同じお部屋でもかまいません。 マッサージでも耳掃除でもなんでも言いつけて下さい」

ぼくは絶句したまま青ざめた。 荻原みどりは革椅子のうしろに隠してあったばかでかいスーツケースを、ころころと引きずり出したのだった。
「そういうことで、よろしくお願いします」
牛乳瓶のメガネの底に光る目は火の玉のように燃えさかっており、志たっせずんば生きてまた帰らじという決意が体中に漲っており、きりりと引き締まった口元は、強い意志力を感じさせた。
ぼくは圧倒された。
もしそのとき、大時計の打つ十時の時報とともに、清子があたふたと駆け込んでこなかったら、ぼくはたぶん荻原みどりの強靭な意志力のなすがままいなっていたことだろう。

ぼくが清子に課した一方的な条約によれば、遅刻一分以内ビンタ一発、五分以内は顔面回し蹴り、十分以上は水責めのうえ座禅ころがしの刑と決まっている。 だから清子は中央線の車両の中でも走り、御茶ノ水の駅からも走り続け、ホテルに向かう細い坂道を、一生けんめい駆け上ってくる。
心臓病で寝たきりの母親の介護をし、別れた極道亭主との間にできた一人娘を寝かしつけてから出てくるので時間はいつもぎりぎりになるのだ。
ぼくは古いホテルの窓から、一目散に駆け上ってくるその姿を見るのが好きだった。
そういうときの清子の一途な姿は、ことさら美しい。 たぶん、殴られるのがいやだから走るのだろう。
だがぼくは、恋人の待つ部屋に向かって走る清子の姿が見たい。
一秒でも早くぼくの胸に抱かれたくて走ってくる、清子の姿が見たいのだ。
三十分も前からカーテンを開けて待ち焦がれ、けんめいに坂道を駆け上がってくる清子の姿を見るとき、ぼくは、完全に永久にぼくのものになるはずのないその女を、どこの誰よりも愛していると思う。

清子は百人の男とすれちがって、百人の男を振り返らせるほどの美人である。 しかし、頭がちと足りない。 ものすげえアナログである。 天は二物を与えずというが、清子は美貌という一物の代価として、人間の幸福にまつわるすべてのものを支払ってしまったらしい。
このときも息せき切って玄関にかけこみ、ロビーの奥にはっきりとぼくを視認したにもかかわらず、エレベーターに乗ってしまった。 で、しばらくして階段をパタパタと下りてきて、ぼくに駆け寄り、「ごめんなさい、先生。 遅刻しちゃった」と息をつく。
ぼくが清子をアナログだというのは、つまりこういうことである。

ぼくは立ち上がって清子の肩を抱き寄せると、ちょっと唇の端を歪めて、クラーク・ゲーブルのような思いっきりいやらしい笑顔を荻原みどりに向けた。
「すまんが君、一時間ほどここで待っていてくれるかね」 みどりは一瞬、猜疑心を露わにした。
「ハッハツ、心配は無用だ。 ぼくは女をダシにしてここを逃げ出すような卑怯者ではないよ。 一時間後に善人に生まれ変わったら、君を迎えに来る」
「はあ。 ごゆっくり、どうぞ・・・・・」 みどりは心持ちうなだれて言った。
そのひっつめ髪のうなじがほのかな羞恥のいろに染まるのを確認すると、ぼくは清子をからめとるようにして駆け出した。
「あれ、どうしちゃったんですか、先生。 なにもそんなにあわてなくたって」
慌ただしくエレベーターに飛び乗り、正面のカウンターに向かって受話器を握る仕草を見せた。
トラブルだ、あとで電話を入れる、というほどのジェスチャーを、フロントマンは一瞬にして理解した。
おそらくことのなりゆきを遠目に窺っていたのだろう。 フロントマンは肯いた。

「くそ。 なんてこった。 あれはタダモノじゃないぞ。 きっと丹青出版の秘密兵器だ。 原稿取り専門の特攻隊だ。 ついに奥の手を出しやがった」
ぼくはエレベーターの壁を殴りつけた。
「ちきしょう、俺の弱味まで知っていやがる。 性格をみんな見越してるんだ。 その手にのってたまるか」
「先生の性格を見越してるって?」 「そんなことはお前が一番よく知っているだろう」知るわけはない。
「わかった。 強い人には弱くって、弱い人には強いの」 「ばか。そんなのは上っ面だけのことだ」
ぼくはドアを蹴破るようにして部屋に飛び込んだ。
「じゃあ、ええと―――そうだ。 悲しいときはゲラゲラ笑って、つらいときほど平気な顔をして、それから―――」
「それから、何だ?」

「それから、好きな人ほどいじめるの」

ぼくはただちに清子の首根っこを掴み、額をガンガンと壁に打ちつけた。
「ご名答だよ、お清。 よかったな、おまえはこんなに愛されているんだ」
ゴキリという鈍い音がして、清子は床に崩れ落ちた。
そんなことをしている場合ではなかった。 「急げ。まだ最終列車には間に合う。 あいつの手の届かないところまで逃げるんだ」
清子は鼻血をたらしながら起き上がり、部屋中にとりちらかった原稿や資料を片付け始めた。
「あの・・・・・私も、ですか」
「当たり前だ。 俺はひとりじゃコーヒーも淹れられないし、パンツも替えられない」
「でも、私、手ぶらです。 着替えも持ってないし」 「パンツなら俺のをはけ。 余分にある」
「・・・・・」 必殺の延髄斬りを後頭部に受けて、清子は再びベッドの上に昏倒した。
「あいたっ・・・・・ごめんなさい、先生。 でも、おばあちゃん具合悪いし、保育園の送り迎えとかもあるし・・・・・」
「そんなものは富江にやらせりゃいい。 どうせ俺がいなくなりゃ、あいつの仕事の九割はなくなるようなもんだ。 寝たきり老人の世話とかガキの面倒ぐらい、喜んでやるさ」

ぼくはボストンバッグを抱えると、戸惑う清子を引きずるようにして廊下に出た。
エレベーターを待つ間、ぼくは考えた。 ぼくはたぶん、永久に完全にぼくのものにはならないこの女を、誰の手も届かない遠い場所に連れ去ろうとしているのだろう。 たぶん清子と二人きりで冬の夜汽車に乗る理由を、ずっと探し続けていたのだろう。
「遠くってまさか・・・・・」 清子は悲しい顔をぼくに向けた。
髪を切って、きれいになった。 どうして勝手にそんなことをするんだと髪を切った次の日に殴りつけたが、 本当は美しい顔の輪郭をいっそう際立たせるその髪型を、ぼくは気に入っていた。
短い旅の間に、褒めてやろう。
「決まっているだろう。 原稿取りが絶対にたどりつけない場所といったら、あそこしかあるまい」

「―――プリズンホテル」

「そういう言い方はよせ。 奥湯元あじさいホテルだ」
エレベーターのドアが開くと、フロントマンはカウンターの上でわずかに掌を挙げ、待て、という合図をした。 背の高いドアボーイが駆け寄り、ぼくの手からボストンバッグを受け取った。 「お車でどうぞ」
「宿泊代は丹青出版にまわしておけ」 「かしこまりました」
よし今!というふうにフロントマンの手が動いた。 ぼくらは塹壕から塹壕へと身を躍らせる戦場の兵士のように、姿勢を低くしてエレベーターを駆け出した。 運命の扉はぼくらの前に次々と開かれ、たった五秒のうちに、ぼくと清子を乗せたタクシーはホテルから走り去った。
振り返ると、一足違いでぼくを撮り逃した荻原みどりが、ドアボーイともみ合っていた。
「上野駅。急いでくれ」
暖かな山吹色の灯りを窓まどにともし、しわだらけの頬を街灯にさらしたその姿は、まるで炬燵に背を丸めたまま「行っといで」と呟く老人のようだった―――。



客足をすっかり新幹線に奪われた夜行列車には、生酔いの長距離通勤者と、何組かのスキー客がいるきりだった。
硬い座席に向き合って座ると、都の灯の尽きる間もなく清子は寝入ってしまった。
夜汽車にお似合いのダウンジャケットは、去年の暮にディスカウントショップの店頭で買った安物だ。
カシミヤのコートを買ってやる約束でデパートに行ったのに、裏通りの怪しげな店で、清子は立ち止まってしまったのだった。 みっともないからよせと言ったのに、清子はどうしてもそれがいいと言ってきかなかった。 二十万円のカシミヤのコートより、一万円均一のダウンジャケットの方がどうしてもいいはずはない。

こいつは不幸の標本だ。

ひとごろしのやくざ者と所帯を持ち、子供を孕み、心臓病の年寄りを抱えて場末のキャバレーで働いていた。 挙句の果ては偏屈な小説家に拾われ、苦労の上塗りをしている。
それにしても―――百人の男とすれちがって百人の男を振り返らせずにはおかない、この類い稀な美貌はいったい何としたことだろう。
夜汽車の濡れた窓に、青痣の浮き出た額を預けて、清子は眠る。
ぼくはそっと手を延べて、短く切った髪を撫でた。 その肌に触れるときの、ぼくの少年のような胸のときめきを、清子は知っているのだろうか。
目を覚ましたらうなじを抱き寄せて、「よく似合うよ、お清」と言ってやろう。 それ以上の愛の言葉は、たぶん言えないだろうが。
ぼくは向かいの席から腰を上げて、清子のかたわらに座った。 頬を寄せると、かき合わせたダウンジャケットの襟元から最も美しい年齢にさしかかった女の匂いが、馥郁と立ち上った。

目覚めかけた清子の、美しく薄幸な唇から、そのとき溜息とともに洩れた手ひどい裏切りの言葉を、ぼくは一生忘れない。
清子はぼくの肩に頬をもたせかけて言うのだ。

「あんたァ・・・・・もうどこにも行かないどくれよ・・・・・もうどこにも・・・・・」と。





「いらっしゃいませ。 お一人様ですか? おタバコはお喫いになりますか?―――」

毎晩やってくる客にも、サチコはマニュアル通りの歓待を決して忘れない。
そのいつに変わらぬ笑顔に出会うと、不規則な勤務に疲れきったマリアの心は軽くなる。
「あたしはいつだって一人よ。 タバコは喫うわ。 一生喫い続けてやる」
サチコはころころと笑う。 
笑いながら、まるで花園に舞う蝶のように、マリアを国道に面したボックスに誘って行く。
「いつものやつ」
「はい。 クラブハウスサンドとスモールサラダですね。 ドレッシングは和風」
「どう、おかあさん、ちゃんとリハビリしてる?」
「はい。 おとついからパートにも出てます。 レジは足を動かさないからもう大丈夫だって」
「そう、あんまり無理させちゃだめよ。 少しずつ慣らしていくようにね」
サチコの母がバイクの事故でセンターに担ぎ込まれたのは秋口だった。
「こんど外来にきたら、救急センターにも寄るように言って。 ドクターもナースも喜ぶから」
「ありがとうございます、婦長さん。 必ず伺うように言っておきます」

おしぼりを差し出しながら、レジに立つ店長を少し気にして、サチコは囁きかけた。
「あの、婦長さん。 私、就職きまったんです」 「あら。よかったじゃない。どこ?」
「信用金庫です。 短大卒は採らなって聞いてたんですけど、ちょっとだけ枠ができて、もぐりこめたんです」
「ちょっとだけの枠だって、あなたなら間違いないわよ。 変わっちゃダメよ、その笑顔のまんま働きなさい」
「変わりませんよ、これ、地顔ですから」 そうにちがいない、とマリアは思った。

ふしぎな娘だ。 アベックにも、同じ年頃の学生たちにも、伝法なタクシードライバーにも、現場帰りの作業員にも、まったく分け隔てのない笑顔を向ける。 そして必ず、その笑顔の分だけ、人の心を軽くする。真夜中の国道沿いのレストランに、これほどかけがえのないウエイトレスはいないだろう。
父と母はサチコがまだ小さい時分に離婚したそうだ。 だから短大に通いながら、毎晩、夜中の二時まで働いている。 高校生の妹は勉強ができるから、四年制の大学に行かせてやるんだといつだか言っていた。
マリアがこのレストランで真夜中の食事をするようになったのも、サチコの笑顔が恋しいからだった。
大都会の野戦病院でくたくたに疲れた体を、荒れすさんだ年増女の心を、サチコの笑顔は癒してくれる。

「婦長さん、ここ」と、おしぼりを手渡して、サチコは首筋を指さした。 マフラーを外して肌を拭う。
乾ききらぬ鮮血がタオルを染めていた。


<血まみれのマリア>―――大学病院ではみんなが畏怖と敬意をこめて、そう呼ぶ。
第三次救急のための最高の設備を整えた救命救急センターが開設されて以来、二十年ものあいだ血の海の中をはいずり回っている名物ナース、<血まみれのマリア>


深刻な人手不足の中で、タイムテーブルなどくそくらえの、そのうえ院内感染のリスクばかりが大きい救命救急センターに長く勤める者などいるわけはない。 ドクターもナースも一年と待たずに入れ替わっていく野戦病院では、マリアはすでに名物というより、一種のシンボルだった。
そこには勲も矜も何もない。 ただ、突然と滅んでいく生命と、それを押し止めようとする医術とがあるばかりだった。 生と死があるばかりだった。
もしやり直せるなら―――と、マリアは今日で三日もナースステーションのベッドで仮眠してきたみじめな顔を見つめながら思うのだ。
せめて命のかからない職場で働きたい、と。 人並みの給料でいい。 結婚も恋愛も、やっぱりできなくていいから、せめて一日中笑っていたい、と。

突然、物思いを破って携帯電話が鳴った。 スイッチを入れると、若いドクターの声が耳に飛び込んだ。
<ああ、阿部婦長。 すみません、戻って下さい。 正面衝突で、三人いっぺんに来て、一人はステッちゃったんですけど、あと二人、何とかしなきゃ>
「ドクターは?」
<いま、林先生を呼びました。 こっちに向かってます>
「林しかいないの? どうせ頭やられてんでしょう、誰かもっと気の利いたの、脳外のドクターを呼びなさい」
<それが、みんな連絡がつかないんです>
「ばかっ!当直を呼べ!なにオタオタしてるの。いい、ぜったい殺すんじゃないよ。私が行くまで、一人も殺すんじゃないよ!」
マリアは電話機をハンドバッグに放り込むと、慌ただしく席を立った。 サチコがコーヒーを持ってきた。
「ごめん、緊急(スクランブル)なの。 あんた、食べて」

バイクのスクーターを回す。 サチコは窓越しに佇んで見送っていた。
その愛らしい顔から、たとえ片時でも笑みを奪ってしまった自分を、マリアは心から恥じた。
国道に走り出て、ダンプカーを煽り立てながら、マリアはヘルメットの中で叫んだ。
「どけ、どけっ! 死ぬんじゃないよ! 私が救けてやるからねー!」


その夜の救急センターは、かつてないほどの戦場だった。

正面衝突の三人のうち一人は東部挫滅の即死状態だったが、一人は外傷と両足の開放骨折、もうひとりは肋骨骨折と肺損傷で、ともかく生きていた。
だがその二人の治療をしている真最中に意識不明の酔っ払いが担ぎ込まれてきた。 さほど深刻ではなく、血液中のアルコール濃度も高くはなかったので、輸液をして寝かせておいた。
ところが突然嘔吐を繰り返したと思うと、呼吸が荒くなり、血液が異常に上がった。
脳外科の橋本医師が応援にきていたことは幸いだった。 CT画像を見ながら橋本は「なんだ、脳出血じゃないか」と叫び、緊急の開頭術が始まった。
そうこうするうちに、今度は飛び降り自殺が運ばれてきた。 路上に倒れていたのを、パトロールの巡査が発見したのだ。 足から落下したらしく、頭部の損傷はないが、骨盤骨折、肝破裂、腎破裂という重篤である。 すでに自発呼吸はなく、迎えに出た看護婦がストレッチャーの上に馬乗りになって心マッサージをしたまま、初療室に飛び込んできた。

これで初療室は戦場になった。
床はたちまち血と輸液とのぬかるみになり、運動靴を履いた看護婦たちは四つのベッドの間を走り回った。
救急センターの医師は皆若い。 
彼らがまだ小学生の頃からずっとこの戦場にいる阿部婦長が頼りにされるのは当然だった。 なにしろマリアは一日平均三例として二十年間で二万人以上の「敵」と戦ってきた、おそらく世界でただひとりの救急エキスパートなのだ。
マリアは血まみれになって叫ぶ。
「ドクター、血圧さがるよ! 四十五、四十、四十! 昇圧剤いれて! そうじゃない、もう一本静脈とって!」
「生理食塩水つなげ。 アッ、またパフッた! アミサリン、ちがうちがう、硫アトいれて。 止めるな、ぜったい止めるな!」
「おい、林ッ! 横着するな。 肝破裂のときは消化管の検索だろ。 胃の前とうしろ、小腸もひっぱり出して。 そうだ、がんばれ林―――ほうら見てごらん、破けてるじゃないか。 だめ、そこは切除して縫い合わせなさい。 端々吻合よ、できるだろ!」

戦況がようやく一段落したのは、午前三時を回ったころだった。
最もきびしかった飛び降り自殺者も、とりあえず状態は安定し、整形外科医にバトンタッチされた。
緊急手術室を覗く。
「ありがとうね、橋本先生。 どう?―――あら、開けちゃったんだ」
「脳圧が上がったからね。 勝手に開頭しちゃまずかったかな」
「え?―――とんでもないわ。 専門医の判断だもの。 でも、できれば排膿管を置いたほうがいい」
「ドレーン留置? 硬膜外でよかろう」
「でも血腫は怖いよ。 血圧も高いし、中に置いといた方がいいわ」
モニターに目を向けて、橋本医師は少し考えた。 「なるほど、そうするか」

手術室を出て、集中治療室に立ち寄る。 入室患者は五人。 いずれもおびただしい数のチューブとパイプが絡みつく、「スパゲティ状態(シンドローム)」である。
当直室に戻ってコーヒーを淹れていると、疲れ果てた当直医たちが、まったくキャンプにたどりついた兵士たちのように、初療室から帰ってきた。
「林先生、悪いけどビタミン剤打って。 徹夜も四日目となると、さすがに応えるわ」
林医師は敬意を持って、前線指揮官の白い腕に注射を打った。
「明日から、休暇でしょう?」と、恐る恐るお伺いをたてるように、若い林医師が訊ねた。
「今日からよ。休暇もクソもありゃしないわ。 要するに、携帯電話の圏外に逃げ出さなきゃ休暇にならないってわけ。まったく、みんないつまでたったら一人前になるんだか、今日だってあたしと橋本さんが来なけりゃ全滅だろ」

束の間の休憩の後に、医師たちはまた初療室へと帰っていった。
入れ替わりに、脳出血患者の手術をおえた橋本医師が入ってきた。
脳外科医としての腕は折紙つきだが、飲む打つ買うの道楽者で悪い噂が絶えない。
出世欲もなく、開業する気もまったくなさそうな独身の四十男。 要するにどこの大学病院にもよくいる、教授の代理執刀専門の偏屈な職人である。
勝手にコーヒーを淹れ、橋本は阿部婦長の顔を覗き込むようにして一口飲んだなり、むせ返って笑いだした。

「なにがおかしいのよ先生。 疲れた四十女がそんなに面白い?―――なんならあたしも笑ってやろうか」
「いやあ、失敬、失敬。 お手並み拝見させてもらったよ。 血まみれのマリア、か。たいしたもんだ、とてもナースには見えなかった。 噂には聞いていたが、まさかこれほどの凄腕だとはなあ。 オペの指示をされたのは十年ぶりだ」
「飯(メンコ)の数よ。 二十年のセンター勤務はダテじゃないわ。 なんせ飯の数は―――」
「殺した患者の数。 すごいね。 そんなことを言ったら研修医は慄え上がる。 あんた、この間うちの教授をどやしつけたんだってな」
「戦闘中に弟子をゾロゾロ連れてやってくる方がおかしいんだ。 それでさんざ能書きたれて、『ああ、心停止ですなあ』って、なによあのバカ」
「それで怒鳴りつけた、ってわけか」
「あったりまえよ。 目の前で開胸マッサージしてやったわ。 温生食ザブザブ入れて心臓動かしてやった。 見てろ、これが蘇生術だってね」
「まっさおになってたろう。 あれでけっこう気が小さいからな」
「そう。 弟子たちに何の解説もできないでやんの。 だから血だらけの手で頬っぺた一発張り倒してやった。 本当よ」
「・・・・・すげえな、あんた・・・・・」

いきなり電話機がけたたましく鳴った。 救急車の無線とセンターとを結ぶホットラインだ。
「やだ、もう。 いったい何て日なの―――はい、センターです」
勘弁してくれ、というふうにそそくさと部屋を出ようとする橋本医師の腕を、婦長は強い力で引き戻した。
「付き合ってよ、ドクター」 「デートなら明けにしてくれ」
「そうじゃないわ。 ピストル強盗に頭を撃たれたって。 この症例は初めてよ」
「―――とうとう、来るべきものが来たっていう感じだな」
二人は廊下に駆け出した。 サイレンを消した救急車が赤い光の帯を真冬の庭に曳きながら走ってきた。



サチコはストレッチャーの上で眠っていた。 少なくともマリアには、そうとしか見えなかった。


変わったところといえば、やや傾けた顔の右の耳から髄液が流れ出ていることと、右の額の生え際に、タバコの火で焼いたほどの小さな弾丸の射入痕があることだけだった。
橋本医師はすばやくサチコの胸に耳を当て、総頚動脈に触れ、ペンライトをかざして瞳孔を覗いた。
「完璧なD・O・Aだな」


デッド・オン・アライバル。 死んでご到着。 何日に一度かは聞かねばならぬセンターの呪わしい隠語を耳にしたとき、凍えついたマリアの胸に、一発の銃声が轟いた。
「エアは? どうしてマッサージしないの?」 いつものように怒鳴るつもりが、腑抜けた声になった。
サチコの体に何一つ生命兆候の見当たらぬことは、他ならぬマリアが一番よくわかっていた。
それでもマリアは救急隊員の手からストレッチャーを奪うと、初療室に引きずり込んだ。
医師たちもナースも、立ちすくんだままマリアを見つめていた。
マリアはストレッチャーに馬乗りにあんって、激しく心臓マッサージを始めた。 跳ね上がるように両手で胸を押し、レストランの制服を左右にひきちぎって耳を当てる。

「よせよ、婦長。 とっくにステッちまってる」
「ステルベンかどうかは私が決める。 ここでは私が法律よ、余計な口出ししないで!」
マリアはさらに激しくマッサージを始めた。 
肋骨の折れる鈍い音を訊いて、橋本医師はマリアの腕を掴んだ。
「落ち着け、婦長。 誰が見たってステッてる。 瞳孔拡大、心停止、呼吸なし、意識なし、血圧も体温も、なにもない。 これは死体だ」

「なんでよ! なんでこんなことになっちゃうのよ! さっきまでにこにこ笑って、いらっしゃいませ、お一人様ですか、おタバコお喫いになりますかって言ってたんだ。 就職も決まったって、おふくろもちゃんとリハビリしてるって―――どうしたの、サッちゃん。 あたし、何もできないじゃない、これじゃ、注射一本うってやれないじゃないのよ!」
マリアは死体の上に膝立ったまま、打たれた子供のように号泣した。
医師もナースも救急隊員も、駆けつけた警察官たちも、誰もがマリアの慟哭を奇異に感じなかったのは、彼らがみなつらい夜勤の行き帰りに、サチコの運んでくれたコーヒーを飲んだことがあるからだった。

遠くの血だまりの中にしゃがみこんで、若い林医師が泣き出した。
「あきらめろ、婦長。 ピストルってのは、そういうものなんだ。 頭に当たればどうしようもない」
足元からマリアを見上げて、橋本医師は祈るように言った。
「なぜよ。 どうしてよ。 どうしてそんなものがあるのよ。 戦争でもないのに、どうしてそんなものがあるのよ」
「知るか、そんなこと」 橋本医師は憮然として初療室を出て行った。


泣き腫らした瞼に朝日が眩しい。
せめてきょう一日は、電話のスイッチを切って泥のように眠ろう、とマリアは思った。

めったに見かけることもなくなったオンボロワーゲンのリアバンパーから、当直明けの橋本医師が顔を上げた。
「バッテリーあがっちまった。 つないでくれ」
「あたしゃバイクよ。 車に乗るほどヒマじゃないわ」
「バイクでもつなげるだろ」と、バッテリーケーブルを差し出した。
「冗談やめてよ。 子供から輸血するようなものだわ」
誰もこの男を医者だとは思わないだろう。 髭ヅラにボサボサの髪。 薄汚れたトレンチコートも軍隊毛布みたいなマフラーも、まったくポンコツビートルにお似合いだ。
「さあ、帰って寝るぞォ。 休暇よ、休暇。 誰が何たって休むからね。 何人死んだって知ったこっちゃないわ。 三日間、徹底的に寝てやる」
エンジンをかけ、誓うようにそう言ってから、マリアは決意を示すように手首にぶら下げた携帯電話のスイッチを切った。

ヘルメットを冠り、風防をおろして、マリアはアクセルを吹かしながら泣いた。
ふいに横合いから手が伸びて、橋本が携帯電話機を奪った。

「どうせあんたは、家に帰ったらスイッチを入れちまう」 「入れないわよ。 返して」
「温泉でも行ってこい。 これは俺が預かっておく」 答えはいらないというふうに、橋本医師は踵を返した。
「先生がこの電話に出たら、また悪い噂が立つわよ。 今度こそ大スクープになるわ」
「マリア様の恋人なら光栄だ。 それとも、君の方が迷惑か」
「べつに、そんなことはないけど―――」
「心配するな、俺は人が考えてるほどヤブじゃない。 君がリハビリをおえて帰ってくるまで、心臓はみんな動かしておく。 ひとつも止めやしない」
「どうして?―――」
「たいした理由はないがね。 ただ、俺もあの子の笑顔がなかったら、きっと教授を張り倒していたろうから。 あれはすばらしい鎮静剤だったよ」
「―――バッテリー、つなごうか」
「いいから行け。 体力の余っているベンツやBMWに分けてもらう。 そろそろ団体でやってくる時間だ」
マリアはタイヤを軋ませて駐車場から滑りでた。

温泉へ行こう。 雪に埋もれた山奥の一軒宿がいい。

美容院に行って、フードのついたコートとブーツを買って、上野駅から夜汽車に乗ろう―――。



続く