ラストストーリーです。

「雪の降る音」 村山由佳


人はどうして贈り物をするんだろう。

ある種の鳥や動物のオスは、求愛する相手のメスに食べ物をプレゼントするらしい。
そうすることでメスに受け入れてもらってなんとか交尾にまでこぎつけ、自分の種を残そうという本能だからだそうだ。 もちろん人間の中にだって下心だけで女にプレゼントする男はいるけれど、人間のする贈り物は必ずしも本能にもとづいたものじゃない。 人間関係を円滑にするための手段にすぎないとか、物で相手の気持ちを惹こうとするなんて不純だと言う人もいるかもしれない。

でも僕は、そうは思わない。

自分が大切に思っている人を喜ばせたいという気持ちはきっと、誰もが心の中に持っているものだ。
だから世の中には「人に物をあげるのが好き」という人間がけっこうたくさんいる。
もちろんそこには「相手の喜ぶ顔を見ると”自分が嬉しくなるから”」というワガママで自己中心的な欲望もあるとは思うのだけれど、でもそれって、いけないことだろうか?
ふつうは誰かの為に自分を犠牲にするという行為は立派なことのように言われているし、たとえばひとつしかない救命具を他人に譲って死んでいった人なんかは聖人のように祭り上げられがちだけど、僕はそういう美談を聞くたびにふっと思う。 自分の命を他人に譲って死んだ人は、そういう崇高な行為を選ぶことのできた自分に満足していたんじゃないか・・・・・そうすることで”自分が嬉しいから”こそ、その道を選んだんじゃないだろうか、と。

これは決して、その人のした行為が立派じゃないとか自己満足にすぎないとかいう意味で言っているわけじゃなくて、僕が思うのは要するに、「自分が100%苦痛しか感じられないような状態で、誰かの犠牲になることを選べる人はまずいない」ということなのだ。
そこにはどんな形であれ、その人自身の満足が必ず伴っているんじゃないかということだ。
でも、幸せの基本って、本来そういうものじゃないだろうか。 相手を喜ばせることで自分も喜べて、自分の喜ぶ顔がさらに相手を喜ばせることができるとしたら、それはたぶん理想的な関係だ。

ただ、難しいのは―――こちらがどんなに贈りたくても、必ず相手に受け入れてもらえるとは限らない。
ぎくしゃくしているときや相手を怒らせてしまったときなんかにヘタにプレゼントを贈ろうものならかえって逆効果ということにもなりかねない。 それこそ、物で釣ろうとしているとか、ご機嫌取りのように思われたりして、ますますドツボにはまる場合だってありうるのだ。
白状すると、僕が今悩んでいるのもまさにそのことだった。


僕たちはいま、2台の車に分乗して、新潟の湯沢スキー場へ向かっている。
なんと、総勢10名の大所帯だ。
メンバーは『風見鶏』のマスターと由里子さん、中沢氏と彼の草野球仲間のアンパンマン、丈と京子ちゃん、陸上部マネージャーの星野りつ子とネアンデルタール原田先輩、そして、かれんと僕。
どうしてこういう面子になったかといえば、それが僕にもよくわからない。 なんというか、ほとんど伝染病みたいな感じにするすると話がひろがって、結果的にこうなってしまったのだ。

実は、かれんに贈るために由里子さんに作ってもらった指輪は、すでに完成して僕の手元にある。
それもそのはず、今日はもう12月の26日だ。
本来なら2日も前にかれんに渡していなければならないはずなのに、なんたることか、指輪の箱は今この瞬間も、車の後ろに積まれた僕のスキーバッグの中に入っている。 持ってこようかどうしようか迷ったのだけれど、結局持ってきてしまった。 もしかしてもしかしたら、かれんに渡せるような機会がめぐってくるかもしれないという、一筋の希望にすがるように。

こうなってしまった理由は、まったく単純だった。
イヴの夜、僕がかれんと大喧嘩をしたからだ。
けんかの原因もやっぱり単純だった。 僕のくだらない嫉妬がすべての元凶なのだ。
悪いのは自分の方だとわかっているのに、僕はいまだにかれんに謝ることができないでいる。
僕に勇気がないのはもとより、かれんのほうでもなんとなく僕を避けているからだ。
ほとんど目を合わさず、ろくに口もきかないという状態に突入してから、すでにまる2日。
気まずい時間が長引けば長引くほど、苛立ちはつのっていくばかりだった。


たとえあなたが100万円持っていたとしても、高価なものを贈ればそれでいいってものじゃないわ、と由里子さんは言った。 贈り物の難しいところは、どんなに素晴らしいものを贈ったつもりでいても、それが相手の負担になるようなら失敗だっていうことよ。
「この指輪にはルビーとサファイアみたいなごうかな組み合わせじゃなくて、もっとカジュアルで優しい雰囲気のものが合うと思うの。 かれんさんのイメージからすると、そうねえ、透き通ったピンクのトルマリンと淡いグリーンのペリドットを組み合わせるとか、薄紫のアメジストと水色のアクアマリンとか」

アクアマリン・・・・・。

その名前を聞いたとき、僕が思い出したのはあの夏の鴨川の海だった。
「海の水」という名を持った淡く透明なブルーの石はかれんの指にも、そしてかれんと僕が共有する思い出にもぴったりのような気がした。
「それなら、いっそのこと片方を石じゃなくて真珠にしてみたらどうかしら。 真珠もまん丸のじゃなくて、楕円形のバロックパールが可愛いと思うわ。 とするとアクアマリンも同じ形に揃えて・・・・・」
銀のリングに、水色のアクアマリンと、少しいびつな真珠。 なるほど素敵な組み合わせだ。
センスというのはこういうものかと、ひたすら感心してしまう。

「よし。この際サービスで、かたっぽのリングの内側に日付と名前も彫っといてあげる。 年号と、イヴの日付と、それから<K. to K.>ってね」 
それ、よおかったら<S. to K.>にしてもらえますか、と僕は言った。 僕のことをショーリという名で呼んでいいのはかれんだけだという意味を、<S>のイニシャルにこめたつもりだった。
実を言うとこれまで僕は、かれんにまともなプレゼントを贈ったことが一度もなかった。
今回の指輪は僕からかれんに贈る初めての<プレゼントらしいプレゼント>になるはずだった。
由里子さんが実際の指輪の制作にとりかかってくれたのが、12月のあたま。
僕はどきどきしながら完成を待ち続け、ようやくできあがったのが、イヴの前日の23日のことだった。

それなのに・・・・・土壇場でけんかなんかするとは、なんという大バカ野郎なんだろう。
これまでにだって、かれんと小さい喧嘩をしたことくらい何度もあったし、一度は3ヶ月ほどろくに口もきいてもらえなかったことだってあった。
でも、今回のこの喧嘩は、今までのそれとは本質的に違う、深刻なものだった。

24日の朝、かれんは「夜10時までには帰るようにするからね」と言って学校へ出かけていった。
翌日から冬休みということで、夜は先生たちとの忘年会の約束が早くから決まってしまっていたのだ。
クリスマス・イヴに忘年会だなんて野暮なことをしてくれるもんだと思ったが、教員室のメンバーの顔を思い浮かべてみれば無理もないのだった。 ほとんどがイヴなんかには興味も縁もなさそうな年寄りばっかりだ。 仕方がないので、かれんが帰ってきてから丈と3人でクリスマスを祝うことにした。
10時までには帰るようにすると彼女が言ったのはそういう意味だ。

僕は昼間、佐恵子おばさんの「お菓子の本」と首っぴきで、木の切り株に似せたノエルケーキというのを焼いた。 冷蔵庫にシャンパンも冷やした。 それから暇だったので夕方からは、大学の陸上部の連中が集まるクリスマス会(と称した打ち上げコンパ)に参加した。
15人ほどが集まって大衆居酒屋で飲み、たらふく食い、これからカラオケに繰り出すという連中と別れたのが8時すぎ。 ほろ酔い気分で電車に揺られ、駅に降り立ったのは9時すぎだっただろうか。

いよいよ今夜、かれんにあれを渡すのだと思うと、楽しみで仕方なかった。
銀色のリボンをほどいて箱を開けたときのかれんの顔を想像するだけでわくわくした。
いつ渡そう。 丈が風呂に入っている間が狙い目だろうか。 それとも、思い切って彼女の部屋を訪ねようか。 そんな最高の気分で歩き出し、駅前商店街を抜けて家に向かおうとしたとき、僕の目はふと、
ロータリーに面した喫茶店の中に、見覚えのある真っ白なダッフルコートを見つけてしまったのだった。
ガラス張りの店はこうこうと明るくて、暗い歩道に立つ僕の姿は中からは見えないだろうけれど、僕からは店の中が丸見えだった。

かれんの向かい側の席には、中沢氏が座っていた。
コーヒーカップののったテーブルを間にはさんで、何かしきりに話し込んでいる。
中沢氏が何か言うと、かれんの方がクスクスと揺れるのが見えた。

やあ、俺も今帰ってきたとこなんだ、とでも言って店に入っていけばよかったのかもしれない。
でも僕の気持ちは、向かい合っている二人を見た瞬間から嫉妬でひきつれてしまっていた。
そうして見れば確かに、二人は紛れもなく「お似合い」のカップルに見えるのだった。
かれんが24。 中沢氏が29。 佐恵子おばさんじゃなくたって、ぴったりの組み合わせだと思うだろう。

店の外で彼らが出てくるのを待つことさえせずに、僕は一人で家へ帰った。
待っていたりしたらどんどんみじめになって、卑屈になって、それより何より嫉妬がつのって頭がおかしくなりそうだったからだ。
丈は、朝のうちに僕が作っておいた晩飯用のカレーをきれいにたいらげ、部屋にこもって勉強していた。
僕は、風呂を沸かしながらテレビをつけ、丈の邪魔にならないように音量をしぼってソファに腰をおろした。 そのまま、どうでもいいような番組を見るともなく眺めていた。 
頭の中ではまったく違うことを考えながら。
べつに、かれんが浮気をしたというわけではないのだ。 あんなの、どうってことない。
だいたい忘年会の帰りに同僚の先生とコーヒーを一杯飲むことの、どこがいけない?
そんなの、責める方が間違ってる。 その程度のことまで束縛したがるなんて、あまりに心が狭すぎるじゃないか・・・・・。 テレビなんか上の空で、僕は繰り返し自分にそう言い聞かせた。
それなのに、それから30分ほどたってかれんが帰ってきたとたん、すべての理性は消し飛んでしまった。

「ああ寒かった」 
白いコートを脱ぎかけた彼女に向かって、僕はわざわざ試すようなことを訊いてしまったのだ。
「帰り、一人で帰ってきたのか?」
一瞬、かれんが返事を迷ったのがわかった。 
でも彼女は脱いだコートを僕の向かいのソファの背にかけながら言った。
「そうよ」
僕に余計な心配をさせまいとしてそう言ったのだということは、今になって落ち着いて考えればよくわかる。 でもそのときの僕はもう、自分をどう止めていいのかわからない状態だった。
どうして嘘をつくんだ、とかれんを責めた。 
やましいことが何もなければ嘘なんかつかなくていいはずじゃないか、と。 止まらなかった。
だんだん声が大きくなって、テレビよりよほど大きくなって、向こうの部屋の丈に筒抜けだと気づいても、それでも止められなかった。
いつのまにか僕は立ち上がっていた。

「だいたい、なんでわざわざ中沢なんかと仲良く喫茶店に入る必要があるんだよ」 かれんをにらみつけながら僕は言い募った。 「少しくらい強引に誘われたって、そんなのきっぱり断っちまえばいいだろ? あいつがお前に気があることくらい、もうわかってるはずじゃないか。 そんなふうにお前がへらへら優しい顔するから、いい気になってつけこんでくるんだよ。 もっとしっかりしてくれよ!」

かれんはずっと、ソファの背に捕まるように立ち、黙ってうつむいていた。
「ごめんなさい」 やがて彼女はつぶやき、くしゃっと泣きそうな顔になった。
「やましいことがあるから嘘をついたわけじゃないの。 言えばショーリがまた不機嫌な顔すると思って、それでつい、ほんとのことが言えなかっただけなの。 でも、信じて。 私、中沢先生のことなんてなんとも思ってないし、向こうだって私にそんなそぶり見せたことないのよ」
「それがあいつの作戦だって、なんでわかんないんだよ。 学校のことで相談があるなんて、みえみえの口実じゃないか。 イヤならイヤって、どうしてきっぱり断れないわけ? なんでそんなにあいつに気ィつかうんだよ」
「だって・・・・・同じ職場に勤めてる以上、それなりのお付き合いってものもあるし」
「それなりのって、どういう付き合いだよ。 だいたい、イヤなことをイヤとも言えないなんて、それで対等な付き合いって言えるのかよ」

・・・・・夢中だったから全部を覚えているわけじゃないけれど、その倍くらいのことは言ってしまった気がする。 そのうちさすがのかれんも我慢しきれなくなったらしい。

「ショーリにはわかってもらえないかもしれないけど」 彼女は珍しく強い口調で言った。
「私は私なりに精一杯、中沢先生と対等に向かい合ってるつもりよ。 ショーリだったらきっぱり口にするようなことを私が口にしないからって、それでショーリが怒るのはおかしいんじゃないの? あなたと私は違う人間なんだから、同じように考えなくたって仕方ないでしょう? それに、ショーリはさっきから私がほんとはイヤなのに中沢先生の誘いを断れなかったって決め付けてるけど、それも違うわ。 少なくとも学校に関する相談なら私、あの人と話すのべつにイヤじゃないもの。 だから一緒に喫茶店にだって入ったのよ。 ほんとにイヤならちゃんと断ってる。 ちゃんと断れる。・・・・・ショーリこそ、この間からどうかしてるわよ」
「なんだよ、開き直るのかよ」
「そうじゃないけど・・・・・嘘ついたのはほんとに悪かったと思うけど、今の正直な気持ちを言えば、さっきの私の嘘にはあなたにも責任があると思ってる。 そんなふうに考えるのいやだけど、でもそう思う。 あなた、私のこと信じてるなんて言ったけど、やっぱり信じてないんじゃない。 私のことだけじゃなくて、自分のことも信じてないんじゃない。 でなきゃそんなに自信のない顔してるはずないもの。 ショーリこそ・・・・・ショーリのほうこそ、もっとしっかりしてよ」

そうして彼女は、コートを手にリビングを出て2階へかけあがってしまった。
取り残された僕は、どさりとソファにへたりこんだまま茫然と床を見つめた。
耳元にテレビの音が戻ってきたのは、ずいぶん長く経ってからだった。 スイッチを消す。
音が消えてもなお、耳の奥でかれんの言葉が鳴り響いて、頭が割れそうだった。

―――もっとしっかりしてよ。



車はいま、関越自動車道を西へ走っているところだ。

先導して走っているこの4WD車はマスターのだった。
運転手はマスター、助手席に由里子さん、後部座席に僕と星野りつ子と原田先輩。
さっきから原田先輩がしきりに由里子さんを笑わせている。
星野がいちいち横から茶々を入れ、マスターの笑った目元がバックミラーに映る。

50mくらい離れてついてくるもう一台の車はアンパンマンのワゴン車で、
かれんと丈と京子ちゃんはそっちに乗っている。 中沢氏もだ。
丈たちがいるのだから何も心配する事などないとは思っても、僕はやっぱり後ろの車が気になって仕方なかった。 マスターたちの手前、そう頻繁に振り返るわけにもいかず、我慢しているとよけいにイライラした。

みんなでスキーに行かないかと言いだしたのは、由里子さんだった。
なんでも、由里子さんの妹が嫁いでいったのは湯沢のスキー場近くにある小さなホテルなのだそうだが、26日から2泊3日で入っていた10人グループの予約が急にキャンセルになってしまい、代わりに誰か行かないかという話に発展したわけだ。

由里子さんがその話題を持ち出したのは、先々週の日曜に行われた野球の試合の帰り道だった。
中沢氏率いる例の草野球チームの試合で、いつものごとく丈も助っ人に駆り出されていたし、応援ということでマスターも京子ちゃんも、かれんもいた。
スキーなんて10年以上やってないなあ、というマスターが珍しく店を休みにして行ってみようかと言い出し、中沢氏とピッチャーのアンパンマンが話に乗り、そこへ丈と京子ちゃんが受験勉強の息抜きなどと称して便乗してやった。 やった、これで2晩かれんと二人きりになれると思った途端、中沢のやつが余計なことをぬかした。
「花沢先生も行きませんか。 勝利くんと仲良く家に残るのもいいですけど、こういうときはせっかくだからみんなで行きましょうよ。 そのほうが楽しいじゃないですか」
・・・・・冗談めかしてではあっても、ほかの人たちみんなの前でそういうふうに言われたせいで、かれんは断るにも断れなくなってしまい、とうとう小さい声で言ったのだった。
「それじゃ、ショーリも一緒に行きましょうよ」と。
そうして8人まで決まったところへ、翌日になって星野りつ子が加わった。


原田先輩の野太い声と星野りつ子のよく通る声が入り乱れるのを聞きながら、僕は車の窓に顔を寄せて運転席のドアミラーをそっとのぞき見た。 赤いワゴン車は後ろからちゃんとついてきていたけれど、車内までは到底見えなかった。
かれんは今頃、何を考えているんだろう。 やっぱり僕と同じように、苦しい気持ちを持て余しているんだろうか。 それとも、僕のことなんかすっかり忘れて、みんなで楽しく騒いでいるんだろうか。

<お前がへらへら優しい顔するから、いい気になってつけこんでくるんだよ。もっとしっかりしてくれよ>

2日前の自分の言葉を思い起こして、ぎゅっと目を閉じる。 よくもまあ、あんなセリフが吐けたものだ。
あの文化祭の帰り道、かれんの優しさにつけこんだのは僕だったじゃないか。
自分の不安に振り回されて、かれんの気持ちなんて考えもせずに乱暴に強引にふるまって、彼女を傷つけても気づくことさえしなかったのは僕のほうじゃないか。 自分が恥ずかしくて、鳥肌が立った。 
あまりに情けなくてかれんに声をかけるどころか、目の前に立つことすら怖かった。



着いた途端に早速ナイターのリフト券を買いに走ったのはアンパンマンと丈だけで、他のみんなは次の日の朝からのんびり滑り始めた。

僕は中学高校と毎年スキー学校に参加していたから、よほどのコブ斜面でなければ普通に滑れたが、
由里子さんと星野りつ子はまだ二度目だと言うし、かれんと原田先輩に至っては初めてだったので、滑れる人間が二人ずつ交代で教えることになった。
僕はアンパンマンと組んで教えた。 べつに相談したわけでもないのに、自然と彼のほうが初めての二人を受け持ち、僕の方は二度目の二人を受け持つことになった。 気まずい思いをしながらかれんに教えないで済むという意味では、ほっとしたものの、またしても仲直りのきっかけを逃がしてしまったことになる。

由里子さんと星野にボーゲンの基本を教えながら、僕は時折りちらちらとアンパンマンたちのほうに目を走らせた。 赤いスキーウエアは目立っていたから、たくさんの人の中からでもすぐにかれんを見つけることができた。 見つけるたびに彼女はたいてい転んでいて、情けなさそうに照れ笑いしながらアンパンマンに助け起こされていた。 ときには原田先輩と折り重なって倒れていることもあった。
あそこまで滑っていくのに10秒とかからないのに、どうしてこんなに遠いんだろうと僕は思った。
昨日からこっちだって、僕らはべつにお互いにツンケンしているというわけじゃない。
落とした手袋を拾ってやれば、かれんは「ありがと」くらい言うし、彼女がみんなにアーモンドチョコでも配れば、僕だって「サンキュ」と口にする。 でも、どうしても二言以上の会話にならないのだ。
ちょっとした機会を見つけて、僕がなんとか話をしようと口をひらくと、かれんはうろたえたようにどぎまぎして用もないのに他の人を呼び止めたりする。 逆に、かれんが黙ってこっちを見ていることに気づくと、僕のほうが慌てて目をそらしてしまったりするのだった。

「そんなに気になるなら、今晩にでも私からかれんさんに話してみてあげようか?」
由里子さんが僕にそう言ってくれたのは、星野りつ子が緩斜面の下の方まで滑っていくのを見送っているときだった。 由里子さんは僕とかれんさんが喧嘩したことを知っている。 僕は自分で話したのだ。
「いや、それはやっぱいいっスよ」 僕は由里子さんに笑ってみせた。 「すみません、心配かけちゃって」

怖いもの知らずの丈と京子ちゃんは、ずっと上の方の上級者コースへ行ったきり、めったに下りてこなかった。 二人共けっこう滑れるし、途中からは原田先輩が自分の携帯を丈に持たせてくれたから心配はなかったけれど。
マスターはよく転んだ。 10年やってないと言うだけあって、転びっぷりも半端じゃなかった。
いつもニヒルに決めているマスターが豪快にこけるのを見てみんな大ウケだったけれど、いちばん大喜びしてしゃがみこんで笑っていたのは由里子さんだった。 そこまで容赦なく笑っちゃマスターとの仲にヒビが入るんじゃないかと、見ているこっちが心配になるくらいだった。

10人中、いちばん滑りが上手かったのは、悔しいことに中沢氏だった。
コブ斜面だろうがアイスバーンだろうが、彼は板をぴたりとそろえたまま難なくこなした。
サングラスをして滑っている姿はほとんどプロスキーヤーみたいで、女たちはみんな、ほうっとため息をついて見とれていた。 なんでも中学3年で東京に引っ越すまではこの新潟に住んでいたのだそうだ。
「冬はスキーをはかなきゃ学校にも行けなかったよ」と昼飯のとき彼は言った。「玄関のドアが雪に埋もれて開かなくて、2階の窓から出入りするのなんて日常茶飯事だったしね」
「ESSの顧問なんかやめて、スキー部でもお作りになればいいのに」
かれんの声が聞こえてくるだけで、僕はこっちの隅でドキリとする。
「いやあ、駄目ですよ。 僕は人に教えるのが下手だから」 「あら、そんなことなかったわ」
「だとすれば、生徒がいいんでしょう」 調子のいいことをさらりと言って、中沢氏は笑った。
アンパンマンが滑っている間は、彼がかれんと原田先輩を教えていたのだ。
かれんは尻餅ばかりついては中沢氏に引っ張り起こされていた。
丈とバトンタッチした僕はといえば、リフトの上からぼんやりとその光景を見下ろしているしかなかった。 すでに、いちいちカリカリする気力さえなくなりかけていた。

人は、長い時間にわたって拷問を受けていると、そのうちに自己防衛本能が働いて痛覚が鈍くなっていくと聞いたことがある。 もしかすると僕のこれも同じなのかもしれなかった。
心の痛覚さえマヒしてしまえば、もう痛みを感じないで済むのだから。
夕方までずっと滑り続けて極限まで腹をすかせたみんなは、夜は寄ってたかってバイキング料理に襲いかかった。 ほとんど、屍肉に群がるハゲタカの群れのようだった。
僕は食欲のなさを隠すために、皿に取る量を少なくして何度もおかわりをしに立つようにしたのだが、まわりの目をうまくごまかせたかどうかはまったく疑問だった。
こんなことなら、一人で家に残ったほうがましだったかもしれないとさえ思った。
たとえ、僕の見ていない所でかれんに何が起ころうと。

晩飯のあと、みんなはラウンジでコーヒーを飲んだり煙草を吸ったりしていたけれど、僕は途中からそっと抜け出して部屋に戻り、替えの下着とタオルを持って露天風呂に出かけた。
ぬるめのお湯に30分くらいつかり、ゆっくり筋肉をほぐして出てきたあと、新しいTシャツとトレーナーに着替えた。 雪焼けでひりひりする顔を、濡らしたタオルで冷やしながら脱衣室を出る。
まっすぐ部屋に戻るつもりだったのだけれど、2階への階段の踊り場から外の庭を見たとたん、ふとその気になった。 ガラスのドアを開けて、庭に出る。 民宿に毛が生えたような小さなホテルなのに、大浴場の真上に屋上庭園のような形で造られたその庭は、純和風の立派なものだった。

少し風があって、のぼせた頭がすーっと気持ちよく冷えていく。
と、コツコツ、と音がして、僕はふり向いた。
ガラスの指先でつついて笑っていたのは、星野りつ子だった。

1階の売店に買い物にでも下りてきたらしく、星野は財布ひとつを持っているだけだった。
なんだか、あの夏合宿での夜みたいだ。
「そんなかっこじゃ風邪ひくぞ」
ドアを押し開けて出てきた星野は、薄手の赤いセーターにジーンズという寒そうな格好だった。
無理もない。 ホテルの中は半袖でいられるくらい暖かいのだ。
「和泉くんこそ、湯冷めしちゃうわよ。 頭濡れたままじゃない」
「うん。 ちょっとのぼせちゃってさ」


それきり、二人共しばらく黙っていた。
首にかけた濡れタオルがどんどん冷たさを増していく。


と、たった今思いついたみたいにさりげなく、星野が言った。
「和泉くん、かれんさんとけんかしてるの?」
僕は返事をしなかった。 否定しない限り、それは肯定になるということはわかっていたけれど、
喧嘩なんてしていないと嘘をつくのも馬鹿げた話だった。
かれんと僕が昨日からろくに口をきいていないのは、誰が見たってわかることなのだ。
「原因はなに?」
僕はやっぱり黙っていた。
どんなに鈍い僕でも、今ではさすがに星野の気持ちに気付いている。

隣に立つ星野をちらりと見やる。
自分の意志じゃなかったとはいえ、一度でもキスをした女の子と暗い所で二人きりでいるのは、なんとも妙な居心地のものだった。
「他のみんなはどうしてる?」
「卓球して遊んでるわ。 丈くんと京子ちゃんだけは、ちゃんと1階の休憩室で勉強してるけど。 ねえ、和泉くんはやらないの?」
「勉強?」
「卓球よ、ばかね。 和泉くんも行ってくれば?」 「いいよ、俺は」
「苦手?」 「そういうわけじゃないけど」 深く息を吸い込む。 冷たい空気がいっぺんに肺に流れ込んできて肺が痛い。
「俺、そろそろ部屋に戻るわ。 寒くなってきた」
そう言って中に入ろうとすると、星野もついてきた。 「あれ、何か買いに来たんじゃないのか?」
「ううん」 星野は戸惑ったように微笑んだ。 「もういいの」
「・・・・・ふうん」

俺は、先に立って踊り場から2階までの階段をのぼった。
2階の廊下はしんと静まり返っていた。 5つ並んだ部屋にはまだ誰も戻ってきていないらしい。
かれんもみんなと一緒に卓球をしているんだろうか。 
顔が見たくてたまらなかったけれど、みんなの輪の中に入っていく元気はどこにもなかった。
せっかく楽しんでいるのに、かえって気をつかわせるだけだ。
「じゃあな」 僕は自分の部屋のドアにキーを差し入れた。 「おやすみ」


そのときだ。


「待って」と、星野が言った。
僕は振り返った。 そしてその途端、猛烈に後悔した。
「お願い、ひとつだけ教えて」 目の前の星野の顔は、触れれば切れそうなほど真剣だった。
まるで、これから死のうとしている人みたいに思いつめた目をしていた。
「ねえ、和泉くん。 前にかれんさんのこと好きだって言ったわよね」
僕は黙っていた。 あんまり急で、なんと答えていいかわからなかったのだ。
「今でも、好き?」 「・・・・・」
「答えて。 これからもずっと、あの人だけ想い続けるつもりなの?」 「・・・・・」
「そんなの、ダメだよ、和泉くん。 いいかげんに思い切らなきゃ。 かれんさん、もう決まった人がいるって言ってたじゃない」
「それは・・・・・」 言いかけて、僕は口をつぐんだ。

これまで僕が誤解を解かないままにしていたのは、かれんとのことを周囲に知られるにはまだ時期が早すぎると考えたからだった。 でも、いま星野に向かってはっきり言えないでいるのは、そのせいばかりじゃなかった。 僕に自信がないからだ。 かれんを自分のものだと言い切る自信が、ぐらぐら揺れ動いているからだ。

黙りこくってしまった僕に向かって、 「ねえ、私じゃ・・・・・ダメ?」 と、星野は言った。
緊張のせいか、彼女はまるで怒ったような顔をしていた。
「ねえ和泉くん、私じゃ、手伝えない? かれんさんのこと思い切るの、私じゃ手伝えないかな」
「・・・・・」 返事をしないなんて卑怯だと思いながらも、僕には言えなかった。
答えはわかりきっていたけれど、悪くて口に出せなかった。
星野に不満なんじゃない。 彼女はいい子だし、顔だって可愛いし、ちょっと変わってはいるけれど話していて飽きない。 明るくて活発だし、冗談もわかるし、前向きだし、優しいところもあるし・・・・・そうやって箇条書きにしていくなら<星野でもダメじゃない>ということになるのかもしれない。
でも、人を好きになるというのはそういうことではないのだ。
どうしてかはわからないけれど僕はかれんでなければダメなのだった。 何度か口を開きかけてはまたつぐんだ。 それから、やっとの思いで言った。

「ごめん。 でも・・・・・無理だよ」
星野の顔が、みるみる真っ赤になっていくのがわかった。
「どうして? どうして男の人って、みんなああいう人がいいの?」 「・・・・・」
「ずるいわよ、かれんさん。 自分は恋人がいるのに、誰にでもいい顔してみせたりして。 和泉くんも中沢さんもキープして、おまけにマスターまであの人のこと大事にして・・・・・みんな、なにもわかってないのよ。 かれんさんなんてただの八方美人じゃない」
「よせよ」 思わず口調がきつくなってしまった。 でも、星野はやめなかった。
「私が和泉くんのこと相談したときだって、協力してくれるだなんて調子のいいこと言ったくせに、嘘ばっかりなんだから」
「星野」
「そうよ、和泉くん知らないでしょ? そのときかれんさん、私に言ったんだからね。 これ以上、和泉くんに期待もたせないように努力してくれるって。 それってつまりは、和泉くんの完全な片思いってことじゃない」
「よせったら」
「いくら和泉くんがあの人のこと好きだって望みなんかないんだから。 大体、全然釣り合わないじゃない。 5つも年が離れてて、うまくいくはずなんか、」


「よせって言ってるだろ!」


ビクッと星野が黙った。
傷ついた目を見開き、震える唇で「・・・・・なによ」と呟く。
次の瞬間、彼女は一歩前に出たかと思うといきなり僕の首に抱きついてきた。


慌てて顔を背ける寸前、唇と唇がさっと触れ合う。 ふりほどこうとしても彼女の腕はしっかりと巻きついていて、僕は首の後ろに手をまわして彼女の腕をつかみ、力ずくでほどきながら突き放した。 
後ろへよろけた星野が踏みとどまり、唇をかんで僕を見つめる。


そのときだった。 視界の隅に水色のものが映って、僕ははっと顔を上げた。
ドア4つほど向こうのエレベーター前に立っていたのは、かれんだった。
彼女は茫然とそこに立ち尽くしていた。


視線が合う。 かれんの唇が、泣きそうに歪んでいく。
「ち、違うんだ、かれん・・・・・」 言いかけた途端、彼女がさえぎった。
「うそつき」
つぶやくような声だったのに、その一言は僕の心臓にグサリと突き刺さった。
とがった氷柱で壁に打ち付けられたみたいな気がした。
うそつき。
そう言われても仕方ない。 あの日、誰もいない夏の砂浜で僕はかれんにはっきり約束したのだ。
二度と彼女以外とはキスしない、と。

エレベーターのドアが閉まりかける。 
その瞬間、かれんはくるりと身をひるがえして中に飛び込んでしまった。
「待てってば、かれん!」
エレベーターが動き出す音がして、追いかけようとしたのに腕を引き戻された。
「放せよ!」 振り向きざま、星野の手を振り払う。 「お前、いいかげんにし・・・・・」
言葉は、宙に浮いた。 ごくり、と喉が鳴る。
星野の涙を見るのは、これが初めてだった。
いつもははしゃいでばかりでうるさいくらいなのに、彼女はいま、声もたてずに泣いていた。
「どういうこと? どうしてかれんさんがあんなこと言うわけ? 嘘つきって、何が嘘つきなの?」
あごの先にたまったしずくが、赤いセーターの胸にぽとりぽとりと落ちる。
「ううん、そんなことどうでもいい。それより和泉くん、お願いだからはっきり答えて。 私には・・・・・全然望みはないの? どんなに待ってても、可能性のかけらもなし?」
「・・・・・」

たった今、自分が激情のままに星野に何を言おうとしたかと思うと、僕は自分への嫌悪感でぞっとする思いだった。
星野を責めてどうなるというのだろう。 彼女だって僕に告白するにはものすごく勇気がいったに違いないのだ。 悪いのは、星野ではなかった。 根本的な原因は僕にある。
僕が煮え切らないから、星野もかれんも両方傷つけることになってしまったのだ。
誰も傷つけたくなくて、つい両方に優しい顔を見せてしまっていたけれど、そんなの優しさでもなんでもない。 結局僕は、自分に優しかっただけじゃないか。

「星野」 
肩がぴくりとする。 僕は思い切って、言った。
「ごめん。 俺、やっぱりダメだ。 どうしても、あいつの・・・・・かれんのことしか考えられない。 悪いけど、あきらめてくれる」
涙をふきもせずに突っ立ったまま、星野は長いこと僕を見つめていた。
僕は、目をそらさないで耐えた。 よっぽどいまここで、かれんとは9ヶ月も前から付き合ってるんだと打ち明けてしまいたくなったけれど、いまの星野がそれを聞いたらもっと傷つくんじゃないかと思うと言えなかった。
やがて彼女は、くるりと僕に背中を向けてポケットから鍵を取り出した。
自分の部屋のドアに差し込み、押し開ける。 そして、顔を伏せたまま、小さい声で言った。
「・・・・・ばかだよ、和泉くん」 パタン、とドアが閉まった。
―――僕もそう思う。




家に戻ってからの3日間、かれんと僕はまったく顔を合わせなかった。
というのもスキーから帰ってきてすぐ、かれんはどこかへいなくなってしまったからだ。
スキーに持っていた着替えのバッグがそのまま、一緒に消えていた。
心配のあまり晩飯の用意さえ手につかない僕を横目で見ながら、丈はあきれたようにため息をついた。
「大丈夫だっつーの。 着替えまで持ってくってことは、気持ちがしっかりしてるってことじゃん。 きっと勝利の顔が見たくなくて、友達のとこにでも行ったんじゃねえの」
こんな年の瀬に、いったい誰のところへ行ったというのだろう。

かれんから電話がかかってきたのは、その夜の7時すぎだった。
(黙って出てきたりして、ごめんなさい。 でも、心配しないで。 2,3日、一人になりたいだけだから・・・・・それじゃ)
「待てってば」 思わず、すがるみたいな口調になってしまった。 「俺もそこへ行くよ」
かれんは受話器の向こうで、フッと寂しそうに笑った。 (だめ)
「かれん!」 電話は、プツリと切れた。


家出していたかれんがようやく戻ってきたのは、3日後の大晦日の夜のことだった。
9時をまわって、丈が「紅白」にチャンネルを合わせ、僕が時計を見ながら今日も駄目だったかとあきらめかけたとき、外の門がカシャンと音をたてたのだ。
丈が見ているというのに取り繕うことも忘れてリビングを飛び出すと、かれんが玄関のドアを開けたところだった。 その背後から、凍るような風が入ってくる。 今にも雪が降りそうな冷え込みだった。
ドアを閉め、かれんが黙って靴を脱ぐ。

「・・・・・男2人で年越しかと思った」 やっとの思いで僕がそう言うと、かれんは少しだけ微笑んだ。
「ごめんね」 泣き顔に近い微笑みだった。
「風呂、沸いてるけど」 「・・・・・うん」
「俺らはもう入ったから」 「・・・・・うん」

かれんは、鴨川のおばあちゃんのところに泊まっていたのだった。
でも、それ以外の詳しいことを、かれんはなにも話してくれなかった。
かれんは風呂に入ると2階に上がってしまい、それっきりもう下へは下りてこなかった。
僕は、丈の隣に座って「紅白」を終わり近くまでぼうっと観た。
点数の集計が始まったところで、台所に立って年越しそばを作り始めた。
おふくろが昔よく作ってくれたニシンそばを、とりあえず3人分作る。
と、リビングが急にしんとした。 丈がテレビを消したのかと思ったとたん、

ゴォォォォゥゥゥンン・・・・・。
低い鐘の音が響いた。 「ゆく年来る年」が始まったのだ。
「姉貴ぃ!」 階段の下から、丈は大声で呼んだ。 「そば食うぞ、そばぁ!」
ゴォォォォゥゥゥンン・・・・・。
かれんはおとなしく下りてきて、台所のテーブルに座った。
内心ほっとしながら、3つの丼に熱々のつゆをかける。
ゴォォォォゥゥゥンン・・・・・。
丈は勢いよく割り箸を割り、いただきますとも言わずに食い始めた。
ゴォォォォゥゥゥンン・・・・・。
「ちょっとぉ、なんだよこの沈黙」 丈が文句を言う。 「いいかげんに勘弁してくれよォ」
そう言われても、こんな状態で会話がまずむわけがない。
ゴォォォォゥゥゥンン・・・・・。
鐘と鐘のあいまの長い沈黙に、そばをすする音だけがズルズルと響く。
丈もさすがにあきらめたらしく、あとは食うことに専念していた。
ニシンを食い終わったあたりで、年が明けた。
「おめでとうございます」 誰からともなくモソモソと言ったものの、言葉だけが妙に浮いて、しらけた空気が漂っただけに終わった。 一番先に食べ終わったのは、やっぱり丈だった。


「ごっつぁんでした。 んじゃオレ、出かけてくるから」
「え?」びっくりして僕は顔を上げた。 「どこ行くんだよ、こんな夜中に」
「何言ってんの、初詣に決まってるじゃん。 合格祈願ってことでさ、クラスのやつらと集まることになってんだわ」言いながらスタスタと自分の部屋に向かい、丈は黄色いスキージャケットを取って戻ってきた。

「勝利、ちょっと」 「なに」 「いいから」
促されるままあとについて玄関まで行くと、丈のやつは珍しく真面目な顔で僕に耳打ちをした。
「朝までってのはたぶん無理だろうけど、少なくとも3,4時間は帰ってこないようにするからさ。 そのかわり、ちゃんとケリつけろよな」
「ケリってお前」
「帰ってきたとき勝利が自分のベッドで寝てなくたって、オレなんにも言わないから」
「ばかたれ」
「いや、冗談じゃなくてさ。 べつに勝利や姉貴のためってわけじゃないよ。 これ以上ああいう雰囲気でメシ食わされんの、たまんないからだよ」
「・・・・・」
「カギ、かけときなよね。 オレは自分の持ってるから」
ドアを押し開けて出ていった丈が、外で「寒っびぃー」と悲鳴を上げるのが聞こえる。
ため息をつき、そのまま上がりがまちにへたりこむ。

簡単に言ってくれるよな、と思った。 何を言い出されるかと思うと、台所にさえ戻れないでいるくらいなのに。 あんまり情けなくて涙さえ出てこない。 自分の不甲斐なさを思うとかえって笑えてくるほどだ。
かれんが僕のことを避ける原因が、あの夜の星野とのことを誤解しているせいだとは思えなかった。 かれんが僕を避けているのは、優柔不断で自信の欠片もない僕にあきれているからなんだろう。
それでも、なんとかしてきちんと謝らなくちゃいけないんだと僕は思った。
でないと、僕はこの先一生、自分自身を許せない。
でも、何から切り出せばいいのだろう? 一言目の言葉を考えるだけで胃がきりきり痛くなる。

ふにゃ、と崩れそうな膝にどうにか力を入れ、立ち上がって台所へ戻る。
テーブルはきちんと片付いていて、かれんはいなかった。
また2階か? と思ったけれど、そうではなかった。
彼女はリビングのソファに座り、さっきの僕と同じようにぼんやりとテレビを眺めていた。
違うのは、画面に何も映っていないことだけだ。 ソファの後ろに立って、恐る恐る声をかける。
「かれん」 3日ぶりに呼ぶその声が、たまらなく懐かしく思える。 「かれん、俺さ・・・・・」

「俺、怖かったんだ。 中沢氏に限らず、いつか誰かがお前のこと奪っていくかもしれないって考えたら、怖くてたまらなかったんだ」
かれんは、向こうを向いたまま何も言わない。
「お前みたいな女が、俺なんかで満足してるのが信じられなくて、どんな言葉でもいいから、確かに信じられるものが欲しくなって・・・・・でもお前の言葉だけじゃ安心できなくて・・・・・だって、いまはそうでも人の気持ちって変わるかもしれないだろう? それであんなふうにいらいらしてばっかりいたんだ」
かれんは黙ったままだ。
「バカだよね、ほんとに。 先のことばっか考えて、今を大事にするのを忘れちまうなんてさ。 ほんとだったら、お前の描いたあの絵を見た時点で、すぐにわからなくちゃいけなかったんだよな。 俺たちはあの場所から始まったんだってこと。 『未来』ってのは、今のその上に成り立つものなんだってこと」
かれんはやっぱり黙っている。
「ごめんな」と、僕は一生懸命に言った。 「イヤな思いばっかさせて、悪かったと思ってる。ほんとに、ごめん。でも俺・・・・・どうしてもお前でなくちゃ駄目なんだって、星野にはちゃんと言ったから。 悪いけどあきらめてくれって。 そりゃ、お前がもう俺なんかじゃいやだって言うなら、どうしようもないけど・・・・・」
ずいぶん長い沈黙が流れた。 かすかに鐘の音が聞こえてくる。

と、いきなりかれんがズズーッと洟をすすり上げた。
驚いた僕が前へまわりこむと、彼女はいつのまにか顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「ど、どうしたんだよ。 なんでお前が泣くんだよ」
「・・・・・っと、がま・・・・・」 「え?」
「ずっと、」かれんはヒクッヒクッと泣きじゃくり、「ずうっと我慢してたの」
鼻の詰まりきった声で言うと、両手の握りこぶしで顔を覆って、ううーっと自分の膝につっぷした。
「ショ・・・・・りに、嫌われたかと思っ・・・・・て・・・・・」 肩が激しく震える。
「私、嘘なんかついちゃっ、たし、『しっかりして』だなん、てあん・・・・・あんなひどいこと言った、から、きっと怒っ・・・・・てるって・・・・・もうこれか、ら先、何を言っても信じてなん、かもらえ、ないんじゃないかと思って・・・・・だから、怖くて逃げてたの・・・・・ショーリに何か、言われ・・・・・そうになるた、びに私のほう・・・・・こそ、怖くて」
彼女はまた泣きじゃくり、すすりあげ、また泣きじゃくった。
僕は弱りきって、おそるおそるその肩に触れた。 「泣ぁくなよォ・・・・・。なあ」

隣に腰をおろし、そうしていいのだろうかと少しためらったものの、結局、そっと腕をまわして抱きかかえる。 とたんに、かれんは迷子みたいに本格的に泣き出しながら、僕の首っ玉にしがみついてきた。
どれは、もう1年半以上も前、彼女が春の海辺でマスターへの恋を思い切るために泣いたあのときにそっくりだった。 でも、僕はあのとき必死でこらえたことを、今夜は我慢しきれなかった。


彼女の背中をきつく抱きしめ、もっともっと強く引き寄せる。
長い髪をかきあげてうなじをあらわにし、そこに唇を押し当てる。 何度も、何度もキスをする。


「や、だ・・・・・」
キスがいやなのかと思ったら、そうじゃなかった。
「ショー、リでなくちゃ、やだ。 ほかのひと、じゃやだ。 どこへも、行っちゃ、やだ」
「バカだな、行かないよ。 行くわけないだろ。 なんだよ、3日もどっか行ってたのお前のほうじゃないかよ」
「だって、一緒にい、たら、ぜったいけんかしちゃ、うと思ったんだもの」 「・・・・・星野のことでか?」
こくんとうなずく。
「悲し、かった、の。 それと、めちゃくちゃ、やきもち焼い、てる自分がやだったの」
「・・・・・ごめん。 もう、そんな思いさせないから」
「ショーリ」 「うん?」 「・・・・・」 「どうした」

すると、かれんは静かに腕をほどいて、鼻の先が触れ合うくらいの距離から僕の目をのぞきこんできた。 そして、スッとまつげを伏せ・・・・・。
一瞬僕は何が起こったのかわからなかった。 体が金縛りにあったように動かない。
触れている唇だけが、熱く痺れている。
目を見開いて硬直している僕から、やがてかの除はそっと顔を離した。
・・・・・かれん。
そう呼ぼうとしたのに、声にならなかった。
そのかわり僕は、彼女をぐいっと引き寄せて、へし折れるくらいに抱きしめた。
たったいま離れていったばかりの彼女の唇がもっと欲しくて、もう一度自分のそれを重ねる。
彼女のほうからキスをしてくれたことは、今までにも一度だけあった。
でも、そのときは額だったのだ。 しかも僕は寝たふりなんかしていた。


強く、もっと強くかれんを抱きしめる。 こんなひどい思いばかりさせた僕を許してくれようとする彼女が・・・・・それどころか、自分のほうが嫌われたかもしれないなんてばかなことを考えていた彼女が、愛おしくて愛おしくてたまらなかった。 もう一度こうして彼女に触れることができるなんて、夢なんじゃないかと思った。
息が切れるほどキスを繰り返したあとで、ようやく唇を離す。
かれんの唇は、僕のキスのせいで、ぷっくりと赤く染まっていた。
泣いたせいでまぶたが腫れて、いつもよりちょっとブサイクなその顔までがこんなにいとおしい。

急にソファから立ち上がった僕を、かれんはきょとんと見上げた。
「ちょっと、待ってて」 急いでリビングを出て自分の部屋に行き、僕は電気もつけずに机の引き出しからあの指輪の小箱を取り出した。 体中の力がほーっと抜けていく。
もう、二度とこんな思いはいやだと思った。 かれんにこういう思いをさせるのも、もう絶対にいやだ。
これから先、誰か別の男が現れるたびに、いちいち苛立って彼女を傷つけたりするわけにはいかないのだ。
それには、僕がもっと強くなるしかない。 強くなって、自分に自信を持つしかない。
そうしなければ何一つ変わらないし、守ることもできないし、かれんさえいつか失ってしまう。弱音なんか吐いている場合じゃない。 1日も早くかれんにぴったりの男になれるように、僕自身が頑張るしかないのだ。

小箱を手に、部屋を出ようとした・・・・・そのときだった。
ふと気配を感じて、僕は暗い窓に目をやった。


―――雪?


窓に飛びつき、がらりと開け放つ。
やっぱりそうだ。 舞い落ちてくるのは、大きなぼたん雪だった。

あたりの屋根や地面をすっぽりと覆い隠して、雪はいつのまにか随分たくさん積もっていた。
いつもは雑然としているはずの風景が白一色に統一されて、別の国かと思うほど美しく見える。
東京の雪景色も、そう捨てたもんじゃない。
すべての音を包み込んで降るせいで、あたりはどこまでも静かだった。

言葉より、約束より、お互いの間にゆっくりと積もるそんな時間の重なりを、信じていけばいいのだと思った。
銀色のリボンのかかった小箱を、そっと握り締める。
そうして僕は、この雪をかれんに教えてやるために、大きく息を吸い込んだ。





おいしいコーヒーの入れ方シリーズ第4弾でした。

やっぱり勝利、いい子だわ。 私の理想かも(笑)
今回のストーリーを一言で言い表すと”嫉妬”でしょうか。
好きだからこそ、気になってしまう、うるさく言ってしまうっていうこと、ありますよね。

しかしかれんさん、いまどき24歳?にもなってこんな子いるんでしょうか。
女子には好かれないタイプのキャラクターかなあ(^_^;)
そんなことを思いながら読んでました。
何をしたってわけでもないけど、中沢氏は好きになれません(笑)