「雪の降る音」 村山由佳


GOOD FOR YOU


11月最初の日曜日だった。
僕はいつもより少し早めに起きて洗濯を済ませ、庭に干し、朝飯のしたくもあらかた整えておいてから、まずは丈を起こしにいった。

バタンとドアを開け、「起床ッ!」
ベッド脇のカーテンもさっと開け、窓をいっぱいに開け放つ。
やつはTシャツをパンツ一丁で寝ていた。
「おい、起きろ」 ぐいぐいケツを蹴ってやる。
「う・・・・・今日・・・・・は走・・・・・んない」
「なに寝ぼけてんだよ。 お前も文化祭行くんだろ、京子ちゃんと」

今日は光が丘西高の文化祭2日目なのだ。 一般公開日だから父兄も来る。
3月に卒業したばかりの僕はもちろん、来年入学することになるかもしれない丈や京子ちゃんも、かれんを冷やかしがてら一緒に遊びに行くことになっていた。

「・・・・・いま・・・・・何時?」
かすかに丈がうめいた。 ナメクジが喋ったら、多分こんな感じだろう。
「7時半」 「・・・・・まだ朝じゃぁん」
「”もう”朝なんだよ」 あきれて僕は言った。 「お前ゆうべ自分で頼んだんだぞ、無理矢理にでもいつもと同じに起こしてくれって。 デートの前にシャワー浴びんじゃなかったのかよ、え?」
「・・・・・」 「丈!」
「うー・・・・・あと5分」 「お前の5分は1時間だろうが」
「・・・・・3分」 「往生際の悪いやつだな」 「1分」

僕は丈の毛ずねを片方つかんでズルズル引き寄せ、
股ぐらに足の裏をあてがって電気アンマをくらわせてやった。
「あッあッやめてッ、気持ちいいぃぃ!」
叫びながら丈はさすがに笑い出し、ばたばたもがいて僕の手と足を振り払うと、
ようやくベッドの上に起き上がった。
「さっさと立つ! 立っちまえばあきらめがつくんだから」
「ったく・・・・・やだもうオレ、こんな家」 「やなら出てっていいんだぞ」
「なんで下宿人の勝利が言うんだよう」
「ばーか。 家の中で一番偉いのは、メシを作るやつと決まってんだよ」

廊下に出たところでふと気配を感じて、階段の上を見上げた。
ちょうど2階から、パジャマ姿のかれんが下りてくるところだった。
細かいワッフル織りの白いパジャマは、かれんの一番のお気に入りだ。
僕は今すぐにでも階段をかけ上がって抱きしめたくなるのをぐっとこらえた。


9月の半ば過ぎにようやく佐恵子おばさんがイギリスに帰ってくれたおかげで、僕らはほぼ2ヶ月ぶりにもとの3人暮らしに戻れた。 あの日の嬉しさはちょっと忘れられない。
かれんと丈はそれぞれ学校だったので僕が空港まで見送りに行ったのだが、帰りの電車の中ではやたらと顔がにやけ、気を抜くとスキップまでしそうになって困った。
少なくともこれからまたしばらくは、かれんとの仲をおばさんに勘づかれまいと神経をすり減らさなくても済むわけだ。 もちろん同じ家に丈もいる以上、むやみにイチャイチャする気にはなれないが、それでも佐恵子おばさんがいるのといないのとでは、気分的にえらい違いだった。


カメみたいにゆっくり階段を下りてくる途中で僕に気がついて、「あ、ショーリ。おはよ」
ふああ・・・・・とかれんがあくびをした。
福岡の親父の部屋で話したことを守るつもりなのか、彼女は最近誰にも起こされなくてもなんとか自分で起きてくる。 その代わり、目覚まし時計を3つもセットしてるのよ、と恥ずかしそうに僕に白状した。

「なんか、いい匂いがするー」 「コーンスープだよ。 粒コーンと溶き卵入りのやつ」
「うわぁ。 私あれ大好きー」 知ってるさ、だから作ったに決まってるじゃないか。 
・・・・・そう言いたかったが照れくさいのでやめておく。
「早く顔洗ってこいよ。遅刻するぞ」 「はぁい」
「トイレのあとはちゃんと手ぇ洗えよ」 「もぉー。またそうやって子供扱いするー」
ぷうっとふくれながら残りの段を下り、かれんは僕の前を通り過ぎて洗面所に消えた。
シャンプーの残り香がかすかに漂って、僕はますます幸せな気分になった。

トマトときゅうりとレタスを冷蔵庫から出して器に盛り、『風見鶏』で習った特性ドレッシングを作って少しずつまわしかける。 食器棚からカップを3つとコーンスープ用の深めの皿を出し、それぞれに半分ほど熱湯を注いで温めておく。 パンをトースターに入れ、スイッチをONにする。

丈が入ってきて、どかっと椅子に座った。 
洗面所で濡らしてきたらしく、髪の寝ぐせはいつもほどひどくない。
「かれんはなにやってんだ?」 
「まだ洗面所にいたぜ」と丈は言った。 「なんか、やけにていねいに手ェ洗ってる」
僕がプッとふきだしたところに、当のかれんが戻ってきた。 まずは冷蔵庫を開けていつものように牛乳を一杯飲み、それから彼女はふにゃふにゃと自分の席に座った。

「ねえねえ、ショーリ」 コーヒーを熱そうにすすりながら、かれんが言った。
「もしかして、トースターの調子悪かったりしない?」
「いや、べつに普通だけど」 こんがりきれいに焼けたパンを皿にのせて差し出しながら僕は言った。
「ちょっとでも調子悪くなったらすぐ教えてね」 「いいけど、なんで」
えへへ・・・・・とかれんは笑った。
「学校のそばのお店で、すっごくかわいいトースター見つけたの。 パンを焼くとね、真ん中に大きなパンダの顔の焦げ跡がつくのよ」
「何それ」と丈が言った。 「味は変わんないんだろ?」
「味の問題じゃないのよ」 「パンはパンじゃん。 食っちまえばおんなじじゃん」
「だからそういう問題じゃないんだってば。 だって、パンにパンダよ? 私、見つけた時に感動したのに」
「コードモぉ」 「ええ?ふつうは感動しない?」
「しねえよ」 「そうかなあ。 スヌーピーとかもあるのにー」

「わかったわかった」と僕はなだめた。 「今のやつが調子悪くなったら教えてやるって。 まあ、この先2,3年は壊れそうにないけどな」
「そうかあ・・・・・」かれんは残念そうに僕からコーンスープを受け取って、ふうふうさました。
「ん。 おいしい」 にっこりと僕を見る。 
それだけで、早起きがむくわれたと思ってしまうあたり、つくづく惚れてるよなあと思う。


「そんなにパンダのトースターが欲しいならさあ」といきなり丈が言った。
「早いとこ勝利と二人で暮らしちゃえばいいんだよ」

ブッとふいたのは、二人同時だった。 
かれんはスープにごほごほとむせ、僕はこぼしてしまったコーヒーを慌てて拭く。
「お・・・・・お前、何言い出すんだバカ」
「だってそうじゃん」丈はけろっと言ってのけた。
誰もがみんな丈ぐらい物事をシンプルに考えてくれたなら、どんなに楽だろうと思う。
この家を出てどこかに部屋を借り、かれんと二人で暮らす―――その程度のことなら今までに3000回は考えた。 そして同じ数だけあきらめた。 ともすれば幸せな空想にふけりそうになる自分を、ねじふせるようにして無理やりあきらめさせた。 花村の両親に僕らのことや何もかもを打ち明けるのは、彼女の心の準備が整ってからでなくてはいけない。


コーヒーをカップに注いでいると、かれんはまたあくびをした。
「ゆうべ、よく眠れなかったのか?」
「そういうわけでもないけど。朝方、寝言で大声出して目がさめちゃって」
「いやな夢でも見たとか?」 「うーん、あんまりよく覚えてないの。 なんて叫んだかは覚えてるんだけど」
「なんて言ったのさ」と、トーストを頬張りながら丈。
「うん・・・・・」かれんは眉の間にしわを寄せた。 「『なによ嘘つき!』って」
僕は笑ってしまった。 「なんだそりゃ?」
「・・・・・」 かれんが、黙って僕の顔を見た。



母校を訪れるのはたったの7ヶ月ぶりだというのに、ひどく懐かしかった。

どこもかしこも微妙に変わってしまったような気がした。 
変わってしまったのはきっと、僕のほうなんだろう。

同じ陸上部だった狩野達也や矢崎武志も来ていた。
たぶん来るだろうと予想はしていたから、ばったり会ったこと自体には驚かなかったが、
狩野のやつが小島夕子と一緒に来ていたのには正直驚いた。
あのころ小島夕子が矢崎武志のほうにぞっこん惚れてたのは周知の事実だったのに、
いったい何がどうなってこういう組み合わせになったんだろう?


小島夕子は去年の暮れ、学校から帰る途中で交通事故にあった。
横断歩道を渡ろうとしたところを、宅配便のトラックにはねられて数十m引きずられたのだ。
2週間もの間意識不明のまま生死の境をさまよったことを考えれば、命を取り止めたのはもちろん、こうしてまた普通に出歩けるようになったことに至っては奇跡とさえ言えるだろう。
ただ、よく気をつけて見ると左足を軽く引きずっているのがわかったし、前髪が風に吹かれた拍子におでこに残る傷跡がちらりと見えたりした。 それでも彼女はとても元気そうに見えた。


「一年遅れの受験生なの」 そう言いながら見せた笑顔は確かに、マドンナとかミス光が丘西なんて呼ばれていただけのことはあった。
それにしても、と僕は思った。 男女の仲なんてのは、こんな具合にどうとでも転がってしまうものなんだろうか。 こいつら3人の間で起こりえたことなら、同じことが僕とかれんと、そして別の誰かの間でも起こらないとどうして言えるのだろう・・・・・?
クラスの女子たちと再会してキャアキャアはしゃいでいる小島夕子を模擬店の甘味処に残し、男3人は連れ立って陸上部の部室へ出かけた。 午後に招待試合を控えた後輩たちに活を入れてやるためだ。

そのあと、小腹がすいたので中庭の模擬店で焼きそばとお好み焼きを食った。 僕がテーブルの下で向かいに座っていた矢崎の足を蹴ったのは、狩野が一人だけトイレへ立った間のことだった。
矢崎はコーラの氷を噛み砕きながら、「う?」と目を上げた。
「ひとつ、訊いてもいいか?」 「ダメだっつったら?」 そう言いながらも目が笑っている。
「お前ら、どうなってるわけ」 「どうなってるって?」
「小島夕子、狩野のやつと付き合ってるんだろ」 「だから?」
「そこにお前が加わって、なんで3人とも平然としてられるんだ?」
「ああ・・・・・そのことね」 矢崎はまた面白がるような目で僕を眺め、それからフッと笑った。
「実を言うとそれ、俺もけっこう不思議なんだわ」

続きがあるのかと思って待ってみたが、やつはそれきり口をつぐんでしまった。
と、向こうの通用口から小島夕子が出てくるのが見えた。 続いて狩野も。 校内用のスリッパから靴に履き替えるとき、小島夕子はわずかによろけて狩野の腕につかまったけれど、狩野は自分からは手を出そうとしなかった。 履き終わった小島が、そんな狩野を見上げてニコリとする。

「たぶんさ・・・・・」 

と、ふいに矢崎が言った。 見るとやつも狩野たちのほうを眺めていた。
「たぶん、俺らの誰も、気持ちの行き場を失わないで済んだからじゃないかな」
向こうの模擬店で、狩野と小島はまた何か食物を買っている。
<大人の”おもちや”>なんてふざけた看板が出ているから、キナコ餅か磯辺巻きあたりだろう。

「気持ちの行き場って、そりゃ、あの二人に関してはわかるけどさ。 お前はどうなんだよ。 お前もそういう相手を見つけられたってことか?」
「・・・・・俺の場合はなんつーか、ちょっと特殊だからなあ」 よくわからないことを言いながら、矢崎は再び僕の方を見た。 「それにしても、和泉がそういうこと色々訊くのって珍しかないか?」
「そうかな」
「そうだよ。 お前って、クラスの連中が猥談始めても、俺は関係ありませんって顔で澄ましてるやつだったもん」
「ずいぶんだな。 今のはべつに猥談なんかのノリで訊いたんじゃないぜ」
「わかってるさ」と矢崎は笑った。 「だけど和泉って、前は他人のプライバシーなんかに興味持ったり、人に何かを相談したりするタイプじゃなかったじゃんか。 ほらあの頃お前、何かっていうとクラスの連中から相談持ちかけられてたろ? あれ、なんでだったか考えたことあるか?」
どこかで聞いたような話題だなと思いながら、僕はとりあえず首を横にふった。

「みんなもなんとなくわかってたからだよ。 お前が、必要以上に踏み込んでこないやつだってことをさ。 だから相談しやすかったんだ」
「・・・・・なるほどね」
そうか。 思い出した。 1年半以上も前、まだ僕が花村家で暮らすのを迷っていた頃、
『風見鶏』のマスターがほとんどおなじことを指摘したのだ。
(お前はもう少し、人に甘えることを覚えたほうがいい)
確かあのとき、マスターはそんなふうに言った。
(はたから見ててもわかるが、お前は何かと人から頼られるタイプだろ。 誰もがお前には悩みを打ち明けやすい。 親身になって聞いてくれて、後々余計な干渉はせず、しかも口が堅いとくれば、こんな理想的な相談相手はいないわな。 もちろん、それもお前のいいところのひとつだし、俺だってお前のそんなとこを気に入ってる。 だが、お前自身はどうだ? 誰にも・・・・・たぶん親父さんにさえ、本気で甘えたことがない。 違うか?)

「ま、けっこうなことじゃないかよ」と矢崎は言った。 「他人の事情にばっか興味を持つのもあれだけど、まったく興味を持たないってのも何か冷たいっていうか、さめてるっていうかさ。 少なくとも俺は、誰とでもきっちり同じ距離を置いてたお前よりか、今のお前のほうが付き合いやすいよ」
「・・・・・そりゃどうも」
もし矢崎が言うように僕が変わったのだとしたら、それはどう考えても、かれんや丈と一緒に暮らすようになったおかげだろう。
「俺のことはともかくさ」と、矢崎は言った。「お前こそ、ないのかよ、そういう色っぽい話はさ」
「ない」 ウソつけ、と、やつは笑った。



僕はあとでまた落ち合う約束をして、一旦別れた。
午後の陸上部の招待試合は、同じく中学で陸上をやっている丈を拾ってから一緒に見に行くことになっていたのだ。
丈と京子ちゃんは時間通りに、校舎の3階の端にある美術室前で待っていた。
丈のほうは胸に死神のイラストのついた黒いトレーナー(あいかわらず悪趣味だ)、
京子ちゃんはモコモコした毛糸の白いセーターを着ている。
「あ、来た来た」 京子ちゃんは手を振った。 笑うと、気の強そうな目尻がきゅっと上がる。

どうして美術室の前なんかで待ち合わせをしたかと言えば、わけがある。
美術部の顧問はもちろん、美術教師であるかれんなのだが、今回は部員たちの作品ばかりでなく、
彼女自身が描いた絵や自分で焼いた陶器なども一緒に展示されているのだ。
かれんによればそれは部員たちからの提案だそうで、抵抗するだけのうまい理由も見つからないままほとんど強引に押し切られてしまったのだという話だった。
僕が卒業してしまったあとも、かれんは相変わらず生徒たちから慕われているんだなと思うと安心もしたけど、同時に少し寂しくもなった。 僕らの学年と過ごした1年間だけが、いつまでも彼女にとって特別なものだったらいいのにと思った。 少なくとも僕にとってはそうだからだ。

「中、もう見たか?」 僕が訊くと、丈と京子ちゃんはそろって首を横にふった。
「勝利より先に見ちゃ悪いかなと思って」 ニヤニヤしながら言った丈の後頭部を、
「お前はいちいち、」僕はパカンと平手ではたいた。 「一言多いんだよ」
と、中からひょいっとかれんの顔がのぞいた。

「わあ。 やっぱり来てくれたんだ、ショー・・・・・」

慌てた僕が(ばかっ)と口だけ動かすと、彼女はハッと気づいて「リ」の字を飲み込み、
「・・・・・と、京子ちゃん」そう苦し紛れに付け足した。
かれんと僕がいとこ同士だとか一緒に住んでるとかいった事情は、僕の在学中ずっとひた隠しにしてきたわけで、今になってわざわざ生徒たちの前でばらす必要もない。 なのに、
「姉貴、姉貴」 丈は自分の鼻をしきりに指さして、言わずもがなのことを言った。
「オレは、ショーじゃなくてジョー。 ・・・・・あ痛ってぇッ」
遠慮なくもう一発お見舞いしてやった。

と、ふいに京子ちゃんがプーッと吹き出しながら僕の袖をひっぱった。
「ねえねえ勝利くん、あれ見て。 おっかしい!」
指差す先を見ると、隣のESS(英語研究会)の教室につながる壁には、ばかでかい紙に描かれたウルトラマンが貼り付いていた。 口のそばには「シュワッチ!」というフキダシも貼ってある。 おなじみの姿で飛ぶウルトラマンは、ものすごくリアルで、平面なのに立体的だった。 さすがは美術部だ。 おまけによくよく見ると、ウルトラマンの胸で光っているピコンピコンのランプは、なんと壁から飛び出た火災報知器の赤ランプを利用してあるのだった。

「いいんですか、”花村先生”」と僕は言った。 「非常ボタン、ウルトラマンの頭で隠れちゃってますけど」
「大きな声で言わないのっ」かれんは僕をにらんだ。 「あと半日だけ見つからなきゃいいんだから」
「教師のセリフとは思えねえな」と丈が言い、僕は思わず笑ってしまった。
これだけ目立っててまだ見つかってないことのほうが奇跡なのだが、まあ、いずれにしてもあと半日だ。 幸運を祈るしかない。
「さ、”和泉くん”」とかれんは言った。 「丈も京子ちゃんも、入ってゆっくり見てって。力作揃いよ」

そうはいっても、やっぱり一番気になるのはかれんの絵だった。 というか、正直言って見たいのはかれんの絵だけだった。 いったいなんの絵を描いたんだろう。 夏休み明けから2階の部屋でしきりに描いていたのは知っていたが、彼女は恥ずかしいからといって一度も見せてくれなかったのだ。
「もしかしてさ」 後ろから丈がヒソヒソ囁く。 「うちの誰かさんの肖像画だったりしてさ。 そいでタイトルが、『こ・い・び・と♡』なんてのだったら勝利、どーするどーする?」
「お前、いいからあっち行ってろよ」

ぐるりと美術室の中を眺めわたす。 かれんが授業中に居眠りをした窓辺。 その向こうにひろがる住宅街の連なり。 そんな景色さえ懐かしい。
七宝焼のペンダントやブローチが展示されている中、かれんの作品は小ぶりの絵皿2枚だった。
紺色の地に、片方には月、もう片方には太陽が描かれている。 そのまま売り物になりそうな出来だ。
器用なものだなと僕は思った。 こんな細かい作業ができるくせに、どうして家事となるとタクアンさえまともに刻めないんだろう。 謎だ。
その隣は焼き物のコーナーだった。 ここにも、かれんの作品はちゃんとあった。 不思議な味のある手びねりの器たちだ。 これもみんな、房総から採ってきた土をこめて焼いたんだろうか。
そっと手に取って裏返してみると、糸底の真ん中には小さな四角で囲まれた「花」の字が入っていた。

(そうなんだよな)と、沁みるように僕は思った。
(血が繋がっていようがいまいが、かれんはちゃんと花村家の娘なんじゃないかよな)
どんな気持ちで、彼女はこの一字を選んでここに書き込んだのだろう。
そんなことを思いながら、ふっと視線を上げたその場所に―――その絵はかかっていた。

油絵風のタッチの風景画だった。 真っ青な海と空、緑深い山・・・・・。
ひと目見て、僕にはそれがどこなのかわかった。 名札なんか見なくても、かれんの絵に間違いない。
山の頂上に建つ巨大な彫刻。 大海原に向かって両腕を広げ、風に衣をはためかせる石の女神。
それはかれんの本当のおばあちゃんが暮らす房総半島鴨川の、展望台のてっぺんに立っている女神像だった。
見忘れるわけがない。 僕とかれんは、この女神さまの足元で初めてキスをしたのだから。
絵の下の札に目をうつす。 花村かれんの名前の横に、タイトルが書かれている。
―――『未来』。

この世界の未来という意味だろうか。 それとも、僕らの未来を思ってこの絵を描いたのだろうか。
どちらでもいい。 その2つは相反さない。
僕は振り返り、かれんを目でさがそうとして、びっくりした。

教室には誰もいなかった。 もともと人は少なかったけれど、さっきまでいた父兄や生徒の姿もなく、丈と京子ちゃんさえどこにも見えない。 先に出ていったのだろうか? 僕に何も言わずに?
不思議に思って戸口のほうに近づいていった僕の耳に、聞き覚えのあるキンキン声が飛び込んできた。
教頭先生だ。

戸口から首を突き出してみると、丈たちはそこにいた。
「何やってんの」 声をかけた僕を振り返り、丈が口をへの字にして肩をすくめる。
僕は目を上げた。 美術室前の廊下にいるのは、僕らのほかに部員らしい生徒が2,3人と、
その横にかれん、向かい側に教頭。
その教頭が、相も変わらずネチネチとかれんに説教をたれているのだった。

「なにを考えとるんだか。 生徒たちがこういうばかな真似をしたがったときに、注意して止めてこそ教師というもんでしょうが。 それをあなた、一緒になってお絵かきしとったんじゃ、まるで漫画じゃないですか。 ええ?」
僕が眉を寄せて隣を見ると、丈は囁いた。 「あのウルトラマン、姉貴も一緒に色塗ったんだってよ」
かれんが、弱りきった顔でぺこんと頭を下げる。 「・・・・・すみません」
「しっかりして下さいよ、花村先生」 教頭はしつこかった。「まったくあなたには困ったもんだねえ。 いつまでたっても学生気分が抜けきらなくて」

僕は思わずこぶしを握り締めた。 そんな言い方はないだろうと思った。
教頭の言ってる理屈がすべて間違いだとは言わないけれど、何も生徒たちの前でチクチク嫌味を言わなくたっていいじゃないか。 どうしても注意したいなら、どこか隅のほうへでも連れてって話せばいいのだ。 あれじゃ、かれんの立場がない。
今すぐにでもあそこへ出ていって彼女を背中にかばってやりたかったけれど、もちろんそんなことをするわけにはいかなかった。 それは一人前の社会人としての彼女の面子をかえって潰すことになるだろうし、だいいち僕が出ていくと問題がよけいにこじれてしまう。
教頭から見れば僕なんか、ついこのまえ卒業したばかりの生徒にすぎないのだ。

「とにかく、今すぐ取り外させなさいよ」と教頭は言った。「文化祭と言ったって、遊びじゃないんだから、程度の低いおふざけは困る」
端のほうにいた部員の女の子の顔が、泣きそうな形に歪むのがわかった。
「あの、」 
急にかれんが口を開いたので、みんなの視線がまるでテニスボールを追う観客みたいに動いた。


「お言葉ですけど・・・・・私も生徒も、決してふざけてたわけじゃありません」


教頭は、メガネの奥で片目を細めた。
「まさかこれを芸術作品とでもいう気じゃないでしょうな。 これがおふざけでなくて、なんだというんですか」
「ユーモアです」 とかれんは言った。 もしかして体を宇宙人にでも乗っ取られたんじゃないかと疑いたくなるくらいの、きっぱりとした口調だった。
僕は、ごくりとつばを飲み下した。
「教頭先生のおっしゃるとおり、警報ブザーのボタンを覆うのを許可してしまったのは軽率でした。 それは私の落ち度です。 でも、生徒たちは本当に真剣に取り組んだんです。 確かにみんな・・・・・私も含めてずいぶん面白がって楽しんで描きましたけど、この作品を見た方たちにも、同じくらい楽しんで笑って頂けたと思います」
「笑わせればいいってもんじゃないでしょうが」
「もちろんdねす。 でも、人を不快にさせることなく笑わせるって、とても難しいことでしょう?意表をついたアイディアで人の目を楽しませる―――それって、立派にユーモアじゃありませんか? その意味において、私はこれを単なる生徒たちのおふざけだとは思いませんし、ましてや程度が低いとも思いません。 そこはわかってやって頂けませんか」


廊下が、しんとなった。 みんなが固唾を呑む。 教頭のこめかみが、ぴくぴくひきつる。
そのときだ。
「まあまあ、花村先生。 そう熱くならないで」
はっと見やると、隣のESSの教室から、見覚えのある顔がのぞいていた。
出たな、中沢・・・・・と僕は唇をかんだ。 あいつめ、ESSの顧問だったのか。


中沢博巳。 英語の教師で、『風見鶏』のマスターの大学の後輩で、同時に、丈が時々助っ人に参加する草野球チームのメンバーでもあり、さらには僕の恋仇でもある。 決して悪い人じゃない。
ハンサムだし、背も高いし、センスもいいし、優しくて包容力のある男だってこともわかってる。
だからこそ、僕としては気に入らないのだ。


「それくらいのこと、ほんとは教頭先生だってわかってらっしゃるに決まってるじゃないですか」
戸口の上の桟にぶらさがるような格好で手をかけながら、のんびりと中沢氏は言った。
「それでも立場上注意しないわけにはいかないだけなんだから。 そのへんのことは、それこそ花村先生のほうがわかってさしあげないと。 まあ、生徒たちをかばってやりたい気持ちはわかりますけどね」
「すみません・・・・・つい」 とかれんはまた頭を下げた。 「私ったら、そこまで考えがまわらなくて」

くそ、と僕は思った。 中沢の野郎、相変わらず調子いいことばっかこきやがって。
でも、それすらも僕にはできなかったのだ。 無力感が、漬物石みたいに僕をゆっくりと押しつぶす。
中沢氏はその上からさらにぐいぐい踏んづけるようなことを言った。
「でも教頭先生、この際もうちょっとだけ目をつぶっててやりましょうよ。 せっかくこれだけの大作なんですから」
「いや、しかしねえ」
窮地を救われてホッとしたのを顔に出すまいとするせいか、教頭はますます頬をゆがめた。

中沢氏がちらりと僕を見る。 ツイードのジャケットが憎たらしくなるくらい良く似合っている。
僕は奥歯を噛み締めて見返した。

「どうせあと4時間ばかりで後夜祭ですし。 それまでは、自分と花村先生で気をつけて見ているようにしますから」
教頭は苦笑いした。 「ま、そこまでおっしゃるなら、あとは中沢先生にお任せしますよ」
それは、かれんには任せられないって意味かよと僕は思い、去っていく教頭を後ろから蹴飛ばしたくなった。 まったくどこまでも嫌味なおっさんだ。

部員たちを促して美術室に戻らせてから、かれんは中沢氏に向かって深々と頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
「いやあ、びっくりしましたよ。 花村先生にあんな熱血なとこがあるなんて。 なんかちょっと意外だったなあ」
「いえ、べつにそういうわけじゃなくて、ただ単にその・・・・・」 かれんはいたずらっぽく微笑むと、小さい声で言った。 「天敵なんです」
中沢氏はげらげら笑いながら、ふと丈たちに目を移した。 「あれ、きみらも来てたのか」
「この世渡り上手ー」と丈が冷やかす。
「ばかだな、それが大人の才覚ってもんさ。 なあ勝利くん」
取って付けた物言いに、なんだか無視されるより腹が立った。

ESSの教室に中沢氏が引っ込んでしまったあと、僕らはなんとなくまた美術室に戻ったけれど、
窓からふんだんに差し込む日の光のまぶしさにもかかわらず、気分はまったく晴れなかった。
目の前をスッとかれんが横切ろうとしたとき、
「なあ」 僕はたまらずに声をかけた。
ん? と、無邪気に彼女が振り向く。 教頭に絞られたことなんか気にもしていないようだ。
授業中に居眠りしたときもそうだったが、こいつは見かけによらず打たれ強い。

「・・・・・なんでもない」
「なあに?」
「いや・・・・・」僕は急いで言葉をさがし、まわりに聞こえないように小声で言った。
「お前、絵がうまいんだな。 初めて知った」
かれんはくすくすと笑った。 「絵の下手な美術教師なんているのかしら」
「そりゃそうだろうけどさ」
生徒に呼ばれて「はぁい」と行ってしまう彼女の背中から目をそらし、僕は壁にかけられたあの絵を見やった。


―――未来。


かれんの瞳にはいったい、どんな未来が見えているんだろう。
そのとき彼女の隣にいるのは、本当にこの僕なんだろうか。
両肩をつかんで、聞きただしたかった。




続く