おいしいコーヒーのいれ方シリーズ4ですコーヒー

「雪の降る音」 村山由佳


<前巻までのあらすじ>
高校3年生になろうという春休み、父親の九州転勤と、叔母夫妻のロンドン転勤のために、
勝利はいとこのかれん・丈(じょう)姉弟と共同生活をさせられるはめにおちいった。
しぶしぶ花村家へ引っ越した勝利を驚かせたのは、かれんの美しい変貌ぶりだった。
5歳年上の彼女を、一人の女性として意識し始める勝利。
やがて、かれんが花村家の養女で、彼女が慕っていた『風見鶏』のマスターの実の妹だという事実を知った彼は、かれんへの愛をいよいよ強める。 一方、胸の内につらい秘密を抱えていたかれんも、自分を見守ってくれている勝利に、次第に心を開くのだった。
こうして始まったふたりの恋だが、ファーストキス以降、なかなか大きくは進展しない。
大学1年の夏休み、勝利の母校で美術教師を務めるかれんと二人で、千葉の鴨川まで旅行する。
二人だけでペンションに泊まったが、最後の一線を越えることなく、かえってふたりの愛の絆が強まることとなった・・・・・。




WE'VE ONLY JUST BEGUN


コンコン、というノックの音に、ベッドに横になっていた僕はむっくり上半身を起こした。
「・・・・・どうぞ」
ドアが開いて、かれんの白い小さな顔がのぞいた。 僕と目が合ったとたん、にっこりする。
「ショーリってば、ご飯よー」 相変わらずのおっとりしたアルトで、彼女は言った。
「母さんが呼んだの、聞こえなかった?」 「あ、ごめん、わかんなかった」

ほんとうは、佐恵子おばさんの呼ぶ声ははっきり聞こえていた。
なのに聞こえないふりをして部屋で待っていたのは、そうしていればきっと、かれんが呼びに来てくれると踏んだからだ。 思ったとおりだった。
「かれん」 「ん?」 「・・・・・」 いつものように黙って手招きする。
けれど彼女は、ポッと頬を染めて上目遣いに僕を見ると、口の形だけで(だーめっ)と言って、
またキッチンのほうへ戻っていってしまった。 スリッパの音が、ぱたぱたぱた・・・・・と遠ざかる。

「・・・・・ちぇ」 取り残された僕は、しぶしぶ立ち上がった。
家にいる以上、こんなときしか二人きりになれるチャンスがないってのに、おまけに今夜は親父から”あんな電話”があったせいか妙に人恋しい気分だってのに、なんで(だーめっ)なんだよ、と思ってみる。 いいじゃないか、たまのキスくらい。 減るもんじゃないし。

しかたなく部屋を出てキッチンへ行き、晩飯のテーブルに着こうとすると、かれんの弟の丈は、
ほかの家族が座るのなんか待たずにさっさと自分だけ食べ始めていた。
ものの1分が待ちきれない空腹感は僕にも覚えがある。 中3の頃は僕だって一日に飯を五回食っても足りないくらいだった。

後ろでコトン、コトン、となんだか不器用な包丁の音が聞こえる。
(おばさん、よそ見でもしながら刻んでるのかな)
そう思いながら振り返ると、驚いたことにまな板に向かって漬物と格闘しているのは、かれんだった。
長い髪をひとつに束ねた後ろ姿の一生懸命さといったら、まるで手術中の外科医みたいだ。
刻んでいるのはタクアンらしいが、今にも指まで刻んじまうんじゃないかと心配で、すぐにでも代わってやりたくなる。 だいいち、僕がやったほうが百倍は早い。
でも口と手を出す前になんとか思いとどまった。
かれんに台所のことをさせているのは佐恵子おばさんなのだから、そういうお節介は余計なお世話でしかない。 おばさんとしてはなんとかして娘にひととおりの家事を教え込みたいに違いないのだ。
―――いつか嫁にやる日のために。

べつに家事なんかうまくできなくたって、俺なら気にしないんだけどな、と思ったが、そんなことが口に出せるはずもなかった。 何しろかれんは24歳の社会人、こっちはまだ19歳の学生にすぎないのだから。

と、ふいに丈が、「なあ勝利(かつとし)。 週末、九州の親父さんのとこへ行ってくるって?」

「あ、うん」 「なんでまた急に?」
「その・・・・・さっき電話があったんだ。 これだけ長い休みにいっぺんくらい親の顔を見に来ようって気はないのかって」
本当の事情だなんて、たとえ仲のいい丈にだってまだ言えやしない。
「一人で行くわけ?」と丈。 「そのつもりだけど」
「本当は母さんも一緒に行って、部屋の大掃除でも手伝ってあげたかったんだけどねえ」
事情を知らない佐恵子おばさんは、丈におかわりをよそってやりながら言った。

「案外さあ、掃除なんか必要ないかもよ」と丈が言った。
「おやっさん、ちゃっかり向こうでオンナ作っちゃってたりして」
「これ丈! つまんないこと言うんじゃないの!」
「なんだよ、冗談だってばよー」 「あんたって子はもう・・・・・」
佐恵子おばさんが叱っているそばで、僕はポーカーフェイスを装うのに必死だった。
丈のやつ、いつもながらなんでこう勘が鋭いんだろう。


実を言うと、図星なのだった。
親父は、いい年こいて、さっきの電話でこう宣ったのだ。
オ前ニ弟カ妹ガデキルト言ッタラ、ドンナモノカナア、と。
僕ははじめ、耳を疑った。 何かの間違いだと思い、それから、さては親父のやつウケを狙って冗談を言っているんじゃないかと思った。
でも、結局そのどちらでもなかった。 正真正銘の大真面目で話していた。

そりゃあ僕だって、おふくろが生きていた頃は、兄弟が欲しいと思ったこともあった。
だけどいくらなんでも今になって―――ひとりっこを19年もやってきた今頃になって、
弟だの妹だのといきなり言われても、そう簡単に答えられるわけがないじゃないか。
心の中で舌打ちをする。
息子のいない隙に「ちゃっかり」やることだけはやってたなんて。
心配して損したというか、ばかばかしいというのか、要するに何だかやりきれない気分だった。せめて、もうちょっと前の時点で話してくれたってよかったんじゃないか?というのが偽らざる心境だった。

「でも、ちょうどよかったわ」とおばさんは言った。 「ロンドンから送った荷物も先週ようやく着いたことだし、これからお土産やら何やらをまとめて正利さんとこへ送ろうと思ってた矢先だったの。 勝利、ついでに持って行ってくれるでしょ。 それとも、荷物多いかしら?」
そうでもないよ、と答える前に、丈が言った。

「姉貴が一緒に行ってやりゃあいいじゃん」

「えっ?」とかれん。 僕の方はびっくりして言葉すら出なかった。
「なあ勝利、そう思わねえ?」 飯をかっこみ、茶碗の陰から僕を見て、目だけでニッと笑いながら丈は続けた。 「どうせガッコは休みなんだしさ。 あ、オレはダメだぜ。 一応ほら、受験生だから」
「かれん、あなた週末他に用事ないの?」
「え、私は・・・・・べつに・・・・・ひまだけど」 平静を装いながらも、僕の方を見ないようにしているのがわかる。
「その歳で週末がひまって、なんか寂しいよなあ姉貴」 「うるさいなぁ」
かれんは弟をげんこつでぶつ真似をしたが、丈のやつはニヤリと笑って軽くそれをかわし、ここぞとばかりにダメ押しをしてみせたのだった。

「和泉のおじさん、昔っから姉貴のこと可愛がってたもんな。 久しぶりに顔見せてやったら、きっと、すっげー喜ぶんじゃねえ?」




ごみごみした東京の街を通り抜け、新横浜をすぎてしまうと、車窓の風景はいきなりひらけて、
遠くに青い山並が見え始めた。
外に比べると、車内は寒いくらいに冷房が効いていた。 さすがに飛行機なんて身分ではないので、かれんと僕はいま、新幹線の禁煙車両に並んで座っている。 東京から博多までえんえん6時間の旅だ。 一人ならうんざりしたろうが、彼女と一緒なら屁でもなかった。

「んっくしゅん!」

窓側の席でかれんがくしゃみをした。
「寒いか?」 「ううん、大丈夫」
「うそつけ、鳥肌たってるじゃないか。 なにか上に着るものないのか?」 「あるけど・・・・・」
「何」 「網棚の上なの」
僕は立ち上がり、かれんの旅行バッグをおろしてやった。
「おろして欲しけりゃ早く言えばいいのに。 なんかお前、ここんとこ俺に遠慮してないか?」
ここんとこ、というのは鴨川での一泊旅行から戻ったあとという意味だ。
「別にそんなことないわよ」と彼女は言った。 僕を見て、いつもみたいにニコッと笑う。

鴨川で一晩二人きりになって、ひとつのベッドで抱き合って、でも結局最後まではできないまま、
次にこんな機会がめぐってくるのは一体どれほど先だろうと内心暗い気持ちになっていたのに・・・・・なんという幸運だろう。 今夜泊まるのは親父の住んでる社宅だから、どうせ寝る部屋も別々だろうけれど、それでもこうして二人で遠くまで旅行できるというだけで、ものすごくドキドキした。 なんだか駆け落ちみたいな気分だった。

ちらりとあたりを見回す。

通路を隔てて左側、窓際にいる中年のサラリーマンは、さっきから週刊誌を読んでいて、滅多に顔を上げない。 ここが一番後ろの列だから他に人目はない。
僕はかれんの左袖をクイクイを引っ張った。
「ん? なあに?」 何気なくこっちを見た彼女は、僕の目を見て口をつぐんだ。
僕がもう一度袖を引っ張ると、かれんははにかむような困ったような顔で笑ってクシュッと鼻を鳴らすと、膝の上に置いていた左手をそろりそろりとずらせて僕の間のシートに置いた。
そのまま、外の風景を眺めるふりをしている。

僕の方は、視界の隅にサラリーマンを入れて前を向いたまま、手を右へずらし、シートの上をまさぐって彼女の手を見つけ、上からすっぽり包み込んだ。
いつも思うことだけれど、かれんの手の甲は信じられないほどなめらかだった。 今は少し冷たい。
ゆっくりと指先に力をこめていく。 かれんの華奢な指が、僕の手の甲の中でしなる。
ふと、彼女が身動きをした。 痛かったのかと思って慌てて力をゆるめると、彼女の手がくるりと裏返って、てのひらが上を向いた。 僕と手をつなぐ形になる。
体じゅうを、熱い血が駆け巡った。 もう一度、力をこめていく。 
かれんはおずおずと握り返してくれた。 いつかのひよこ公園の夜みたいに。


「・・・・・丈のおかげだな」
「・・・・・ん」 かれんはこくんとうなずいた。
あいつにはしばらく頭が上がらないな、と僕は思った。
と、いきなり後ろの自動ドアが開き、僕らはパッと手を放した。
「おそれいりますが乗車券・特急券を拝見致しまぁす」
悪いことなんか何もしてないのに、心臓がばくばく暴れている。 隣のかれんも同じらしい。
みると彼女は、今頃慌ててバッグをごそごそやっているところだった。
「ごめんなさい、お財布にしまったんですけど・・・・・」 その財布が見つからないらしい。
「いいですよ、ごゆっくり」 車掌は先に反対側のサラリーマンから切符を受け取り、スタンプを押した。
それでもまだかれんが財布をさがしているので、とうとう前の席の客のほうへ行ってしまった。

かれんがようやく財布をさがしあてた。 中から切符を引っ張り出す。
「ほらね、あったあった」 彼女は嬉しそうに言った。
「どうせ調べに来るってわかってんのに、なんでそんなとこへしまいこむんだよ。 だからさっき、俺がまとめて持っててやるって言ったのに」
「いいの」とかれん。 「自分のことはなるべく自分でしなきゃと思って」
僕はびっくりした。 「なんだよ、急に」
「だって私ったら、前は自分一人でできてたことまで、この頃ではショーリに頼ってばっかりなんだもの」
「いいじゃないか、頼れば。 俺は全然嫌じゃないぜ」

それは嘘だった。 嫌じゃないどころか、頼られれば頼られるほど嬉しいくらいだった。
もっと頼って欲しいくらいだった。 けれど、何を思ったのか、かれんは言った。
「ううん、だめよ」 通路を戻ってきた車掌に切符を渡し、返してもらった彼女は、再び車掌が行ってしまうのを待ってつぶやいた。

「お願い、ショーリ。 私のこと、あんまり甘やかし過ぎないで」

突然らしくないセリフをかれんが言うものだから、僕の頭の中はぐるんぐるん渦を巻いてしまった。
一体どうしていきなりそんなことを言い出したんだろう? かれんが遠慮なくわがままを言える相手はこの僕だけだという自負こそが、僕にとっての勲章だったのに。

「ショーリも福岡初めてでしょ?」 まったく何もなかったみたいに、かれんは言った。
「うん。 親父の引越しのときにも行かなかったもんな。 俺、本州から出たことないんだ。 海の手前の山口までなら行ったことあるんだけど」
「いつ頃?」 「ずっと前さ。 小学生のとき。 うちの隣に住んでた家が、山口の出身でさ」
「あ、覚えてるわ」 かれんは懐かしそうな声をあげた。 「あの、和泉のおばさまのお通夜のとき、手伝いにみえてた人たちでしょ? 小柄で上品な感じの奥さんと、たしか大学生と高校生くらいの娘さんが二人いなかった?」
「お前、よく覚えてんなあ」
「まあね。 記憶力には自信あるの」
「そうだよな。 結構根に持つタイプだもんな」 彼女は僕の脇腹をひじでこづいた。

「んもう」 口をとがらせて、かれんは言った。 「それで?」
「うん? ああ・・・・・それで、あの翌年の夏休みに、つまり俺が3年生のときだけど、隣のおばさんが誘ってくれたんだ。 『花火大会があるから、一緒にうちの田舎へ遊びにおいで』って。 それが新幹線初体験」
「和泉のおじさまも一緒?」 「いや、親父は仕事で抜けられなくて、結局俺一人。 でかい農家だったな。 隣のおばさんの実家だったと思ったけど。 でほら、あの高校生のほうの姉ちゃんが俺のことえらく可愛がってくれてさ。 生まれたばっかりの子犬抱かせてくれたり、プールとか遊園地とか、あっちこっち遊びに連れてってくれたっけ・・・・・どうしてるかなあの姉ちゃん」
「お隣にはもう住んでないの?」
「うん、だいぶ前に一家で山口へ戻った。 俺が中学に上がった年だから、そうか・・・・・もう6年にもなるのか」

ふいにかれんが、
「わかった」 いたずらっぽい目で僕をにらんだ。
「何が?」 「うふふふふふ・・・・・」
「何がわかったんだよ」
「そのお姉さん、ショーリの初恋だったんでしょう」
「ばっ・・・・・」 自分の顔がカッと熱くなるのがわかる。 「ばか言うなよ。そんなんじゃないよ」
「そーお? かれんはくすくす笑った。 「じゃ、そういうことにしといてあげる」
「だから違うって言ってるだろっ」 「はいはい」

新大阪を出たあたりで幕の内弁当を食べ、食後に缶入りのウーロン茶をわけあって飲んで、
それからかれんが提案したのはなんと、しりとりだった。
旅といえばしりとりよ、と言い張るのだ。
「そうねえ、イズミカツトシの『し』でいきましょう。 いい、私からね?・・・・・はい、『シーツのしわのばし』」
「おい」
「早く。 5・4・3・2・・・・・」
「『シイタケのだし』」
「あなたもそうとう意地悪ね。 しーしー・・・・・『新郎新婦のお色直し』」
「人のこと言えんのかよ。・・・・・『白いパンツが裏返し』」
「えっち。 しー・・・・・『シーラカンスの一夜干し』」
「なんだそりゃ。 ・・・・・『しみじみかゆいインキンタムシ』!」
「やめてよー。・・・・・『七福神の立ちばなし』!」
「・・・・・『シースルーのふんどし』!」
「『司馬遼太郎の寝ぐせ直し』!」
「『静御前のオッペケペぶし』!」



しばらくするとかれんは、すやすやとお得意の居眠りを始めた。
僕はといえば何もすることがなかったので、窓の外を見ているようなふりをしながら、その安らかな寝姿を眺めていた。 やがて再び目を覚ました頃には、博多はもうすぐそこだった。
(まいったな)
かれんが一緒だということを親父が知ったのは、ゆうべの電話でだった。
当然、親父は慌てまくった。 まだ心構えができていなかったらしい。
「弱ったなあ・・・・・いやしかし、弱ったなあ・・・・・」
電話の向こうで親父が返すのを聞いているうちに、僕はそれまで親父の水くささに腹を立てていたにも関わらず、つい同情してしまった。
そんなわけで、僕は親父に請け合ってしまったのだった。
「わかったよもう、かれんにだけは俺が前もってうまく話しておくから、そうクヨクヨすんなよ。 おめでたい話なんだしさ」

でも、新幹線がホームにすべりこもうとしているこの期に及んで、僕はまだかれんに何も話せずにいる。
(実は親父に好きな人ができて、その人いま妊娠3ヶ月目なんだ)
ことばにすればこんなにシンプルなことなのに、どうしてこう切り出しにくいのだろう。


「・・・・・リ。 ・・・・・ショーリってば」

ハッと我に返ると、かれんがすわったまま僕のTシャツの裾を引っ張っていた。
「どうしたの?」 べつになんでもないよ、とごまかす代わりに僕は言った。
「『シルベスター・スタローンの恩返し』」
かれんがプッとふきだした。 「やだもう、ずっと考えてたのー?」
列車はホームに入り、ほとんど停車しかけていた。
「ほら、貸せよ。 そのバッグ。 重いだろ? お前はこっちの紙袋のほう持てよ」
「ううん、大丈夫」 かれんはにっこり、でもきっぱりと微笑んだ。 「自分の荷物くらい持てるわ」
「・・・・・ふうん」 僕はスポーツバッグと紙袋を2つ持って、先にホームに下りた。
途端にもあっとした蒸し暑い空気が体を包む。 何時間もじっと座っていたせいで、体のふしぶしが痛い。

(甘やかさないで、か)

ふと、数週間前の初デートのことが頭に浮かんだ。
大学の購買部で分厚いノートをしこたま買い込んで、重いのを全部ちゃっかりヒトに持たせたのは、どこのどいつだよ、と思ってみる。

まったく、女ってのはこれだからワケがわからない。


初めて訪れる博多は、僕が勝手に想像していたのよりもはるかに近代的な大都会だった。
いや、近未来的と言ったほうがあたっているかもしれない。

あっちにもこっちにも真新しいビルが建ち並び、大型のショピングセンターやアミューズメント施設がひしめきあっている。
電話で親父に言われたとおり、駅前からタクシーに乗ると、車はものの5分ほどで目的の場所に着いた。

降り立った僕らの目の前にでんとそびえていたのは、深いブルーのタイル張りのビルだった。
巨大な鏡のような一面のガラス窓に、空や雲やあたりのビルがくっきりと映りこんでいる。
「わぁ、楽しそうなところねえ」 かれんはすかりはしゃいだ様子で、あたりをきょろきょろ見回した。
「あっ、ねえショーリ、待ち合わせの店ってあそこじゃない?」
指さすほうを見ると、確かに20mほど先に、親父が言っていた喫茶店の看板が見えていた。

「行こ」 さっそく歩き出そうとするかれんを、
「待てよ」 僕は思い切って呼び止めた。 人ごみの中で、かれんが振り返る。
「話があるんだ」
「え・・・・・」 かれんは目を丸くした。 「いま?」
「うん。 いま」 
待ち合わせの時間まではまだ5分くらいある。 やっぱり、言わないですますわけにはいかない。
僕の真剣さに気づいたのか、かれんは不思議そうにそばへ戻ってきた。
「なあに?」 「実はさ、」
そのときだった。 かれんの視線がパッとそれて、僕の肩ごしに後ろへ注がれた。
あ、やばい、と僕が思うのと、彼女が「おじさま!」と呼ぶのとは同時だった。

僕はゆっくりとふり向いた。

1年と数ヶ月ぶりに会う親父は、僕と目が合ったとたん、まるでいたずらを見つかった子供みたいな顔で、なんだかすまなそうに笑った。



その晩、僕らは外で食事をし、それから親父のマンションに帰った。
会社からあてがわれた社宅だが、狭いながらも一応2LDKだ。
リビングの壁の下の方には前の住人が残したであろう落書きの跡がうっすら残っていた。
でも、さすがに掃除の必要なかった。 洗濯物もたまっていない。 
親父が自分でするはずはないから、やっぱり相手の人がマメにやってくれてるんだろう。
「二人共そっちに座ってなよ。 コーヒーいれてやるから」僕は言った。

そういえば、<料理をしない男の家にみりんが置いてあったら、女がいる証拠だ>なんて話を聞いたことあるけれど、みりんどころか、キッチンにはスパイス類や自然塩、料理用の赤ワインからフランス製のホーロー鍋にいたるまで、あらゆるものが整然と並んでいた。

やかんを火にかけている間にさっき帰ってきてすぐ入れたクーラーがようやく効いてきた。
温めておいたカップに、最後の一滴までていねいに落としたコーヒーを注いで、リビングのテーブル(実はコタツ)の前に座っている二人のところへ運んでいく。
「お前にコーヒーをいれてもらうのも久しぶりだな」 スーツからポロシャツに着替えた親父が言った。
僕はかれんの隣に腰をおろし、親父にならってあぐらをかいた。
「あのキッチンの様子じゃ、もうほとんど一緒に暮らしてるとみたな」と言ってやると、親父はハハハと苦笑いをしながらコーヒーをすすった。

「あの・・・・・おじさま」 カップを手の中に包み込んで、かれんが言った。「ほんとにごめんなさい」
「ええ?何が?」
「私ったら、こんな事情だなんてちっとも知らなくて、のこのこくっついてきちゃったりして。 ほんとは、ショーリと親子水入らずで話したかったんでしょう?」
「お前があやまることないって」と僕は言った。 「べつに知られて困ることでもないしさ。 それに、俺がちゃんと話とかなかったのがいけないんだから」
「そうとも、謝るのはこっちのほうだよ。 びっくりさせてすまなかったなぁ」


夕方ばったり会ったあと、僕らは予定通り喫茶店に入ったのだが、親父と僕の口からコトの成り行きを聞かされたときのかれんの驚きようと言ったらなかった。
でも、彼女のほうが僕よりずっと柔軟だった。 最初の驚きからさめると、親父のために本当に心から喜んでくれたのだ。


親父はなかなか相手の女性のことを詳しく教えてくれなかった。
何かといえば、会ってみればわかるだの、お前もきっと気に入るはずだのとノラリクラリはぐらかすばかりなのだ。 ようやく聞き出せたのは、せいぜいその人の職業と年齢くらいのものだった。
なんでもその人は親父が打ち合わせや接待なんかでよく利用する一流ホテルで、フロントを務めているのだそうだ。
ってことは、けっこう若くてきれいなんじゃないの? と、何の気なしにからかってみた僕は、親父がおずおずと打ち明けたその人の歳を聞いて、椅子から転げ落ちそうになった。

「29ったら、かれんのたった5つ上じゃないかよ」 「まあ、それを言うな」
「だってさ、ってことはその人と親父、今年生まれた赤ん坊と俺くらい離れてるんだぜ?」
「おれだって気にしとるんだ」
「いったいなんでわざわざ、20も離れた親父なんかに惚れるかな。 もしかしてその人、ファザコンなんじゃねえの?」
「ショーリったら、もう。 言い過ぎよ」 「―――冗談だよ」

・・・・・そうだよな。 お互い、好きになっちまったもんは、しょうがないんだよな。

「わかってるさ」と僕は言った。 「いちいち歳なんか考えて好きになるわけじゃないんだし。 歳が離れてるからってあきらめられるもんでもないし」
親父は黙っていた。 かれんも、黙っていた。
「だけど、向こうの両親、このこと知ってんの?」
「いや。彼女が、とにかくお前に先に話してほしいと言ったもんでな」
「なんで俺に?」 「一番理解してほしいのはお前なんだそうだ」
「・・・・・へえ」 けっこう泣かせるセリフではある。
「親父」 「ああ?」

「・・・・・よかったな」

すると親父はてのひらで顔をごしごしこすって照れ笑いをした。
「まあなあ」
かれんが僕を見下ろして、ホッとしたように微笑んだ。



続く