秋になりましたので、プリズンホテルの続きを読んでみましたもみじ
ヤクザの経営するこのホテル、今回のお客様はまさかの・・・・・


「プリズンホテル 秋」 浅田次郎



【1】
8代目関東桜会総長・相良直吉の訃報を受けたのは、晩秋の夜更のことだった。

時間割どおりに午前1時に起床し、さてこれから仕事にとりかかろうと机に向かったとたん、背後で不愉快なピー音が鳴った。 ぼくは自分がからきし機械オンチなせいもあって、いわゆるOA機器のたぐいが大嫌いだった。 とりわけこのファックスというやつの、”てめえ”の意思を一方的に通達するという身勝手さには、つねづね我慢がならなかった。

小学校の通信簿では、左欄の学習成績が常にオール5であったにも拘らず、右欄の正確所見―――社交性、協調性、明朗性、責任感、正義感―――等すべて「C評価」であったぼくは、自分で言うのも何だが、つまりひどく偏屈な人間なのである。 まがりなりにも小説家となった今、そんなぼくに対する周囲の通信手段は、会って話すよりも電話、電話より手紙、手紙よりファックスがベストであることは―――それはよくわかる。
しかし、だからといって朝っぱらだろうが真夜中だろうがお構いなしに送られてくるファックスにはいささか閉口させられていた。 一般の人々とは昼夜の生活が逆転しているぼくにとって、これはほとんど威力業務妨害に等しかった。
で、いつもの通りにぼくはファックスに必殺の回し蹴りを見舞って床の上にダウンさせてから、「ざまあみろ、少しはこりたか」と呟いて通信用紙を引き破った。


<前略。 関東桜会の相良総長が急逝しました。 ぜひこのチャンスに義理事の実態を見聞きしておかれますよう、
切に希望いたします。 まずはご連絡まで。 草々
木戸孝之介先生
発 丹青出版>



「なにが先生だ、バカヤロウ」 ぼくは見えぬ発信者を罵りながら、通信文をもみしだいた。

小説家と呼ばれる人々はみな一見ひよわそうだが、実は乱暴者が多い。
しかし対する編集者たちはみな一見ひよわそうで、実際ものすごくひよわだから、「切に希望する」場合にはしばしばファックスの深夜発信という手が使われるのだ。
<仁義の黄昏>シリーズの大ヒットにより一躍ベストセラー作家の仲間入りをしたぼくの筆は、
このところいささか遅滞していた。 べつにスランプというわけではない。
同じ業界の同じような話を8巻も続ければ、読者はどうか知らんが、書く方はいいかげん飽きるのだ。

そこで、全く衛生上の理由からフト思い立って、注文もない恋愛小説なんぞを書き始めた。
<仁義の黄昏 PART8>は、「某組長が跡目を決めずに逝去した」という所でほっぽらかしてある。誰が考えたって、その後は跡目をめぐる幹部たちの抗争が繰り広げられるに決まっているのだが、緊迫した葬式の場面を書き出して、ウンザリした。 第一巻から勘定してみたら、組長が跡目を決めずに急逝したのは、これで4度目だった。
ぼくは天使のようなアイドルタレントと、彼女が郷里に残してきた純朴な農村青年との甘い恋物語の原稿を投げ出して、しばらくの間ぼんやりと夜の窓を見つめていた。 街灯に浮かぶ欅の葉は、季節のうつろいとともに秋色を深めて行く。 なんだか長い付き合いの女の体が、次第に衰えながら色っぽくなって行くような不安とときめきを、ぼくは感じていた。
木戸孝之介という、生まれながらにして小説家みたいなぼくの名前は、自分が志向する純文学とはまったくちがったバイオレンス極道小説の道を、勝手にひとり歩きしているのだった。

待てよ―――偏屈だが妙に素直なところのあるぼくは、ふと思い直して、もみしだいたファックス用紙を広げた。
「関東桜会」という組の名前には聞き覚えがあった。 考えるほどもなく、ぼくはついひとりごちた。

「なんだ。 おじさんのところじゃないか」

ヤクザの大幹部で、総会屋の大立者で、近頃ではさる温泉場に奇怪なリゾートホテルを経営する仲蔵叔父の顔が思い泛んだ。 ぼくの家系は7代前の祖先の誰かが坊主を殺したとみえて、ほとんど絶滅している。
血縁といえば亡き父の弟にあたる仲蔵オジがただひとり生き残っているだけだった。
その唯一の縁者でさえ、齢60を過ぎて女房も子供もいない、天涯孤独のヤクザなのだが。
まじめ一方のメリヤス職人であったぼくの父は、臨終に際して2つの遺言を残した。
ひとつは「しっかり仕事をして、文化勲章をとれ」 もうひとつは「仲蔵とは付き合うな」、である。

思い悩んだ末、ぼくは書きかけの恋物語を机のひきだしにしまい、まっさらの原稿用紙に、
なるたけ作家らしいぞんざいな字で、こう書いた。

<ご無沙汰しております。 
関東桜会総長の訃に接し、誠に非礼ながら葬儀の模様を取材いたしたく、宜しくお引回し下さい。
仲蔵叔父様 
発 孝之介>



それにしても、ファックスとは何とすばらしい発明だろう。
ぼくは先ほど回し蹴りをくれたことを丁寧に詫びながら、関東桜会内木戸組に原稿を送った。
来る者こばまずの任侠である仲オジは、きっと明日の朝には電話をよこすにちがいない。
果報は寝て待とうと、ソファに横たわったぼくは、そのわずか10分後、甲高いピー音にたちまちまどろみを破られた。 枕元に置かれたファックスから、遥かな夜を通り抜けてメッセージが吐き出されてきた。

<ごきげんよう、孝ちゃん。 本日午前11時、京王線Y駅下車すぐの妙光寺まで来られたし。
木戸仲蔵>



ひどい右上がりの、何だか寝惚けまなこの字だった。


Y駅は多摩丘陵の山ぶところの静かな駅だった。 
こんなへんぴな場末の寺でしか葬儀も出せないのだろうとぼくは思った。
改札を出ると、それらしい風貌の若い衆が待っていた。
ふと見ると、おそろしいことにその若者は、ぼくの最新エッセイ集「年貢のおさめどき」を持っていた。
内容とはもっぱら関係なく、勢いで大増刷されたその本は、たいへん派手なピンク色の装幀なので、
読者のためにはならないが待ち合わせの目印にはなるのだ。 いかにも仲オジらしい気配りの良さである。

ところが、なおおそろしいことに、その本はただの目印ではなかったのだ。 若者はぼくの姿をちらと見ると、やおら本の表紙を開いた。 見返しにある著者の顔写真を、本人と見比べたのだ。
出版社の心無い目論見により、スタイリスト付きで撮った「著者近影」は完璧な極道ヅラであった。
当然のことながら、ヒゲもサングラスもなく、パンチパーマではない長髪のぼくを見て、若者は戸惑った。
「木戸、ですが・・・・・」 と、ぼくは喪服の襟を正して言った。
若者は一瞬きょとんとし、それからしどろもどろの挨拶をして、ぼくの行く手を開くように歩き出した。
彼の狼狽ぶりが木戸仲蔵の甥に対してではなく、<仁義の黄昏>の作者に対してのものであってほしいと、ぼくはねがった。

「きょうはご家族と身内だけの密葬ということで、組葬はまた日を改めまして」
と若者は何だか言い訳がましく言った。
”家族”と”身内”は同じじゃないかと思ったが、考えてみれば同じではないのだ。
どうせ見学するなら盛大な組葬の方が良かったなと、ぼくは後悔した。

寺は駅から程近い山裾の、見上げれば視野が歪んで見えるほどの深い森の中にあった。
境内の老松の根方に「照顧脚下」と書かれた立札があった。 ぼくは文化人を装って、その立札を眺めた。
「身につまされるかい、孝ちゃん」
ふいに艶のあるバリトンが耳元で囁かれた。 
仲蔵オジがひょろりとした長身をかがめるように、ぼくの横顔を覗き込んでいた。 フン、とぼくは鼻で笑った。
「身につまされるのは、おじさんも同じでしょう」
顔を合わせればつい厭味の応酬をするのが、ぼくら二人きりの血族の間の、いわば仁義だった。


本堂ではすで読経が終わり、総長の棺をめぐってわずかな会葬者が別れを告げている最中だった。
いわゆる”身内”と覚しきはほんの数人で、”家族”らしい人はさらに少ない。
「親分は俺と同じで、女房も子供も持たねえ方だったからな―――ちょっと意外だろう」
と、仲オジは庭先から会葬者を見上げて呟いた。
そう言われてみれば、カタギの人々はむしろサッパリした顔をしている。
家族とは言っても、日頃あまり付き合いのない遠縁に違いない。
沈鬱な表情でいつまでも棺の縁を去ろうとしないのは、そうそうたる親分衆たちの方だった。
「彼らが有名な、<桜会の5人衆>ですか。 たしかにすごい貫禄ですね」
ぼくの質問が興味本位に聞こえたらしく、仲オジはふと嫌な顔をした。
「そうだ。 この俺も加えてな。 だが―――それも今日までだ。 なにせ、親がいなくなっちまったんだから」
目が合うと仲オジは、偏光メガネの奥の腫れぼったい瞼を隠すように顔をそむけた。

境内をめぐって、いつの間にか湧いて出たように組員たちが並んでいた。 どの顔もひどくうつろで、しめやかだった。 こんなに質素な、てらいも見栄もない葬式を見るのは初めてのような気がした。
「孝ちゃん、よく見とけ。 来月の組葬は見せ物だ。 本物の博徒の葬式ってのァ、こんなものさ」
仲オジは頬の古い向こう傷をひきつらせて、寂しげに笑った。
「兄弟、出棺だよ」 親分衆の一人が、何とも切ない声で仲オジを呼んだ。
「そちらの先生も、オヤジの顔をひとめ見たってくんない」
ぼくは仲オジに促されて本堂に上がり、花に埋もれた棺の中の、相良直吉の死顔と対面した。
小さな、あたりまえの老人だった。 何だか年老いた農夫がお花畑で昼寝をしているみたいだと思った。

棺に蓋がかぶせられ、親しい会葬者たちがひとめぐり小石で釘を打つと、申し合わせたように「5人衆」が遺体の脇に寄り添った。 ふいにあたりの空気が張り詰めたような気がして、ぼくはあわてて堂の奥まで後ずさった。
「よおいやさァ!」 5人衆が声を揃えて、総長の棺をまるでみこしでも担ぐように、一気に肩の上まで担ぎ上げた。
それは江戸の昔から彼らが受け継いでいる、古いならわしに違いなかった。
ぼくはたちまち、彼らの祖先が身内の死や、断首や島送りの刑に際して、一門総出で送り出すドラマチックな光景を思い描いた。 得体の知れない感動に、ぼくは鳥肌が立った。

「御一統さんへ、旦那さんへ。 そいじゃあとくとくめえりやす。 ご厚誼恩情こうむりやして、地獄にせえ極楽にせえ、てえした違えはござんせん。 なお冷てえのァ娑婆の風、どうか御身おいてえ下せえやし」
よいやさっ、ともう一度声を揃えて、棺はまるで小塚ッ原に向かう唐丸篭のように、むしろ晴れがましく動き出した。



【2】
ぼくは古い博徒のならわしの微細をも見失うまいと、堂を下って行く葬列を追った。
相良直吉の棺を担ぐ5人の男たちは、子分と言ってもみな熟年に達した老人である。
そのうえそれぞれの身丈が違うものだから、棺は一歩ごとに危うく揺れた。

境内をめぐる黒ずくめの参会者たちは申し合わせたように、一度合掌すると両手を膝に当てて腰を割った。
そうした動作もすべて、彼らの弔いの決まりごとに違いなかった。

「先生、メモはご遠慮下せえ」と、背中をつつかれ、ぼくは慌てて手帳をポケットにしまった。
振り返ると、夏の初め仲オジの経営する温泉ホテルに同宿した弟分が、神妙な顔をして立っていた。
「これは大曽根さん、その節はどうも」 少し声が高かった。 大曽根は横目でちらりとぼくを睨んだ。
そう言って口を結んでも、大曽根の唇からは出っ歯の金歯が2本、むき出ていた。 しかも泣いても笑っても大した違いのない金壷まなこだった。 もともとが葬儀には不向きの顔で、ツラ突き合わせてもまったくしめやかさが伝わらないものだから、ぼくはつい、間の悪い挨拶をしてしまったのである。

棺が山門をくぐると、境内の人々は後を追うように石段の上に犇めいた。
兄貴分が両手を広げて、交通の邪魔になるからこの場所でお見送りするように、と言った。
群衆は左右に分かれ、境内の生垣に沿って山の上から棺を見送る形になった。
うしろから見ると、それはまったく刑場の竹柵ごしに理不尽な処刑を見守る人垣のようだった。
あちこちから嗚咽や溜息や、故人を呼ぶ声が洩れ起こった。

「あっしらにとっちゃ、神様みてえなお人でしたからねえ・・・・・」
金壷まなこの目頭を押さえながら、大曽根は声を詰まらせた。
「さっき仲蔵おじさんが行列の音頭をとりましたね。 あれは何か意味が?」
大曽根はぼくの問いに答えるべきかどうか少し考えてから、小声で言った。
「つまり、霊代ってわけです。 ホトケのかわりにお答えになったんで」
「序列が上、ということなのですか」 「さあ」と大曽根はぼくの言葉を遮り、周囲に目を配った。
「そんなことは、カタギの方には関係ねえでしょう」

すでに暴対法の網をかけられている広域組織の9代目に肉親が立つということは、ぼくにとってあまり歓迎すべきことではなかった。 そうとなれば、ぼくと仲オジの関係はたちまち世間の知るところとなるだろう。 ぼくの小説のオリジナリティは決定的に疑われることになるだろうし、一部の評論家が認めてくれているぼくの作品のわずかな文学性にも、きっと彼らは口を閉ざしてしまうに違いない。 要するに、「やっぱりね」と、誰もが考えてしまうに違いないのだ。 ぼくは個人的利害のために、勝手に暗澹となった。
そのとき―――ぼくや参会者たちの顔をふともたげさせて、聞き覚えのある歌声が境内に流れた。


さよならも言えないで 別れたあの夜
今も夢に見る 雨の路地裏

ヤクザの女だから 涙は噛んでも
数える月日は 重くせつない

つばめ つばめ あの人の
淋しい軒端に歌っておくれ

海山へだてても いくとせ過ぎても
あたしはあんたを 待ってると


それは、何だかひどく場違いな感じのする古い流行歌だった。
係がテープをかけまちがったのかと思って振り返ると、すぐ後ろで大きなカセットデッキを胸の高さに抱え上げた若者が、涙を拭うこともできずにさめざめと泣いているのだった。
「先生のお年じゃ知らんでしょう。 総長の好きだった歌で・・・・・」
大曽根はそう言うと、暗くけだるい女の歌声に打ちのめされるようにガックリとうなだれた。
見渡せば群衆はみな、水を奪われた花のようにしおれていた。
「ああ、真野みすずの・・・・・」
それはぼくが子供の頃―――昭和30年代に一世を風靡した古い流行歌だった。
たしか「極道エレジイ」という題名で、懲役に行った男を待つけなげな女の心情を歌ったものである。
原曲は囚人が作ったものと言われる、「詠み人知らず」だった。 そのせいかどうかは知らんが、やかましい時代にたちまち発禁になって、レコードにはそうとうのプレミアがついているはずだ。

「そう言えば、真野みすずも大変なことになっちゃいましたね」 大曽根は答えなかった。 
真野みすずはつい先ごろまで歌謡界にとどまっていたが、一人息子が覚醒剤の使用で逮捕され、さんざマスコミの肴にされたあげく、最近ではとんと噂も聞かない。
「まさに晩節をけがす、とでも言うんでしょうか。 不幸なことですな」
いささか文士をてらったぼくの言葉がわかったのかわからないのか、大曽根は不満げにジロリとぼくを睨んだ。


しぐれ しぐれ あの人の
淋しい窓辺に 伝えておくれ

鏡をとざして 油にまみれて
あたしは素顔で 待ってると


―――いいフレーズだ。 拝借しようと、ぼくは思った。


霊柩車に棺が収められたところで、境内に新たなざわめきが起こった。 路上から傍観していた刑事が2人、霊柩車に歩み寄ったかと思うと、遠目にも剣呑な感じで何事か言いがかりをつけたのである。
”身内”の葬送はここまでで、焼場には”家族”だけで行け、と刑事は言っているに違いない。
「ほれみろ。 だから言わんこっちゃねえ。 所轄の寺で筋を通してやりゃあ、多少のことは大目に見てくれるんだ」 
いまいましげに大曽根は言った。
「見ず知らずの刑事(デカ)だもの、 てめえらの仕事のことしか考えねえよな。 ああ、いやだ」
と、そばにいた同年輩の親分が大曽根に相槌を打った。

山の下では言い争う間もなく、あっさりと妥結したように、遺族だけが車に分乗した。
霊柩車が長く、悲しげにクラクションを鳴らした。 
どよめきは静まって、参会者たちは山の上から、いっせいに腰を屈めて棺を送った。
真野みすずの歌声はその間にもずっと、彼らの無言の惜別を代弁するように流れ続けていた。 やがて霊柩車が丘陵の峠道に消えてしまうと、刑事は山の上に向かって、「ハイ、解散、解散。 おわりだ」と両手を振った。
「なにが解散だ。 てめえらに仕切られるこっちゃねえ!」
大曽根が大声で言い返すと、口々に同じ不平を言い合いながら、ようやく人垣は崩れた。

「ところで先生。 最近”あちら”にはいらっしゃってるんで?」

”あちら”とは言うまでもなく、仲オジの経営する「奥湯元あじさいホテル」のことである。
地元の人々が「監獄ホテル(プリズンホテル)」と呼んで恐れ、県警がきついマークをしている、その筋専用の温泉ホテルのことだ。
”あちら”と聞いただけでぼくはウンザリとした。
「そろそろ紅葉が見頃だそうで、あたしらも来週おじゃまする予定なんですが、よろしかったらご一緒しませんか。 おもしれえネタもありやすぜ」
ちっともよろしくない、とぼくは思った。 ネタには不自由していない。
第一ぼくの小説は純然たるイマジネーションの産物なのだ。
「ま、いずれ客足もへったころにね」 と、ぼくは厭味たっぷりに大曽根の誘いをかわした。

「孝ちゃん、乗っていかんか」 仲オジが石段の途中からぼくを呼んだ。
白いベンツのドアがぼくを待ち受けるように開いていた。 そこに乗り込んだら最後、そのまんまあの山奥のホテルにからめとられそうな気がして、ぼくは少しためらった。
「ムリにとは言わねえがよ」
仲オジはタバコを噛みながら、ふとはにかむような、いつものそぶりで石段を下りていった。 ぼくは後を追った。 とりたててそうする理由など何もないのに、ぼくは自分でも不審に思うほど慌てて石段を駆け下りた。
「早く乗れ。 とっととずらかろう」
なるほど、とぼくは仲オジの心中を察した。 相良直吉がポックリと死んで、この後にはいろいろと面倒な―――もちろん跡目の話を含めて―――問題が山積しているに違いない。
ぼくに似て偏屈で無精で身勝手な性格の仲オジは、きっとその会議に加わるのがいやなのだ。

「仲ちゃん、帰っちまうのか」 と、山の上から5人衆の一人が呼んだ。
仲オジは運転手が捧げ持ってきたピカピカのカシミアのコートを羽織り、チャコールグレーのロマンチックなソフト帽をあみだに冠ると、境内を仰ぎ見た。
「すまねえな兄弟。 今日はこの先生をお送りせにゃならねえから、面倒な話はまたにしておくんない」
ぼくは仲オジの洗練された、色気のある動作に感心した。
こんなふうに老いることができたらいいなと思ったが、真似しようとしてもできることではないだろう。
「おい孝の字。 ボヤッとすんな。 おたげえ忙しい体だ」
ぼくは拉致されるようにリムジンの中に押し込まれた。

応接セットのような革張りのシートに思いがけず先客がいて、ぼくはギョッとした。
「あ、失礼」と身を起こして、ぼくは二度ギョッとした。
それはたおやかに黒衣の裾を曳いた女性だった。 横顔は黒いレースのベエルに包まれて、ぼくの侵入などまったく気づかぬふうに俯いていた。 まるで闇夜に咲くくちなしの花のようだと、ぼくは思った。
わけのわからぬままに車が走り出してからも、仲オジと黒衣の女はぼくを中に挟んだまま黙りこくっていた。

ふいに窓の外を見つめたまま、女が呟いた。 「直さん、いい顔してたでしょう」
仲オジも反対側の窓に目を向けて答えた。 「ああ。いい顔だった。 ひとめ会ってやれァ良かったんだが―――そうもいくめえ」 「車の中から送らせてもらったわ。 ありがとうね、仲ちゃん」
ぼくは会話の間に挟まって、幼い子供のようにとまどった。
「おじさん、どなた?」と袖を引いても、仲オジはそっぽうを向いたまま答えてはくれなかった。
かわりにぼくに向かって会釈をし、女は緞帳を開くようにゆっくりとベエルを持ち上げた。
現れた顔を前にして、ぼくは呆気にとられた。
仲オジは忌々しげに舌打ちをして、吐き出すように言った。
「セガレの一件で世間がうるせえからよ、俺のホテルにかくまってるんだ。 別に不思議はあるめえ―――なあ、みすずちゃん」

ぼくの顔がよほどおかしかったのか、真野みすずは口元をわずかにほころばせて、風にたゆとうくちなしの花のように、淋しく笑った。



【3】
国境いの峰には雪が来ていた。
山々はみごとに色づいており、どこに瞳をめぐらしても絵葉書のカットになるほどの秋景色だ。
渡辺莞爾(かんじ)は近頃めっきり視力の衰えた瞼をしばたたかせて、バスの中を振り返った。
出発前には商店街からごっそりと届けられた酒のせいで、どの顔もすっかりできあがっている。
積立金1万5千円ポッキリの貧乏旅行にはバスガイドさえ雇えないが、まずは順調な出だしだと、渡辺は得心した。

「なあ、カンジ。 どんどん山奥に入っていくが、大丈夫か。 シラけた宿じゃないだろうな」
縁なしのキザなメガネに紅葉を映して、若い署長が囁いた。
「カンジ」 はもちろん「幹事」に違いないのだが、「莞爾」という自分の名を呼び捨てられたように聞こえて、渡辺は不快になった。
署内ではみんなから「カンジさん」と呼ばれている。 渡辺という姓が3人もいるのだから便宜上仕方ないが、一年中「幹事」呼ばわりされているようで、余りいい気持ちはしない。
「シラける、と申しますと?」 親子ほども年の離れた署長に訊き返す。 いや、いわゆる「キャリア組」であるこの署長は、小学校の教員をしている渡辺の長男よりも、実際にいくつも若いのである。

「わからんのかね。 たとえば女がおらんとか、サービスが悪いとか、そういうことだ」
「コンパニオンは大勢いるそうです。 サービスも必ず納得が行くはずだと、観光協会も太鼓判を押していました」
「”はず”じゃ困るんだよな」と署長は不満そうに眼下を遠ざかっていく温泉街を指さした。
「あっちにはなかったのかね。 秋の慰安旅行と言ったって、まさかみんな紅葉狩りに来たわけじゃないんだぞ」
「あいにくどこも満員で・・・・・」
この不景気のさなか、新幹線の駅も高速道路のインターチェンジもない落ち目の温泉街が、どこも満員なはずはない。 要するに会費1万5千円、バス代その他を差し引いて1万円ポッキリの予算で泊まることのできる宿が、いっぱいなのである。
しかも警察の旅行の無礼講ぶりはつとに知られるところであるから、それだけでも快く引き受けてくれる宿は少い。

「ま、キミのやることだ、ゆかりはあるまい。 これが”最後のご奉公”だしな」 鼻で笑いながら署長は言った。 この若僧には「ご奉公」などという気持はかけらもなかろうと、渡辺は肚の中で考えた。
勤続42年。 年が明ければめでたく悲願の警部補に昇進して―――その日のうちに定年である。
長い奉職期間中、手柄らしいものは何ひとつ立ててはいない。
しいて挙げれば、昭和27年の「血のメーデー」で大ケガをしたことと、空巣狙いを職質で捕まえたことと、頂上作戦の時に抵抗するヤクザの親分と格闘したことと―――それらにしたところで、大した手柄とは言えまい。
しかし、毎年の旅行の幹事だけは粗相なくやりおおしてきた。 常に不可能と思われる予算の中で、一度の事故も事件もなく立派にやりとげてきた。 変な誇りと言ってしまえばそれまでだが。

(おまえが生まれたとき、俺はもうお巡りだったんだ。 おまえが小学校の遠足に行っていた頃から、俺は慰安旅行の幹事をしているんだ。 生意気を言うな)

と、渡辺巡査部長は若い署長の横顔を睨みながら心の中で呟いた。
しかし実のところ、この「最後のご奉公」について、一抹の不安もないかというと嘘になる。
近頃世間を騒がせている、通称「集金強盗」が所轄内に現れたために、旅行の予定が当初よりまる1か月もずれこんだのだった。 1万5千円の超格安予算をクリアして、やっと仕込んだ計画をキャンセルし、からたに企画しなおすことはいかにベテラン幹事とは言え相当の難事だった。
やがて、目撃者の証言から、前科3犯の窃盗常習犯が指名手配された。
犯人は未逮捕だが正体が特定されたことで事件は一段落し、署長は1か月おくれの旅行にゴーサインを出したのである。 突然「こんどの土、日」という予定を突きつけられた渡辺巡査部長は、真っ青になって旅行社を駆け巡らねばならなかった。
折しも季節は紅葉の盛りにさしかかっていた。 旅行社に条件の一部を口にするそばからにべもなく断られた。

万策尽きて帰りかけようとすると、華やかな旅行社のカウンターの蔭に寄り添うように、ひとつだけ妙にうら淋しい案内所がある。 さる県の観光協会の看板が出ており、何だか他人とは思えない初老の担当者がぼんやりと座っていた。 通り過ぎようとして、パネルに貼られた達者な筆字の空室情報が目に留まった。
<週末空キ有。 来ル者拒マズ>
半信半疑、というよりためしに訊いてみた。 「来る者拒まず、か。 どこだね、この宿は」
担当者は道祖神のような無表情で答えた。


「奥湯元あじさいホテル。 眺望絶佳、料理は絶品。 サービス満点です」


「―――今度の土日、50人。 酒類持ち込み、コンパニオン付き、カラオケ歌い放題の1万ポッキリ、っての、どうだ?」からかい半分に言うと、男は顔色ひとつ変えずに答えた。
「かしこまりました」、と早くも受話器を取る男の手を、渡辺はあわてて引き止めた。
「ちょっと待て、迷惑な団体だぞ。 マナーは最低だし、みんな酒グセが悪い。 ストレスがたまってるんだ」
男はニッと笑って受話器を耳に当てた。
「あんまりキチンとした方はお断りするように言われてますから―――あ、新宿案内でえす。 土、日、50名様。 マナーは最低だそうです。 そーですか、ハイ、ではよろしく」
あまりのあっけなさに、渡辺は呆然とした。

「何か不備でもあるのか、そのホテルは」
「いえべつに。 きっとご満足なさいますよ。 先日もここでご紹介した夫婦づれの方が、帰りがけにわざわざ寄って下さいましてね。 感動も醒めやらずに私の手を握って、ボロボロと涙をこぼされましたっけ。 ありがとう、って」
「おかしいんじゃないか、そいつら・・・・・」
「いえ、上場会社の重役さんと奥様。 リベラルでノーマルな方ですよ」
渡辺は肚を決めた。 少々不気味な感じはするが、この際、多少の不都合は致し方あるまい。
「お任せ下さい。 きっと感激なさいます」
「・・・・・感激とか感動とか、そんなんじゃなくって、ふつうならいいんだ―――手付は?」
「頂戴いたしておりません。 セコいまねはするなって、ホテルから言われてますから」
いよいよもって怪しい。 しかし怪しげなものを恐れないのは、親方日の丸の強みである。
狐につままれたような気分のまま、渡辺は申込書に記入した。

「ひとつだけお聞きしますが―――『東京桜親睦会』って、まさか警察じゃないでしょうね」

「え?・・・・・ああ、いや、違う。 日大の同窓会だ」
ここでひっくり返されてはたまらないと、渡辺はとっさに嘘をついた。



やがて国境いの峰が眼前に迫る森の中に、瀟洒なたたずまいのホテルが姿を現した。
見たところべつだん変わった様子もなく、荒れてもおらず、妖気も感じられない。
都合のいいことに、バスの中はすっかりでき上がっている。 半ばはすでに酔い潰れており、醒めている者といえば放歌高吟し、放送禁止用語を連呼して憚らない。 これで良い。 わけのわからんうちに終わるのが、慰安旅行の正しい姿なのだ。

「ほう、なかなかいいホテルじゃないか」 と、一人だけまったく下戸の署長がシラフの声で言った。
もともとこの男のための旅行ではない。 夜も昼もなく働き詰めに働いている後輩たちをねぎらう旅なのだと、渡辺は改めて考えた。 バスは緩やかな勾配の庭をたどり、車寄にすべりこんだ。
「これはすごい。 迎賓館だな、まるで」 署長はうきうきと立ち上がりながら、縁なしメガネをかしげた。
少々ケバい感じは否めないが、迎賓館といえば確かにそうである。
庭に向かって大きく開かれた窓には、豪壮なシャンデリアが輝いており、ロビーの床には真っ赤な絨毯が敷き詰められており、従業員がズラッと勢揃いして三つ指をついている。
仲居が日本人ではないのはちょっと気になるが、まあそんなことはどうでもよかろう。


「ラッシャイマッセェーッ!」

タガログ語なまりの声がいっせいに起こった。
「おお、カンジさん、いや渡辺君。 これはいい。 上デキだぞ」 署長は上機嫌でバスを下りた。
「ね、だから言ったでしょう。 観光協会のおすすめなんですから」
「しかし、これで1万円ポッキリとは、いかに不景気とはいえ信じられん」
すっかり正体のなくなった警官たちが、ゾロゾロと玄関に下り立った。 千鳥足で仲居の列に倒れこむ者、いきなり植込に立小便する者、土足で上がり込んだなり絨毯の上に吐き散らす者、すでにマナーの悪さは目を被うほどである。 しかし仲居たちは手厚く彼らを介抱し、番頭たちはイヤな顔ひとつせずに汚物の始末に走り回る。
そのさまを見ながら、渡辺は詫びるより先にまず感心した。

「えー、遠路はるばる、ようこそおいで下さいやした。 当ホテルにゲソつけられましたお客人は身内も同然。 誠心誠意、命がけで尽くさせていただきやす」 坊主頭の、妙に貫禄のある番頭だった。 
藍染半纏の背には、どこかで見覚えのある家紋が染め抜いているが、はて何であったか。
「いや、べつに命までかけてくれなくても・・・・・お騒がせしますが、ひとつよろしく」
「へい。 かしこまりやした。 この際心置きなく、テッテー的にお騒ぎ下せえやし」
そう言って顔を見合わせたなり、渡辺と番頭は同時にワッと、叫んだ。


「こりゃ、ナベ長の旦那!」

「うわ、てめえは木戸組の黒田!」


二人はとっさに周囲を見渡し、スクラムを組んでロビーの隅まで走った。
「まったく観光協会のボケ、これだけァ気をつけろって言っといたのに」 番頭は天を仰いだ。
「・・・・・そうか、そうだよな、あんたしばらく姿が見えないと思ったら、カタギになったんだ。 ハハハ、ああ驚いた・・・・・」と渡辺は多分に希望的観測をこめてそう言った。
しかし、番頭は不本意そうに言い返すのだった。
「いえね、足を洗ったわけじゃねえんで。 ちょいとシノギを変えてみただけでさあ」
立ち尽くす渡辺の背を、つうと冷汗が流れた。

「どういう・・・・・ことだ・・・・・」

「どう、って―――ねえ旦那。 バクチのテラだのミカジメだの、もうそんな時代じゃありやせんぜ。 たまたま悪い金貸しにハマってる気の毒なホテルがあったもんで、そっくり乗っ取って、じゃなかった、買い取って今日に至る、と。 どうです、うちのオヤジのやりそうなこってしょ」
「ということは・・・・・ここの経営者は木戸仲蔵か」
「ま、そう言うより、早い話がこのホテルそのものが木戸組なんで。 ほら、旦那も良く知ってるやつらばかりですぜ。 おおい、安ッ!」
渡辺はあわてて、人を呼ぶ黒田の口を塞いだ。
「いい、もういいわかった。 何だかわからんが、大体わかった。 わあ、どうしよう、最悪だ」
黒田は頭を抱えてその場にうずくまる渡辺の肩を、毛むくじゃらの手で抱き寄せた。
「いいじゃねえですかい。 どうせおたくの署長、キャリア組のボウヤでしょ。 わかりゃしねえって」
「ちっとも良かねえ! だって、他のやるらにバレるもの。 4係(マルボウ)なんて最近ヒマだから全員来てるんだ」
「大丈夫だって。 マルボウだけひとっところに部屋割しましょう。 あとでご挨拶に行って了解していただきやす」
「了解するわけねえ。 そんなのできるもんか。 クソ、ああ俺ァなんて不幸なお巡りなんだ。 これが最後のおつとめだってのに」

フッフッ、と黒田は不敵に笑った。
「ま、ここはあっしに任せて下せえ。 そんなことより旦那、今晩はうちのオヤジもおいでになりやすから、ひとつ悪い時代の同窓会でもやろうじゃねえですか。 なあ、安!」
安、と呼ばれた中年の番頭は、へべれけに酔いつぶれた婦人警官を抱きかかえながら、
なつかしげに微笑み返すのだった。



続く・・・・・