「ノルウェイの森」 村上春樹


■登場人物表■
ワタナベ:主人公。物語では寮に住む大学生。読書好き。 直子に想いを寄せる。
直子:唯一の友達だったキズキの恋人。 20歳の誕生日に様子がおかしくなり、療養所に入る。
突撃隊:寮の同じ部屋に住んでいる。 地図が好きですぐどもる。 行方不明のまま退寮した。
キズキ:高校時代、唯一の友人だったが自殺してしまう。 直子とは子供の時からの仲だった。
永沢:同じ学生寮に住む。東大法学部の天才だが、変わり者。 女遊びが激しい。
小林緑:大学で同じ「演劇史Ⅱ」を専攻している、変わった女の子。 ワタナベに興味を示す。
レイコ:直子のいる療養所で同じ部屋で暮らす。 38歳。 音楽が得意。 ヘビースモーカー。




第7章

翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は50mプールを何度か往復した。
僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べ物をするために文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。

彼女は眼鏡をかけた小柄な女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。
「どこに行くの?」 「図書室」僕は答えた。
「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ご飯食べない?」 「さっき食べたよ」
「いいじゃない。 もう1回食べなさいよ」 結局僕と緑は近所の喫茶店に入った。
彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のチョッキを着て、金のネックレスをかけ、
ディズニーウォッチをつけていた。

そして実においしそうにカレーを食べ、水を3杯飲んだ。
「ずっとここのところあなた居なかったでしょ? 私何度も電話したのよ」
「べつに用事なんかないわよ。 ただ電話してみただけよ」 「ふうむ」と僕は言った。
「『ふうむ』って何よいったい、それ?」 「別に何でもないよ、ただのあいづちだよ」
緑はごくごくと水を飲んで、そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。
「ねえ、ワタナベ君どうしたの? あなたなんだか漠然とした顔してるわよ。 目の焦点もあってないし」
「旅行から帰ってきて少し疲れてるんだよ。 別になんともない」
「幽霊でも見てきたような顔してるわよ」 「ふうむ」と僕は言った。
「ねえ、午後の授業終わったら一緒にお酒飲まない?」


ドイツ語の授業が終ると我々はバスに乗って新宿の町に出て、紀伊國屋の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカトニックを2杯ずつ飲んだ。
「時々ここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女は言った。
「そんなにお昼から飲んでるの?」 「たまによ。 たまに世の中が辛くなるとウォッカトニック飲むのよ」
「世の中が辛いの?」 「たまにね。 私には私でいろいろと問題があるのよ」
「たとえばどんなこと?」 「家のこと、恋人のこと、生理不順のこと―――いろいろよね」
「もう一杯飲めば?」 「もちろんよ」 僕は手をあげてウェイターを呼び、おかわりを注文した。

「ねえ、この間の日曜日あなた私にキスしたでしょう。 色々と考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」
「それはよかった」
「『それはよかった』」とまた緑は繰り返した。 「あなたって本当に変った喋り方するわよねえ」
「そうかなあ」と僕は言った。
「それはまあともかくね、私思ったのよ。 これが生まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろうって。 残りの人生をこんな風に考えて暮すの。 私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子は今どうしてるんだろう? 58歳になった今は、なんてね。 どう、素敵だと思わない」
「素敵だろうね」と僕はピスタチオの殻をむきながら言った。
「ねえ、どうしてそんなにぼんやりしてるの? もう一度訊くけど」
「たぶん世界にまだうまく馴染めてないんだよ。 ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだ」

緑はカウンターに片肘を付いて僕の顔を見つめた。 「ジム・モリソンの歌にそういうのあったわよね」
「People are strange when you are a stranger」
「ピース」と緑は言った。
「ピース」と僕も言った。

「私と一緒にウルグアイに行っちゃえばいいのよ。 何もかも捨てて」
「それも悪くないな」 と僕は笑って言った。
「もしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊をいっぱい産んであげるわよ。 そしてみんなで楽しく暮すの。 床の上をころころを転げまわって」
僕は笑って3杯目のウォッカトニックを飲み干した。
「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?」と緑は言った。
「興味はすごくあるけれどね。 どんなだか見てみたいしね」 「いいのよ別に、欲しくなくたって」
緑はピスタチオを食べながら言った。「私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。 何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。 それにウルグアイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ」
「まあそうかもしれないな」
「どこもかしこもロバのウンコよ。 ここにいたって向うに行ったって。 世界はロバのウンコよ。 ねえ、この固いのあげる」 緑は僕に殻の固いピスタチオをくれた。 僕は苦労してその殻をむいた。

「でもこの前の日曜、私すごくホッとしたのよ。 あなたと二人で物干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで唄を唄って。 あんなにホッとしたの本当に久しぶりだったわよ。 だってみんな私にいろんなものを押し付けるんだもの。 でもあなたはそういうことしないと思うな。 なんとなくわかるのよ、そういうのが。 押し付けたり押し付けられたりすることに関しては私はちょっとした権威だから。 あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ち着けるのよ」
「どんなものを押し付けたり押し付けられたりしてるの、君は?」 緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。
「私のこともっと知りたい?」 「興味はあるね、いささか」
「ねえ、私は『私のこともっと知りたい?』って質問したのよ。 そんな答っていくらなんでもひどいと思わない?」
「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。 「本当に?」
「目を背けたくなっても?」 「そんなにひどいの?」
「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。 「もう一杯ほしい」
僕はウェイターを呼んで4杯目を注文した。 酒を飲んでいる客は我々だけだった。

「あなた、今度の日曜日暇?」と緑が僕に訊いた。
「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。 6時からのアルバイトを別にすればね」
「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?」 「いいよ」
「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。 かまわない?」 「どうぞ。かまわないよ」

「ねえ、ワタナベ君。 私が今何をしたがっているかわかる?」 「さあね、想像もつかないね」
「広いふかふかとしたベッドに横になりたいのまず。 まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、隣にはあなたが寝ているの。 そしてちょっとずつ私の服を脱がせるの。 すごくやさしく」
「ふむ」と僕は言った。
「私途中までは気持ちいいなあと思ってぼんやりとしてるの。 でもね、ほら、ふと我に返って『だめよ、ワタナベ君!』って叫ぶの。 『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人がいるし、そんなことできないの。 私そういうの結構堅いのよ。 だからやめて、お願い』って言うの。 でもあなたやめないの」
「やめるよ、僕は」
「知ってるわよ。 でもこれは幻想シーンなの。 そして私にばっちりと見せつけるのよ、あれを。 そそり立ったのを。 私すぐ目を伏せるんだけど、ちらっと見えちゃうのよね。 そして言うの『駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」
「そんなに大きくないよ。 普通だよ」
「いいのよ別に。 幻想なんだから。 するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。 そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。 よしよし、可哀そうにって」
「それがつまり君がやりたいことなの?」 「そうよ」
「やれやれ」と僕は言った。

全部で5杯ずつウォッカトニックを飲んでから我々は店を出た。
僕が金を払おうとすると緑は僕の手をぴしゃっと払いのけ、財布から1万円札を出して勘定を払った。
「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、私が誘ったんだもの。 あなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら別だけど」
「いや、そうは思わないけど」 「それに入れさせてもあげなかったし」
「固くて大きいから」と僕は言った。
「そう」と緑は言った。 「固くて大きいから」


僕と緑は街をしばらくぶらぶらと歩いた。 緑は木登りがしたいと言ったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。
「残念だわ、私木登り大好きなのに」
緑と二人でウィンドウショッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。

「君に会ったおかげで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。

緑は立ち止まってじっと僕の目を覗き込んだ。 
「本当だ。 目の焦点も随分しっかりしてきたみたい。 ねえ、私とつきあってると結構良いことあるでしょ?」
「たしかに」と僕は言った。
別れ際に「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と緑が訊ねてきた。
「見当もつかないよ、君の考えることは」
「あなたと二人で海賊に捕まって裸にされて、体を向かい合わせにぴったりと重ね合わせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」
「なんでそんなことするの?」 「変質的な海賊なのよ、それ」
「君の方がよほど変質的みたいだけどな」
「そして1時間後には海に放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなって言って船倉に置き去りにされるの」
「それで?」
「私たち1時間たっぷり楽しむの。 ころころ転がったり、体よじったりして」
「それが君の今いちばんやりたいことなの?」 「そう」
「やれやれ」と僕は首を振った。


日曜日の朝の9時半に緑は僕を迎えに来た。 僕は目が覚めたばかりでまだ顔も洗っていなかった。
呼ばれて玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのスカートを履いてロビーの椅子に座って脚をくみ、あくびをしていた。 通りがかった寮の連中が彼女の脚をじろじろと眺めていった。
彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。

「これから顔を洗って髭を剃ってくるから15分くらい待ってくれる?」
「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろ見てるわよ」
「当たり前じゃないか。 男子寮にそんな短いスカートはいてくるんだもの。 見るに決まってるよ」
「でも大丈夫よ。 今日のはすごく可愛い下着だから。 ピンクので素敵なレースの飾りがついてるの」
「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。
そして部屋に戻って、急いで支度を済ませ、緑を寮の門の外に連れ出した。 冷や汗が出た。

「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスタ×××××ンしてるわけ? シコシコッて?」
「たぶんね」 「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」
「まあそうだろうね。 株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスタ×××××ンする男はまあいないだろうね」
「スエズ運河?」 「たとえば、だよ」
「つまり特定の女の子のこと考えるのね?」
「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの? どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ?」

「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。 「彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ」
「まともだね」
「でも知りたいのよ。 純粋な好奇心なのよ。 ねえ、マスタ×××××ンするとき特定の女の子のこと考えるの?」
「考えるよ。 少くとも僕はね。 他人のことまではわからないけれど」 と僕はあきらめて答えた。
「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?」 「やったことないよ」
「どうして? 私が魅力的じゃないから?」
「違うよ。 君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」
「じゃあどうして私のことを考えないの?」 「まず第一に僕は君のことを友達だと思ってるから、そういうことにまきこみたくないんだよ。 そういう性的な幻想にね。 第二に―――」

「他に想い浮かべるべき人がいるから」

「まあそういうことだよね」と僕は言った。
「あなたってそういうことでも礼儀正しいのね。 あなたのそういうところ好きよ。 でもね、1回くらい私を出演させてくれない? その性的な幻想だか妄想だかに。 私そういうのに出てみたいのよ。 これ友達だから頼むのよ。 だってこんなこと他の人に頼めないじゃない。 今夜マスタ×××××ンする時ちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。 あなたをお友達だと思えばこそ頼むのよ。 そしてどんなだったか後で教えてほしいの」
僕はため息をついた。
「でも入れちゃ駄目よ。 私たちお友達なんだから。 ね? 入れなければあとは何してもいいわよ」
「そうかな。 そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」
「考えておいてくれる?」 「考えておくよ」

「あのねワタナベ君。 私のことを淫乱だとか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。 私はただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。 ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ? 男の人の、そういうことすごく知りたいのよ。 それも婦人雑誌の綴じ込みとかそういうんじゃなくて、いわばケーススタディーとして」
「ケーススタディー」と僕は絶望的につぶやいた。
「でも私がいろんなこと知りたがると彼は不機嫌になるの。 淫乱だって言って。 私の頭が変だって言うのよ。 フェ×××だってなかなかさせてくれないの。 私あれすごく研究してみたいのに」
「ふむ」と僕は言った。

「あなたフェ×××されるの嫌?」 「嫌じゃないよ、別に」
「どちらかというと好き?」 「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。
「でもその話また今度にしない? 今日はとても気持ちの良い日曜の朝だし、マスタ×××××ンとフェ×××の話をしてつぶしたくないんだ。 もっと違う話をしようよ。 君の彼はうちの大学?」
「ううん。 よその大学よ、もちろん。 高校のときのクラブ活動で知り合ったの。 恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。 ねえ、ワタナベ君?」
「うん?」
「本当に1回でいいから私のこと考えてよね」
「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。


我々は駅から電車に乗って御茶ノ水まで行った。
僕は朝食を食べていなかったので、新宿駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを飲んだ。 電車の中には短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。 緑は時々きゅっきゅっとスカートの裾をひっぱって下ろした。 何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ち着かなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。

「ねえ、私が今一番やりたいことわかる?」市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。
「見当もつかない」と僕は言った。 
「でもお願いだから、電車の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」
「残念ね。 結構凄いやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。

「ねえ、頭にきたことがあるんだけどきいてくれる?」
「聞くよ」
「ある日私たちフォークソング部が夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人20個ずつ夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんなに完全な性差別じゃない。 でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何も言わずにちゃんとおにぎり20個作っていったわよ。 梅干し入れて海苔まいて。 そうしたらあとで何て言われたと思う? 小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。 他の女の子のは中に鮭やらタラコが入っていたし、玉子焼きなんかがついてたりしたんですって。 もうアホらしくて声も出なかったわね。 革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよいちいち。 海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。 インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」

僕は笑った。 「それでそのクラブはどうしたの?」
「6月にやめたわよ、あんまり頭に来たんで。 でもこの大学の連中は殆どインチキよ。 みんあ自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くてしょうがなくてビクビクして暮らしてるのよ。 それでみんな同じような本を読んで、同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。 そういうのが革命なの?」
「さあどうかな。 僕は実際に革命を目にしたわけじゃないから何とも言えないよね」
「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。 私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの」
「ありうる」と僕は言った。

「ねえ、私にはわかっているのよ。 私は庶民だから。 革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。 革命が何よ? そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。 でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。 あなた税務署員って見たことある?」
「ないな」
「私、何度も見たわよ。 家の中にずかずか入ってきて威張るの。 何、この帳簿? おたくいい加減な商売やってるねえ。 これ本当に経費なの? 領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。 私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。 でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。 本当よ。 それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。 収入ちょっと少なすぎるんじゃないの。 冗談じゃないわよ。 収入が少ないのは儲かってないからでしょうが。 そういうの聞いてると私悔しくってね。 もっと金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよって怒鳴りつけたくなってくるのよ。 ねえ、もし革命が怒ったら税務署員の態度って変わると思う?」
「極めて疑わしいね」
「じゃあ私、革命なんて信じないわ。 私は愛情しか信じないわ」
「ピース」と僕は言った。
「ピース」と緑も言った。

「我々は何処に向かっているんだろう、ところで?」と僕は訊いてみた。
「病院よ。 お父さんが入院していて、今日一日私が付き添ってなくちゃいけないの。 私の番なの」
「お父さん?」と僕はびっくりして言った。 「お父さん、ウルグアイに行っちゃったんじゃなかったの?」
「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。 「本人は昔からウルグアイに行くんだって喚いてるけど、行けるわけないわよ。 東京の外にだってロクに出られないんだから」
「具合はどうなの?」
「はっきり行って時間の問題ね」

我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。

「お母さんの病気と同じだからよくわかるのよ。 脳腫瘍。 信じられる? 2年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。 そしたら今度はお父さんが脳腫瘍」


大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞い客と軽い症状の病人でごたごたと混み合っていた。
そして紛れもない病院の匂いが漂っていた。

緑の父親は二人部屋の手前のベッドに寝ていた。 彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。
横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕をだらんとのばしたまま身動き一つしなかった。
やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもっと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。
頭には白い包帯が巻きつけられ、青白い腕には注射だか点滴だかのあとが点々とついていた。
彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。
そして10秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。

その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。

彼の体には生命力というものが殆ど見受けられなかった。
乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに無精ひげがはえていた。
これほど生命力を失った男にもきちんと髭ははえてくるんだなと僕は思った。
緑は窓際のベッドに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。
相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。

「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向かってしゃべりかけた。
まるでマイクロフォンのテストをしているような喋り方だった。 「どう、今日は?」
父親はもそもそと唇を動かした。 <よくない>と彼は言った。
喋るというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。
<あたま>と彼は言った。
「頭が痛いの?」 緑が訊いた。
<そう>と父親が言った。 4音節以上の言葉はうまく喋れないらしかった。
「まあ仕方ないわね。 手術の直後だからそりゃ痛むわよ。 可哀そうだけどもう少し我慢しなさい」

僕は父親に挨拶した。 父親は半分唇を開き、そして閉じた。
ビニールの椅子に座らせてもらった。
緑は小さなテーブルの下に置いてあった、大きな紙袋の中から寝巻きの着替えや下着やその他細々としたものをとりだして整理し、入口の脇にあるロッカーに入れた。 紙袋の底の方には病人のための食べ物が入っていた。
グレープフルーツが2個とフルーツゼリーとキウリが3本。

「キウリ?」 と緑がびっくりしたような呆れたような声を出した。
「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよ? まったくお姉さん何も考えているのかしらね。 ちゃんと買い物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。 キウリ買ってくれなんて言わなかったわよ、私」
「”キウイ”と間違えたんじゃないかな」と僕は言ってみた。 戻りはぱちんと指を鳴らした。
「たしかに私、キウイって頼んだわよ。 それよね。 でも考えりゃわかるじゃない? なんで病人が生のキウリをかじるのよ? お父さん、キウリ食べたい?」
<いらない>と父親は言った。
緑は枕元に座って父親にいろんな細々とした話をした。
父親は<うん><うん>と返事をしているだけだった。
「本当に何か食べたくない、お父さん?」 <いらない>と父親は答えた。
「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない?」 「いらない」と僕も答えた。

緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファーに座って煙草を1本吸った。
「あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一緒にここにいてくれる?」
「5時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの」
「日曜日はいつも何をしているの?」
「洗濯」と僕は言った。 「そしてアイロンがけ」
「ワタナベ君、私にそのつきあってる女の人のこと、あまり喋りたくないんでしょ?」
「そうだね、あまり喋りたくないね。 つまり複雑だし、うまく説明できそうにないし」

「いいわよ別に。 でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら?」
「どうぞ。 君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」
「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だと思うの」
「ふむ」と僕は言った。
「32か3くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコートとかシャルル・ジュールダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプで、ものすごくセッ××に飢えてるの。 そしてものすごくいやらしいことをするの。 平日の昼下がりにワタナベ君と二人で体を貪り合うの。 でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。 違う?」
「なかなか面白い線をついてくるね」
「きっと体を縛らせて、目隠しさせて、体を隅から隅までぺろぺろと舐めさせたりするのよね」
「楽しそうだな」
「彼女は毎日毎日考えを巡らせてるわけ。 何しろ暇だから。 そしてベッドに入ると貪欲にいろんな体位で3回くらいイッちゃうの。 そしてワタナベ君にこう言うの。 『どう、私の体って凄いでしょ? あなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。 ほら、若い子がこんなことやってくれる? どう? 感じる? でも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」

「君はポルノ映画を見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。
「やっぱりそうかなあ。 でも私、ポルノ映画って大好きなの。 今度一緒に見に行かない?」
「いいよ。 君が暇なときに一緒に見に行こう」
「本当? すごく楽しみ。 SMのやつに行きましょうね。 ムチでばしばし打ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。 私あの手のが大好きなの」
「いいよ」
「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私が一番好きなもの何か知ってる?」
「さあ見当もつかないね」
「あのね、セッ××シーンになるとね、周りの人がみんなゴクンて唾を呑み込む音が聞こえてくるの」
と緑は言った。 「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。 とても可愛くって」



続く・・・