「ノルウェイの森」 村上春樹
■登場人物表■
ワタナベ:主人公。物語では寮に住む大学生。読書好き。
直子:唯一の友達だったキズキの恋人。 20歳の誕生日に様子がおかしくなり、療養所に入る。
突撃隊:寮の同じ部屋に住んでいる。 地図が好きですぐどもる。 行方不明のまま退寮した。
キズキ:高校時代、唯一の友人だったが自殺してしまう。 直子とは子供の時からの仲だった。
永沢:同じ学生寮に住む。東大法学部の天才だが、変わり者。 女遊びが激しい。
小林緑:大学で同じ「演劇史Ⅱ」を専攻している、変わった女の子。 ワタナベに興味を示す。
レイコ:直子のいる療養所で同じ部屋で暮らす。 38歳。 音楽が得意。 ヘビースモーカー。
第6章(承前)
夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。
僕らは大豆のハンバーグステーキというのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされていた。 彼は「ここの冬はいいですよ。 この次は是非冬にいらっしゃい」と言って去っていった。
「あの人は医者なんですか、それとも患者の方ですか」僕はレイコさんに訊いた。
「どっちだと思う?」 「全然見当がつかないですね。 いずれにせよあまりまともには見えないけど」
「お医者よ。 宮田先生っていうの」と直子が言った。
「でもあの人この近所じゃいちばん頭おかしいわよ。 賭けてもいいけど」とレイコさんが言った。
「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」 「うん、あの人狂ってる」
「だって毎朝わけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してるもの。 それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この人はノイローゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年アルコール中毒がひどくなってやめさせられたし」
「患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言った。
「まったくそのとおり。 あなたも段々世の中の仕組みがわかってきたみたいじゃない」
「みたいですね」
「私たちがまともな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってわかってることよね」
部屋に戻って僕と直子は2人でトランプ遊びをし、レイコさんはまたギターを抱えてバッハの練習をしていた。
「明日は何時に帰るの?」とレイコさんが訊いた。 「朝食を食べたら出ます」
「残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そんなことしてたら、僕もここに居着いちゃいそうですよ」 「ま、そうね」
「そうだ、岡さんのところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。 すっかり忘れてた」
「一緒に行きましょうか?」直子が言った。
「ねえ、ワタナベ君借りていっていいかしら?」 「いいわよ」
「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレイコさんは僕の手をとって言った。
「昨日はもう少しってところまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね」
「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。
彼女は「雨の匂いがするわね」と言った。 僕も匂いをかいでみたが何の匂いもしなかった。
空はたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしまっていた。
スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててくれと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。 そしてビニール袋に沢山の葡萄をもらってきた。
「葡萄好き?」 「好きですよ」と僕は言った。
彼女は一番上のひと房をとって僕に渡してくれた。「それ洗ってあるから食べられるわよ」
僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。 みずみずしい味の葡萄だった。
「あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこと教えてあげているの。 そのお礼がわりにいろんなものくれるのよ」
「昨日の話の続きが聞きたいですね」と僕は言った。
「いいわよ。 でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの仲を疑い始めるんじゃないかしら?」
「例えそうなったとしても話の続きを聞きたいですね」
「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。 今日はいささか冷えるから」
小さな倉庫が長屋のように並んでいるところまで出た。
そしてその一番手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。
倉庫の中にはクロスカントリー用のスキー板とストックと靴などが並んでいた。
「昔はよくここに来てギターの練習したわ。 一人になりたいときにはね」
レイコさんは薬品の袋の上に腰を下ろし、僕にも隣に座れと言った。 僕は言われたとおりにした。
「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」 「いいですよ、どうぞ」
「やめられないのよね、これだけは」と、おいしそうに煙草を吸った。
これくらいおいしそうに煙草を吸う人はちょっといない。
「昨日はどこまで話したっけ?」とレイコさんが言った。
「嵐の夜の岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」
「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんは呆れたように言った。
「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、確か」
「そうです」
「私もその子にああしろこうしろって押し付けなかったわ。 押し付けられるのは嫌な子なんだなって最初会った時に思ったから。 口では愛想よくはいはいって言うけれど、絶対に自分のやりたいことしかやらない子なのよ。 だからね、まずはその子に自分の好きなように弾かせるの。 次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いてみせるの。 そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。 それからその子にもう一度弾かせるの。 すると前より演奏が数段良くなってるのよ。 良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」
レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。 僕は黙って葡萄を食べ続けていた。
「私もかなり音楽的な勘はある方だとは思うけれど、その子は私以上だったわね。 惜しいなあと思ったわよ。 小さい頃から良い先生についてきちんとした訓練受けてたら良いところまでいってたのになあってね。 でもそれは違うのよ。 結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることが出来ない子なのよ。 世の中にはそういう人っているのよ。 でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。 高性能のスポーツカーに乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素早く反応するのよ」
レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。 そして、ふうっと深呼吸した。
「レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。 時々私がジャズピアノの真似事して教えてあげたりね。 でも大体はその子が喋ってたの。 これがまた話が上手くてね、ついつい引き込まれちゃうのよ。 まあ昨日も言ったように大部分は作り事だったと思うんだけれど。それにしても面白いわよ。 観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユーモアがあって、人の感情を刺激するのよ。 人を怒らせたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。 それも自分の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ」
レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。
「病気なのよ」とレイコさんは言った。
「病んでいるのよ。 それもね、腐ったリンゴがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。 そして彼女の病気はもう誰にもなおせないの。 だから考えようによっては可哀そうな子なのよ」
そしてまた彼女は葡萄を食べた。
「まあ半年間結構楽しくやったわよ。 時々あれって思うこともあったけど、でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない? きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでオーケーじゃない。 それに私、その子のことを結構好きでもあったのよ、本当のところ。
ただね、その子には個人的なことはあまり喋らないようにしてたの。 なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。 聞かれてもあたりさわりのないことしか教えなかった。 でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。 そういう風に見られるとね、私もドキッとしちゃうわよ。 それでも必要以上のことは教えなかったけれどね。
あれは5月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然気分が悪いって言いだしたの。 顔を見ると確かに青ざめて汗かいてるのよ。 少し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。 いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を殆ど抱き抱えるようにして私の寝室に連れて行ったの。 お水か何か飲むって聞いたら、隣にしばらくいてもらえればそれでいいって言ってね。
少しして『すみません、少し背中をさすっていただけませんか』ってその子が苦しそうな声で言ったの。 見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さすってやったの。 すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその子言うのよ。 まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。 ぴったりしたシャツ着てたもんだから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外したの。 13にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の2倍はあったわね。 ブラジャーもね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人用の、それもかなり上等なやつよ。 でもまあそういうのもどうでもいいことじゃない? 私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。 ごめんなさいねってその子本当に申し訳ないって声で言って、そのたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ」
レイコさんは足元に煙草の灰を落とした。
僕も葡萄を食べるのをやめてじっと彼女の話に聞き入っていた。
「そのうちにその子しくしくと泣き始めたの。 理由を聞いたら、『時々こんな風になっちゃうんです。 自分でもどうしようもないんです。 淋しくって、哀しくて、誰にも頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて、それでこうなっちゃうんです。 夜もうまく眠れなくて、食欲もほとんどなくて。 先生のところに来るのだけが楽しみなんです、私』
どうしてそうなるのか聞いたら、家庭がうまくいってないってその子は言ったわ。 父親は他に女がいてろくに家にかえってこなくて、そのせいで母親は半狂乱。 そう言っておいおい泣くのよ。 仕方ないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。 その頃にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。
そうするとそのうち、私だんだん変な気になってきたの。 体がなんだかこう火照ってるみたいでね。
だってさ、絵から切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱き合っていて、その子が私の背中を撫で回していて、その撫で方たるや、ものすごく官能的なんだもの。 亭主なんてもう足元にも及ばないくらいなの。 気がついたら彼女私のブラウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。 それで私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだって。 私前にも一度やられたことあるの、高校の時。 それで私、よしなさいって言ったの。
『お願い。少しでいいの。私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。先生しかいないんです。見捨てないで』そしてその子、私の手を取って自分の胸にあてたの。 すごく形の良いおっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃうみたいなの。 女の私ですらよ。 私どうしたらいいかわかんなくてね、駄目よ、駄目だったらって馬鹿みたいに言い続けるだけなの。 どういうわけか体が全然動かないのよ。 その子は左手で私の手を握って自分の胸に押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背中やら脇腹やらお尻やらを愛撫してたの。 カーテンを閉めた寝室で13歳の女の子に裸同然にされて―――その頃はもうなんだかわからないうちに1枚1枚服を脱がされてたの―――愛撫されて悶えるなんて今思うと信じられないわよ。 馬鹿みたいじゃない。 でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだったの。 その子は私の乳首を吸いながら『淋しいの。先生しかいないの。捨てないで。本当に淋しいの』って言い続けて、私の方は駄目よ駄目よって言い続けてね」
レイコさんは話をやめて煙草をふかした。
「ねえ、私、男の人にこの話するの初めてなのよ」とレイコさんは僕の顔を見て言った。
「あなたには話した方がいいと思うから話してるけれど、私だってすごく恥ずかしいのよ、これ」
「すみません」と僕は言った。 それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかった。
「そういうのがしばらく続いて、それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。 そして下着の上からあそこ触ったの。 その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。 お恥かしい話だけれど。 あんなに濡れたのはあとにも先にも初めてだったわね。 どちらかというと、私は自分はそれまで性的に淡白な方だと思ってたの。 だからそんな風になって自分でもいささか茫然としちゃったのよ。 それから下着の中に彼女の細くて柔らかな指が入ってきて、それで・・・・・ねえ、わかるでしょ、だいたい? そんなこと私の口から言えないわよ、とても。 凄いのよ、本当。 まるで羽毛でくすぐられてるみたいで。 私もう頭のヒューズがとんじゃいそうだったわ。 でもね、私ボオッとした頭の中でこんなことしてちゃ駄目だと思ったの。 一度こんなことやったら延々とこれをやり続けることになるし、そんな秘密も抱え込んだら私の頭はまたこんがらがるに決まっているんだもの。 それで私、全身の力をふりしぼって起き上がって『止めて、お願い!』って叫んだの。
でも彼女止めなかったわ。 その子、その時私の下着脱がせてクン××××スしてたの。 私、恥ずかしいから主人にさえ殆どそういうのさせなかったのに、13の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。 参っちゃうわよ、私。 それがまた天国にのぼったみたいに凄いんだもの。
『止めなさい』ってもう一度怒鳴って、その子の頬を打ったの。 思いきり。 それで彼女やっとやめたわ。 そして体を起こしてじっと私を見たの。私たちそのとき二人ともまるっきりの裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いをじっと見つめ合ったわけ。 その子は13で、私は31で・・・・・でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒されちゃったわね。 今でもありありと覚えているわよ。 あれが13の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかったし、今でも信じられないわよ。 あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい泣き出したいくらいみっともない代物だったわ。 本当よ」
何とも言いようがないので僕は黙っていた。
「ねえどうしてよってその子は言ったわ。 『先生もこれ好きなんでしょ? 私最初から知ってたのよ。 わかるのよ、そういうの。 男の人とやるよりずっといいでしょ? だってこんなに濡れてるじゃない。 私、もっともっと良くしてあげられるわよ。 体が溶けちゃうくらい良くしてあげられるのよ。 いいでしょ、ね』 でもね、本当にその子の言うとおりなのよ。 主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、もっとしてほしかったのよ。 でもそうするわけにはいかないのよ。 『私たち週に1回これやりましょうよ。 誰にもわからないもの。 先生と私だけの秘密にしましょうね?』って彼女は言ったわ。
でも私、立ち上がってバスローブ羽織って、もう帰ってくれ、二度とうちに来ないでくれって言ったの。 その子、私のことじっと見てたわ。 その目がね、いつもと違ってすごく平板なの。 まるでボール紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。 奥行がなくて。 しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめてまるで見せつけるみたいにゆっくりとひとつひとつそれを身につけて、それからピアノのある居間に戻ってバッグからヘアブラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、靴をはいて出て行ったの。 出がけにこう言ったわ。 『あなたレズビアンなのよ、本当よ。 どれだけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ』ってね」
「本当にそうなんですか?」と僕は訊いてみた。
「イエスでもあり、ノオでもあるわね。 主人とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。 だれは事実ね。 だから一時は自分でもレズビアンなんじゃないかと真剣に悩んだわよ。 でも最近はそう思わないわ。 もちろんそういう傾向が私の中にないとは言わないわよ。 たぶんあるんだと思う。 でも正確な意味では私はレズビアンではないのよ。 何故なら私の方から女の子を見て積極的に欲情するということはないからよ。 わかる?」
僕は肯いた。
「ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだけなのよ。 だからたとえば直子を抱いたって、私とくに何も感じないわよ。 私たち暑い時なんか部屋の中では殆ど裸同然で暮らしてるし、お風呂だって一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし・・・・・でも何もないわよ。 何も感じないわよ。 あの子の体だってすごくきれいだけど、でも、そうね、べつにそれだけよ。 ねえ、私たち一度レズごっこしたことあるのよ、直子と私とで。 こんな話聞きたくない?」
「話して下さい」
「私がこの話をあの子にした時―――私たちなんでも話すのよ―――直子がためしに私の体を撫でてくれたの、いろいろと。 二人で裸になってね。 でも駄目よ、全然。 くすぐったくてくすぐったくて、もう死にそうだったわ。 どう少しホッとした?」
「そうですね、正直言って」と僕は言った。
「まあ、そういうことよ、だいたい」とレイコさんは小指の先で眉のあたりを掻きながら言った。
「その女の子が出て行ってしまうと、私しばらく椅子に座ってボオッとしていたの。 どうしていいかよくわかんなくて。 体のずうっと奥の方から心臓の鼓動がコトッコトッて鈍い音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさして。 とにかくお風呂に入って、あの子に撫でられたり舐められたりした体をきれいに洗っちゃおうって思ったの。 でもね、どれだけ石鹸でごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ないのよ。 そんなの気のせいだと思うんだけれど駄目なのよね。 で、その夜彼に抱いてもらったの。 もちろん彼には何も言わなかったわよ。 とてもじゃないけど言えないわよ。 ただ抱いてって言って、やってもらっただけ。 ねえ、いつもより時間かけてゆっくりやってねって言って。 彼すごく丁寧にやってくれたわ。 たっぷり時間かけて。 私それでバッチリいっちゃったわよ、ピューッって。 あんなにすごくいっちゃったの結婚して初めてだったわ。 どうしてだと思う? あの子の指の感触が私の体に残ってたからよ。 ひゅう。 恥ずかしいわねえ、こういう話。 汗がでちゃうわ。 やってくれたとかいっちゃったとか」 レイコさんはまた唇を曲げて笑った。
「でもね、それでもまだ駄目だったわ。 2日経っても3日経っても残ってるのよ、その女の子の感触が。 そして彼女の最後の科白が頭の中でこだまみたいにわんわん鳴り響いているのよ。
翌週の土曜日、彼女は来なかった。 まあ来ないわよね。 プライドの高い子だし、あんな風になっちゃったわけだから。 そして翌週も、その次の週も来なくって1ヶ月が経ったのよ。 一人で家にいるとね、なんだかその女の子の気配がまわりにふっと感じられて落ち着かないの。 ピアノも弾けないし、考えることもできないし、何も手につかないわけ。 それでそういう風に1ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけど、外を歩くと何か変なのよね。 近所の人が妙に私のことを意識してるのよ。 私を見る目がなんだか変で、よそよそしいのよ。 もちろん挨拶くらいはするんだけど、声の調子も応対もこれまでとは違うのよ。
ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。 あなたについてひどい噂が広まってるけれど知っているかって言うの。 知らないわって私言ったわ。
『どんなのよ?』 『どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ』
『言いにくいったて、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃいよ』
それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞き出したの。 彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札付きの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。
彼女の話によるとあの事件のあった日―――その子が泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問いただしたらしいのよ。 顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラウスのボタンが取れて、下着も少し破れていたんですって。 ねえ、信じられる? あの子自分でそれ全部やったのよ。 ブラウスにわざと血をつけて、ボタンちぎって、ブラジャーのレース破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それで家に帰ってバケツ3杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。
でもだからと言ってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいかないわよ。 私だって信じたと思うもの、そういう立場におかれたら。 おまけに具合の悪いことには、私に精神病院の入院歴があるっていうのは本当。 その子の顔を思いきり打ったっていうのも本当じゃない。 となるといったい誰が私の言うことを信じてくれる? 信じてくれるのは夫くらいのものよ。
思い切って夫に話してみたんだけど、彼は信じてくれたわよ。 あの日起こったことを全部話したの。 もちろん”感じた”ことなでは言わなかったわよ。 それはちょっと具合悪いわよ、いくらなんでも。 彼はそこの家に直談判に行くってすごく怒ったけど、私はとめたの。 私にはわかっていたのよ。 あの子の心が病んでいるんだっていうことがね。 私もそういう病んだ人たちをたくさん見てきたからよくわかるの。 あの子は体の芯まで腐ってるのよ。 あの美しい皮膚を1枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。 でもそれは世の中の人にはまずわからないし、どう転んだって私たちには勝ち目はないのよ。 大体13の女の子が30過ぎの女に同性愛を仕掛けるなんてどこの誰が信じてくれるのよ?
引っ越しましょうよって私は言ったわ。 それしかないわよ。 でも夫は動きたがらなかったわ。 あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。 私その頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠とかが少しずつ始まってたの。 じゃあ君、先に一人でどこかに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからって彼は言ったわ。
『嫌よ』って私は言ったの。 『一人でなんかどこにも行きたいくないわ。 今あなたと離れ離れになったら私バラバラになっちゃうわよ。 私は今あなたを求めているのよ。 一人になんかしないで』
彼は私のことを抱いてくれたわ。 そして少しだけでいいから我慢してくれって言ったの。 1ヶ月だけ我慢してくれって。 その間に何もかも手配してうまくいくからって。 そう言われると私、何も言えなかったわ。 だって何か言おうとすればするほど私だんだん孤独になっていくんですもの」
レイコさんはため息をついて電灯を見上げた。
「でも1ヶ月はもたなかった。 ある日頭のネジが外れちゃって、ボンッ!よ。 今回はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねったもの。 でも死ねなくて気がついたら病院のベッドよ。 それでおしまい。 夫に離婚してくれって言ったの。 それがあなたのためにも娘のためにも一番いいのよって。 離婚するつもりはない、って彼は言ったわ。
『もう1度やりなおせるよ。 新しい土地に行って3人でやりなおそうよ』って。
『もう遅いの』私は言った。 『あの時に全部終わっちゃったのよ。 1ヶ月待ってくれってあなたが言ったときにね。 もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあの時にそんなこと言うべきじゃなかったのよ。 どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起こるわよ。 そして私はまた同じようなことを要求してあなたを苦しめるようなことになるし、私もう、そういうことしたくないのよ』
そして私たち離婚したわ。 というか私の方から無理に離婚したの。 彼は2年前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわ。 彼は私にとてもよくしてくれたわよ。 彼は信頼できる誠実な人だし、力強いし辛抱強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。 彼は私を癒そうと精一杯努力したし、私も治ろうと努力したわよ。 結婚して6年、幸せだったわよ。 彼は99%まで完璧にやってたのよ。 でも1%が、たったの1%が狂っちゃったのよ。 そしてボンッ!よ。 それで私たちの築き上げてきたものは一瞬にして崩れ去ってしまって、まったくのゼロになってしまったのよ。 あの女の子一人のせいでね」
レイコさんは足元で踏み消した煙草の吸殻を集めてブリキの缶の中に入れた。
「ひどい話よね。 私たちあんなに苦労していろんなものをちょっとずつちょっとずつ積み上げていったのにね。 崩れる時って、本当にあっという間なのよ。 あっという間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ」
レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手を突っ込んだ。「部屋に帰りましょう。 もう遅いし」
空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしまっていた。
今では雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。
そして手に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。
「だから私なかなかここを出られないのよ。 いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いのよ」
「気持ちはよくわかりますよ。 でもあなたには出来ると僕は思いますよ、外に出てきちんとやっていくことが」
レイコさんはにっこりと笑ったが、何も言わなかった。
直子はソファーに座って本を読んでいた。
「遅くなってごめんね」とレイコさんが直子の頭を撫でた。
「二人で楽しかった?」 「もちろん」
「どんなことしてたの、二人で?」と直子が僕に訊いた。 「口では言えないようなこと」と僕は言った。
直子はくすくす笑って本を置いた。 そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を食べた。
11時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファーを倒してベッドを作ってくれた。
そして我々はおやすみの挨拶をして電灯を消し、眠りについた。 僕はうまく眠れなかったので懐中電灯と「魔の山」を出してずっと読んでいた。 12時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕の隣にもぐりこんだ。
昨夜とは違って、直子はいつもと同じ直子だった。 目もぼんやりしていなかったし、動作もきびきびしていた。
「眠れないのよ、なんだか」と小さな声で言った。 僕も同じだと言った。
僕は本を置いて懐中電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。 闇と雨音がやわらかく僕らをくるんでいた。
「レイコさんは?」 「ぐっすり眠ってる。 あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直子は言った。
「また会いに来てくれる?」 「来るよ」
「あなたに何もしてあげられなくても?」 僕は暗闇の中で肯いた。
直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。 僕は彼女の体をガウンの上から手でなぞった。
肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩き込んだ。 しばらくそんな風にやさしく抱き合った後で、直子は僕の額にそっと口づけし、するりとベッドから出て行った。 直子の淡いブルーのガウンが闇の中にまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。
「さよなら」と直子が小さな声で言った。
そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。
雨は朝になってもまだ降り続いていた。
昨日の朝と同じように僕らは3人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世話をしに行った。
直子とレイコさんはフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着ていた。
鳥小屋の掃除が終ると我々は部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。 テニスコートの少し先で別れた。
さよならと彼女たちは言い、さよならと僕は言った。 また会いに来るよ、と僕は言った。
直子は微笑んで、それから角を曲がって消えていった。
門番は僕の名前を覚えていた。 「東京からおみえになったんですな。 私も一度だけあそこに行ったことがありますが、あれは豚肉のうまいところですな」
「そうですか?」
「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけはうまかったですわ。 何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょうな」
それについては何も知らないと僕は言った。
東京の豚肉がおいしいなんて話を聞いたのも初めてだった。
「皇太子殿下の御成婚の頃でしたかな。 息子が東京におって1回くらい来いというから行ったんですわ」
「じゃあその頃はきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言った。
老人はもっと話していたそうだったけれど、バスの時間があるからと言って僕は話を切り上げた。
寮に着いたのが4時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着替えてアルバイト先の新宿に出かけた。
そして6時から10時半まで店番をしてレコードを売った。
店の外を雑多な種類の人々が通り過ぎていくのを僕はぼんやりと眺めていた。
僕は混乱した。 いったいこれは何なのだろう、と思った。 これらの光景はみんな何を意味しているのだろう。
僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。
部屋のカーテンを閉めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が隣にもぐりこんでくるんじゃないかという気がした。 目を閉じるとその乳房の柔らかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手に体の線を感じ取ることができた。 暗闇の中で僕はもう一度直子のあの小さな世界へと戻っていった。
僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。 あの月の光の下で見た裸の直子のことを思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。
そして僕は勃起したペ××を握り、直子のことを考えながら射×した。 射×してしまうと僕の頭の中の混乱も少しは収まったようだったが、それでもなかなか眠りは訪れなかった。
ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、どうしても眠ることができないのだ。
僕は起き上がって窓際にたち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めていた。
旗のついていない白いポールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨のように見えた。
直子は今頃どうしているだろう、と僕は思った。 もちろん眠っているだろう。
あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすりと眠っているだろう。
彼女が辛い夢を見ることがないようにと僕は祈った。
続く・・・