ハルキストになりたい私です(そこそこ本気で)。
「海辺のカフカ」の次は、まずは代表作であるこちらから読んでみますニコニコ


「ノルウェイの森」 村上春樹


多くの祭り(フエト)のために


第一章

僕は37歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。
その巨大な飛行機は分厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。
11月の冷ややかな雨が大地を黒く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告版やそんな何もかもをフランドル派の陰鬱な絵の背景のように見せていた。
やれやれ、またドイツか、と僕は思った。

飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。
それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。

そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。
いや、いつもとは比べ物にならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。
やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分が悪いのかと英語で訊いた。
大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。

音楽はビリー・ジョエルの曲に変わった。 僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。
失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらを取り出し始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。 僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。
それは1969年の秋で、僕はもうすぐ26歳になろうとしていた。

前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。 ちょっと哀しくなっただけだから(It's all right now,thank you. I only felt lonely,you know.)」と僕は言って微笑んだ。
「Well,I feel same way,same thing,once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。 よくわかります)」 彼女はそう言って首を振り、席から立ち上がってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。
「I hope you'll have anece trip. Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら)」
「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。




18年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。
何日か続いたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、10月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。 
空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。
風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。
梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。
まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。 その他にはどんな物音もなかった。 
どんな物音も我々の耳には届かなかった。 誰一人ともすれ違わなかった。
真っ赤な鳥が2羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。 歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。

記憶というのはなんだか不思議なものだ。
その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景にほとんど注意なんて払わなかった。 とくに印象的な風景だとも思わなかったし、18年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。
正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。
僕は僕自身のことを考え、そのとなりに並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、
僕と彼女のことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。

僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた。
まわりの風景に気持ちを向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。
でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。 とてもくっきりと。
手を伸ばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。
しかしその風景の中には人の姿は見えない。 誰もいない。 直子もいないし、僕もいない。
我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。
どうしてこんなことが起こりうるんだろう、と。
あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。
そう、僕には直子の顔を今すぐ思い出すことさえできないのだ。
僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。

もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思い出すことができる。
小さな冷たい手や、さらりとした手触りのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコートや、いつも相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんなイメージをひとつひとつ積み重ねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かび上がってくる。
まず横顔が浮かび上がってくる。 これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。
にっこりと笑い、少し首をかしげ、僕の目をのぞきこむ。
まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。

でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。
そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。
ちょうど僕がかつての僕自身の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。
そして風景だけが、その10月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。
そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴り続けている。 おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかという理由を。
ハンブルグ空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長く、強く僕の頭を蹴り続けていた。
起きろ、理解しろ、と。 だからこそ僕はこの文章を書いている。
僕は何事によらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。

彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?
そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。
そんな井戸が本当に存在していたのかどうか、僕にはわからない。 あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない―――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎ出した数多くの事物と同じように。 でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思い出すことが出来なくなってしまった。 実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼き付けられているのだ。

「それは本当に―――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。
彼女はときどきそんな話し方をした。 正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。
「本当に深いの。 でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。 このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」 「どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。 落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
「どうしようもないでしょうね。 ひゅううう、ポン、それでおしまいだもの」 「そういうのは実際には起こらないの?」
「ときどき起こるの。 2年か3年に一度くらいかな。 人が急にいなくなっちゃって、どれだけ探してもみつからないの。 そうするとこのへんの人は言うの。 あれは野井戸に落っこちたんだって」
「あまり良い死に方じゃなさそうだね」
「ひどい死に方よ。 そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいで済んじゃったらどうしようもないわね。 声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かが見つめてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面に散らばっているし、暗くてじめじめしていて。 そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。 そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」

「考えただけで身の毛がよだつな」と僕は言った。 「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」
「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。 だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」
「離れないよ」 直子は僕の手を握った。
「でも大丈夫よ、あなたは。 あなたは何も心配することはないの。 あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩き回ったって絶対に井戸には落ないの。 そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ないの」
「絶対に?」 「絶対に」
「どうしてそんなことがわかるの?」 「私にはわかるのよ。 ただわかるの」

そしてしばらく黙って歩き続けた。 
「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」
「じゃあ話は簡単だ。 ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ―――本気で言ってるの?」 「もちろん本気だよ」
直子は立ち止まった。 僕も立ち止まった。
彼女は両手を僕の肩に当てて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。
彼女の瞳の奥の方では真っ黒な黒い液体が不思議な図形の渦を描いていた。
そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。

それから彼女は背伸びをして僕の頬にそっと頬をつけた。
それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。
「ありがとう」と直子は言った。 「どういたしまして」と僕は言った。
「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。
「それはできないのよ」 「どうして?」 
「それはいけないことだからよ。 それはひどいことだからよ。 それは―――」
と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩き続けた。
「それは―――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそう続けた。
「どんな風に正しくないんだろう?」
「だって誰かが誰かをずっと永遠に守り続けるなんて、そんなこと不可能だからよ。 あなたが出かけている間、いったい誰が私を守ってくれるの? 私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。 あなたはいつか私にうんざりするのよ。 俺の人生っていったい何だったんだ? この女のおもりをするだけのことなのかって。 私そんなの嫌よ。 それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」

「これが一生続くわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手を当てて、言った。
「いつか終る。 終ったところで僕らはもう一度考え直せばいい。 これからどうしようかってね。 どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ? ねえ、もっと肩の力を抜きなよ。 肩に力が入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。 肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ」

「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。

彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。
「どうしてよ? 肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。 そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。 ねえ、いい? もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。 私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。 一度力を抜いたらもう元には戻れないのよ。 私はバラバラになって―――どこかに吹き飛ばされてしまうのよ。 どうしてそれがわからないの? それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」
僕は黙っていた。

「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。 暗くて、冷たくて、混乱していて・・・・・ねえ、どうしてあなたあの時私と寝たりしたのよ? どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」

我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。 道の上には夏の終りに死んだ蟬の死骸がからからに乾いて散らばっていて、それが靴の下でぱりぱりという音を立てた。

「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。 そして何度か首を振った。
「あなたを傷つけるつもりはなかったの。 私の言ったこと気にしないでね。 本当にごめんなさい。 私はただ自分に腹を立てていただけなの」
「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。
「僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。 でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」
僕らはそこで立ち止まって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蟬の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見上げたりしていた。
直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考え事をしていた。

「ねえワタナベ君、私のこと好き?」
「もちろん」と僕は答えた。
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
「みっつ聞くよ」

直子は笑って首を振った。 「ふたつでいいのよ。 ふたつで十分。 ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの。 とても嬉しいし、とても―――救われるのよ。 もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」
「また会いにくるよ」と僕は言った。 「もうひとつは?」

「私のことを覚えていてほしいの。 私が存在し、こうしてあなたの隣にいたことをずっと覚えていてくれる?」

「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。
彼女はそのまま何も言わずに歩きはじめた。 梢を抜けてくる秋の光が彼女の肩の上でちらちらと踊っていた。 直子は小さな丘のように盛り上がったところを上り、松林の外に出てなだらかな坂を足速に下った。 僕はその2,3歩後をついて歩いた。
「こっちへおいでよ。 そのへんに井戸があるかもしれないよ」と彼女に声をかけた。
直子は立ち止まってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。 我々は残りの道を二人並んで歩いた。
「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。
「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。 「君のことを忘れられるわけがないよ」



それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。
こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕は時々ひどく不安な気持ちになってしまう。
ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。
既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかり胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持ちで僕はこの文章を書き続けている。
直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。

もっと昔、僕がまだ若く、その記憶が鮮明だった頃、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。 でもそのときは一行たりとも書く事ができなかった。
全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。
でも今はわかる。 結局のところ―――と僕は思う―――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。

何故彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。
もちろん直子は知っていたのだ。 僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。
だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけねばならなかったのだ。
「私のことをいつまでも忘れないで。 私が存在していたことを覚えていて」と。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。 何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。



第二章

昔々、といってもせいぜい20年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。
僕は18で、大学に入ったばかりだった。
東京のことなんて何一つ知らなかったし、一人暮らしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮を見つけてきてくれた。 そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの18の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。 
もちろん費用のこともあった。 寮の費用は一人暮らしのそれに比べて格段に安かった。
なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何一つ買い揃える必要がないのだ。

その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった。 敷地は広くまわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。
中庭の両側には鉄筋コンクリート3階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。
窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。 しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。

この寮の唯一の問題点はその根本的な胡散臭さにあった。
寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、
その運営方針は―――もちろん僕の目から見ればということだが―――かなり奇妙に歪んだものだった。
「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ・・・・・というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。 正確なところは誰にもわからない。

僕は1968年の春から70年の春までの2年間をこの胡散臭い寮で過ごした。
どうしてそんな胡散臭いところに2年もいたのだとか訊かれても答えようがない。 日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうがそれほどたいした違いはないのだ。


寮の1日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。 もちろん国歌も流れる。
国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。 背が高くて目つきの鋭い60前後の男だ。 いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。
この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。
そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。
この学生のことは誰もよく知らない。 丸刈りで学生服を着ている。 名前も、どの部屋なのかもわからない。
中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。
この不気味きわまりない2人組が毎朝6時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。
僕は寮に入った当初、物珍しさからわざわざ6時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。

寮の部屋割は原則として1,2年生が2人部屋、3,4年生が1人部屋ということになっていた。
男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚い。
ゴミ箱のそこにはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空き缶には吸殻が10cmもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。 食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタントラーメンのセロファン・ラップやらビールの空き瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。
部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構成するものはまったく同じである。
汗と体臭とごみだ。 みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放り込んでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸い込んで救いがたい匂いを放っている。
そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。

でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。
床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に1回は洗濯された。
僕の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。
僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。
カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。
カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。
「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。

それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。

僕の部屋にはピンナップさえ貼られていなかった。
そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。 僕がヌード写真を貼ると、
「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、
かわりに運河の写真を貼ったのだ。
僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。
僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。
「突撃隊はこれ見ながらマスター××××ンするんだよ」と僕は言った。
冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。
あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。

みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。 こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。 掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼が片付けてくれた。
困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。

突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。
「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会った時、彼は僕にそう言った。
「地図が好きなの?」 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」
なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心した。
それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。
たしかに地図作りに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには―――あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど―――それは困ったことになってしまう。 しかし「地図」という言葉を口にするたびに、どもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。 彼は場合によって、どもったりどもらなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると100%確実にどもった。

「き、君は何を専攻するの?」 「演劇」と僕は答えた。
「演劇って芝居やるの?」 「いや、そういうんじゃなくてね。 戯曲を読んだりしてさ、研究するわけだ。 ラシーヌとかイヨネスコとかシェークスピアとかね」
シェークスピア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。
僕だって殆ど聞いたことはない。 講義要項にそう書いてあっただけだ。
「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。 「別に好きじゃないよ」
その答は彼を混乱させた。 混乱するとどもりがひどくなった。 僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。

「なんでも良かったんだよ、僕の場合は。 たまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。 それだけ」
「わからないな。 ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。 そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。 でも君はそうじゃないって言うし・・・・・・」
彼の言っていることの方が正論だった。 僕は説明をあきらめた。
それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。 彼が上段で僕が下段だった。

彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。
頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。 学校に行くときはいつも学生服を来た。
靴も鞄も真っ黒だった。 見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが、本当のことを言えば彼は政治に対しては100%無関心だった。
彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。 そういうことについて話し出すと、彼はどもったりつっかえたりしながら1時間でも2時間でも、こちらが逃げ出すか眠ってしまうかするまでしゃべり続けていた。

毎朝6時に「君が代」を目覚まし時計がわりにして彼は起床した。
あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。
そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。 顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。
歯を1本1本取り外して洗っているんじゃないという気がするくらいだ。
部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ててタオルのしわをきちんと伸ばしてスチームの上にかけて乾かし、
歯ブラシと石鹸を棚に戻す。 それからラジオ体操を始める。
僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は8時くらいまで熟睡するから、彼が起き出してごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、またぐっすりと眠り込んでいることもある。
しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。
覚まさないわけにはいかなかったのだ。 なにしろ彼が跳躍するたびに―――それも実に高く跳躍した―――その振動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。 3日間、僕は我慢した。
共同生活においてはある程度の我慢は必要だと言い聞かされていたからだ。
しかし4日目の朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。

「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。
「それやられると目が覚めちゃうんだ」
「でももう6時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。
「知ってるよ、それは。 6時半だろ? 6時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。 どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」
「駄目だよ。 屋上でやると3階の人から文句がくるんだ。 ここなら下の部屋は物置だから誰からも文句はこないし」
「じゃあ中庭でやりなよ。 芝生の上で」
「それも駄目なんだよ。 ぼ、僕のはトランジスタ・ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」
たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。 やれやれ、と僕は思った。

「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。 「ラジオ体操はやってもかまわない。 そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。 あれすごくうるさいから。 それでいいだろ?」
「ちょ、跳躍?」と彼はびっくりしたように訊き返した。 「跳躍ってなんだい、それ?」
「跳躍といえば跳躍だよ。 ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」 「そんなのないよ」
僕の頭は痛みはじめた。 もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言い出したことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操第一のメロディーを唄いながらぴょんぴょん跳んだ。
「ほら、これだよ。 ちゃんとあるだろう?」 「そ、そうだな。 確かにあるな。 気がつ、つかなかった」
「だからさ、そこの部分だけを端折ってほしいんだよ。 ほかのところは全部我慢するから。 跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな」

「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。 「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないんだよ。 10年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。 ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」

僕はそれ以上何も言えなかった。 いったい何が言えるだろう?
一番手っ取り早いのはその忌々しいラジオを彼のいない間に窓から放り出してしまうことだったが、
そんなことをしたら地獄の蓋をあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。
突撃隊は自分の持ち物を極端に大事にする男だったからだ。
僕が言葉を失って空しくベッドに腰掛けていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。
「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、朝食を食べに行ってしまった。



僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。
笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。
彼女の笑顔を見るのは―――ほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど―――本当に久しぶりだった。

僕と直子は四ツ谷駅で電車を降りて、線路脇の土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。
5月半ばの日曜日の午後だった。
鮮やかな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。
日差しは初夏そのものだった。 日曜日の午後の暖かい日差しの下では誰もが幸せそうに見えた。
15分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いでTシャツ1枚になった。
彼女は淡いグレーのトレーナー・シャツの袖を肘の上までたくしあげていた。
よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。 ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではない。

「共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮らすのって楽しい?」と直子は訊ねた。
「よくわからないよ。 まだ一ヶ月ちょっとしか経ってないからね。 でもそれほど悪くはないね。 少くとも耐えがたいというようなことはないな」
彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんの一口だけ水を飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。 それから身を屈めて注意深く靴の紐をしめなおした。

「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」
「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。 煩わしいことは結構あるといえばある。 規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は6時半にラジオ体操を始めるしね」
彼女はしばらく何かに思いをめぐらせているようだった。 そして僕の目をじっと見た。
よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。
彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。
考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。
2人で歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。
「寮か何かに入るつもりなの?」
「ううん、そうじゃないのよ。 ただ、私ちょっと考えてたのよ。 共同生活をするのってどんなだろうって。 そしてそれはつまり・・・・・」、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それは見つからないようだった。
彼女はため息をついて目を伏せた。 「よくわからないわ、いいのよ」
それが会話の終りだった。 直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少し後ろを歩いた。

直子と会ったのは殆ど1年ぶりだった。 1年の間に直子は見違える程痩せていた。
特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。 彼女の痩せ方はとても自然で物静かに見えた。
まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。 
そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。

我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。 僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。
彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。
降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。 それがたまたま四ツ谷駅だったというだけなのだ。
直子がどうして電車を降りようといいだしたのか、僕には全然理解できなかった。

駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。 僕は仕方なくその後を追った。
直子と僕のあいだには常に1mほどの距離があいていた。
僕は彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。
彼女は茶色の大きな髪留めをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。
時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。 うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。 何を言っているのか聞き取れないということもあった。
しかし、僕に聞こえても聞こえてなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。
直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩き続けた。

散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。
彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。 そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。 ちょっとした道のりだ。
駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。 穏やかな春の夕暮だった。

「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。
「駒込」と僕は言った。 「知らなかったの? 我々はぐるっと回ったんだよ」
「どうしてこんなところに来たの?」 「”君が”来たんだよ。 僕はあとをついてきただけ」
我々は駅の近くの蕎麦屋に入って軽い食事をした。 喉が乾いたのでビールを飲んだ。
注文してから食べ終わるまで我々は一言も口をきかなかった。
僕は歩き疲れていささかぐったりしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考え込んでいた。
TVのニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。
そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。

「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終わったあとで言った。
「びっくりした?」 「うん」
「これでも中学校の頃には長距離の選手で10kmとか15kmとか走ってたのよ。 それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。 ほら、家の裏がもう山でしょ? だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」
「そうは見えないけどね」
「そうなの。 みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。 でも人は見かけによらないのよ」
「申し訳ないけれど僕の方はかなりくたくただよ」
「ごめんなさいね、一日中つきあわせちゃって」
「でも君と話ができてよかったよ。 だって二人で話をしたことなんて一度もなかったものな」
彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。

「ねえ、もしよかったら―――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけど―――私たちまた会えるかしら? もちろんこんなこと言える筋合いじゃないことはよくわかってるんだけど」
「筋合い?」と僕はびっくりして言った。 「筋合いじゃないってどういうこと?」
彼女は赤くなった。 たぶん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。
「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。 彼女はトレーナー・シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。 電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。
「”筋合い”なんて言うつもりはなかったの。 もっと違った風に言うつもりだったの」
直子はテーブルに肘をついてしばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。
そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。
でももちろんそんなものは見つからなかった。 彼女はため息をついて目を閉じ、髪留めをいじった。

「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから」
「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。 「ここのところずっとそういうのが続いてるのよ。 何を言おうとしても、いつも見当違いな言葉しか浮かんでこないの。 見当違いだったり、あるいは全く逆だったりね」
「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。 「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」
僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。
「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。
「会うのは全然構わないよ。 どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」
我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗り換えた。
彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮らしていたのだ。

「ねえ、私のしゃべり方って昔と変わった?」と別れ際に直子が訊いた。
「少し変わったような気がするね」と僕は言った。 「でも何がどう変わったのかはよくわからないな。 正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから」
「そうね」と彼女もそれを認めた。 「今度の土曜日に電話をかけていいかしら?」
「いいよ、もちろん。 待っているよ」と僕は言った。


続く・・・