恋愛小説をいろいろ読んでいこうかと思っている今日この頃

女性に支持されている、唯川恵さんの一冊です


「孤独で優しい夜」 唯川恵
1―――危うさの始まり
どうやら朝らしい。
窓の向こうから人々の行き交うざわめきが届く。 粧子はまどろみの中でぼんやりと聞いていた。
目覚ましはまだ鳴らないが、そろそろ会社に出掛ける準備を始める時間だ。
けれど頭は重く、身体もだるくてまだベッドから離れたくなかった。
そのまま、またゆるゆると眠りに引き込まれてゆく。 眠りと覚醒の狭間に漂う心地よさ。
ざわめきには様々なものが混ざっている。 子供の声。 自転車のブレーキ。 ゴミだしの主婦の挨拶。
どこかで犬が吠えている。 道路工事のドリルも。 そして、寝息までも。
その時、ハッとした。 え、寝息? 粧子は慌てて目を開けた。
「何なの、これ・・・・・」
隣には男が眠っていた。 子供のように俯せになり、規則正しく呼吸を繰り返している。
粧子は何度か目をしばたたいた。 まだ夢を見ているのかと思った。
けれど粧子の隣で寝ているのは、間違いなく男なのだ。
粧子は男の顔を覗き込んだ。 そして茫然と呟いた。 「根岸くん・・・・・」
男は会社の後輩、3歳年下の根岸宗吾(ねぎし そうご)だった。
粧子は辺りを見回した。 ここは自分の部屋じゃない。 どうやら彼の部屋のようだ。
8畳ほどのワンルーム。 シンプルなインテリア。 そして床には脱ぎ散らかされた洋服。
彼のスーツと粧子のドレス。 それだけじゃない。 キャミソールもブラもショーツも・・・・・。
粧子は恐る恐る、布団の中を覗いてみた。 そして落胆のため息をついた。
当然のことながら、パジャマも下着もつけていない自分の裸が見えた。
もちろん、隣に寝ている宗吾も何も着ていない。
彼のそのままのお尻を見た時、粧子は絶望的な気分で頭を抱えた。
「ああ・・・・・・」
とにかく帰らなければならない。 できるなら彼が目を醒まさないうちに。
粧子はベッドから腕を伸ばし、とりあえずそばにあった彼のパジャマを羽織った。
それからベッドをそっと抜け出て、あちこちに脱ぎ捨てられた下着とドレスを手にした。
両手にそれらとバッグを抱えて洗面所に入り、2度目のため息をもらした。 「なんてことしちゃったんだろう・・・・」
確かに昨日はかなり飲んだ。 日曜だったのだが、社内結婚をした同僚の披露パーティーがあり、
そこでシャンパンやビール、それから二次会に六本木に流れてクラブで踊り、その後もう一軒。
宗吾とは帰り道が同じ方向だからと、一緒にタクシーに乗り込んだ記憶はある・・・・・けれど、
どうして彼と共に降りてしまうようなことになったんだろう。
覚えていなかった。 そして、こんなところでゆっくりと思い出してる場合でもなかった。
粧子は下着と服を着た。 一晩中脱ぎっ放しになっていたシルクのドレスはしわくちゃで、
無残な姿になり果てていた。 それを着るのは、どんな安物のワンピースを着るより情けなかった。
お化粧を落とさず寝てしまった顔は、目の下にマスカラがついている。 顔色はくすんで病人みたいだった。
とりあえず顔を洗い、そこにあったタオルで拭いた。 けれど中途半端な洗顔は逆効果だったみたいだ。
これが10代なら素肌で勝負できるだろうに、26歳ともなった今では肌に昨夜の疲れが出ている。
粧子はいったんバッグから化粧ポーチを取り出したものの、無駄だと思い直してしまい込んだ。
ストッキングが見つからない。 まだ宗吾は寝ている。 あちこち探し回った。
今、7時半だ。 でも昨日のパーティと同じ格好で出社するなんて考えられない。
それぐらいなら、休んでしまう方がよほどマシだ。 でも午後から会議がひとつある。
それにはどうしても出なくてはならない。 午前中だけ半日有給を取って、それから出社しよう。
けれどその前にストッキングを探さなくてはならない。 膝をついてベッドの周りを探した。
「探し物はこれ?」
その声に顔を上げると、ベッドで上半身を起き上がらせた宗吾が指先でそれをつまみ上げている。
「おはよう」 彼が笑顔で言った。
「え、ええ、おはよう」 どうした顔をしていいものか。 それでも粧子も笑顔で応えた。
そしてストッキングを受け取った。
「今、コーヒーいれるよ」 のんびりした声で彼は言い、ひとつ大きくアクビをした。
落ち着かなければと自分に言い聞かせ、できるだけ大人の余裕を見せて言った。
「コーヒーはいいわ。 私は家に帰るから」 宗吾は不思議そうな顔をした。
「でも、戻ってからじゃ遅刻するよ。 アパートは経堂だろう。 ここから行けばいいじゃない」
その能天気さに粧子はすっかりあきれて、宗吾の顔を見つめ直した。
昨日と同じ格好で出社することが、どんな想像をOL仲間に抱かせるか、誰が考えたってわかりそうなものなのに。 でも、いちいち説明するのも煩わしく、粧子は丁寧に辞退した。
「ありがとう、でも気にしないで」 あまり彼の顔を見ないようにドアに向かった。
こういう時、もう少し言っておかなければならないことがあるような気がしたが、何しろ突発的な一夜の後なのだ。 どんな言葉で締め括ればいいのかよくわからない。
ドアノブに手をかけたところで、宗吾の声が追って来た。 「じゃあ、会社には僕から遅れると言っておくよ」
「そう、ありがとう」 と、何の気なしに頷いてから、粧子は慌てて振り向いた。
「ちょっと、そんなことしたら私が根岸くんの所に泊まったこと白状するようなものじゃない。 いいの、連絡は私がするから、根岸くんは何もしないで」
「ああそうか、そうだね、うん、わかった」 まだ心配で、粧子は念を押した。
「会社に行って誰に何を聞かれても、何も言わないのよ。 昨夜、私はちゃんとタクシーで帰ったんだから。 そこのところ、お願いよ」 言葉がつい命令口調になってしまう。
3歳年下の後輩が相手だと思うと、どうしても先輩としての自分が出てしまうのだ。
「うん」 宗吾は素直に頷いた。
「じゃ」 と、外に出ると、とたんに朝の日差しに包まれた。 つきぬけた青い空。典型的な五月晴れだった。
まったく、どうしてこんなバカなことをしてしまったんだろう。 粧子は自分に舌打ちしたい気分になった。
けれど昨夜は特別な夜だった。
酔いたかったのだ。 何もかも忘れてしまうくらい。 それくらい酔わずにいられない夜だったのだ。
駅に行くと、改札口は通勤客でごった返していた。 けれど粧子がいるプラットホームには人がまばらだ。
ほとんどの人は都心に向かう方であり、粧子のようにこの時間に逆方向に向かう客はごく少数でしかない。
しわくちゃのドレスとお化粧気のない顔、それだけで十分朝帰りの様相で、反対側のプラットホームの溢れんばかりの乗客たちの目が、一斉に自分に注がれているような気がして粧子は身体を小さくした。
俯いて電車に乗り、経堂で降りてアパートに向かう。
誰とも会いませんように、私に気づきませんように、そればかり祈った。
だから部屋に入ると気が抜けてへなへなと座り込んでしまった。
―――ああ、疲れた・・・・・・。
まだ始まったばかりの一日なのに、まるで大仕事を終えてしまったようだった。
披露パーティから流れて同僚たちとさんざん騒いだ後、根岸くんとタクシーに乗った。
酔っていた。 そう、すごく酔っていたと思う。
先に代々木上原の根岸くんのアパートに着いて、彼は降りようとした。
でも、粧子はこのままひとりで帰るのがたまらなかった。 今夜はどうしても誰かと一緒にいたかった。
だからつい、降りる根岸くんのスーツの裾を掴んでいた。
根岸くんは驚いたように顔を向けた。 目と目が合って、少しの沈黙。
それから彼は運転手さんに向かって「すみません、二人ともここで降ります」と言った。
バックミラーにニタッと笑った運転手の顔、そうだ、確かに笑っていた。
けれど、一緒に降りたからといって、そうなるつもりはなかった。 ただ独りになりたくなかっただけ。
その後のことは成り行きだ。アクシデントとしか言いようがない。
どうでもよかった。 極端に言ってしまえば誰でもよかった。 昨夜はいつもの自分ではなかった。
それほど、粧子にとってはつらい結婚披露パーティだったのだ。
なぜなら、新郎の入江則彦は粧子の好きだった男であり、新婦は一番仲のよかった美帆なのだから。
今から半年前。
「粧子、力になれなくて、本当にごめんなさい」
そう言って美帆が申し訳なさそうに頭を下げたのは、東京に今年初めてみぞれが降った日だった。
「ううん、いいの、美帆のせいじゃないわ」 粧子は内心のショックを隠しながらも首を振った。
「入江さん、今は仕事だけに打ち込みたいんですって。 まだチーフになって間もないから忙しいのよ。 別に粧子だからというんじゃなくて、誰とでもそうなんだって」
けれど、そんなものが単なる言い訳でしかないことぐらいわかっていた。 早い話が拒否されたのだ。
入江則彦、29歳。 粧子が勤めるソフトウェア会社の同じシステム部にいる。 彼とは入社以来の付き合いだ。
もちろん仕事上だけだが、ファーストネームで呼ばれるほどに親しい関係だった。
人当たりがソフトで頭がよく、すらりとした長身に引き締まった面立ち。
上司だけでなく、後輩や同僚たちに信頼されている入江に、粧子はいつしか惹かれていた。
そんな粧子の想いに気づいて、美帆が気を回し、彼に粧子の気持ちを伝えたのだ。
そして、その返事がそれだった。
どこかで期待をしていた。 仕事をしている限りでは、入江とはとてもいい雰囲気だったからだ。
あの時、美帆はまるでそれが自分の責任のように、恐縮しながら謝った。
「ごめんなさい、余計なことして、本当にごめんなさい」
「やだ、いいのよ。 別に私、そんなに深い気持ちを持っていたわけじゃないから。 全然気にしないで」
と笑いながら答えたものの、本当は泣きたい気分だった。
入江への気持ちは、決して浮ついたものではなかった。
26歳にもなって、こんな熱い気持ちがまだ残っていたのかと、自分でも驚くほど好きだったのだ。
「ただ、ちょっと入江さんとは顔が合わせにくいな」 粧子が呟くと、美帆は首を振った。
「その点なら平気よ。 入江さんも、今までと同じようにつきあってゆきたいって言ってたから」
それは美帆の言葉通りだった。 入江は何も変わらなかった。 粧子も平静を装った。
でも正直なところを言えば、その変わらぬ入江の態度が粧子を傷つけていた。
自分は彼を動揺させることもできない存在でしかなかった、ということなのだから。
それから、粧子はただひたすら忘れることに心を砕いた。
切ない夜もあったけれど、いつも自分を元気づけて、諦めなければと言い聞かせた。
たまに美帆に「大丈夫?」なんて聞かれた時は、すっかり忘れているふりをした。 「あら、何のこと?」
もちろん、美帆に同情されるのがイヤだったからだ。 いくら仲が良くても、嘘や見栄が必要な時がある。
そしてだんだん、その嘘と見栄に近づいてゆき、いつか本当のことになる。 その日を心待ちにしていた。
なのに、それからひと月も立たないうちに・・・・・・。
会社帰りに寄ったティールームで、信じられないことを美帆から切り出されたのだった。
「粧子、ちょっと聞いてもいい?」 「なに?」
「実は、入江さんのこと」 「いやね、またその話?」
「彼のこと、本当に何でもない?」 「当たり前じゃない。 前にもそう言ったわ、もう何とも。 全然よ」
「だったらよかった・・・・・」 美帆がホッとしたように呟いた。
粧子は怪訝な表情で彼女を見つめ直した。 「よかった? どういう意味?」
「実は・・・・・」 そして美帆はこう続けたのだった。
「入江さんに付き合って欲しいって言われたの」
「え・・・・・」 粧子のコーヒーカップを持つ手が止まった。 一瞬、意味がわからなかった。
彼が何と言ったって? 美帆は粧子を見ようとしない。
「それが、結婚を前提にって・・・・・」
波が押し寄せるように、粧子は頭の仲がカッと熱くなるのを感じた。
落ち着かなきゃ、そう思った。 粧子は引きつる頬を無理矢理ほほ笑みに変えた。
「やだ、美帆ったら入江さんといつの間にそんなことになってたの」
「粧子のことがあってから、時々言葉を交わすようになって、それで食事に誘われて・・・・・」
今は仕事に打ち込みたいんじゃなかったの? そう言おうとして粧子は口をふさいだ。
それを言えば、恥の上塗りになる。 やはり言い訳に過ぎなかったということを実証するようなものだ。
「まさかこんなふうになるとは思ってもみなかったの。 こうなってから入江さんとつき合ったりしたら、何だかルール違反してるみたいでしょう。 私、やっぱりOKするのはいけないことのような気がするから・・・・・」
美帆の色白で柔らかそうな頬が緊張している。 肩にかかったさらさらの髪。
いかにもと言いたいくらい女らしい彼女は、申し訳なさそうに小さくなっている。
天然パーマのセミロングで、顔立ちはどこか少年ぽく、スポーティな感じのする粧子とは大違いだ。
「やだ、私に遠慮してるの。 だとしたら全然気にしないで。 私、もうまるっきり平気だから。 いいじゃない、大っぴらにつき合っちゃってよ。 実は私も、他に彼ができちゃったの」
「あら、そうなの」 「ええ、お陰様でうまくいってるし」
ここで激昂するなんてできなかった。
恋人を取られたというならまだわかる。 でも、自分はフラレた存在なのだ。
最初から問題外なのだ。 文句など言える筋合いじゃない。
「じゃあ、本当にいいのね?」 美帆が上目遣いで確認するように尋ねる。 粧子は笑顔ではじき飛ばす。
「もちろんよ。 よかったわね、美帆。 入江さんはいい人だもの。 本当によかった、おめでとう・・・・」
自分の言葉が遠くなってゆく。 美帆の笑顔が知らない人に見える。
身体がしんと冷たくなって、寒くもないのに指先が細かく震えている。
―――私はいったい何を言っているんだろう。
ちゃんと言葉になっているのか不安になった。 まるで機械仕掛けの人形のように祝福の言葉を並べたてた。
そして昨夜、ふたりの結婚披露パーティとなったわけだ。
酔わずにいられなかった気持ち。 独りになりたくなかったわけ。
もし話せば、きっと誰にだってわかってもらえると思う。
12時過ぎに会社に行くと、すぐに課長のデスクに向かった。 「勝手言って申し訳ありませんでした」
課長がチラッと上目遣いをする。 「風邪だって?」
「はい。午前中に医者に寄って来ましたので・・・・・」
「昨夜は、あれからだいぶ盛り上がったそうだけど、翌日の仕事に支障がない程度にしてもらいたいものだね」
パーティでは一次会だけで仲間はずれにされた課長だけれど、何もかもお見通しのようだ。
ネチッと皮肉は忘れない。
「これから気をつけます」 いたって殊勝に、粧子は頭を下げた。
儀礼的なことを面倒がれば仕事がやりづらくなる。 入社して4年、OLとしての処世術も身についてきた。
1時までにはまだ時間があり、粧子は時間つぶしに給湯室に向かった。 そして入りかけてくるりと背中を向けた。 中には先客がいた。 昨夜のパーティにも出席していた同僚OL3人だ。
うまく逃げたつもりだったがすぐに見つかって、呼び止められた。
「あら、津島さん、風邪は大丈夫?」
「どうってことないの、本当はちょっと寝坊しちゃったの」 「ふふ、二日酔いね」 「まあね」
別の同僚が言う。「ほんと、津島さん昨日はかなり飲んでたものね。 いつもの津島さんじゃなかったみたいよ」
「そお?」 「そうよ、何か荒れちゃってるって感じだったもの」
「ほら、美帆とは親しかったからつい感激しちゃったの」
「根岸くんに送ってもらったのよね。 何かされたりしなかった?」
「えっ」 ドキッと胸が鳴る。
「酔った勢いでつい、なんて」 「まさか・・・・・」 言った彼女が吹き出した。 「やだ、冗談よ、冗談」
そしてみんなが笑い、粧子もそれに合わせた。
ようやく1時になった。 粧子はホッとして自分のデスクに戻った。
ソフトウェア制作をするこのK&Kソフトサービスは、業界では10本の指に入る中堅どころである。
全国には10ばかりの支社も持つ。 システム部に属する粧子の仕事は、勿論プログラミングだ。
さまざまな会社から、たとえば経理をOA化したいとの依頼があったとすると、そのシステムを作り上げるのが
仕事である。
オフィス内には、現在70名ほどの社員がいるが、これはほぼ総数の半分であり、あとの社員たちは、
直接顧客会社のコンピュータ室で仕事をしている。 彼らはほとんど自社に顔を出すことはなく、
長い人は3年以上も行ったきりという場合もあった。
今、粧子が携わっているのは、アパレル会社の在庫管理である。 仕事そのものは順調だ。
ただメンバーの中には、入江も宗吾もいる。
その入江は今日から美帆と新婚旅行に出かけている。 一週間は出て来ない。
その間に気持ちをきちんと元の通りにしておかなければ。 粧子は自分に何度も言い聞かせた。
「具合はどう?」 背後から声をかけられ、振り返ると宗吾が立っていた。 粧子は一瞬身を引いた。
「えっ、何?」 「課長から風邪って聞いたけど」 「えっ、ええ、大丈夫」
粧子は宗吾を睨みつけた。 けれども、宗吾はあっけらかんと言った。
「ああ、よかった。 ゆうべ、あんな格好で寝てたから、やっぱり風邪をひいちゃったかななんて」
思わず頬が引きつった。
向かいには新入社員の真由子が座っている。 彼女はきょとんとした顔つきでこちらを見ている。
「そうね、あのドレスのままタクシーの中で寝ちゃったものだから、風邪をひいたのかもしれないわ」
宗吾はやっと気がついたのか「ああ、そうか」というような顔で、自分の席に戻っていった。
粧子はホッと息をついた。
こんなあぶない会話をしていたら、バレてしまうかもしれない。
やはりもう一度きちんと宗吾に口止めをしておかなければならないようだ。
今日の帰り、宗吾に会って話をつけよう。
銀座にある喫茶店で、粧子は宗吾を待っていた。
あまり目立たない、そして会社の人が誰も来ない喫茶店を選んだつもりだったが、周りが気になってしょうがない。 ドアが開くたび、それが宗吾か、知り合いの顔か、ドキドキしながら顔を上げた。
数人をやり過ごし、ようやく宗吾が現れた。 「待たせてごめん」 「ううん、気にしないで」
宗吾はウェイトレスにコーヒーをオーダーした。 「ちょうど僕も誘おうと思ってたんだ」
「そう」 誘う、という言葉にちょっとひっかかった。 それには甘い意味が含まれているように感じる。
向かい合って、粧子は自分が少し緊張しているのを感じた。
昨夜、目の前に座っている男とベッドに入ったのだと思うと、羞恥がふっと湧き上がる。
けれどそんな自分の背筋を伸ばした。 あれは事故。 単なる一夜の遊び。 冷静に接しなければ。
「昨日は迷惑をかけて本当にごめんなさい」 「ううん、いいんだ。別に迷惑なんて思ってないから」
宗吾が答える。 それからチラッと上目遣いで粧子を見て、照れたように髪をくしゃりとかきあげた。
「ゆうべはちょっと飲み過ぎたの。 いつもはそんなことはないんだけど、どうかしてたのね。 ハメをはずし過ぎることって誰にでもあるでしょう」
宗吾が頷く。 「僕も学生の時は前後不覚になるくらい酔っ払って、気がついたら友達の部屋でごろ寝してたなんてことあったな」
「そうそう、私もそれなの。 もちろん、しょっちゅうあるわけじゃないけど」
「でも、そういうのって、どんなに酔っ払ってもちゃんと相手を選んでるんだよね。 僕も気が付くと、一番仲のいい奴のところで寝てるんだ。 無意識の中にも信頼ってものがあるんだろうな」
「・・・・・・・・・」
粧子はコーヒーを飲んだ。 それじゃまるで、粧子が宗吾を信頼していたように聞こえる。
でも昨夜はそこにたまたま宗吾がいたからだ。 誰でもよかったのだ。
そこのところがわかっているのだろうか。
宗吾の前にコーヒーが運ばれてきた。 猫舌なんだと息を吹きかける、その湯気の間から粧子を見た。
「正直言って、ゆうべのこと、嬉しかった。 いつも、会社の先輩としてどこか恐そうなところがあった津島さんなのに、あんなふうに、ん、つまり、普通の男と女っていうか、そういう感じになれたから」
頬をいくらか紅潮させてそう言う宗吾を見て、粧子は返事に窮した。
粧子はあくまで先輩後輩の姿勢を崩したくないのに、宗吾の方はそこを無視して飛び越えようとする。
粧子はいくらか戸惑いがちに答えた。 「私も、まあ、嬉しかったけど」 「本当に?」
「それはそうなんだけど。 でもね、私たち同じ会社で、ましてや同じチームで仕事をしているわけでしょう、そういうのってマズイと思うのね。 だから、その、あくまで昨日のことはアクシデントだったとして、お互い忘れた方がいいんじゃないかと思うの」
「そのあたりはちゃんとわかってるつもりだよ。 バレるのはまずいしね」
「でしょう」
「でも、うまくやれると思うんだ。 だいたい、知らないところで社内恋愛なんていっぱいあるんだから。 昨日結婚した入江さんたちだって、婚約するまで誰も知らなかったんだろう。 僕たちも気をつければ大丈夫さ」
無邪気に言う宗吾に困惑した。 話が噛み合ってない。 どころか、勝手にどんどん進めてしまっている。
宗吾が急に向かい側で姿勢を正した。 「津島さん」
「えっ、はい」
「津島さんから見たら、僕なんかまだ頼りない男に見えると思う。それは僕も認める。 だから少し待って欲しいんだ。 いい仕事をして、津島さんにさすがって思われるようになるから」
「はあ」 「それから正式に申し込むよ」
「あの、何を?」 「決まってる、交際して下さいって」
くらくらした。 「でも私たち歳だって違うし・・・・・・」
「歳? たった3歳くらい僕は平気だよ。 世の中にはもっと歳の離れたカップルだっている」
「そうじゃなくて」 「大切なのはふたりの気持ちだろう」 「あのね、根岸くん」
「今度ゆっくりご飯でも食べにゆこうよ。 僕たち、もっとお互いのこと知り合わなくちゃいけないと思うんだ」
「あ、あの・・・・・」
「ただ僕は安月給だからあんまり高い所は無理だけど、いい感じの店はいくつか知ってるから、それに友達にも会ってもらいたいし。 そうだな、今度の土曜あたりどうだろう」
「あのね」 「津島さんは中華とイタリアン、どっちが好き?」
「いい加減にして」
粧子は強い言葉で遮った。 「え?」 宗吾がきょとんと顔を向ける。
「話を勝手に進めないで」 今まで、宗吾の気持ちを逆撫でしないよう言葉を選んできた。
でも、宗吾にはまったく伝わってない。 自分本位というか勘が鈍いというか、粧子の思惑など察しようともしない。
あきれていた。 それを通り越して腹が立っていた。
「私が言ってるのは、そういうことじゃないの。 昨夜のことはすべて忘れましょうって言ってるの。 つまり、ゆうべのことは酔った勢いでそうなっただけなのよ。 覚えてないし、思い出したくもないの。 そういうことなの、わかるでしょう」
宗吾はぼんやりと粧子の顔を見つめている。
「根岸くんとはこれまで通り、会社だけのつき合いにしたいの。 食事も紹介もそういうの一切なしの。 ただの友達、ただの同僚ってことで」
しばらく沈黙があった。 粧子も言うだけ言うと、いくらか力が抜けていた。
宗吾は言葉をひとつひとつ区切るように尋ねた。
「僕たち、始まったんじゃないの? 昨日で終わりってことなの?」
粧子は短く息を吐き出した。 「何も始まってないの。 だから終わりでもないの」
「僕はてっきり・・・・・」 宗吾が言葉尻を濁して視線を膝に落とした。
落胆しているようにも戸惑っているようにも見えた。
粧子はいくらか胸が痛んだが、ここまで自分に言わせた宗吾にも責任があると思っていた。
もっと早く察してくれたらいいのに。 普通だったらわかるはずだ。
そういうところが純情というか子供っぽいというか。
「あなたには悪いことをしたと思ってるわ。 だからちゃんと謝っておきたかったの。ごめんなさい、本当に迷惑をかけたわ」
根岸くんは悪い子じゃないけれど、粧子にとっては男という感じがしない。
「そうか、わかった・・・・・」
宗吾が呟いた。 粧子は胸をなで下ろした。 こんなやりとりはこれ以上続けたくなかった。
だから声を優しくしてつけ加えた。
「根岸くんとはこれからも一緒の仕事をしてゆくんだし、良き仲間でありたいの」
もう、宗吾ま粧子の顔を見ようとはしない。 俯いたまま低い声でぼそりと言った。
「それくらいのことはわかってるつもりだよ。 そこまで世間知らずじゃないから。 会社では今まで通りにするよ」
「・・・・・・そう、ありがとう」 宗吾の強ばった態度にいくらか気圧されながら、粧子は頷いた。
「じゃあ」 宗吾が席から立ち上がった。 伝票に手を伸ばして、粧子はそれを押さえた。
「いいの、私が」 「そう」 そして宗吾は硬い表情のまま喫茶店を出て行った。
粧子は苦い思いを噛み締めた。
昨夜、自分がいかにバカなことをしたのか、改めて悔やまれてならなかった。
宗吾を傷つけてしまった。 そして自分自身もこんな後味の悪い思いをしている。
今夜は早く家に帰って、殊勝な気持ちで反省しなければと思っていた。
それから1週間。
宗吾の態度は彼が言った通り、何ら変わりはなかった。 それは拍子抜けするぐらい淡々としていた。
純情そうな宗吾だから、いくらか罪悪感を抱いていたのだけれど、そんなものは不必要だったようだ。
男なんて結局はそんなものなのかもしれない。
気を回し過ぎた自分が結局は自信過剰ということだったんだと、笑いたくなった。
今日は、入江が出社する。 美帆との新婚旅行から帰ってくる。
朝から粧子はいくらか落ち着かない気分で待っていた。 平静だったはずの心がざわざわと波立っていた。
もう入江は美帆のもの、自分には関係のない人になってしまった。
それがわかっていながら、どこかでまだ入江の存在を消し去ることができないでいた。
それはパーティの時の美帆の笑顔が、まるで勝ち誇ったように見えたからかもしれない。
入江がオフィスに入って来た。 だいぶ焼けている。 鼻の頭の皮がむけて、彼はそれをさかんに気にしている。
彼はすぐさま仲人だった部長に挨拶にゆき、戻る途中、同僚や女性社員に掴まってさかんに囃したてられていた。 やがて、入江がデスクに座った。
「長いこと休んで悪かったね。 何か変わったことでもあった?」 声をかけられて粧子は顔を上げた。
「特別にはなかったけれど、ひとつだけ、例のOアパレルから電話があって、ゆくゆくは輸入物も扱ってゆきたいので、そこも考慮したシステムを組んで欲しいって連絡があったわ」
「そうか。 それは今からでも間に合うよね」 「ええ、私が受け持ってるパートだから大丈夫」
入江と言葉を交わしながら、粧子は自分の目線が定まらなくて困っていた。
入江を見ていると、いろんなことを想像してしまうのだ。
唇からは美帆とのキスを、指先からは美帆への愛撫を。
どんなふうにふたりは旅行の夜を過ごしたんだろう。 甘くて激しくて淫らなその一週間。
「・・・・・・は、どう?」 ハッとした。
「えっ、何?」 入江が書類から顔を上げた。 「どうしたんだ」
「ごめんなさい、ちょっとボーッとしてた」 すると入江は冗談めかして言った。
「さては、日に焼けて、すっかりカッコよくなった僕に見蕩れてたな」
「まさか、他人のダンナ様に興味はないわよ」 粧子は冗談で切り返した。
「そうか、結婚するとこんなセリフを言われるようになるんだな。 なんだか寂しいなぁ」
「当然でしょう。 今更何を言ってるの」
「バリはどうだった?」 「うん、良かったよ。 海は綺麗だし。食べ物はうまいし、天気はいいし、最高だった」
「美帆、買物しまくったんじゃない?」
「もう帰りのスーツケースが大変だったよ。 あいつがあんな買い物好きとは知らなかった。 何だか訳のわかんないもの山ほど買ってさ。 でも、持って帰るのは僕なんだから、税関では色々聞かれるし、参ったよ、まったく」
いかにも美帆らしい。 彼女は日頃は大人しいのに、買物に関してはかなりのフリークとなる。
欲しいものがあった時は、手に入れないと気が済まない質なのだ。
「そうそう、粧子にお土産があるんだ。 今度、うちに遊びに来いよ。 たぶん、美帆からも電話がいくと思うけど」
「新婚家庭にお邪魔しちゃっていいの?」
「新婚なんて新婚旅行の時までさ。 あとはもう現実生活。 夜は遅いし土日は接待ゴルフ」
「やだ、照れてる」 「バカ、どうして照れるんだよ」
冗談を交わしながら、粧子は入江が美帆と結婚したのだということを改めて痛感していた。
以前と同じように言葉を交わしていてもどこか違う。
入江と自分の間には絶えず美帆という存在が大きく横たわっている。
入江が新人の真由子にチョコレートの箱を渡している。 3時にそれとコーヒーが社員に配られるだろう。
マカダミアナッツチョコは海外土産の定番だ。
そんな当たり前のものを買ってきた入江が、いかにも幸福そうで、粧子は憎らしかった。
夜、何だか気持ちがぐらぐらして落ち込んでいた。
入江のことも宗吾のことも、それだけじゃなく、今の生活の何もかもが憂鬱を呼び起こすということが、近頃、時々ある。 26歳という年齢のせいではないかとも思う。
就職して4年。 仕事はそれなりに充実している。 やりがいも感じている。
けれど何かが足りない。 突き詰めれば、それはやはり恋という気もする。
恋人と呼べる相手がいないということは、どこかで気持ちのバランスを崩してしまうのだ。
何だか自分が情けない。 結局、頭にあるのは恋や結婚のことばかり。
これでは典型的な腰掛けOLではないか。
やはり、こんなことを考えてしまうのは、入江と美帆の結婚が影響を与えているのだろうか。
粧子もいずれは結婚したいと思っている。 勿論あせるつもりはなく、心から愛する人と自然な形で。
そして子供を産み家庭を作る。 ありきたりな夢と笑われてしまうかもしれないが、結局はそこに落ち着く。
でも、どの夢は叶えられるのだろうか。 本当に好きな人など現れるのだろうか。 入江とは叶わなかった。
これから巡り合えるとの保証もない。 歳はとってゆくばかり。
いつか知り合うチャンスもなくなり、誰からも相手にされなくて、気がついたらひとりぼっち。
そして、待っているのは孤独な老後・・・・・・。
「ああ、やめやめ」 粧子は頭を振った。
それだ、憂鬱を辿るといつもそれに考えが行き着いてしまう。
そして不安になり、眠れない夜を過ごし、暗い谷底へ落ちてゆくようないたたまれなさを感じてしまう。
粧子は大学時代からの友人である藤村容子に電話を入れることにした。 彼女と話すと元気になれる。
彼女は損害保険会社に勤めている。 お給料がいいと評判の会社だ。
「どうしたの? こんな時間に」
最初の言葉がこれだった。 それで12時を過ぎていることに粧子は初めて気づいた。
「ごめん、もう寝てた?」「ううん、起きてたわよ。 何よ、声が暗いわね」
「そう?」 「わかった、また孤独な老後だとか悲観的なこと考えて、情緒不安定になったんでしょう」
粧子は首をすくめた。 「実はそうなの」 「私は精神安定剤じゃないっていうの。 それで、何があったの?」
「別に何にも」 「そんなわけないでしょう。 確か、前にも同じように落ち込んで電話してきた時、会社の友達が婚約したとか言ってたわよね。 その続き?」
容子ときたら、変なことばかり覚えている。
「ん・・・・・まあ・・・・・実は彼女、この間結婚したの。 私はダンナの方と一緒に仕事をしているんだけど、今日新婚旅行から帰ってきてさ、何かやけに幸せそうなのよね。 そういうのを目の当たりにするって、ちょっと複雑な気持ちになるでしょう」
「そお?私は別にどうってことないけど。 もしかして粧子、そのダンナのこと、好きだったの?」
「え・・・・・・」 粧子は言葉に詰まった。 返事にモタついていると容子が吹き出した。
「やだ、どうやら図星だったみたいね」
「別にそういうわけじゃないわ。 ただ、やっぱり色々考えてしまうじゃない。 何だかんだ言ったって、女は結婚するのが一番幸せなのかなぁって」
「一番ってことはないんじゃない」
「だって、結婚すれば一生養ってもらえるし、寂しくないし、安定した将来ってものが保証されるわけでしょう」
すると容子は声高に笑いだした。
「バカねえ、粧子は結婚にそんな期待を抱いてるの? そんなものが何の保証になるのよ」
「ん・・・・・」
「言っとくけど結婚は保険とは違うのよ。 将来、本当に自分を支えてくれるものが欲しいんだったら、お金を貯めることね。 それしかないわ」
「でも私は、結婚して普通の家庭ってものを作るのもいいんじゃないかと思うわよ」
「したい人はそうすればいいの、私は別に反対してるわけじゃないって」
「ね、結婚してもしなくても、私も将来、容子の計画してる共同マンションに入れてくれるわよね」
容子がお金を貯めている理由はそれだった。
将来、気の合う友人たちが集まって、気候がよくて海が見えて温泉も出る場所で、みんなが一緒に老後を過ごせる家を作りたいというのが、容子の夢なのである。
「入居金さえちゃんと払ってくれるならね。 粧子、ちゃんと貯金してるんでしょうね」
「まあ、そこそこにね。 容子は貯まった?」
「もち、社内預金にMMC、外貨預金もね。 いつかきっと理想にぴったりの場所を手に入れるわ」
「期待してるわ」
それが夢物語とわかっていても、聞くたび嬉しくなる。 粧子の気持ちの支えになってくれている。
いつかはそこへ行けばいい。 気の合う仲間たちが待っていてくれる。
そう思うだけで、未来に向かって安心して歩いてゆける気になるのだ。
まだ、26歳なのに、と、どこからか笑う声が聞こえてきそうだ。
―――老後のことなんて早すぎる。 ずっとずっと先のことじゃない。
でも近頃思うのだ。 もう、きらめく青春の時代は終わってしまった。 溢れる可能性にも見切りがついた。
仕事に追われて、疲れきってアパートに戻る。 ただ時間を費やしているだけのような毎日。
そう、それは時間を生み出すという感覚ではなく、消耗するといった具合なのだ。
「私、海が見える部屋がいいな」
「そうね、友達のよしみで一番いい部屋をとっておいてあげるわ」
やっぱり容子に電話してよかった。
その夜、ベッドの中で、少なくとも暗闇を見つめながら落ち込んでしまうという事態だけは避けられた。
仕事は順調に進んでいた。
これからプラグラミングのテストを何度か行い、顧客側と再度打ち合わせ、それらがうまくゆけばデータを入力する。 そして本格的に稼動開始だ。
ソフト制作は、経験を重ねればよいというものではない。
プログラム言語はどんどん変わってゆくし、何と言っても新しい発想が一番大切であり、そういった意味では、新入社員であってもある程度は仕事をこなすことができる。
ただ逆に言えば、長く勤めていると限界を感じる仕事でもある。
30代後半で管理職に回らなければ結構辛い。 その頃、転職を考える社員はかなりいるようだ。
女性の場合も、昇給が遅れがちであることや、トラブルが生じた時や受注期限が迫った時には徹夜や出張もあり、結婚後も続けてゆく人は半分くらいしかいない。 子供がいればまたその半分になる。
だから社員の平均年齢は比較的若く、女性はシングルがほとんどである。 美帆も結婚退職した一人だった。
「津島さん、ちょっといいですか」
すぐ横に宗吾が立っていて、粧子の気持ちにふっとさざ波が立った。 「なに?」
「プログラムがどうしてもループしてしまうんですけど、ちょっと見てくれませんか」
「いいわよ」 机にプログラムリストを広げ、粧子は覗き込んだ。 いくつか矛盾点に気がついた。
それをアドバイスすると、宗吾は赤ペンでチェックを入れた。
「わかりました、どうも」 宗吾が自分の席に戻ってゆく。 粧子はホッと息をついた。
宗吾の態度は確かに何も変わらない。 あまりに変わらなくて拍子抜けするくらいだ。
二人の間にあんな夜があったなんて、まるで嘘のようだ。
こんな考えは身勝手過ぎるとわかっている。 でも、そんな宗吾を見てると何だか落胆してしまう。
もう少し、ためらいのようなものが見えてもいいのではないかと思う。
本当にそれがあれば、困るのは自分なのに。
それから10日ほどして、会社に電話が入った。
「はい、システム部です」 「あ、粧子、私よ」 弾むような声がした。
「え?」 「やあね、美帆よ」
「あら」 粧子はオフィスの中を見渡した。
「えーっと、入江さんは今いないみたい。 部長のところかしら」
「いいの、私は粧子に電話をかけたの。 ね、今度の土曜日、うちに遊びに来ない?」
「土曜日ね」 「何か予定ある?」
「別に何にもないけど」 「よかった、来てくれるわよね」
「そうね、じゃあお邪魔しようかな」 「嬉しい、腕によりをかけて待ってるわ」
それから美帆は家までの道順と時間を言い、粧子はメモして受話器を置いた。
いよいよか、という気がした。 新婚家庭をじっくり見学する日がやって来たというわけだ。
もちろん興味はある。 入江と美帆がいったいどんな所で生活してるのか。 野次馬的な興味ともう一つ。
自分が手に入れることの出来なかった入江との生活がどんなものなのか見てみたかった。
それはもしかしたら傷口に塩を塗ることになるかもしれない。
距離をとっていた方が気が楽でいられるかもしれない。
でも、それをするには入江も美帆もあまりに身近過ぎた。
むしろ、少し自分に荒療治をする方がいいのかもしれない。
現実を見たら、まだしつこくくすぶり続けているこの思いにも、さっぱり区切りがつくかもしれない。
粧子はデスクに目を落とし、再びプログラミングをし始めた。
けれど頭の中では、何を手土産にしようか、何を着ていこうか、そんなことばかり考えていて、
仕事はちっとも進まなかった。
続く・・・