渋いところで、浅田次郎さんの作品をひらめき電球

従業員もヤクザなら客もヤクザ!? 
そんな不思議なホテルで織り成す、笑いと涙の感動エンターテインメント!


「プリズンホテル 1 夏」 浅田次郎


【1】
気の遠くなるほど退屈な読経が終わって、参会者が住職に導かれて墓に向かったあと、
ぼくは富江の襟首をつまんで本堂の縁側に連れ出した。

ぼくは子供の頃からずっと、この齢の違わぬ義母を呪っていた。 殴っても殴っても、殴りたらぬほど憎んでいた。
富江はグズでノロマでブスで、齢より10歳も老けて見える。
実際はぼくとひとまわりしか違わないから、今年47だというのに、見ようによっては60のババアにも見える。
決して大袈裟な表現ではない。

父の経営していた町工場の女工兼女中であったものが、どういう成り行きか知らんが父の後添いに収まった。
ぼくが9つの時であったから、富江は二十歳かそこいらで嫁に来たことになる。
ところがその頃のぼくの目に、富江はやはり30過ぎに見えた。 誰が見てもそうだったんじゃないかと思う。
ひどい東北訛りで、斜視で、化粧っけもなく、ぼくや父のそれと区別のつかないくらいでかいパンツをはいていた。
一度間違えて学校にはいて行き、小便をするときに初めてそうと気づいた時のおぞましさといったらなかった。
生涯忘れ得ぬ青春の痛手だった。
以来、ぼくはぼくの身の上に起こる全ての災難を、富江のせいにするようになった。いや、そう決めた。


本道の縁側からは、庭つづきの駐車場が望まれた。
あじさいの生け垣に囲まれて、仲オジの白い乗用車がひときわ目につく。

「なんでおじさんを呼んだんだ」 ぼくは富江を詰問した。
斜視のまなこを昔のセルロイド人形のようにオロオロと動かして、しばらくして富江は小声で答えた。
「だって、仲蔵(なかぞう)さんしか身内がいないから。他人ばかりじゃあんまりみっともないと思って」
「みっともないのは、おまえだよ」 と、ぼくは拳で富江の額をゴツゴツと小突きながら言った。
「だいたい今どき法事なんてやることないんだ。 理由をつけて、工場の同窓会でもやる気だったんじゃないか」
「そんなことないよ孝ちゃん。 みんなお父さんの世話になった人ばかりじゃないの・・・・・」
仲オジの乗用車には、人相の悪い若い衆が2人、ひとりはセッセと車を磨いており、年長らしいもうひとりは携帯電話で何やら良からぬ話をしている。

「まあ、それはいいとして。あの仲オジとは一生付き合うなっていうのは、オヤジの遺言だ。 たとえ血のつながりはあっても、ヤクザはヤクザだぞって、オヤジはいつも言っていた」
「でも、仲蔵さんももう齢だし、孝ちゃんにとっても、たったひとりのおじさんでしょう」
「おまえな、また血圧高いんじゃないか。オラ、首揉んでやるから早いとこ血管切っちまえ。オヤジも待ってるぞ」
「やめてよ孝ちゃん」富江は色気のない仕草で身をかわした。「孝ちゃん、お墓参りに来たことないじゃない」
「それがどうした。夜も寝ないで仕事に追いまくられているんだ、そんなヒマがあるか。それが仲オジと何の関係があるんだ」
「仲蔵さん、毎月お墓参りにいらしてた。孝ちゃんのかわりにお墓を守っていてくれたのよ」

(有難迷惑)という四文字が、ぼくの脳裏に書かれた。

「それは仲オジの勝手だろう。 だいたい若い頃にはうちのオヤジに迷惑のかけっぱなしだったそうじゃないか。 墓参りぐらいするのは当たり前だ。 ともかく、ぼくは身内なんかいなくたってちっとも困らない。 変に付き合って親子二代かじられたとあっちゃ、世間の笑い者だ」
「ねえ、孝ちゃん、ご挨拶だけでもしてちょうだい。お願いだから、仏さんに頭下げると思って・・・・」
「お前に指図されることじゃない」
そう言って富江の頭を叩こうとして、ぼくはギョっと顔を上げた。

縁先のあじさいの茂みから、仲オジがヌッと現れたのだ。
それはいかにも芝居の中でよくあるように、立ち聞きをしていた役者が書割の陰から唐突に現れる感じだった。

「やあ、孝ちゃん。なかなか来ないから、先に焼香しちゃったぞ」
富江の爪先がぼくのかかとをつついた。 よけい頑なになって、ぼくはそっぽうを向いた。
「孝ちゃんの本、面白いな。 とくにヤクザがいい。 よく勉強してる」


出版社のリクエストがズバリ的中して、書き下ろしの極道小説シリーズが評判になっていた。
幼いころから見聞きしていた仲オジの悪業の数々が、参考になっていることに、本人は気づいているのだろうか。
「ああ。<仁義の黄昏>シリーズですね。 特攻くずれのチンピラが悪逆非道の限りをつくして出世していく話。 
あれ、モデルはおじさんですよ」
富江はハッと顔を上げ、仲オジはぽかんと口を開けたままぼくを見つめた。
そのそぶりからも2人はぼくの小説の熱心な読者であることは確かだ。
なにしろその主人公ときたら、義理も人情もクソくらえの、とんでもない悪党なのだ。 仲オジその人を
描いたつもりではないが、仲オジがかつて特攻隊で死にぞこね、復員してヤクザの道に入ったのは事実である。


「おかげさまで、こんど映画化されるのです。もうじきクランク・アップで、秋には公開されますよ」
へえ、と仲オジの顔に驚きの表情が浮かんだ。 
「来月試写会がありますけど、来ますか。この人がモデルだって紹介しますよ」
心にもないぼくの申し出に、仲オジはいやいやと手を振り、富江の顔をちらと見た。
「孝ちゃん、ちょっとこっちへ来んか」 仲オジは歩き出しながら言った。 富江がぼくの背をそっと押した。
面倒なことを言い出されても困ると思ったが、手招きされれば拒むことはできなかった。



仲オジは父とは2つ違いの弟さが、似ているところなどひとつもない。

父は無口で剛直で、下町の職人を絵に描いたような人間だった。
一年中ずっとメリヤスのシャツとパンツと肌襦袢を作っていた。
メリヤスという言葉はすっかり死語になったが、今でも下着に使われている綿布のことだろうと思う。
中学生のころ、色気づいたぼくがカラートランクスをはいていたら、父は「こんなものぁ子種がなくなっちまうぞ」と
言って捨ててしまった。
以来、今日までぼくは、段ボール5箱ぐらいも残った工場の遺産をはき続けている。
父の製品は「父の作品」と言ったほうがふさわしいほど丈夫で、はき心地も抜群だから、ぼくはたぶん死ぬまで
「東神田木戸衣料謹製」という仰々しい青字がプリントされた、股上のイヤというほど深いブリーフをはき続けることになるだろう。

それにしても―――ぼくは父に似ても似つかぬ仲オジの人相風体を、まじまじと見た。

これほど印象を異にする兄弟が、世の中にいるだろうか。
父の実直な姿とは全く対照的に、仲オジの年甲斐もなく妙に色気のある顔は、享楽的な人生を物語っていた。
金縁の偏光メガネをかけ、頬には大きな古傷が刻まれている。


「まあ、座れや」仲オジはやはり妙に色気のある声で言った。 「なにか用事ですか?」
「用事? 用事ってこともないけど・・・・あのな、孝ちゃん。別に説教たれるわけじゃないが、富江さんのこと
”おまえ”呼ばわりするのは、どうかと思うがな」
「じゃあ、何て呼べばいいんです? 今さらおかあさん、でもないでしょう」
「いや・・・・どうも小説家は論理が飛躍するな。 いやね、おまえと呼ぶのはよしなさいってことだよ。
それはふつう、目上の者が目下の者に向かって言う呼び方だと思うがな」
「ああ、それはヒラガナのおまえでしょう。 ぼくは漢字で”御前”と呼んでいるつもりですが」

なにせこの道で飯を食っているのだから、屁理屈には自信があった。
仲オジは溜息をつくと、ちょっと凄みのある横目でぼくを睨んだ。

「理屈はともかく、まがりなりにも三度三度の飯を20何年も食わしてもらっているのだから、敬意を持ちなさい」
「それはヤクザの論理です」 仲オジの胸をえぐるように、そう言った。 
ぼくらはしばらく睨み合い、それからおもむろに視線を境内に戻して、同時に息をついた。

「まあ、それはいい。 話というのはだな―――」 「なんだ、その話じゃなかったんですか」
「もちろんだよ」 「妙なことを言い出さないでくださいよ。 あっ、わかった一代記を書けって言うんでしょう、
<最後の任侠・木戸仲蔵伝>なんて」
ハッハッと仲オジは大口を開けて笑った。 「あいにく話ってのァ、そんなんじゃねえ」 「で、なんです? 話って」 
「うん。 俺な、ホテル作ったんだ」 「へえ。ラブホテル」
「そうじゃねえ。れっきとした観光ホテルのオーナーだ。 ちゃんとしたリゾートホテルだぞ」

「リ、リゾートホテル!」

「なんだ、おかしいか」 「おかしい、おかしいよ。おじさんがリゾートホテルのオーナーだなんて」
「あのなあ、孝ちゃん―――。東大なんて楽勝だと豪語していたガキがよ、ワセダの二文までアッサリと落ちて、おまけに駿台予備校の試験まで落ちてよ」
「エッ、なぜそれを・・・・・」
「知ってるさ。オヤジがこぼしてたもの。 あの野郎は口から生れてきやがったって。言ってるこたァ、千に三つも当たらねえってよ」
「いや、それはですね・・・・・」
「で、ひっこみがつかなくなって、いきなり自衛隊でやんの。ヤケクソってえのか、卑怯な手だったよな」
「人の古傷をいくじっくって、いったい何が言いたいの」
「まあ聞け。そんなセンミツの卑怯者がだな、いつのまにか懸賞小説の新人賞なんぞ取りやがって、
バタバタと本なんか出しやがって、世間様から先生なんて呼ばれるんだぜ。 この俺がリゾートホテルのひとつやふたつブッ建てたって、何のフシギもあるめえ」

唖然とするぼくの顔を、仲オジは凄みの利いた目でグイと睨みあげた。 「それに――俺たちゃ、血が繋がっている」
仲オジの言うことにはすばらしい説得力があった。 咽がひきつる感じがして、ぼくは咳払いをした。
「わかりました。それはおめでとうございます。ハッハッハッ、人間、努力ですな、おじさん」
「いや、人間運だ――まあそういうわけで、孝ちゃんも仕事で疲れているようだから、いっぺん遊びにこいや。ゆっくり湯につかってのんびりすれば、頭の回転も良くなる」

ぼくの頭は湯につかるまでもなく、猛然と回転しはじめた。
仲オジには子どもがいない。 他に血縁がひとりもいないのだ。
とすると――いずれ仲オジが死んでしまえば、ぼくはリゾートホテルのオーナーになる!
眼前に突如として地平の開ける気がした。 クリエイティブな経緯を楽しむよりも、結果としての
オブジェを夢見るタイプの不純な作家であるぼくは、ほとんど狂喜した。

(あれとは付き合うな。 たとえ血のつながりはあっても、ヤクザはヤクザだぞ・・・・)
父の言葉が耳の奥で聴こえ、ぼくはハッと気を取り直した。

「来週はむこうにいる。 気が向いたら来いや」
ぼくはできるだけ毅然とした声で、仲オジの背中に向かって言った。 「のんびりいくほど偉くはありません」
「まったくガンコなところまで親譲りだな。じゃあ勝手にしろ。俺ァ身内なんていなくっても困らねえ」
「仕事をしに行きますから、一番いい部屋を空けておいて下さい。お金は払います」

「それからひとつだけ言っておきますけど、おじさんとは付き合うなっていうのは、オヤジの遺言でした」
頬の向こう傷をちらりと振り向けて、仲オジはわずかに肯いた。
湿った風が林を縫って吹いた。 おびただしいあじさいの茎が、花の重みに耐えかねて、
仲オジのひょろしとした後ろ姿をかばうように、いっせいにうつむいた。

「奥湯元あじさいホテル、てえんだ。どうだ時節柄シャレた名前だとは思わねえか、木戸先生よ」



【2】
業界の噂によると、ぼくはたいへん偏屈な人間なんだそうだ。

ある出版社の応接室で、ぼくはセッセと原稿のゲラ校生――つまり最終仕上げに追われていた。
しばらくたって、間仕切りで区切られただけの隣室に、来客と若い編集者が入ってきた。
露骨な金勘定の話なんかを延々とした末、突然ぼくの名前が彼らのマナイタに載ったのだ。
客が今や飛ぶ鳥も落とす勢いの若手ハードボイルド作家であることは、キザな声音からもわかった。

「ああ、木戸くんね。『仁義の黄昏』、あれそうとうヤッツケ仕事ね。 PART6だって、いったいどこまでやる気?
ほら、PART3で蜂の巣にされて死んじゃったヒットマンがさ、片手片足で生き返ってきやがんの。
あれじゃオカルトだよね、笑っちゃうよまったく」
「でもあの人、クレームつけるとすぐ顔に出るんですよね。 それで書き直すと、あてつけみたいに純文学しちゃったりするんです。 ひどいときには旧カナづかいなんかで、五七調のセリフを吐いちゃうんですから」
「ハッハッ、そりゃ参るね。 木戸クンらしいと言えばそれまでだが、彼、屈折してるのよ、人間が」
「そうそう。なにしろ偏屈でね、人の言うことをなんだって悪意にとるんですよ。 何か忌まわしい幼児体験でもあるんじゃないですかね。 たとえばホモロリコンに犯されたとか」

偏屈であるかどうかはともかくとして、ぼくが短気な性格であることは確かだった。
そのうえ、自衛隊で暴力の有難味もさんざん身につけていた。
で、間仕切りを思い切り蹴飛ばすと、テーブルの上に置いてあった鋳物の灰皿を握って隣室に躍り込んだ。
相手がいっけん屈強なハードボイルドであることは気になったが、そういうヤツに限って根はナヨナヨの
土佐日記と決まっている。 クリエイティブなパワーの根源は、変身願望なのである。

「なんやて! ワレもういっぺん言うてみい」と、つい校生中のセリフをそのまま叫びながら、灰皿を振り上げた。
案の定、ハードボイルドの実は土佐日記は、ワーワーキャーキャーと逃げまどった。
ヤクザ作家がハードボイルド作家を壁際に追い詰めてとどめを刺そうとしたとき、そのまた隣室で執筆中であった
時代劇作家が変事に気付き、「出合え、出合え!」と人を呼んだ。
しばらくの間、どこへ行ってもこの噂でもちきりだった。
よその出版社で「さすがですね」なんて暗意をこめて言われると、さすがのぼくも落ち込んだ。

こうなると、愚痴を言う身内のひとりもいないことには淋しかった。
仲オジのホテルに行こうと思い立って荷物をまとめたとき、愚痴をタラタラをいい、慰めの言葉をかけられ、
できればうっぷん晴らしに2,3発はり倒せる人間が同行すれば旅は楽しかろう、と思った。
しかし、まさか富江を連れて行くわけにはいかない。
悩むまでもなかった。 こういう場合に適した人材が、ぼくの周囲にはもう一人いるのである。


片手にボストンバッグを提げたまま、ぼくは受話器を取った。
留守番電話に繋がった。 メッセージを入れる。 彼女、清子に対する時専用の、強圧的かつおどろおどろしい声で。
「これから旅に出る。 一緒に行きたかったら上野駅の翼の像の前に来い。 10時から10分だけ待つ」
なんだか誘拐犯人の脅迫電話みたいだなと思ったが、ミステリアスあ旅の幕開けとしては上出来だ。
指定の時間に間に合わない可能性は十分にあるが、それならそれでよい。 だがたぶん、清子は来る。
ぼくは田村清子を月々20万円で買っているのだ。

身勝手な男と3年も付き合っていると、すっかり学習効果の実があがって、
清子はいついかなる場合でもぼくの要求に対応できる体になっている。
ちょいとそこいらまで出かけるときでも、オートコール付きのポケットベルを携帯している。
ご主人様からの気まぐれなメッセージを出先で捕捉し、即座に対応するためである。
アパートの近所には怪しげな託児所があって、5歳の娘をとっさに預けてくることもできる。
心臓病で寝たきりの母親も同居しているが、万一発作を起こしたときは一錠で劇的に効く、
ニトログリセリンとかいう薬を枕元に備えてある。 たまには区役所のホームペルパーも覗きに来る。

と、こんなふうに言えば、清子はまるで世界中の不幸を一身に背負った、ボロボロの女に思えるだろう。
ところが、お世辞にも幸福とは言えないこの女は、百人の男が見て百人があっと振り返るくらい、いい女なのだ。
もっと平たく言えば、百人が百人、やりてえと思うほどの女だ。
花にたとえるなら、大輪の牡丹というより清楚な百合の花であり、往年の女優にたとえるなら、
グレース・ケリーというより、オードリー・ヘップバーンである。
からだのまわりを、いつもまっくらな不幸が包んでおり、それがまた妙に味わい深い印象を与えている。
もともと場末の安キャバレーに、まったくお似合いの感じで咲いていたのを、つみとって来た。

こうしてべつだん惚れてもいないクスブリ女を囲うには、ぼくなりの思惑があった。
見映えがいいなどという卑しい理由ではない。
清子の前の亭主はヤクザ者で、さる抗争にかかわって服役した。
清子は長い間、本物の「極道の女」だったわけで、それなりに業界の実情には精通していた。
ぼくはその知識が欲しかったのである。

極道小説を書くには莫大な「取材費」がかかる。 しかも「クサレ縁」というリスクもつきまとう。
清子はぼくの生き字引であった。 <仁義の黄昏>の持つのっぴきならないリアリズムや、正確な俗語が、
実は嘘を知らないパープー女の記憶のたまものであることを知る者はいない。
というわけで、精神的にも経済的にもぼくを主と崇める清子は、ぼくの意思に抗うことは絶対にできないのである。


10時10分。
腕時計の秒針が制限時間5秒前を示したとき、人ごみの中からぼくの名を呼ぶ声がした。
「よかった、間に合って・・・・・」
肩で息をしながら、清子は言った。 きっと山手線の中でも走ってきたのだろう。
「出がけに美加がちょっとグズって。 ごめんなさいね」 「また託児所か」
「ううん。おばあちゃん、暖かくなって具合がいいから、うちに置いてきました」
「そうか。しかしなんだ、ガキと病人をおっぽらかして男と旅行に出かけるなんて、ひでえ女だ」
清子は汗を拭う手を止めた。 ぼくは人間のこういう瞬間を見るのが好きなのだ。

「あの、一泊、ですか?」 「さあ、日帰りかもしれない」
「よかった。食べるもの、あんまり置いてこなかったから」 「一週間かもしれない」
「一週間・・・・一週間ですか・・・・・」
途方に暮れる感じが、横顔によく表れていた。 これは立派なスチール写真になると、ぼくは思った。
「大丈夫だよ。富江が三食届けることになっている。 他に取り柄はないが、あれは家事の天才だ」
絶望の殻を割って、清子の顔に微笑が戻った。
清子はぼくの手からボストンバッグを受け取った。
それは渡された途端に細い肩がガクッと歪むほどの重さだった。 清子はていねいに頭を下げた。
「ありがとうございます。 気を遣っていただいて」

清子は春先のバーゲンで買ってやった、暗いウール地のワンピースを着ていた。
わざわざそれを着てきたという誠意は評価するが、6月の気候には、見ていて暑苦しい。
行き先を聞こうとはしなかった。
3年間ずっと観察し続けて思ったことだが、この女は意思を表明するということがない。 万事なすがまま、である。
切符を買う間も、両手にバッグを持って、背後霊のようにぼくのうしろに立っている。
手がしびれるのか、肩が抜けそうなのか、「うう」と押し殺した呻き声が洩れる。

グリーン車のシートに並んで座ってから、ぼくは言っておかねばならぬことを手短に言い含めた。
ぼくには一人だけ血の分けた叔父がいること。 ところが叔父はヤクザ者であまり付き合いたくないこと。
これからその叔父の経営するホテルに行くのだが、ぼくの秘書ということで同行すること。

清子はひとつひとつの注意に真剣な顔で頷く。
梅雨の合間の、涼やかな風の吹く日だった。
清子は窓の外に目を凝らすぼくの視野を開こうとするように、雨だれをワンピースの袖で拭った。
窓の外のしずくを拭こうとする女のバカさかげんに、ぼくは微笑みながら呆れた。
と、ふいに窓の外が不思議な色に明るんだ。 清子の掌が奇蹟の風景を開いたように思えて目をしばたたくと、
間近な土手の一面に、あじさいの群落が過ぎて行くのであった。

「わあ、きれい」、と清子は素頓狂な声をあげると、両手を窓いっぱいに拡げて、掴めぬ花束を胸に抱くのだった。



続く・・・