十角館を作った中村青司の弟から、青屋敷全焼の火事の真相を聞く江南と島田。
それから出した結論は、周りの者を殺したうえ、中村青司は焼身自殺した。

「十角館の殺人」 綾辻行人


■登場人物■
<島>
エラリイ/法学部3回生。背の高い色白の好青年。冷静沈着な行動派。
カー/法学部3回生。中肉中背で猫背の青年。攻撃的な性格。
ルルウ/文学部2回生。童顔で円眼鏡の小男
ポウ/医学部4回生。大柄で髭面。無口。ヘビースモーカー
アガサ/薬学部3回生。美人で明るく気が強い。ソフトソバージュの長い髪
オルツィ/文学部2回生。小柄で太め、ショートヘア。地味なルックス。内向的な性格 日本画が趣味。
ヴァン/理学部3回生。痩せ型の青年。島では風邪気味である。

中村青司/館の元の持ち主。 青屋敷と一緒に焼死した。
中村和枝/青司の妻。 絞殺されて死亡している。
北村夫妻/中村青司の屋敷で住み込みで使用人をしていた。斧で頭を叩き割られて死亡している。
吉川誠一/角島の事件当時、庭師として島に来ていた男。 行方不明。

<本土>
江南孝明(かわみなみ たかあき)/元推理小説研究会の部員。好奇心旺盛で行動派。
中村紅次郎/死んだ青司の弟。高校の教師。
島田潔/中村紅次郎の友人。痩せていて背が高い。30代?
守須恭一/推理小説研究会会員。 冷静沈着。本当は情熱家? 江南とは仲良し。

中村千織/推理小説研究会の新年会で急性アルコール中毒で死んでいる。



第九章 五日目


一晩中、悪い夢を立て続けに見ていたような気がする。 蹴り飛ばした毛布がベッドの横に落ちていた。
寝乱れてくしゃくしゃになったシャツ―――昨夜は着替えないまま眠ったのだ―――。
全身が汗でべとべとしている一方、口の中はすっかり乾ききっている。 唇がひび割れて痛い。
上半身を起こし、両腕を自分の胴に巻きつけた姿勢で、ルルウはしばらくのろのろと頭を左右に動かし続けた。
頭痛はいくらか和らいでいる。 だがその代わり、頭の芯が痺れたようにぼうっとしていた。
鎧戸の隙間から洩れ込むかすかな光が、夜の終わりを告げていた。

靄に包まれた頭の中に、四角いスクリーンが下りてくる。 この島に上陸した当初の仲間たちの顔が映し出される。
エラリイ、ポウ、カー、ヴァン、アガサ、オルツィ。みんな―――このちょっとした冒険旅行を楽しんでいた。
無人島という解放感に溢れたシチュエーション。 過去の事件に対する好奇心。 漠然としたスリル。
ああ、オルツィ・・・・・そしてカー。 闇に転がり落ちるエラリイの身体。険しいポウの声。
蒼褪めたヴァンの顔。 ヒステリックなアガサのふるまい。・・・・・・

生き残っている仲間たちの中に、人殺しがいるのだ。いや、それともこの島のどこかに誰か潜んでいるのか。
(中村青司―――中村・・・・・・中村・・・・・・)

「・・・・・えっ」 

ルルウは思わず声を出した。 「”中村”?」

黒い影がにわかに形を整え、やがて小柄で色白の、一人の女性の姿へと変わっていく。
(まさか、そんな・・・・・)
あの中村千織という子が中村青司の娘だったなんて、そんなことがいったいありうるのだろうか。
ルルウはまた拳で頭を叩いた。
夜の街。 三次会で流れ込んだ居酒屋。 光るグラス。酒の臭い。喚声。陶酔。喧噪。狂態。
やがて・・・・・喜劇から一転、突然の緊張。 狼狽。サイレンの音。・・・・・・

「そんなこと、あるわけない」
わざと声を大きくした。 次第に高まってくる不穏なざわめきを打ち消すためだった。しかし―――。
静まるどころか、そのざわめきはますます大きく、ますます激しいものへと膨れ上がってくる。
じっとしていられないほどの不安と焦燥で、全身にじわじわと脂汗が滲み出てくる。

ルルウは頭を抱え込んだ。 どうにもこらえきれず、叫び出しそうになった。―――と、その時。
唐突にまったく別のある場面がスクリーンに浮かび上がってきて、音と光がぷつんと消えた。

(・・・・・・”昨日のだ”)
心のその部分に厚いカーテンが引かれたかのように、恐怖の感情が失せていた。
”これは昨日出遭った光景だ。”
青屋敷跡の横手の崖に立って、みんなで船を探していた。 あの時に見下ろした、崖下の岩場の。
一昨日はエラリイと二人であそこへ降りてもみた。 確かそう、その時にも・・・・・・。
何かに憑かれたようだった。

”一人で出るのは危険だ”―――と、一瞬そう思いはしたが、すぐに霞の立ち込めた心の奥へと沈んだ。
ルルウはゆらりとベッドから立ち上がった。



アガサはドアを細く開けて、ホールの様子を窺った。 誰もいない。人が起きている気配もない。

ポウに貰った薬のおかげで昨夜は楽に眠ることができた。
今さっき目が覚めるまで、死んだように眠りこけていた。 夢を見た憶えもない。
こんなただならぬ状況下だというのに、不思議なくらい満ち足りた眠りだった。
身体の疲れはだいぶ取れたように思う。 失調しかけていた神経もいくらか持ち直したみたいだ。
(とりあえず、ポウには感謝しよう)
アガサはそろりとホールに忍び出た。 洗面所のドアまで壁伝いにゆっくりと進む。
朝の光の中にあっても、十角形のホールは奇妙に歪んで見えた。

洗面所に入ると、ドアは半分開けたままにしておいた。 奥のトイレと浴室も確認するのを忘れない。
化粧台に向かい、鏡を覗き込む。 目許の隈はいくぶん薄くなっている。
けれど、島へ来た時に比べると、頬は明らかにやつれ、血色も悪い。 アガサは深々と溜息をついた。
事件のことはもちろん、ゆうべ自分が演じた醜態を思い出すと、溜息は一度では済まなかった。

いつも美しく、そして凛々しくありたい―――と彼女はつねづね思っていた。
しかし鏡の中の姿は―――。とうてい美しいとは感じられなかった。 救われない気持ちだった。
(お化粧はもっと明るめにしなくちゃ)
化粧品の入ったポーチを開けながら、アガサは考える。 それが彼女にとってのせめてもの慰みだった。
(口紅も、今日はローズじゃなくって赤に替えよう)
今更この島で、他の誰の視線を気にするわけでもない。 

彼女が意識しているのはただ、鏡を見る自分自身の目なのだった。



ヴァンは腕時計のアラームで目を覚ました。
(・・・・・・午前10時、か。 起きなきゃ)
ひどく肩が凝っている。 あちこちの関節が痛い。―――思うようには眠れなかったようだった。
(みんな、まだ寝ているんだろうか)
起き上がって耳を澄ましながら、煙草に火を点ける。 煙が肺に届くと、強い目眩がした。
肉体的にも精神的にも相当に参っているのが、自分でもよく分った。
(無事に帰れるだろうか)
正直云って、怖い。恐ろしくてたまらないのだ。
できることならば子供のように泣き喚いて、すぐさまここから逃げ出してしまいたい・・・・・・。

ホールに出ると、左手のドアが、半分ほど開いたままになっているのに気づいた。 洗面所のドアである。
もう誰か起きているのか、と彼は思った。
(―――にしては、音がしないな。 誰かがトイレに云って、閉め忘れたんだろうか)
物音は何も聞こえない。 心臓の鼓動がにわかに大きく聞こえ始めた。 やがて・・・・・・。

「ひいっ」 喉を絞めつけられたような掠れた悲鳴を、ヴァンは発した。 全身に戦慄が走った。
洗面所のドアの向こうには、白いものが倒れていた。
繊細なレース地のワンピース。 力なく投げ出された細い腕。 ふわりと床に広がった黒い髪。


―――生あるものの動きを完全に失った、それはアガサの身体であった。


「あ・・・・・・あ・・・・・・・」
右手で口を押さえて、ヴァンは立ち尽くした。 叫びだしたい衝動と嘔吐感とが争う。
片手を椅子の背に突き、身体をくの字に折り曲げた。 
そうしてがくがくと震えやまぬ足を、ポウの部屋に向かって必死で引きずった。

力任せにドアを打つ乱暴な音で、ポウは飛び起きた。 「何だ。どうした」
ドアに寄りかかっていたのはヴァンだった。 両手で口許を押さえてうずくまっている。
「どうした、ヴァン。大丈夫か」 ポウが声をかけると、ヴァンは片手で洗面所を指さした。
「ア、アガサが・・・・・」 「何ぃ?」 ポウはひとっ飛びに洗面所へ向かった。
そして半開きのドアから中を覗き込むなり、「エラリイ!ルルウ!起きろ。 起きてくれ!」大声を張り上げた。

エラリイはドアを開けた。 「どうしたんだ」
洗面所のドアが開け放たれている。 中で俯せに倒れている、あれはアガサか。
「アガサが殺られたのか」 「そのようだ。 ヴァンが苦しんでいる。吐かせてやってくれ」「分った」
流し台に顔を伏せ、ヴァンはぜいぜいと喘いだ。 その背中をさすってやりながら、
「水を飲む方がいい。さあ、ヴァン」 「―――大丈夫。自分でやるから、それより、あっちのほうを」
「よし」 エラリイは身を翻し、洗面所のポウのそばに駆けつけた。

「死んでるのかい、ポウ」 ポウは目を閉じて頷いた。 「また毒だ。 今度は青酸のようだな」
両目をぎりぎりまで見開き、口を少し開けて凍りついたその表情は、くもんというよりも驚愕に近い。
ここで化粧を済ませたところだったらしい。 仄かに漂う甘い香りが、ポウの意見の拠りどころと見えた。
「ああ・・・・こいつが例の、扁桃臭ってやつか」 「そうだ。エラリイ、部屋に運んでやろう」
「ねえ、ルルウは? どうしたんだろう」 「ルルウ? そう云えば・・・・・」

エラリイとポウは、この時になって初めてルルウの部屋のドアに目を向け、そして同時に叫んだ。


[第3の被害者]


そこには赤い文字の例のプレートが、彼らをせせら笑うように貼り付いていたのである。


「何てことだ。アガサは4番目だったっていうのか。―――ルルウ!」
エラリイは猛然とダッシュして、ルウウの部屋のドアに飛びついた。
「ルルウ!ルルウ!―――駄目だ。鍵がかかってる。 ヴァン、合鍵はないのか」
「そんな。 ここはホテルじゃないよ」 「破るしかないな。 エラリイ、どけ」 「待て」
「体当たりしたって、そう簡単に破れるもんか。 外へまわって窓を壊したほうが早い」
玄関ホール把手に結び合わせていた紐がほどけていた。

ポウが椅子を振り上げ、力任せに打ち付ける。 その幾度かの繰り返しによって、ルルウの部屋の窓は破られた。


ところが―――。 部屋の中には、ルルウの姿はなかった。 外へ出ていったまま帰ってきていないのだ。


「手分けして探そう。 恐らくもう、生きちゃいないだろうが」
空気は生暖かで、肌に粘りついてくるように感じられた。
昨夜はいくらか雨が降ったらしい。 足許の芝生が湿り気を帯びて柔らかい。

「ポウ、ヴァン、こっちだ」 エラリイが青屋敷の前庭の中央付近に立って手を振っていた。
大急ぎで駆けつけた二人は、エラリイの足許にあるものを、息を詰めて凝視した。

「死んでるよ」 力なく首を振りながら、エラリイは吐き捨てるように云った。

ルルウは地面に倒れ伏していた。 両手を十角館の方向へ差し延べるような恰好だった。
横を向いた顔の半分が、黒い土の中にめりこんでいる。
「殴り殺されている。 そのへんに転がってる石か瓦礫で、頭を打たれたんだろう」
そう云って、赤黒く割れた死体の後頭部を指し示した。 ヴァンはぐうっと喉を鳴らし、口に手を当てた。
治まっていた吐き気が再び襲ってきたのだ。
「ポウ、調べてくれないか。 辛いかもしれないが、頼む」 「あ、ああ」

死体のそばに屈み込み、その顔を覗き込む。 丸い目が異様なほどに大きく見開かれていた。
唇の端からはだらしなく舌が垂れている。 恐怖のせいか苦痛のせいか、表情全体が凄まじく歪んでいる。
「死斑が出てるな」 ポウは押し殺した声で云った。「そうだな、死後5,6時間といったところか」
「夜明け頃か」エラリイが呟いた。 「とにかくルルウを、十角館へ運んでやろう。 このままじゃあ可哀想だ」


十角館に戻ると、彼らはまずルルウの死体を部屋に運び入れた。 ドアの鍵は上着から見つかった。
続いてアガサの死体に取り掛かった。 彼女の部屋のベッドに運び、髪と衣服を整えてやる。
「青酸か」 エラリイは呟いた。「アーモンドの香りとは、確かによく云ったもんだな」
「洗面台の前にこんなものが落ちていたよ」 「化粧入れだな」 エラリイはその中身を調べはじめた。

「”こいつか”」 と、やがてエラリイが取り出したのは、2本の口紅であった。 「こっちだな」
「あまり鼻を近づけるなよ。危険だぞ」ポウが云った。 「分ってるさ」
2本の口紅の色は赤とピンクだった。 エラリイは赤の方の臭いを用心深く確かめると、ポウにまわした。
「正解だな、エラリイ。 たっぷり毒が塗ってあるようだ」
「ああ。まさに死化粧だね。 白いドレスの死装束、おまけに毒殺ときてる。 まるで童話の中の姫君だ」
ベッドのアガサに改めて悲しげな目をくれると、エラリイはポウとヴァンを促して外に出た。
「おやすみ、白雪姫」

3人は再びルルウの部屋に向かった。
ヴァンの用意した水とタオルで、顔の汚れを拭いてやる。 眼鏡もきれいにして胸の上に載せてやった。
「張り切ってたのにな、編集長」

こうして十角館には、エラリイとポウ、ヴァン、3人の男たちだけが残された。



残された3人はホールに集まった。 エラリイは、無言を守るポウとヴァンを交互に見やり、
「残ったこの中に『殺人犯人』がいるとして、まさか今から名乗り出る気はないだろうね」

ポウは眉をひそめて煙を吐き出した。 ヴァンは目を伏せてコーヒーを啜った。 不穏な沈黙が流れた。
十角形のテーブルを囲んでばらばらに坐った3人の間には、隠しようもなく互への不信感が横たわっていた。

「もう一度、最初から検討してみるかい」 
エラリイは椅子に背を預け、天窓を仰ぎ見た。 空は相変わらず、どんよりと暗い。

「始まりはあのプレートだったね。 気づかれないように持ち込むのは誰でも可能だろう。
3日目の朝、犯人はプレートの予告を実行に移した。 『第1の被害者』はオルツィ。 絞殺だ。
まず、問題とするべきなのは、”犯人がどうやってオルツィの部屋に入ったか”、だ。
これは2つに絞ることができると思う。 1つは窓のほうの掛金だけをオルツィが掛け忘れていて、そこから犯人が忍び込んだという考え方。  もう1つは、犯人が彼女を起こして、ドアの鍵を開けさせたのだという考え方だ。 犯人を内部の者に限定するのなら、僕はむしろ後者、すなわち”オルツィにドアを開けさせた”という考え方のほうに焦点を当てるべきだと思う。 彼女が眠っていたとしても、あの窓から部屋に入るには多少の物音が伴っただろう。 万が一、そこで気づかれでもしたら大事だ。 そんな危険を冒すよりも、何か口実を設けて起こすほうを選ぶんじゃないか」

「でも、オルツィは寝間着姿だったんだろう」
「入れたかもしれないさ。緊急の話だからと強く迫られたら。 その点にこだわるとすれば―――」
エラリイは横目遣いにポウを見た。
「がぜんあやしくなるのは君だね、ポウ。 彼女の幼馴染なんだから警戒される度合いは少ないだろう」
「莫迦な」 ポウはがっと身を乗り出した。「よしてくれ。俺がオルツィを殺した?冗談じゃないぞ」

「まあ、待てよポウ。 可能性は他にもある。 ただ、ポウが最も”それらしい”というだけの話だ。
切り落とされた手首の問題だけど、その意味は僕にはわからない。―――ヴァンはどう思う」
「さあ。僕たちを攪乱するため、とか」 「ふん。ポウは」
「攪乱するだけのために、あんな真似をするとは考えられんな。 大きな物音を立てないように手首を切り落とす作業は、それだけでもかなりの苦労だったはずだぞ」
「なるほど。”相応の必然性があったはずだ”ってわけか。それはどんな必然性だったのか・・・・・」
エラリイは首を捻り、長い息をついた。

「これはちょっと措いておくとして、とりあえず次に進もうか。 カー殺しだ。
「あの時に毒をカップに投げ込むのは容易じゃない。 カップに毒を塗っておいて何か目印をつけておくほうが、遥かに容易だし、安全でもあるな」
「だが実際問題として、あのカップに目印らしきものはなかった」
「そう。だから、どうしても引っかかるんだな。”本当にあのカップには目印がなかったんだろうか”」

エラリイは手許のカップを、首を傾けてしげしげと見つめた。 「―――いや、待てよ」
「どうした」 「もしかすると、とんでもない見落としをしていたのかもしれないぞ」

エラリイは厨房へ走った。 「二人とも来てくれ」
「―――やっぱりそうか」 カップを真上から覗き込むと、エラリイは強く舌打ちした。
「見事に騙されたもんだね。あの時気付かなかったのが不思議なくらいだ」
「何がどうだって?」 「俺には他と同じに見えるが」
「このカップにはやはり目印があったんだよ。 明らかに他のカップとは異なる点がね。 まだ気づかないかい」

ややあって、ポウとヴァンはほぼ同時に「ああ」と声を洩らした。 「分ったね」
「この建物にちりばめられた十角形という意匠全体が、大きなミスディレクションになってたわけさ。
”このカップは十角形じゃない。 十一個、角がある”」

ホールのテーブルに戻ると、エラリイは改めて二人の顔を見据えた。
「十角形のカップの中に1個だけ十一角形のものが混じっていた。 これに毒を塗りつけておいて、もしも自分にまわってきた場合には、黙って口をつけなければ良かった」
「何で1個だけ、あんなカップがあったんだろう」 「中村青司の悪戯じゃないかな」 「それだけの意味?」
「と思うね。 犯人はたまたまあの十一角形のカップを見つけ、犯行に利用することにした。
その機会は僕ら3人の全員にあったってわけだ」

「―――で、次は今朝のルルウ殺しだが」 エラリイはここで少し考え込んだ。
「いささか妙な状況だったね。 屋外のあんな場所で、しかも撲殺。 それまでの2件で犯人が執着を示した”手首の見立て”も、今回は施されていない。 何やら異質な感じがする。 ルルウの殺害状況に関する検討はあとまわしにしようか。 もう少し考えたい。
最後にアガサの事件。 さっき調べた通り、青酸が彼女の口紅に仕込まれていた。 問題は、
”いつどうやって毒が塗られたか”、この1点だね。 アガサは毎日口紅を使っていたね。その彼女が今朝倒れたとなれば、毒が仕込まれたのは昨日の午後から夜にかけて、ということになる」

「エラリイ、いいかな」 「何だい、ヴァン」
「アガサの今日の口紅、”昨日までとは違う色”だったように思うんだけど」「何?」
「今日のはいやに鮮やかな色だったろう。だからその、死人の唇のような気がしなくって・・・・」
「ははあ」 エラリイはテーブルの縁を指先で叩いた。
「なるほど。 赤の方の一本にだけ、前から毒が塗ってあったのか。」
「時限爆弾だな」 顎鬚をいじりながら、ポウが云った。

「こいつもまた、3人平等にチャンスはあったわけだ。 それぞれの意見を聞いてみようか。 誰がいちばん怪しいと思う、ヴァン」
「ポウだね」 意外なまでにあっさりと、ヴァンはそう答えた。
「何だと?」ポウは顔色を変え、火を点けたばかりの煙草を灰皿で消した。「俺じゃないぞ」
「僕もヴァンと同じで、どちらかと云えば怪しいのはポウだと思う」 エラリイは淡々と云ってのけた。
「なぜだ。どうして俺が怪しい」 「動機さ」 「動機?」
「君の母上は現在精神科の病院に入っておられるそうじゃないか」
ポウはぐっと喉を詰まらせ、テーブルの上に両手を握りしめた。
「何年か前の話だ。 君の母上は、君の家の病院の入院患者を殺そうとして捕まった。 その時すでに、彼女の精神は錯乱状態にあって・・・・・」
「本当かい、エラリイ」 ヴァンが目を見張った。
「父上が揉み消したのさ。 殺されそうになった患者に金でも掴ませたんだろう。 間に入った弁護士が僕の父親の友人でね、そこから僕は知ったんだ。 医者の妻っていうのは、精神的にかなりの重責を背負わされる立場だろう」

「黙れ!」 ポウが怒声を投げつけた。 「勝手に母の話はするな」
エラリイは口をつぐんだ。
「お前はそれで、俺のことを狂人かもしれんと云いたいわけか。 ずいぶんと単純な話だな」
彼は面変りしたような厳しく険しい形相で、エラリイとヴァンを交互に睨みつけた。
「云っておくがな、お前たち二人にも動機はある」 「ふうん。そりゃあぜひとも聞きたいね」

「まず、ヴァンだ。 お前は中学の頃、強盗に両親を殺されたんだったな。 妹も一緒にだったか。だからお前に
とっちゃあ、人殺しをネタにして喜んでる俺たちみたいな学生は、たいそう腹の立つ存在なんじゃないのか」
刺々しく繰り出されるポウの言葉に、ヴァンはさっと蒼白になった。
「そんな・・・・・・腹が立つようだったら、わざわざ大学で推理小説の研究会なんかに入ったりはしないよ」

「お次はエラリイだ」 「どういう動機だい」
「何のかんのと云いながらお前は、いちいち自分に盾突くカーの存在が邪魔でならなかったんじゃないのか」
「僕が、カーを?」 エラリイはきょとんと目を丸くした。
「はあん。他の3人はカムフラージュだって云いたいんだな。 およそ莫迦げた考えだねえ。 あいにく僕は邪魔に感じるほど、彼を意識しちゃいなかった。それくらい君にも分かってるだろう」
「お前は洒落で人を殺せる男だと、俺は思うぜ―――そうは思わないか、ヴァン」 
「かもしれないね」 ヴァンは無表情な目で頷いた。
「やれやれ。日頃の行いには気をつけておくべきだねえ」

それっきり、3人は黙ってしまった。 そんな状態がどれほど続いた頃だろうか。

ざあああああっ・・・・・と、風と木のざわめきが鳴り渡った。

「おや、雨か」 天窓のガラスに並びはじめた水滴を眺めながら、エラリイは呟いた。
・・・・・と、突然。 声にならない声を発して、エラリイは天井を仰いだまま立ち上がった。
「どうした」 ポウが胡散臭そうに問うた。
「いや。ちょっと、待ってくれ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エラリイはキッと玄関のほうを振り向き、駆け出した。


「”足跡だ”!」


ずぶ濡れになるのも顧みず、エラリイは雨の中を駆けた。 「急げ! 雨で足跡が消えてしまう」
こうして屋敷の前庭に出た時、ルルウが倒れていたあたりにあった例の足跡は、まだかろうじて元の形を留めていた。 まもなくポウとヴァンが追いついた。 エラリイは足跡を指さした。
「僕らの運命がかかっているつもりで、とにかくあの様子をよく憶えておいてくれ」
雨水が溜り、流れ出し、次第に形を失っていくそれらの状態を、懸命になって頭に焼き付ける。

しばらくしてエラリイは踵を返した。 「戻ろう。 すっかり身体が冷えてしまった」


濡れた服の着替えを済ますと、3人はすぐにまたホールのテーブルに集まった。
「忘れないうちに図を描いておこう。いいかい」エラリイはノートいっぱいに縦長の長方形を描いた。
青屋敷の敷地に、死体の場所、次々に足跡を表す矢印を描き込んでいった。
すべての矢印を描きおえると、エラリイは3人ともが見やすい位置にノートを置き直した。



「この入り乱れて往復している3組は、ルルウの死体を発見したときについた、僕ら3人の足跡だ。これは検討の対象から外せるとして―――」
エラリイは言葉を切り、湿った髪を撫でつけた。 「”おかしいとは思わないかい”」

「おかしい?この足跡がか」 眉を寄せ、ポウが訊き返した。
「ルルウを発見したときについた俺たち3人の足跡を消すとだ、残るのは入口から階段へ向かうのが一筋、階段から死体へ向かうのが二筋、それとしたいから階段へ戻っていくのが一筋・・・・・」
「どうだい、問題ありだろう?」 「―――ううむ」
「入口から階段に向かった足跡は、ルルウのものと考えて間違いない。 階段から死体まで続く足跡も当然ながらルルウのだ。 とすると、残る二筋―――階段と死体の間を往復する一組が犯人の足跡だという話になるけれども、はて、”犯人はどこから来てどこへ戻っていったのか”」

「階段・・・・・」
「そうだ。 ところが、”その階段の下には海しかない”んだな。 あの下の岩場は左右ともに切り立った断崖だ。 海からこの島へ上陸するためには、この岩場からの階段か、入江の桟橋からの石段か、どちらかを利用するしかないわけだが、じゃあ犯人は、この岩場までどのようにして来たのか。 ここからどこへ行ったのか」

この緊迫した状況下で、エラリイは独り謎かけを楽しんでいるようにさえ見えた。
ヴァンは押し黙り、ダウンベストのポケットに両手を潜り込ませた。
「ふむ」と低い唸り声を洩らしてから、ポウが口を開いた。
「犯人は今この十角館にいる俺たち3人のなかの1人。 だったら彼は歩いて戻ればいい。 そうしなかったってことはつまり、何かのっぴきならぬ理由があって、海の方へ戻っていかざるをえなかったのだと考えられるが」
「そのとおりさ。 答えはあまりにも明白だろ」 満足そうに頷いて、エラリイは立ち上がった。

「そういうことで、食事にしようじゃないか。もう3時だ」

「食事?」 ヴァンが不審そうな目を向けた。「こんな時に食事だなんて。いったい犯人は何故・・・・」
「あとあと。今更そう焦ることもないさ。 僕ら、朝から何も食べてないんだぜ」

エラリイはくるりと背を向け、さっさと厨房に向かった。



続く・・・