教団Xの中村文則さんの作品を読んでみました雨
読んで憂鬱になっても責任は取れませんあせる


「何もかも憂鬱な夜に」 中村文則


一羽の赤い鳥を飼っていた。

その赤は、こちらが不安に思うほど、鮮やかで目に眩しかった。
赤い鳥はカゴの中でエサを食べ、水をすくい、飛ぶ代わりに跳ねるように動いた。 その鳥は細く、小さかった。
その赤は、僕に命を連想させ、その小ささに、僕は不安になったのかもしれない。
鳥自体が命であるのに、色からも連想したのは、いかにも子供だったのだろうと思う。

鳥は蛇に飲まれて死んだ。
僕が生涯で初めて意識した命は、僕たちの過失によって、簡単に終わることになった。

当時、僕を育てていた大人達の声で、僕は目を覚ました。
ため息と、「とにかく、何とかしなければ」という、空気に紛れる言葉が聞き取れた。 それは不吉な言葉だった。
僕は寝たふりをする勇気がなく、その会話を終わらせるために、わざと大人達の前に姿を見せることにした。

その時、僕は鳥が死んだことを知った。

腹を膨らませた蛇が、カゴの中で力なく横たわっていた。
飛び散った羽毛が、あの小さな身体にこれだけの量があったのかと不安に思うほど、カゴの下に広がっていた。
蛇は鳥を飲み込んだため腹が膨らみ、そのことにより、カゴの格子の隙間から出られなくなっていた。
あの時の蛇の表情を、僕はよく憶えている。
満足した笑み、というのではなく、悲しい、というのでもなかった。 その表情は無表情だった。
まるで現実を全て受け止めたかのような、こうなることがわかっていたかのような、蛇という自分の存在の全てを、自覚しているというような、諦めとも、覚悟とも取れる、動きのない表情だった。

僕は、その蛇の無表情を見ながら、胸がざわついていた。 苛々していた、と言ってもいいかもしれない。
蛇は腹を膨らませた無残な姿を、世界に向かって無防備にさらしていた。
まるで、そこだけ悪意のある何かによって、照らされているかのように。
大人の男はカゴを開け、ビニールの手袋をつけた手で蛇を取り出し、バケツに入れ、熱湯をかけた。
蛇に反撃されないための処置だったが、僕が見る限り、蛇には反撃の意志はないように思えた。
蛇は男に尾の辺りをつかまれ、ブラブラと、ただ頭を地面に向けたまま、力なく左右に揺れた。
男は刃物で蛇の腹を裂き、中の、身体の大部分が溶けかかっていた小鳥を取り出して埋めた。

僕はその蛇に当然のように与えられた罰を、ずっと見ていた。 蛇の死体はビニール袋に入れられ、川に流された。
なぜ埋めなかったのか、ゴミとして棄てなかったのか、僕は今でもわからない。



僕の最も古い記憶は、海だった。 だが、僕はその頃、海に行ったことはないはずだった。
原色のように記憶されている、一つの映像がある。

海に浸かっている砂浜で、片膝を立ててしゃがみ、その右足の太股に仰向けの大人の女を、
その背骨の辺りを乗せて支えているという光景。 
女は全裸で、死んでいて、僕はその死んだ女に、何かをしようとしている。
それを僕は、悲惨な思いで、周囲に見られやしないかと、恐れている。
視点は2つあり、1つは片膝を立てて、海に足を浸しながら女を間近に見ている自分、
もう1つは、その僕の状態を遠くから、小高くなっている場所から緑の茂みを挟んで見ている自分。

僕はよく、大人達に、僕は女を殺したかもしれない、と語りかけた。 その度に、大人達は否定した。
あなたは海に行ったことがない。 
私達があなたの親になった時、あなたはまだ幼かったから、一人で行動などできるはずがない。
僕は蛇の事件があった後、その海辺の記憶を思い出した。 これまで鳥をずっと見ていたはずなのに、
自分たちが大人達に”飼われている”という自覚がなかったとは滑稽だと思いながら。

それから僕の脳裏にはゆっくりと一つの映像が浮かぶようになった。
僕はこの部屋に一人で、動かない裸の女を太股に乗せて何かをしようとしている。
誰かに見られやしないかと、恐れながら。  そして自分の思いを遂げたその後、
無残な気持ちで、無残な自分の状態のまま、朝になって大人達に発見される。
大人達は驚き、諦めながら、僕を眺め続ける。 僕はうなだれて無表情となる。

そして、聞こえてくる。「とにかく、何とかしなければ」という彼らの相談する、ひそひそとした声が。



「自殺と犯罪は、世界に負けることだから」

あの時、あの人は、僕の頭をつかんでそう言った。
僕のまだ幼い頭は、彼の手によって、簡単に押さえつけられていた。
僕は歯を強く噛み締め、見られた恥ずかしさに打ちのめされながら、あの手の大きさを意識し続けていた。
遊んでいたんだ、と僕は言った。 施設のベランダの柵の上を歩く、度胸を試したんだと言った。
しかし、彼の強い腕の力は、僕のいくつもの言葉を無視し、ただ僕を押さえ続けていた。


恵子が、目の前で何かを話し続けている。 彼女はグラスをつかみ、僕の顔を確認しながら笑った。
グラスを響かせる音や笑い声が入り交ざり、頭が酷く痛んでいた。
あの人は、あの時こうも言ったはずだった。 「社会を見返せばいい。 純粋な人間になんて、ならなくてもいい」
まだ喋っている恵子の赤い唇と目が、アルコールのために濡れているのが見えた。
その僅かな水分は、照明の光を反射して奇妙なほど、僕を苛々させて仕方なかった。
席を立とうとすると、足に力が入らなかった。 グラスに残ったウイスキーを眺めながら、なぜか、
自分はそれを全て飲まなければならないような気がしていた。 恵子が何か言った。 答える必要を感じない。

テーブルの間を抜け、いくつもの足に当たりながら、トイレを探す。
ドアを開けると、洗面台の下に、酔って座り込んでいる灰色のスーツを着た男がいた。
心臓の鼓動が、少しずつ速くなっていった。 男の顔は、ここからは見えなかった。
なぜだかわからないが、その男は、ずっとこの場所で自分を待っていたように思えた。
男は何かの水分で濡れ、脱ぎ捨てられた服のように無残に手足をだらりと投げ出していた。
僕は足でその頭部を何度か触り、少し踏んだが、男の反応はなかった。

僕は、彼を蹴ろうと思っていた。 彼を蹴れば、なぜか気持ちが落ち着くように思えた。
酔った自分が鏡に見える。 後頭部の辺りが、痺れたようにひんやりとした。
僕は男を軽く蹴り、反応がないのに胸がざわつき、強く蹴った。 男は黙り続けた。
僕は男に何かを言おうとしたが、言葉を見つけることができないまま、トイレの個室に入り、何度か吐いた。
洗面所に戻ると、彼はいなくなっていた。

カウンターに戻り、ウイスキーを注文し、一息で飲んだ。 喉が焼けるようで頭が揺れた。
恵子が遮る様子でこちらを向いた時、彼女の白い首に、青い血管の筋が浮き出ているのが見えた。
僕は、それをいつも美しいと思った。 彼女は、なぜかもう笑っていなかった。
「少しは、酔い醒めた?」 彼女の声は高く掠れ、いつも美しかった。 「何が?」

「わたし、結婚するんだよ」 隣のテーブルでグラスが倒れ、カクテルの黄色い液体がゆっくりと
床にこぼれている。 僕はその徐々に広がる水の溜まりを、ぼんやりと見ていた。
「・・・・・何で?」 「何でって、凄いこと言うね」 顔を上げると彼女の顔だけははっきり見えた。
「会社員。 真面目な感じの人だよ」 「・・・・・本当に?」 「うん。こんなこと、冗談で言わないし」
「もう出よう。続きは部屋で聞くよ」 「結婚するんだって。もう呼べないよ」 「何で?」
店の音楽が変わり、何かのジャズになった。 さっきの男の姿がまた浮かび、不快な気分になった。

「・・・・・来週、来るでしょう? 真下君の十三回忌」 「あ?・・・・もうそんな」
「うん。 みんな来ると思うよ。・・・・・いい大人だよね。 もうすぐ30。 仕事は、忙しい?」 「・・・・まあ」 
「でも、よくやってるよね。相手は犯罪者なのに怖くないの? でも給料いいでしょ。刑務官って公務員だし」
「安いよ。 ていうか、そんなこと聞くんだ」 「うん。結婚するから、そういうのが気になるんだよ」
僕が伝票をつかむと、恵子はベージュのコートを体にまとった。
ふらつく僕の腕をつかもうとしたが、素振りだけで、彼女はすぐに手を止めた。 会計を済ませて店を出る。

「そんなにお酒弱かったっけ?」 「ん?」 
「先乗るね」 彼女はそのまま手も振らずにタクシーに乗った。

アルコールで熱くなった肌を苛むように強い風が吹いていた。 次のタクシーは来る気配もなかった。



身体を伸ばし、主任に敬礼したが、主任は自分より早く、厳しく敬礼を返したように見えた。
頭痛がし、身体がだるく、上手く力が入らなかった。
普段なら人員報告をしなければならないが、静寂を保った夜の舎房では、これ以上用はないはずだった。
だが、主任はこちらの目を見、左手を微かに廊下の先へ向けた。 叱責を受けるだろう、と思った。
僕は担当台から離れ、自分の姿勢を意識することしかできなかった。

主任を先導するように、暗がりの雑居舎房の廊下を歩く。 今日はまだ一度も巡回をしていなかった。
廊下の硬いトビラのカギを開け、主任を通した。 暗がりの廊下を進むと同じように雑居房が並んでいる。
カギをゆっくりかけると、主任がこちらに向き直った。 「・・・・・酒でも、飲んだか」
「・・・・・申し訳ございません」 「飲むのが悪いんじゃない。 酷い顔をしている。 顔を洗ってこい」 「はい」 
「・・・・・山井のことだが」 「はい」
「やはり、控訴しないらしい。・・・・・夜でも起きてるというが、相変わらずか」
僕は肯定の返事をしたが、本当はよくわからなかった。 
要注意者、要視察者のいる4階の独居舎房は、特別なことがない限り、足早に通り過ぎていた。

「あいつはまだ二十歳だろう。 14日の控訴期限が切れたら、死刑が確定する。 どういうつもりなんだ」
「・・・・・わかりません」 「・・・・どう思う?」
「・・・・自分で、決めたことですから」 「昔のお前は、そんな風に言わなかったが」
厚く、ざらついたコンクリートの壁が、左右から圧迫するようだった。 配水管を流れる水の音が聞こえる。
「申し訳ございません」 「・・・・謝るな。 夜勤に配置されたばかりで荷が重いかもしれんが、注意してくれ。 巡回の時、起きてるようなら話しかけろ。 収音マイクは気にするな」「・・・・はい」 
「あと、来週から残業頼めるか」 「・・・・え?」 
「佐伯が入院するととになった。 ・・・・しばらく無理だろう。昼まででいい」 「はい」 「しっかりやってくれ。 お前には期待しているんだ。・・・・最近聞いてなかったが弟さんは」
主任はいつも、自分の言葉を真剣につかい、人の言葉も真剣に聞いた。
「いえ、もう探すのは・・・・・」


主任を見送り、カギを開けてまた雑居舎房の廊下に戻った。 頭の痛みが酷くなった。
「叱られた」と声が聞こえ、雑居房の一つから、噛み殺した笑い声が聞こえた。
不意に視界が揺れ、吐き気を覚えたが、何とか耐えた。
声はふざけたように変えていたが、新嶋であるとわかっていた。
窃盗をし、今回は、執行猶予中での犯行だった。 彼は拘置所を舐めていた。

ここは規律が乱れていた。 懲罰もほとんどなく、そのことを常連の収容者はよく知っていた。
警察に逮捕されると、まず警察署内の、留置場に留置される。 
それから検察に起訴されると、このような拘置所に収容され、その状態のまま、裁判が始めることになった。
拘置所は刑務所より規律が緩かった。 執行猶予でこのまま釈放される者も多いから、下手なことをすると、
それはすぐ外部に漏れた。 拘置所の被収容者と刑務官のトラブルでは刑務官が不利になることが多かった。

担当台に手をつきながら、煙草を吸いたいと思った。 制服からははっきりとアルコールの臭いがした。
新嶋のいる雑居房から、まだ微かに息のような笑い声が漏れている。
トラブルは、無視することで、トラブルではなくなった。
革手錠の使用許可もなかなか出なかった。 暴れる収容者を身体で押さえつけなければならなかった。
他所で様々な事件があってから、幹部の恐れているのはトラブルだった。


巡回のために廊下を歩く。 奥の雑居房の報知機が出ているのを確認し、ゆっくり向かった。
この部屋は、6人用の空間に、8人が収容されていた。
「何の用だ」 「・・・・・缶詰を、開けて欲しいです」
地肌が見えるほど髪を短くした佐藤が、布団の上で、自弁で購入した缶詰を握っていた。
「・・・・ふざけるな。 明日にしろ」 「前の担当は、やってくれたんですよ」 「早く寝ろ」

佐藤は、暴力団の準構成員で、刑務官に臆することがなかった。
新しく配置された自分を、歯茎を出しながら愉快そうに眺めていた。
他の雑居房は、全て寝入っているようだった。 廊下のトビラを開け、ゆっくり階段を上がった。
残る4階の独居舎房が、夜勤での自分の担当だった。
暗がりの階段を上がる自分の靴音が、静寂の中で、辺りに微かに響いていた。 独居房を一つ一つ確認する。
手前の独居房にいる竹下が、不自然に目をきつく閉じ、唇も閉じていた。
覚醒剤で捕まった竹下は、まだ初犯で、規律通りに動いていた。
職員が来たことに気づき、微かに恐怖を感じながら、寝たふりをしているのだろうと思った。

廊下の中央まで来て、意識的に、主任の言葉を思い出していた。
山井が布団から出て、壁にもたれていた。 人を殺した人間にしては、山井の顔は幼すぎた。
18歳の時会社員の夫婦を殺し、厳罰を叫ぶマスコミの騒ぎの中で、地裁で死刑の判決を受けた。
立ち止まった僕に気づき、山井は首を傾けた。
自分とは関係のない人間を、敵意すらなく、完全な無関心によって眺めるような目だった。
この目には覚えがあった。 昔の自分の目だった。

「・・・・・何をしている」
僕はそう言ったが、山井はこちらを見続けているだけだった。
髪が長く、痩せて背も高くない彼は、15や16歳と言っても、おかしくなかった。

「布団に入れ。 眠るんだ」
山井は反応しなかった。 喋る僕を、というより、僕の身体の向こうの灰色の壁を、眺めているように思えた。 
僕は、怒りを覚えた。

「なぜ控訴しない」
彼の目はいつまでも視線を変えることなく、焦点が合っているのか、わからなかった。

「死にたければ、勝手に死ねばいい」
僕はそう言い、独居房の収音マイクを気にしながら、廊下を歩いた。



目が覚めると、汗で身体が濡れていた。
海岸で足首や膝を濡らしながら、僕は女の身体を太股や腕で支えていた。
実際にはなかったはずの光景だった。 なぜ今頃思い出すのか、僕にはわからなかった。
ベッドの脇の時計を見ると、午前の2時だった。
休日も、夜勤に身体を合わせなければならないが、無駄であるとわかっていた。
自分は上手く眠ることはできないし、どれだけ眠っていなかったとしても、それは同じだった。

天井を眺めながら、タバコに火をつける。 携帯電話をつかみ、しばらく眺めていた。
恵子に何かメールしようと思ったが、不自然ではない用事を、思いつくことができなかった。
結婚するのだ、と彼女は言った。 あの時の彼女の言葉だけは覚えていた。
吸殻を捨て、財布をつかんで外に出た。

外は微かに雨が降っていた。 傘をさし、アパートの脇の自動販売機で缶コーヒーを買った。
雨は風で揺れながら、辺りを少しずつ濡らしている。
僕は傘をさしながら、ゆっくりと、アスファルトの道を歩いた。


乳児院から人の良い夫婦に預けられた後、僕はよく夫婦の目を盗み、歩いていた。
小さかった自分にとって、道は巨大で、街も巨大だった。 電信柱は見上げるのが難しいほど高く、
木々は大きく風に揺れ、白いガードレールは僕の視界の邪魔をし続けた。
巨大なものの中を歩くことに絶望を感じながら、僕は歩き続けた。
自分の移動は、いつもその夫婦の女に抱き取られ、終わることになった。 彼女達は僕を叱ることがなかった。

その後、その夫婦が僕を手放し、施設に入ってからは、運動靴を気にするようになった。
自分の運動靴は、他の子供より早くすり減り、使い物にならなくなった。
一度、職員に靴を大事にするよう注意を受けた時、施設長だったあの人は、その職員を強い言葉で叱った。
翌日、あの人は新しい3足の運動靴を、僕の目の前に放り投げた。 その白は鮮やかで美しかった。
靴はすり減らすためにあるんだ、とあの人は言った。
お前がはき潰す度に部屋に褒美のシールを貼ってやる。 そう言い、本当に大きなシールを部屋に貼った。


水溜りを踏む自分の足を意識しながら、タバコに火をつけ、僕はどこにいけばいいのか、わからなくなった。
前を向くと、男が、地面にしゃがみこんで僕を見ていた。
僕の正面に居座るように、雨に濡れながら、奇妙にかがんだ姿勢でこちらを見ているのだった。
驚いたことに、男はこちらを見ているわけではなかった。 自動販売機にもたれるように、倒れていた。

僕はゆっくり男に近づいた。 前にも同じことがあったような気がしたが、よく思い出せなかった。
僕は、男を蹴ろうと思っていた。 彼を蹴れば、なぜか、気持ちが落ち着くように思えた。
息を吸い、少し躊躇し、男の足を軽く蹴った。 男が顔を上げ、目が合った。
この目にも、覚えがあるように思った。 諦めとも、覚悟ともとれる、動きのない目だった。
もう一度蹴ると、男は何かをうめき、こちらを向いたが、それはさっきのような、どこかに辿り着いた
表情ではなかった。 赤黒い顔をした、まだ若い男だった。 驚いたようにこちらを見ている。

「・・・・・何をしている」 僕は、なぜかそう呼びかけていた。
「何をしている」 「何が?」 男が面倒くさそうに自分を見ていた。
「死ぬぞ」 「は?」 雨が強くなり、男が顔をしかめた。
僕は緊張していく自分に気づいていた。 男の首が、無防備に曝されているのだった。
その男の首の致命的な管が、世界に対してむき出しに、こちらに迫っているように思えた。

僕は男の前を通り過ぎた。



目を開けるとまだ車の中にいた。
恵子は神経質に目を細めながら、僕が起きたのを意識しないかのように、前を向いたままハンドルを握っていた。
僕はタバコに火をつけ、自分が思ったより深く、夢も見ず眠っていたのを思った。
車内のスピーカーからは、レニークラビッツや、マルーン5がランダムに流れていた。
趣味が変わったのか聞こうとしたが、やめることにした。 雨はまだ微かに降り続いている。

「・・・・・前から言おうと思ってたんだけど」 
「ん?」
「・・・・・車買えば? もう乗せてくれる人もいなくなるんだし」

車は国道を抜け、県道の坂を上り始めた。 真下の墓は、県境の山の、静かな霊園の中にあった。

「・・・・真下君さ。 最近思うんだけど。 施設にいたら、違ってたんじゃないかって。・・・・・わたしとか、あなたみたいに。 まあ、わたしはちょっとしかいなかったけど」
「・・・・・なんで?」
「あそこにいれば、一人じゃないでしょう?・・・・様子だってわかるし、施設長さんだっているし」
県道の坂が急になり、雨で崩れた土砂が、アスファルトの道路にまで伸びていた。
自分たちが街を出てから、もう4時間が経っている。

「・・・・・十三回忌なんだから、お坊さんとか呼んで、ちゃんとした方が、本当は」 「まあ」
「うん、だってあの親とか、絶対しないでしょう? 世間体とか、そういうの」
「いいんじゃないか、あいつ、無神論者だったし」
「無神論でも自殺するの?」 「知らないよ」
車が坂を上りきると、左に霊園が見えた。 駐車場まで来ると、高村が歩み寄ってきた。
傘をさし、花の入った袋を無造作に持っている。
高村はいつものように、趣味のいい、雑誌で見かけるような、スーツを着ていた。

「遅れちゃったよ。・・・・・もうみんな来てる?・・・・・久美とか倫子とか。東君も来るんだよね?」
「あー、なんつうか、俺達だけなんだ」 恵子が高村を見ると、彼は僕を少し見て歩き出した。

「・・・・みんな忙しいんだ。 そういう年齢ってことだよ」 「だって倫子なんて」
「いや、薄情とかそういうことじゃないんだ。・・・・恵子もわかるだろ? 東は仕事、平日に休みが取れるほど、あいつの会社余裕ないんだ。・・・・・久美は子供の小学校に行かなきゃだし、倫子は妊娠中だし」
「まだ6ヶ月くらいじゃない」 「そうだけど、なんつうか、まあ、体調悪いんだろ」
「そうじゃないでしょ?・・・・縁起悪いとか、また意味のわかんないこととかさ」
「・・・・知らないけど、まあ、人には人の都合とか、ほら、なんつうか」

新しくできたいくつもの墓で、真下の墓は、去年より霊園の中央に位置していた。
死者達に取り込まれるように、真下の墓は馴染み、埋もれていた。

「よりによって、何で水だったんだろ」 恵子が手を合わせたまま言った。「あんなに苦しいのに」
「水に帰る、って言ってたからな」 僕はここで初めて喋ったように思った。
「・・・・・水?」 「うん。意味はよくわからなかったけど」
「・・・・お前がわからないなら、俺はもっとわからないよ。・・・・・お前はよく会ってた。 それが、せめてもの救いだよ。 俺は、本当に、いつ頃からか会わなくなってたから。 というより、会わないようにしてた。なんつうか・・・・・気持ち悪くなってきてな」
「・・・・・俺もだよ」

高村はしばらく真下の墓を見ていたが、隣の墓に視線をうつした。
隣の墓の花は、僕達が用意した花より種類が多く、鮮やかだった。 高村が僕を見て口を開いた。
「・・・・・俺、離婚するかも」 「・・・・・え?」
「もう無理だろうな。 問題は子供だよ」 高村が一瞬僕を見たが、僕は気づかない振りをした。
「・・・・・うん、厳しいよ。男もいるみたいだし。俺といてもどうにもならないって言われた。まるで浮気したのが俺のせいみたいにさ。・・・・・気持ち悪いよ。俺の母親と同じこと言うんだから」
高村は、真下の墓にまた視線を向けた。
「俺にも悪いところがあったんだと思う。 でもなんつうか、それが、浮気するほどのことだったのか、わからないんだよ。 結局、俺も俺の親父みたいに、一人で子供育てるのかもしれない」
「まだ決まったわけじゃないんだろ?」
「うん・・・・でも、なんで女っていうのは、いちいち周りを見るんだろう。 誰々はどうだとか・・・・・、いや、人によるか」
真下の墓には、真下が嫌っていた彼の苗字が、大きく刻まれていた。
「俺は、俺の親父がすきだったよ。だって凄いじゃないか。あんな小さい文房具屋で・・・・習字セットとか鉛筆とかで、子供を一人育てたんだぜ?そりゃあ、高校の時はバイトしたけどさ。いや・・・・」高村はそう言うと、また少し笑った。

恵子が戻るのを待ち、食堂に行って軽く食事をした。
恵子が一番寂れてる店と指定したので、店は汚く、料理も汚かった。


お前は俺に似てる、と真下は僕に言い続けた。 お前は俺に似てる。すごく似てる。
”だから、ただじゃ済まない。ただじゃ済まないよ。”
目を大きく開き、唾を飛ばしながら、僕に近づいてそう言い続けた。
今思えば、彼はもうその頃から、追い詰められていたように思えた。 雲が落ちてくる、とも言った。
雲が落ちてきて、俺達を取り囲むんだ。そうなったら、逃げることはできない。
いいか、お前は、ちゃんと上を見てろ。


店の照明と天井の間に、密度の濃い、蜘蛛の巣が張られていた。
端に小さい羽虫が囚われ、足の長い蜘蛛が、ためらうように、その羽虫に近づいてきた。
僕はあの鳥と蛇を思い出し、名前もわからない倒れ込んでいた男の目を思い出し、
拘置所の山井の目を思い出していた。 ぼんやりと視界が薄れ、それらがなぜか一つに混ざるようで、
離れるようで、そして思い出している今の僕を、真下が遠くから見ている気がした。


帰りの車の中で、運転する恵子の横で眠っていた時、携帯電話が鳴った。

主任が、山井が自殺を図ったことを告げた。



続く・・・