短編続きになりますが・・・・「王とサーカス」の米澤穂信さんの短編集を読んでみました!!


「満願」 米澤穂信


夜 警


葬儀の写真が出来たそうです。

そう言って、新しい部下が茶封筒を机に置いていく。 
気を遣ってくれたのだろうが、本音を言えば見たくもない。
それに、写真に頼らなくても警察葬の様子は記憶に刻み込まれている。 

川藤浩志巡査は勇敢な職務遂行を賞されて二階級特進し、警部補となった。
気が合わない男だったが、写真が苦手な点だけは俺と同じだったらしく、遺影は不格好なしかめ面だった。
弔辞は署長と本部長が読んだが、ろくに話したこともない相手の死を褒めるのはさぞ難しかったことだろう。
スピーチで描かれた川藤警部補の輪郭はやりきれないほど実像とずれていて、そんなに立派な警官だったら
あんな死に方はしなかったのだと腹を立てているうちに、焼香と献花の順がまわってきた。
おかげでまた無愛想の評判をばらまいたらしい。

警察葬に仕立てたせいで、斎場の中にまでテレビカメラや新聞記者が入り込んでいた。
騒がしい葬式にしてしまったことについては謝ってもよかった。 俺が手配したわけではないにしても。
開けたままのガラス戸から、いつものように車が行きあう国道60号線を見る。
今日一日だけで幾人がこの道を通るだろう。 
彼らは道の傍らに建つこの交番の巡査がひとり死んだことになど気づきもしない。
それは当然のことで、20年も警官をやってきた男がいまさら持つ感慨ではない。
だが今日に限って、なぜだかそれが癪に障って仕方が無かった。 こんな日は交番が禁煙になったことが恨めしい。
川藤の死は、おおよそこんな風に報じられた。


――市内に住む40代の女性から、夫の田原勝(51歳)が暴れていると110番通報があった。
現場に駆けつけた警官3人が説得を試みるも、田原は短刀で警官に切りかかったため、
川藤浩志(23歳)が拳銃を計5発発砲。 胸部と腹部に命中し、田原はその場で死亡した。
川藤巡査は切りつけられ病院に搬送されたが、死亡が確認された。
警察では「適正な拳銃使用だったと考えている」としている。

世間は最初、このニュースをどう取り扱うか戸惑っているように見えた。
新米巡査が被疑者を制圧できず射殺してしまった不祥事と見るか、勇敢なお巡りさんが自分の命と
引き替えに凶悪犯をやっつけたと見るか。 時間とともに後者に傾いていった。
警察葬での弔辞は嘘に塗れていたが、川藤を擁護するものとしては申し分なかった。
警察批判は尽きないが、しかし少なくとも射殺そのものを批難する声は小さくなっていった。

川藤警部補どの、か。
聞こえないよう声を消して、独り言の続きを言う。

あいつは所詮、警官には向かない男だったよ。



警察学校を出た川藤の、最初の配属先がこの緑1交番だった。
「柳岡巡査部長殿。 本日配属になりました、川藤浩志です」
そう挨拶してきた一言目から、何となく虫が好かなかった。 妙に甲高く、なよなよとした声だと思った。
初日に緊張するのは誰でも同じだが、あいつのそれは度が過ぎていた。
「交番長でいい」 「はい、交番長」 上擦った声だった。

交番勤務は3人1組の3交代制で行われる。 8人の部下の誰と誰を組ませるかは課長が決める建前だが、
交番長である俺が意見を出せば大体通っていた。 課長が川藤と俺を組ませようとしたとき、反対しなかった。
川藤は自分の目の届く範囲に置いておきたかったからだ。 その代わりというわけでもないが、
3人1組のもう一人には気心の知れた男を付けてもらいたかった。 2年後輩の梶井。
書類仕事の手が遅く、太り過ぎという欠点もあるが、何より人当たりがいい。
苦情対応に連れていけば大抵の場合まあまあと丸く収めてしまう、交番勤務として得難い才能を持っている。
愛想の悪い俺と新人の川藤を組ませるには、うってつけの男だ。

川藤の交番初勤務の日。 接触事故、迷惑駐車の苦情、自転車盗難、スナックで喧嘩騒ぎ。
それぞれの報告書と日誌は川藤に書かせた。 妙に丸みを帯びた川藤の時に嫌悪を覚えはしたものの、
まずまずそつのない書類に仕上がっていた。 「いいだろう。 初めてにしちゃ上出来だ」
当直が明けて次の班に引き継ぎを済ませ、署に戻ると翌朝10時を過ぎている。
拳銃を保管庫に戻し私服に着替えれば、後は家に帰って寝るだけだ。
その前に一服つけようと喫煙室に行くと、梶井が先客で入っていた。

「装備課、ぴりぴりしていたな」 世間話にそう話しかける。 梶井は苦笑いした。「無理もないですが」
拳銃と銃弾を戻しに行ったとき、扱いは慎重にとひとくさり演説をぶたれた。
駅のトイレに警官が銃を置き忘れる事件が起きていたのだ。 「かなわねえな。とばっちりだ」
それで話を終わらせたつもりだったが、梶井はまだ何か言いたそうな気配だ。
「どうした」 「ああ、いえ。 いまの話で思い出したわけでもないんですが」 「言ってみろ」
梶井は、自分の手元から立ち上る煙を見ながら答えた。


「川藤、ちょっと、厳しいですね」


「そう思うか」 「ええ」 「理由は?」 「『さゆり』の喧嘩ですが」
スナック「さゆり」から通報があった。 客の男2人が口論となり、一方がウイスキーの角瓶を振り回し始めた。 
駆けつけると男2人が取っ組み合っていた。
一方が呂律の回らない声で凄み、もう一方は「ああ?ああ?」を繰り返すばかり。
飲み過ぎて箍が外れたといったところだろう。 角瓶はカーペットに転がっており、どちらも外傷はない。
一目見て、これは事件化しなくて済むだろうと踏んだ。
梶井が割って入り警察だと名乗ると、二人ともたちまち大人しくなった。
難しい喧嘩ではなかったが、川藤にまでは目を配っていられなかった。
「どうかしたのか」 「いえね」 梶井の煙草が灰皿に押し付けられる。

「あいつ、腰に手をやったんですよ」

「そうか」 「じゃあお先に」
梶井は最後まで、俺と目を合わせようとしなかった。 まともに取り上げれば面倒な話だとわかっていたからだろう。 腰に手をやったというが、それが警棒だったなら、梶井はわざわざ俺に注進したりはしない。
あの程度の騒ぎで拳銃に手が伸びるようでは、確かに厳しい。
煙草が不味かった。

警官として守るべき暗黙の了解、最後の一線がどうしても理解出来ない人間がいる。
救いようのない連中と始終付き合っているうち、自分の感覚が麻痺してくるのもある程度はやむを得ない。
だが、そもそもその一線を感じ取れないというのなら、そんな人間は警官を続けてはならない。
自分の見たものがこの世の全てだと思い込む人間も、あまりこの仕事には向いていない。
川藤浩志は、それらの類型には当てはまらなかった。


配属から一週間ほどが経ったある日の午前中。「川藤。パトロール行くぞ」 「はい。PCですか」
「いや、自転車で行く。 俺が先導するから付いてこい。 梶井は留守を頼む」 そうして警邏に出た。
平日の午前中、静かな住宅街にもちらほらと人の姿がある。 彼らのほとんどは、俺たちと目を合わせようとしない。
顔を背けるわけではないが、、決して目が合わないよう、不自然なまでに視線を前に固定する。
煙たがれながら頼られることに慣れなければ、この仕事はやっていけない。
一方通行の道路に軽自動車が入ってきた。 俺は自転車を停め、川藤を見る。 その顔は強張っていた。
「川藤、お前がやれ」 と命じる。 「はい。やります」
エンジンを切って車を降りてきた運転手に、例の甲高い声で言う。

「おい。 わかってるだろうな。 違反だよ」

俺は、川藤の頭を殴りつけたい衝動に耐えなければならなかった。
そんな口の利き方は、良かれ悪しかれこの仕事に慣れきってしまった者がするものだ。
今日初めて現場に出たような新人にそんなすれた態度を取る資格はない。 舌打ちが出る。
左手に持ったクリップボードの上で書類を書くのはコツがいる。
遠目にも下手な字をのたくらせて、川藤はなんとか反則切符を切り終える。
押し付けるように渡された書類を受け取り、運転手はいかにもむっつりと車に乗り込む。
川藤は満足げに俺を振り返る。 他にはこれといったこともなく、交番に戻って昼食の出前を頼んだ。

そして、同じ日のことだった。 昼飯こ済ませたあたりから川藤の様子が変わってきた。
妙にそわそわとした落ち着きがない。 小便でも我慢しているようだ。
夜勤に備えて交替で休もうかというところで、ようやく思い切ったように言ってきた。
「もう一度、パトロールに行かせてください」
何を考えているのかと思えばそんなことかと下らなくなったが、退ける理由もない。
「いいぞ。梶井、いっしょに行ってくれ」
「いえ、あの、一人で行きます」
ふだん温厚な梶井が、ぎろりと目を剥いた。 川藤はそれに気づかない。
「一人でも教わった道をパトロール出来るか、確認したいんです」 殊勝な物言いだが、論外だ。

「馬鹿野郎。警察学校で何を教わってきたんだ」
警邏は二人以上で行うのが原則だ。 一人で、しかも新人を出すなど考えられない。
そんなことは川藤も知っているはずだ。「すみません」と謝ったが、なおも自転車を見ている。
これは何か裏があるなと察した。 川藤を休憩させておき、その間に自転車を調べてみた。
書類箱の鍵がかかっていなかった。 「これか」
おそらく川藤は鍵のかけ忘れに気づいたのだろう。 それで一人で警邏に行くなどと言い出した。
俺はその浅はかさを笑うことはできなかった。

警邏に必要な書類を入れるため、確かに鍵をかけておくことにはなっている。
だが、単に鍵をかけ忘れたぐらいでは大した問題にはならない。 せいぜい説教するくらいだ。
だが川藤は、それを小細工で誤魔化そうとした。
あれは小心者だ。 ただ単に叱られるのが怖かったのだ。 子供のように。
臆病者なら使い道がある。 上手く育てれば臆病が転じて慎重な警官になるかもしれない。
だが、川藤のような小心者はいけない。 あれは仲間にしておくのが怖いタイプの男だ。
誤魔化そうとしたのが鍵のかけ忘れ程度ならかわいいものだ。 しかし、次もそうだとは限らない。

こういう部下を持つのは初めてではない。 胃のあたりに不快な塊を感じる。


むかし刑事課にいた頃、体格に恵まれた部下が入ってきて、期待した。 三木という男だった。
だが、見掛け倒しだということはすぐにわかった。 もっともな理由をつけて言われたことをやりたがらず、
何か不都合があると他人の責任にすることを躊躇わない。
虚勢を張るのは得意だが、ちょっと話せば気の弱さがたちまち露呈する・・・・・。
普通に生きていく分には差し支えないかもしれないが、刑事にしておくと必ず問題が起きると直感した。

俺は三木に厳しく当たった。 あいつが成長すればそれが一番いい。 だがおそらく見込みはないだろう。
耐えかねて三木が自分から辞めるなら、その方が警察のためになる。 そう思っていた。
俺の態度を見て、仲間も三木への扱いを変えた。 
「くず」 「のろま」 「何一つ満足に出来ないやつ」 「なんで警官になった」 「言い訳をするな」
「なんで黙っている」 「やることをやってから口を開け」 「なんで先に報告しなかった」 「目障りだ」「死ね」

1年後、三木は辞めた。
曲がりなりにも仕事を覚え始め、もしかすると育ってくれるかもしれないと思った矢先だった。
次に三木にあったのは、3ヶ月ごのことだ。
地域課から連絡があって、あるアパートに来て欲しいという。 この忙しい時にと、アパートに向かうと、
「すみません。 家族に連絡が取れなくて、遺体の身元が確認できないんです。 署に連絡したら
柳岡さんが一番よく知ってるだろうと言われました」
古いアパートだった。 塗装が剥げきって錆が浮いた階段を上っていった。


日の射さない北向きの1LDKで、三木は首を吊っていた。


目としたが飛び出していた。 糞尿が臭った。 死体には慣れている。 死後1日だろう。
「柳岡さんが一番よく知ってるんですよね」
俺が一番よく知っていた。 俺が、三木を殺したのだ。
川藤も警官には向いていない。 あいつはいずれ必ず問題を起こすだろう。
だが、俺はもう部下を殺したくなかった。



川藤が殉職した日は、朝からおかしな事が続いていた。
制服に着替え、梶井、川藤と3人揃って、拳銃保管庫へと向かう。
銃と弾を受け取ると、装備課長の横に一列に並び、「銃を出せ」の号令を待つ。
銃を抜き、回転式拳銃のシリンダーを引き出す。「弾を込め」
ところがこの日に限って手元が覚束無い。 手からばらばらと弾が滑り落ちた。
「柳岡、どうした。 もう年か」 「すまん」 「一発でもなくしたら、クビを飛ばしてやるからな」
冗談とは言い切れない。 銃弾の管理は恐ろしく厳しい。
この20年、銃を扱ってきて、弾を落としたのは初めてのことだ。

署が出す輸送バスに乗り込む。 車内には12人が乗っている。その日の会話はなぜだか途切れがちだった。
そして交番には客がいた。
「ああ。 2番だ」 珍しく梶井がうんざりした声を上げる。
「また来たんですか、あの人」 川藤も眉を寄せている。

交番にいたのは、あと10年も若ければ凄みもあっただろうと思わせる美人だ。
秋寒の下、毛皮のコートに身を包んでいる。
田原美代子という女で、国道から通りを2本挟んだところに建つ一軒屋に住んでいる。
相談・通報者には何人か常連がいる。 そういった人物を交番の中だけで通じる符牒で数字で呼ばれているが、
この交番では5番までいる。 田原美代子のような美人が交番に来ること自体、とかく印象に残る。
前に職業を訊いたときは、別に躊躇いもせずにバーのホステスと言った。
話の内容はいつも決まっていて、旦那の焼き餅が過ぎて恐ろしいということだった。
これも署には確認している。 美代子の旦那は田原勝といって、傷害で二度検挙されている。
ただ迷惑なだけの常連たちとは違って要警戒のリストに入っている。

交番ではだいぶ揉めている。 美代子が警官の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄っていた。
「公務執行妨害に出来ますね」 川藤が笑って言う。
確かに迷惑な女だが、だから犯罪者にしてやろうなどとは、思ったこともなかった。
「どうします。 このまま警邏に行きますか」 梶井までもがそんな軽口を言う。
「連中も夜勤明けだ。 さっさと引き継ぐぞ」

俺たちの姿を見ると、交番詰めの3人が一様にほっとした顔になった。
「よかった。 柳岡さん、こいつらじゃ話にならないよ」 美代子が言う。
「落ち着いてください。 とにかく、座ったらどうです。 川藤、コーヒーを淹れてくれ。 田原さんもいりますか」 
「いらない」 「さて。 それで、用件は何です?」 
「この人たちに話したわ」 「ええ、ですがもう一度話してください」
「そうね。 この人たちじゃどうにもね。 聞いてください。 あたし、旦那に殺されるかもしれない」
「なるほど。 座りませんか」 「そうね」 美代子はようやく、小さな回転椅子へと座った。

「もともと危ないひとだったけど、最近おかしいの。 あたしと男の人が話すと機嫌が悪くなるんだけど、
この頃、なんにもしてなくても『浮気してるだろう』なんて言い出して手が付けられないの。 
仕事に行くと『男に会いに行くんだな』って、そりゃあお客さんは男が多いわよ。」
「なるほど。 するとまだ暴力を振るわれたとか、具体的なことは起きていないんですね」
「さっきの連中もそう言ったけど、ちゃんと最後まで聞いてよ!」 「先があるんですか。どうぞ」
「あのひと、最近刃物を買ったのよ。 ほら、大きくて、キャンプで使うのとは違う危ないやつ」
俺はちらりと梶井に目をやる。 梶井も少し顔つきが変わっている。
「忘れ物して家に戻ったら、あのひとがぼんやりした目で刃物を見つめてたの。 でも、あたしに気づくとすぐ隠して、『浮気してはいけないよ』なんて言いながら笑うのよ」

「わかりました。 パトロールを強化します」 「帰るのが怖いって言ってるのに」
「充分に注意してください。 旦那さんに暴力を振るわれたらすぐ相談を。 電話番号を渡します」
美代子は溜め息をついた。 「殺されてから電話しろってことね。 いつもそればっかり」
憤然と立ち上がり、美代子は「本当に楽な仕事ね」と言い捨てて交番を出て行った。

梶井に訊く。 「どう思う」
「そんな男と別れもせずにくっついているんだから、割れ鍋に綴じ蓋ってやつでしょう」
「ただ、田原には前科がある。 女絡みじゃ凶暴になる男だ」 「またやると思いますか」
「どうかな。 田原美代子の言ったことも、全部本当かどうか」
「僕にもファイル見せてください。 いちおう控えておきます」

梶井がメモを取る傍らで、川藤は妙ににやけて立ったままだった。
無言のうちに「あんな女を気にかける必要がない」と主張しているのだろう。
そのとき、開け放したドアから大音響が飛び込んできた。 舗装工事が進んで、アスファルトを固める
手持ちの機械が動き出したのだ。 餅つき機の親玉のような機械が飛び跳ねている。

午前の警邏に川藤を連れて行かなかったことに、他意はなかった。 留守番もまた経験になるという考えだった。
徘徊老人の相談が来ていて、いつもより念入りに時間をかけて巡回する。
2時間かけて交番に戻ったのは12時半過ぎ。 舗装工事も昼休みなのか、機械は止まっていた。
遅くなってしまったが昼飯を注文しようとすると、川藤が興奮気味に話しかけてきた。
「交番長。 さっき、工事現場で人が倒れました」 「事故か」
「たぶん。 僕は机に向かっていたんですが、交通整理をしていた誘導員がいきなり頭を抑えて倒れたんです」
「それで」 「え」 「誘導員が倒れたんだろう。 どうなった」 「はい、それでですね」
川藤は唇を舐めた。 「様子を見に行ったら、車が小石を撥ね上げたんだろうって言っていました。 よくあるけど当たるのは珍しいって。 ヘルメットに派手な傷がついていました」
「そういうことじゃない。 その男は怪我をしたのか」 ふと、川藤の表情に怯えがよぎった。
「あの・・・・もし怪我をしていたら、捜査することになりますか。 車が小石を撥ねたのでも」
「何を言ってるんだ。 誘導員がいなくて他に手段が何もないなら交通課に連絡しなきゃいかんだろ」
「それなら大丈夫です。 誘導員は衝撃で倒れただけで、すぐに起き上がりました」 「そうか。 ならいい」 
川藤はまだ、「ですよね、小石を撥ねた車なんて探せないですよね」とぶつぶつ言っている。

そこから夜までは普通通りだった。
警邏を終えた3時58分。 徘徊老人の件で相談元に電話をかけた。
案の定老人はすでに発見され、家族の元に戻っていた。
工事の騒音は夕方に入って小さくなった。 真っ暗になった6時9分、友達の家に遊びに来たが
帰り道がわからなくなったという中学生が来て、バス停の場所を訊いていった。
川藤が「中学生がこんな暗くなるまで出歩いていいと思ってんの。名前と住所は」と言っていたが、
「塾がある日はもっと遅くなります」と言い返され、「そういうことを言っているんじゃない」と怒声を上げていた。
午後11時10分。 隣家のテレビの音がうるさいという苦情。
通報の常連「1番」の片割れで71歳の男性だ。 現場に向かうと明かりもついておらず静まりかえっている。
「警察が来たんで慌てて狸寝入りをしているんです。 構わないから踏み込んでください」
交番に戻って、午後11時49分という時刻を記録する。

記録によれば、署に110番通報があったのも、同じ午後11時49分となっている。



警察葬の後、川藤の遺族を訪れた。
名簿に出ていた住所は、どぶのにおいがする川に沿って建つ古いアパートだった。
呼び鈴を鳴らすと葬儀で見かけた男が出てきた。 浅黒く焼けた顔にところどころ白いものが混じる無精髭。
「浩志が世話になりました。 兄の隆博です」
「柳岡です。 今日はどうも・・・・・。まずは線香を上げさせて頂きたい」 「どうぞ中へ」
部屋は煙草の匂いが立ち込め、卓袱台とテレビの他には家具らしきものもない。
線香に火をつけ、手を合わせる。 部屋には座布団がなかった。 畳に直に座り、卓袱台を挟む。
「気の毒なことでした」 「まあ、本人の選んだ道です」
「隆博さん。 あんたが、あいつの父親代わりだったそうですね」
「おやじと折り合いが悪くて、あまり連絡もしません。 浩志のことを手紙で報せましたが、返事は来ていません。 
テレビで見ましたが、相変わらずだった」
川藤の殉職が報道される中で、川藤の父親も何度かテレビに出ていた。
そこはかとなく小狡そうな男で、「あいつはね、昔っから正義感の強い子だった」と泣いていた。

「立派な警官でした。 川藤君のおかげで、人質は助かった。 私たちも彼に助けられた」
川藤が拳銃を抜かなければ、短刀を持った田原を制圧するのは容易ではなかっただろう。
応援を待たず突入し、上層部からもだいぶ責められた。 ただ、あと1分でも遅ければ、田原美代子は死んでいた。
隆博が口を開いた。 「俺はあいつのことをよく知ってます。 言っちゃあなんだが、警官になるような男じゃなかった。 親父に似てるところがありましてね。 頭は悪くないが肝っ玉が小さい。
そのくせ開き直るとくそ度胸はありましてね・・・・・。あいつは銃が好きだった。
銃が撃ちたくて海外旅行に行き、戻れば早撃ちの自慢ばかりするようなやつです。
銃を撃てるからっていう理由だけで警官になったんじゃないか。 だから人質を守ろうとして発砲したなんて話は違う。 柳岡さん。 あいつが死んだ現場にあんたもいたんですよね」
「いました」
「警察には言えないこともあるのは承知しています。 言うなと言うなら誰にも言いません。 だからあの日何があったのか、俺にぜんぶ話しちゃくれませんか」

隆博の言う通りだ。 警察には、警官には、言えないことがある。
遺族に当日のことを話すのは、論外と言っていい。


「柳岡さん!」


だが、俺は疲れていた。
川藤には、三木のような死に方をさせたくなかった。 あいつが警官に向いていないことは俺にもわかっていた。 
わかっていたのに、それを責めれば川藤が死ぬのではないかと思い、俺は黙った。
それなのに川藤も死んだ。 首から下を真っ赤に染めた、無惨な死に方だった。
お前の性格では現場に出たとき危ないぞと、ぶん殴ってでも教えていたら。
三木は俺の独善が殺した。 川藤を殺したのは、俺の保身ではなかったか。
辞めよう。 俺もまた、警官には向かない男だったのだ。 あの日の出来事が甦る。

「あの日は・・・・・。朝からおかしな事が続いていた」

俺は話した。 隆博は目を閉じ、聞いていないようにすら見える。それならそれでもよかった。
煙草の脂で黄色く汚れ、線香の煙に混じってどぶ川のにおいすら漂う6畳間が俺の告解室だった。



『女性から、夫が刃物を振り回しているとの通報あり。 名前はタバラ。 タバコのタ。 ハガキのガに濁点、
ラジオのラ。 住所を聞く前に通報は途絶した』

冷える夜だった。 現場から戻ると間もなく無線機から指示が聞こえてきた。

「防刃ベストを着けろ。 急げ」 緊急時の反応は、やはり新人がひと呼吸遅れる。
川藤が袖を通すのにもたついていた。 梶井が訊いてくる。「警杖はどうします」
交番の壁には1.2mの杖が立てかけられている。 長すぎて自転車を使うなら持っていけない。
「置いていく。 時間が惜しい」 「わかりました」「行くぞ」

通報から7分後、現場に到着。 近所の住人が道路に出ている。 「ああ来た、お巡りさんこっちこっち」
「さっきまで悲鳴が凄かったの。今は静かになっちゃって・・・」と言いかけたところで、
「やめてーっ、許してーっ」きんきん声が響き渡った。 男の声は聞こえない。
すぐに無線機を手に取る。「田原美代子の自宅に到着。 事態は切迫している模様。 応援願います。どうぞ」
無線を切ると、すぐに梶井が訊いてくる。 「どうします」
応援を待つか、という意味だった。 答えるより先に、川藤が言った。

「行きましょう。 相談されたその日に死なれるなんて、洒落にならないっす」
俺は川藤を睨みつけた。 死は、軽々に口にすべきではない。 だが、一刻を争うのも確かだ。
「やろう」 「わかりました」
梶井、川藤、俺の順で玄関へと走る。 鍵は開いているらしい。 「行け」の合図で、梶井が駆け込む。

「田原あ!そこまでだ!」 相変わらず、男の声はない。 だが、1階から女の声が聞こえた。
6畳を二間繋げた部屋の奥、障子戸が倒されテラス窓が開いていた。 土が剥き出しの庭に美代子がいた。
尻をつき、コンクリート塀にもたれかかって、顔を上げない。
月明かりの中、仕事帰りのままだろうコートが斜めに切られて、ダウンがはみ出している。
そして美代子の横に男が経っている。 頬骨が浮き出るほど痩せて、背が高い。 田原勝だ。

田原はどこから出したのかと思うほど凄みのある声で「動くな」と叫んだ。
美代子の首筋に刃物を当てる。 月明かりの中、刃物は異常に大きく見えた。
田原は最初の一喝からがらりと変わって、媚びるような声で言った。
「お騒がせします。 お巡りさん、見逃してください。 家族の問題ですから」 「ふざけるな、正気か」
「もう疲れたんです。 美代子の浮気には」 「落ち着け。 とにかく刃物を下ろせ」
位置がまずかった。 先頭は川藤。 梶井は縁側から降りたところで、川藤の真後ろに立っている。
何をするにも川藤が邪魔で素早くは動けない。 警杖を置いてきたのは失敗だった。
「用事が済んだら、好きにして下さい。 ただ、俺は・・・・」
縋るように言いかける田原の言葉を遮って、いきなり川藤が叫んだ。

「諦めろ。 緑1交番だ!」

初めての捕り物でわけのわからないことを口走る例は多い。 だから川藤の言葉も変だとは思わなかった。
だが、その一言は田原を豹変させた。
「緑1? 貴様か!」
気弱そうですらあった顔は一変し、落ち窪んだ眼窩の奥の凶暴な目は、およそ正気とは思えなかった。
「貴様が美代子を!」 突っ込んでくる。
短刀が川藤に向けて突き出されたとき、梶井の体が邪魔になり、はっきりとは見えなかった。

ただ、20年の警官生活の中で訓練場以外では聞いたことのない音は聞こえた――銃声だ。
早撃ちだった。 音は一続きに聞こえた。 だが田原は止まらない。 短刀が伸びる。
直後、田原の体がぐらりと傾く。 膝から崩れ落ちるように転がる。
「確保!」そう声を上げ、倒れた田原に覆いかぶさる。 だが、俺に続くはずの部下は動かなかった。
顔を上げ、俺はようやく、何が起きたかを知った。


血だ。 首から噴き上がっていく。


川藤の手は自分の首を押さえようとするが、指の間から血は放水のように放たれ、
コンクリート塀まで飛び散っていく。
「川藤!」
梶井が絞り出すような声を上げる。 俺は田原から手を離さなかった。

応援のパトカーが到着し、ただちに要請した救急が到着するまでに14分かかった。
救急車は2台来て、田原は残し、川藤と美代子を乗せていった。
この点はのちに批判されたが、田原は即死であり、川藤はまだ生きていたというのが建前になっている。
ただ私見としては、あの時点で、川藤にまだ命があったとは信じていない。



病院で意識を取り戻した美代子は錯乱し、しばらく話も聞けなかった。 頃合いをみて病院を訪れた。
不意に、燃え上がるような目で美代子は俺を睨んだ。
「何も、殺さなくてもよかったのに! 人殺し!」

瞑目し石のようになっていた隆博が、ゆっくりと目を開ける。
「柳岡さん。 いくつか、聞かせてもらっていいですか」 「どうぞ」
「・・・・最期に、あいつは何か言いやしなかったですか」
思い出す。 応援の警官の怒号。 何度も川藤の名を呼ぶ梶井。 紙のように白い川藤の顔に飛び散った、血の赤。
最期まで、川藤はたいしたことを言っていない。

「『こんなはずじゃなかった』と」 「それだけですか」
「『上手くいったのに』と。 そう繰り返していました。 『上手くいったのに』」

上手くいったのに。 隆博はその言葉を何度も呟く。 「何のことだと思いますか」
「射撃のことでしょう。 川藤が撃った弾は確かに田原に命中していました。 
当たったはずなのに、自分が死ぬとは思わなかった。 そういう意味でしょう」
「あいつの弾は、全部犯人に当たったんですか」 「いえ。4発です。うち一発が心臓に当たっていました」
「新聞じゃ、あいつは5発撃ったと書いてありました。 鉄砲には何発弾が入るんですか」 「5発です」
「弟はありったけの弾を撃った」「そうです」「・・・・・外れた一発はどこにありましたか」
「庭に落ちていました」 「落ちていた。 しかし、さっき庭は土が剥き出しだと言っていた」
しかし事実である。 外れた弾は俺が見つけた。 土にめり込んだ金属を見つけたのだ。
「空に向けて威嚇発砲したんでしょう。その弾が落ちてきた」 「あいつは威嚇発砲したんですか」
威嚇発砲する川藤を見たかと言われると、見てはいない。だが、
「したでしょう。 現に弾丸が地面に落ちていた以上、そう考えるしかない」

・・・・・・俺自身、ひとつわからないことがある。

田原邸に突入したとき、川藤は警棒を持っていた。 これは憶えている。
しかし田原が襲ってきたとき、川藤は間髪を容れず発砲している。 いつの間に拳銃に持ち替えたのか。

大きく煙を吐き、隆博が灰皿代わりの空き缶に煙草をねじ込む。そして携帯電話と取り出した。
「実は、柳岡さん。 あの日、弟からメールが届いたんです」
初耳だった。
隆博は携帯電話を操作し、当のメールを俺に見せる。


――とんでもないことになった。


文面はそれだけだった。 時刻は午前11時28分。
「この時間はパトロールに出ていました。 川藤は交番でひとりだった」
「あいつが俺に『とんでもないことになった』と言うのは、大体ろくでもないときです」
太く落ち着き、確信のある声だった。
「あいつが高校生のとき、『とんでもないことになった』と言ってきたことがあります。
付き合ってる女がいたんですが、そいつが妊娠したと言ってきたんです」
「・・・・・・・」
「調べたところ、金欲しさの狂言だとわかりました。タチの悪い女でね。 柳岡さんの前で言うのもあれだが、
事を収めるのには随分、荒っぽいこともしました。 大学受験の時も、とんでもないことになった、と。 
入学金をあらかたパチンコでスったんです。 あの時が一番やばかった。 生まれて初めて、弟を本気で殴りましたよ」 隆博はふと俺をまともに見た。
「わかりますか、柳岡さん。 あいつが『とんでもないことになった』と言うのは、俺に尻拭いをしてくれと頼むときです」 「あの日もあんたが」
「いや、あの日は何もしていません。 携帯電話を家に忘れて出かけたんです。 帰って来てメールに気づいて、何かあったなと思っていたら、夜になって」 川藤浩志は殉職した。

「柳岡さん、どうですか。 あいつが送ってきた『とんでもないこと』ってのは心当たりありませんか」
俺は黙り続けるしかない。 「とにかく」隆博の声から張りが消える。
「俺はあいつが勇敢に死んでいったなんて思わない。 あいつは駄目な男だった・・・・・」
やはり、俺は何も言えなかった。


だが隆博の言葉で、”5発目の銃弾はなぜ庭に落ちていたのか”、どうやらわかりかけてきた。



葬儀の写真を見ないんですか。
新しい部下が、そう訊いてくる。 「後で見る」 それだけ言って追い払った。
無謀な突入で部下を死なせた男として、陰に場に退職を迫られている。圧力に抵抗する力はもう、残っていない。
漫然と過ぎていく日々の中、俺はただ、川藤に起きた「とんでもないこと」について考えている。

11月5日。 工事現場の誘導員のヘルメットに当たったのは、何だったのだろう。
川藤は小石だと言っていた。 心に引っかかるほど、「車が撥ねた小石」と言い続けていた。
いまの俺には、それが何だったかわかる気がした。

”拳銃弾”

あの日、一人で交番にいた川藤は拳銃を触っていたのではないか。
暇に飽きての遊びだったのか、それとも汚れでも見つけての手入れだったのかはわからない。
とにかく、川藤は拳銃を発射してしまった。 道路工事の騒音と振動のおかげで、銃声は隠された。
だが川藤は誘導員が倒れるのを見た。 暴発した弾が当たったのだ。 幸い、怪我はない。
胸を撫でおろしたのも束の間、すぐに自分が破滅に瀕していることに気づいただろう。

警察において、銃弾の管理はおそろしく厳しい。 その紛失は一発だけでも出世の道を閉ざし、
ややもすると退職にすら追い込まれかねない。 しかも川藤の場合、暴発の上、人間に当たっている。
依頼退職では済まないどころか、おそらく訴追される。
失敗を隠すためなら、あり得ないようなことでもしようとする。 川藤は考えた。


そしてたどり着いた結論は、”暴発を隠すには発砲すればい”、ということではなかったか。


川藤は田原に電話をかけた。 田原は無職で昼間も家にいた。 そしてこう告げる。
――奥さんは浮気している。 相手は緑1交番の警官だ。
事は上手く運んだ。 田原は帰宅した美代子を襲い、美代子は警察に通報した。
対峙した田原は、しかし予想外に大人しい。 襲いかかってくる気配はなかった。 そこで川藤は叫ぶ。
「諦めろ。 緑1交番だ!」合言葉のように覿面に、田原を激昂させる・・・・・。

あのとき、俺は銃声を何発聞いただろう。 音は一続きに聞こえた。
銃声は”4発”だったのではないか。 川藤は全弾を命中させ、そして暴発した一発を足元に落とした。

しかし、川藤は一つ大きな誤りを犯した。 人間の執念を甘く見たのだ。
短刀で頚動脈を切り裂かれ、全身の血を失っていく中、川藤は呟き続ける。
「こんなはずじゃなかった。 上手くいったのに。 上手くいったのに・・・・・・」



美代子に訊いた。 田原は以前から警官を浮気相手として疑っていたのか。
美代子は、そんな素振りはなかったと断言した。 あの夜までは店の客ばかり疑っていたのに、と。

非番の日、交番の向かいに立つ街路樹に傷を見つけた。
幹の一部が刃物で傷つけられており、深く突き刺さった何かを引き抜いたような痕が残っていた。

隆博はおそらく、弟が何をしたのか気づいている。 俺は警察を去るだろう。
国道 60号線を無数の車が走っていく。 それぞれに人生を乗せて。
そいつらの中にはきっと、生まれつき警官に向いた男だっているのだろう。
だがこの交番にいたのは、警官に向かない男たちだった。


こんな日は、交番が禁煙になったことが無性に恨めしい。