気になっていた伊坂作品、やっと借りることができましたひらめき電球
本 短編集です。


「死神の精度」 伊坂幸太郎


死神の精度

ずいぶん前に床屋の主人が、髪の毛に興味なんてないよ、と私に言ったことがある。
「鋏で客の髪を切るだろ。 朝、店を開けてから、夜に閉めるまで休みなく、ちょきちょきやってるわけだ。 
そりゃ、お客さんの頭がさっぱりしていくのは気持ちがいいけどよ、でも、別に髪の毛が好きなわけじゃない」

彼はその5日後には通り魔に刺されて死んでしまったのだが、もちろんその時に死を予期していたはずもなく、
声は快活で生き生きとしていた。

「それならどうして散髪屋をやってるんだ?」 訊き返すと彼は、苦笑まじりにこう答えた。
「仕事だからだ」

まさにそれは私の思いと大袈裟に言えば私の哲学と、一致する。 私は、人間の死についてさほど興味がない。 
若い大統領が時速11マイルのパレード用専用車の上で狙撃されようと、
どこかの少年がルーベンスの絵の前で愛犬とともに凍死しようと、関心はない。
そういえば、くだんの床屋の主人は「死ぬのが怖い」と洩らしたこともあった。
私はそれに対して「生まれてくる前のことを覚えてるのか?」と質問をした。
死というのは生まれる前の状態に戻るだけだ。 人の死には意味がなく、価値もない。
だから私にはどの人間がいつ死のうが関係なかった。 
にもかかわらず私は今日も人の死を見定めるためにわざわざ出向いている。 なぜか? 仕事だからだ。



私はビルの前にいた。 地上20階建ての電機メーカーのオフィスビルだ。
正面入口の脇で、畳んだ傘を持て余しながら、立っていた。 雨が垂れていた。
激しい勢いではないが、その分、永遠に降り止むこともないような粘り強さを感じさせる。
私が仕事をするときはいつだって、天候に恵まれない。
「死を扱う仕事」であるだけに悪天がつきものなのかと納得していたが、聞けば同僚はそうでもないらしい。

情報部から渡されたスケジュール表によれば、そろそろ姿を現す頃だ、と思っていると
まさにちょうど彼女が自動ドアから出てきたので跡をつける。
透明のビニール傘を差しながら歩く彼女の姿は冴えなかった。
猫背で、蟹股で、下を向いて歩いているので、22歳という年齢よりも老いて見えた。
真っ黒い髪を後ろでひとつに結んでいるのは暗い印象があるし、何よりも、疲労感なのか、悲壮感なのか、
くたびれた影のようなものが額から首にかけてかかっている。
鈍い鉛色に包まれているように見えるのは、地面を湿らす雨のせいだけではないだろう。

足を大股に進め、彼女の背中を追った。 地下鉄の入口で接触すればいい。 私はそう、指示されている。
さっさと終わらせたいものだ、毎度のことながら思う。
やるべきことはやるが、余計なことはやらない。 仕事だからだ。


地下鉄の階段の手前、私は傘を畳んだ。 畳む前にばさばさと二、三度振って、水飛沫を弾く。
付いていた泥が、前に立っていた彼女の背中に飛んだ。
「あ」と私は声を上げる。 不審そうに彼女が振り返る。
「申し訳ない。 泥が飛んで」 私は頭を下げる。
彼女は首をひねり、汚れた部分に目をやった。 
ベージュの生地に五百円硬貨程度の泥がついているのを確認すると、もう一度、訝しんだ目を向けてきた。
そのまま、階段を降りていこうとするので、慌てて、立ち塞がる。
「ちょっと待ってくれ。 クリーニング代を出すから」 と申し出た。

今回の私の姿は、若い女性には魅力的な外見になっているはずだった。
情報部は調査のたびに、もっとも仕事のやりやすい人物像を導き出し、私たちの外見や年齢を決める。
やはり唐突にお金の話をしたのは怪しかっただろうか。
彼女が何かを言った。 いえ結構です、だとか、もういいです、だとかそういった内容だとは把握できたが、
あまりにも小さくこもる声だったので、よくは聞き取れなかった。

「待ってくれ」 思わず、反射的に相手の腕を掴みそうになって、すぐに引っ込める。
手袋をするのを忘れていた。 人間の身体に素手で触れてはいけないことになっている。
触った途端に、人間は気絶してしまい何かと面倒が多く、緊急の事態を除いて禁止されている。
規則なのだ。 違反した者には、一定期間の肉体労働と、学習カリキュラムの受講が強制される。

「そんなに高そうなスーツに汚れを付けて、そのままにはできない」私は言う。
「高そうって上下で一万円ですよ。 嫌味ですか?」
「そんなに安くは見えないが」 実際には、充分見える。
「もしそうなら、なおさらだ。 お買い得のスーツはなかなか手に入らないだろ」
「いいですよ。 こんな汚れ。 いまさら泥の一つや二つ付いたって変わりませんから」
そうとも、君の人生は泥が付着した程度では変わらない。 一週間後には亡くなってしまうのだし。

「いや、では、こうしよう。 お詫びのかわりに、食事を奢らせてくれないか」 「は?」
「いいレストランがあるんだ。 一人で入れそうもないから付き合ってくれると助かる」
彼女が、私を睨んだ。 人間というのは実に疑り深い。
自分だけ馬鹿を見ることを非常に恐れていて、そのくせ騙されやすく、ほとほと救いようがない。
もちろん、救う気もないが。

「他の人たちはどこに隠れてるんですか? みんなで笑ってるんですよね。 そうやってナンパするようなことをして、反応を楽しんでるわけですよね」 
喋るというよりは念仏を唱えている印象だ。 「ナンパ?」 虚を衝かれた気分だった。
「わたし、見た目は冴えないですけど、でも、誰にも迷惑をかけてないんですから、構わないで下さい」

彼女が先へ行こうとする。 その時、私は軽率にも彼女の肩を素手でつかんでいた。

しまった、と思ったときには遅く、彼女は顔だけでこちらを振り返り、そして、
死神の姿でも見たかのように、いや実際には見ているのだが、とにかく血の気の引いた青褪めた顔になって、
へなへなとその場に座り込んだ。 後悔しても遅い。 同僚に見られなかったことを祈るだけだ。


「本当に、悪ふざけじゃないんですか?」

ロシア料理店のテーブルだった。
気を失った彼女をどうにか起こし、朦朧としている隙をついて、なかば強引に店に連れてきたのだ。
「悪ふざけではない。 お詫びをしたいだけで。さっきは突然、倒れたから、驚いた」
まさか、私が素手で触ると、人間の寿命は一年縮んでしまうのだが、だいたいが彼女は、
かなりの確率で、近々亡くなることになっているので、問題はないはずだ。
「わたしも初めてです、 身体だけは丈夫なはずなのに」
もっとはっきりと喋ればいいのに、と本心から感じた。
暗い口調は、喋っている本人はもとより、聞いている相手もげんなりとさせる。
「あの、名前は?」 「千葉というんだ」
仕事で送り込まれてくる私たちには、決まった名前が付けられている。
姿や年齢は毎回変わるのに、それだけは変化しない。 管理上の記号のようなものなのだろう。

「君の名前は?」 
「藤木一恵」 一つの恵み、と彼女は漢字を説明してくれた。
「親は、何か一つでも才能に恵まれますようにって名付けたらしいんです。 可笑しいですよね」
「可笑しい?」
「まさか一つも取り柄がない女に育つとは、思ってもいなかったんでしょう」
自分の境遇を恨み、不貞腐れているようだった。 「わたし、醜いんです」とぽつりと言った。

「みにくい?」 私は本当に、聞き間違えた。
目を細め、顔を遠ざけて、「いや、見やすい」と答えた。 「見にくくはない」
彼女がそこで噴き出す。 初めて、彼女の顔にライトが届いたかのように一瞬ではあるが明るくなった。
「そういう意味じゃないです。 ぱっとしないってことです」
「ああ」 すぐに否定できなかった。 ぱっとしない。 まさにその通りだ。

彼女は自分の勤め先のことを話し始めた。
声は相変わらず聞き取りづらかったが、舌は滑らかになりはじめたようだ。
打ち解けてきたというより、ハイペースで飲むビールのせいだろう。
大手電機メーカーの本社に勤めている、と言う。 「一流だ。 すごいな」 私は精一杯、羨ましそうに言った。
「でも苦情処理ですよ」 彼女は眉間に皺をつくり、さらに可愛げのない顔になる。
「苦情処理?」
「お客さんからの電話を受けるんです。 はじめは別の問い合わせ窓口に繋がるんですけど、悪質な人のはわたしのところに電話が回されるんです。 面倒臭い苦情主の専門というわけです」
「気が滅入りそうだ」
「ええ・・・・・本当に滅入ります。 文句を言ってくる人しかいないんですから。 がみがみ怒鳴ってきたり、
ねちねち嫌味を言ってきたり、脅してきたり。 そういう人との応対ばかり。 気が狂いそう」
それはちょうど良かった、と私は内心で手を叩きそうになる。 「つらい毎日?」

「いいえ」 彼女はそこで首を振った。 「つらすぎる毎日」
「そんなに?」
「わたし、こう見えても、電話の時はとても明るい声を出して見せるんです。 でも、どんどん責められると、
もう気持ちが沈んで」
彼女の声は、濁った泡が破裂する音のような、じめじめとした小声なので、電話の時は明るい声を出す、
と言われてもすぐには想像ができなかった。

「最近は特に変なお客さんがいて」 「ほお」
「わざわざ、わたしを指名して、文句を言ってくるんですよ」 「指名?」
「苦情処理の部署には女性が5人いて、電話はランダムに繋がるんですけど、その人はわたしの名前を出して、電話に出させるんです」
「ひどいな」 ストーカー体質の苦情主というのは、たちが悪そうだ。
「ひどすぎです」 彼女はうなだれて生気のない目で私を眺め、「死にたいくらいですよ」と言った。

声を上げそうになる。 君の願いは叶う。


「わたしなんて、いてもいなくても一緒なんだから、死んだって変わらないですよ」 
「君が死んだら、悲しむ人がたくさんいる」 私は、おざなりに言ってみる。
「一人はいます。 いつも、わたしを指名して苦情を言ってくるオヤジです」 歯を見せて高い声で笑う。
「わたし、本当に死にたいですよ。 いいことなしですから」
私たちが担当する相手は、促したわけでもないのに、「死の話」を口にすることが多い。
それは死への怯えであったり、憧憬であったり、薀蓄であったりするのだが、とにかく鬱蒼とした藪の中から
さらなる暗黒を覗き込むような顔で、ぽつぽつと話をしてくる。
これは、私たちの正体を、人々が無意識に察するかららしい。 研修の時にそう教わった。
「死神は、人間に死の予感を与える」と。

「死にたい、なんて軽々しく言わないほうがいい」 私は心にもないことを口にしてみる。
「もう生きてる理由なんてないですよ。 私は自分の人生についてクレームをつけたいですよ。
寿命っていうか、運命っていうか、そういうのあるんですかねえ」
「寿命はあるさ。 ただ、誰もが寿命で死ぬとは限らないんだろうが」 彼女はけたけたと笑った。 
「それ、変ですよ。 死んだ時がその人の寿命でしょ。 寿命の前に死ぬなんて言い方、変じゃないですか」
「みんなが寿命で死ぬのを待っていたら、大変だ」 本来であれば話すべきではなかったかもしれないが、
彼女がすでに酩酊しはじめているのが分かっていたので、続けた。 「バランスが崩れるんだ」
「バランスって何のです?」
「人口とか、環境とか、世界のバランスだ」 と言いながらその実、私も詳細については知らない。
「誰が死ぬのを決めるんですか?」 彼女の瞼が閉じはじめた。

「死神」と正直に答えてしまおうかと思ったけれど、「神様だろうな」と言い換えた。
死神にも「神」という言葉はついているのだから、あながち外れでもないはずだ。
「うそ。 神様がいるなら、どうしてわたしを助けてくれないんですか」

いくぶん大きくなった声は澄んでいて、私はおや、と思った。 一瞬とても美しい声に聞こえた。

「でも、神様はどういう基準で、死ぬ人を決めるんですか?」
「それは俺も分からない」 正直に答えた。 実際のところ、どういう基準を持って、対象の人間を選び出しているのかは、私にも分からない。 部署が違う。
「よく調べてから決めてくれないと困りますよね」 彼女は歌うような声を出すとテーブルの上に突っ伏した。
まさにその通りだ、と私は心の中で強くうなずいていた。 だからこそ私はあなたに会いにきたんだ。

調査を行い、「死」を実行するのに適しているかどうかを判断し、報告する。 それが私の仕事だ。
調査といってもたいそうなことではない。 一週間前に相手に接触し、二、三度話を聞き、
「可」もしくは「見送り」と書くだけでいい。
その判断基準は個人の裁量に任されているのが、よほどのことがない限り「可」を報告することになっている。
私たちが調査している間は、相手の人間が死ぬことはない。


彼女をタクシーに乗せた後で、私は深夜のアーケード街を歩いた。
仕事が順調に進みそうな手応えを感じていたからか、足取りは軽い。 元々、私の仕事は気楽なものだ。
人間の姿になることと、人間と会うことを厭わなければ、少しばかりの会話をし、報告書へ記入すれば終わる。

CDショップに入る。 深夜営業しているCDショップは貴重なので発見できるといつもほっとする。
夜の11時を過ぎている店内には、まばらではあっても、客がいた。
するりするりと棚を通り過ぎ、視聴用の機械がならんでいる場所まで移動した。
この仕事をやる上で、何が楽しみかと言えば、ミュージックを聴くことをおいて他にない。
耳に当てたヘッドフォンから曲が流れてくる感覚は新鮮で、ぞくぞくするような感動が味わえる。
実に素晴らしい。 私は人間の死には興味がないが、ミュージックがなくなってしまうことだけは、つらい。

あ、と気がついた。 
すでに一人の中年男性が試聴機の前でヘッドフォンをしているのだが、それが同僚だったのだ。
肩を叩く。 陶酔するかのように、目を瞑っていた男がはっと振り返った。 「よお」
「おまえの担当も、このあたりなのか?」私は訊ねる。
「ああ、今日で終わりだけどさ」
「報告が終わったのが? それとも、見届けるのが?」
「見届けるのが」 彼は肩を上げた。 「酔った帰り道に地下鉄のホームから落ちたよ」

私たちは一週間の調査が終わると、担当部署に結果の報告を行う。
その結果が「可」である場合、いや大半は「可」なのだが、その翌日に「死」が実行される。
私たちはその実行を見届けて、仕事を終了したことになるのだ。
ちなみに、自分の担当した人間がどのような形で死ぬのか、事前には知らされていない。

「戻る前に、最後の試聴か?」 ヘッドフォンを指差す。
「まあな。 次はいつか分からねえしよ」 彼はそう言って、微笑んだ。
私たちの仲間は、仕事の合間に時間ができると、CDショップの試聴をしていることが多い。
一心不乱にヘッドフォンを耳に当て、ちっとも立ち去ろうとしない客がいたら、おそらく私か、私の同僚だろう。
以前、機会があって映画を観たのだが、そこでは「天使は図書館に集まる」と描かれていた。
なるほど、彼らは図書館なのか、と感心した。 私たちはCDショップだ。
私たちは下手をすると、仕事の合間にミュージックを楽しむのではなくて、ミュージックを堪能する合間に仕事をするようなところがあるので、情報にも精通している。

目の前の同僚は、少々自慢げな表情で「このアルバムは、プロデューサーに注目すべきなんだ」と喋り始めた。
「でも、このミュージックがいいのは、歌っている女性の声やセンスがいいからだろ」
「そうだ。 だからこそ、この歌声を発掘してきた、このプロデューサーがすごいんだ」
私は曖昧な返事をした。 彼は地道な仕事ばかりしてる自分と裏方仕事とを重ね合わせているのかもしれない。

「おまえは?」
「今日から調査を始めた。 でも幸い、簡単そうだ」
「簡単も何も、はじめから『可』にするって決めてるんだろ、どうせ」
「俺は少しは真面目に判断するつもりなんだ。 できるだけ情報を仕入れて正しい判断を下したいと思っている」
「でも、結局、『可』なんだろ」
「まあな」 実際そうなのだから、認めざるを得ない。 「でも、一応真面目に取り組んでるつもりだ」
「一応、だろ?」 「そう、一応だ」 私はヘッドフォンをかぶり、再生ボタンを押した。
ジャズでも、ロックでも、クラシックでも、どれであろうと、ミュージックは最高だ。
聴いているだけで私は幸せになる。 たぶん、他の仲間も同じだろう。
死神だからといって、髑髏の絵がジャケットに描かれたヘヴィメタルしか受け付けないというわけでは、
決してない。



藤木一恵に再び会ったのは、二日後の夜で、やはり小雨が降っていた。
職場のビルの前で待ち、自動ドアから出てきた彼女を見つけて、跡を追った。
横の車道を車が通り抜け、轍に溜まった水を、潮騒のような音を立て、弾いた。

前回より急ぎ足だったのか、私は追いつくのに苦労をした。 手袋をした手で彼女の右肩を叩く。
びくっと彼女が振り返った。 眠っている猫に湯をかけたらこうなるのではないかと思える反応だった。
私の顔を見た彼女が「ああ」と小さな声を発し、安堵の色を浮かべた。
「実はこれを返したくて」 私はポケットからハンカチを取り出した。
「え、それ、わたしの」
「そう。 この間、俺がビールをこぼした時に貸してくれただろ」
「そ、そうでしたっけ」 彼女は暗い顔で首をひねっている。
嘘だった。 実際には、タクシーに乗せた時に私が、彼女のポケットから抜き取ったのだ。

「どうだろう、ちょっとまた話ができないか」 
彼女はきょろきょろとあたりを窺った。 「あの、実は、近くにいるかもしれないので」
「誰が?」 「前に言ったかもしれませんが、クレームの電話をくれるお客さんです」
「君をご指名で、苦情を言ってくる人か?」
「ええ・・・・今日も電話があったんですけど、会いたい、とか言われて」
「それは怖い」 「近くにいるかと思って」
というわけで私は、即座にタクシーをつかまえ、隣の街まで移動した。

見知らぬ喫茶店に入ると彼女は安心したようになり、「ここならきっと大丈夫ですよね」と肩の力を抜いた。
「そのクレーマーは気味が悪いな」 私は、彼女に話を合わす。
「はじめは、ビデオデッキの取り出しボタンが壊れた、という苦情だったんです」
「もう少し大きな声で喋ればいいのに」 私は意識する前に、口に出していた。
「え?」
「小声で喋っていると暗い感じがする」
そうでなくても彼女は暗い空気をまとっているので、口調くらいは明るくすべきだと思われた。
「仕事の時は、無理して、明るい声を出してるんですけど」
だろうな、とは思った。 こんな声で話していたら、苦情主はさらなるクレームを重ねかねない。
「わたしのところに回されるお客さんというのは、些細なことで言いがかりをつけてくるような人ばかりですから、
じっくり話を聞いてあげて、ひたすらに謝るだけなんですよ。 申し訳ありません申し訳ありません、の繰り返し」
「想像しただけで、憂鬱になりそうだ」
「最初はその人もそうだったんですけど、途中で変な感じになったんですよ。 急に、『もう一度謝れ』とか言うんです」

「もう一度?」

「『もう一度、謝れ』って。 それを繰り返すんですよ。 何度も何度も。 何か喋れって怒ったりして」
「女性に謝られると性的に興奮するタイプなのかもしれない」
彼女はうぶなのか、「性的」という単語に顔を赤らめた。
「で、その日は終わったんですけど、翌日、また電話が来たんです。 今度はテレビでした」
「テレビ?」
「画面がどんどん狭くなってきて、突然切れるって言うんです。 もちろん、うちから修理に出向くって伝えるんですが、それはいいから原因を説明しろ、って言うわけです」
「故障の原因を?」 「わたしが分かるわけないじゃないですか」
「きっと、話の内容なんて何でもいいのかもしれない。 君と喋りたいだけで」 彼女はひどく嫌そうな顔になった。
「次はラジカセでした」

「ミュージック!」 思わず、声をあげてしまった。 自分で恥ずかしくなる。
「CDが取り出せなくなったとか言って、曲を聴かせて、歌ってみろ、とか言ってくるんです」
「修理が必要なのは、その客の頭だ。 悪質だな。 そして、ついに『会いたい』と言ってきた」
「そうなんです」 「もしかすると、君を気に入ったのかも」 「わたしを?」
「君の応対に惚れ惚れしたのかもしれない」 もしそうだとすると、彼女は死にたくはなくなるだろうか。
「そんなこと・・・・・・そんな変な人に気に入られても、嬉しくないです」 「だろうね」

窓の外を眺めると、顔をしかめた通行人が傘を差して歩いているのが目に入った。
外の歩道にはところどころに水溜まりができていて、地面の凹凸を浮き彫りにしている。
「最近、雨が多いですね」
「俺が、仕事をするといつも降るんだ」 私は打ち明ける。
「雨男なんですね」と彼女が微笑んだが、私には何が愉快なのか分からなかった。
けれどそこで、長年の疑問が頭に浮かんだ。 「雪男というのもそれか」
「え?」
「何かするたびに、天気が雪になる男のことか?」
彼女はまた噴出して、「可笑しいですね、それ」と手を叩いた。
不愉快になる。 真剣な発言をユーモアだと誤解されるのは、不本意だった。
だいたいが、どのあたりが可笑しいのか、自分が理解できていないものだから次の会話に生かすこともできない。
私はこういう体験が非常に多く、そのたび不快になる。

しばらく経って彼女が、「わたしの人生っていったい何でしょう」と声を洩らした。
彼女はもしかすると、私に助けを求めているのかもしれない。
そういえば、今回の私はなかなかに魅力的な外見をしている。 これは喜ばしいことではない。
残念ながら、役には立てないし、私の仕事の範疇からは外れている。

何をしようと意味がないのだ。 床屋が髪の毛を救わないように、私は彼女を救わない。



それから4日間、私はほとんど仕事と呼べるような活動はしなかった。
いや、正確には「ほとんど」ではなくて、「まったく」だ。
この4日というものの、私は街中のCDショップを渡り歩き、店員から訝しげに睨まれるまで
試聴機の前でミュージックを堪能し、深夜の公園をうろつき、群れをなしてサラリーマンを襲う若者たちを見物し、
書店で音楽雑誌を一通り読み尽くしていた。
雑誌には、先日同僚が熱を持って語っていた、「天才」プロデューサーのインタビューが掲載されていた。
彼が制作したCDは何枚か聴いたことがあった。 そのいずれもが傑作だった記憶があり、
なるほど天才なのだな、と認めることにした。 音楽のことになると、私はほとほと人間に優しい。

その彼の言葉の中に、「死」という文字があって、目を惹く。
「俺は死ぬ前に、真の新しい才能に出会えるのを待っている」とあった。
彼のゆるぎない自信というか、確固たる信念というか、そのバイタリティが羨ましいと感じた。
私は仕事を辞める予定こそないが、それでも彼から滲み出てくる熱のようなものは持ち合わせていない。
そうか、と思った。 私に欠けているのは、仕事への情熱だ。

監査部からの電話が鳴った時、私は試聴機のボタンを押したところだったので、慌てて外に出た。
「どうだ」と訊ねてきた。 彼らは不定期に私たちに連絡を入れ、仕事振りをチェックしてくる。
「やっている」と曖昧に答える。 我ながら、熱気もやる気もこもっていない返事だ。
「報告ができるなら、早めにな」 お決まりの台詞が返ってくる。
「ぎりぎりまでかかるかも」 これもいつもと同じ答えだ。 もちろん嘘に決まっている。
報告書など今すぐに提出しても良かった。 藤木一恵に限らず、どんな場合であっても。
「可」と書いて、提出すれば済む。 けれど、私たち調査部の者はそうしないことが多い。
期間ぎりぎりまで、人間の姿で街を歩くのだ。 なぜか。 ミュージックを時間一杯楽しむためだ。
「おおよそ、どんな感じだ?」 相手は最後にそう訊ねた。
「たぶん、『可』だろうな」 電話を切った後、そろそろ藤木一恵に会いにいくべきかな、と考えた。


彼女は相変わらず、決まった時間に会社から出ていた。
死を間近に控えた者に相応しい空気を発している。
小雨が降る中、傘を差し、小走りに進んでいく。 いつも向かう地下鉄入口を通り過ぎた。
有名ブランド品の販売店が並ぶ並木道を進み、猥雑なエリアにどんどん入っていく。
彼女は立ち止まった。 道の真ん中に設置されている、小さな噴水の近くのベンチに腰を降ろした。
胸にはファッション誌を抱えているが、読む気配はない。 待ち合わせだろうか、と見当をつける。
あの雑誌は見知らぬ相手と合流するための目印に思えた。

藤木一恵に待ち合わせをする相手がいるとは予想外だった。 誰なのか。
友人や知人であれば、あれほどびくつく必要はないだろう。 もしかすると、と思いつく。
例のクレーマーかもしれない。
そう思っていると、一人の中年男が大股で、彼女の座っているベンチ近づいた。
年齢は40代前半だろう。 肩までの髪にパーマをかけ、色のついた眼鏡をかけている。
黒ずくめの服装で、これは堅気の商売をしている人間ではないな、と察しがつく。
男が藤木一恵に声をかけた。 彼女は怯えた顔で男を見た瞬間、落胆の表情がはっきりと浮かんだ。
中年男性はどう贔屓目に見ても、美男には分類できなかった。 財産を持っているようにも見えない。
常識はずれのクレーマーという欠陥を補うほどの魅力はない、というわけだ。

男は彼女に話しかけ、街の奥へ誘導していこうとする。
彼女はかなりの間、ためらっていたが、それでも最終的には男と並んで歩きはじめた。
これはどう転んでも、幸せな展開は望めないな、と私はすでに見切りをつけはじめる。
ああやって世間知らずの女性が、不意に現れた男によって別の日常に連れて行かれるのを幾度も目撃したことがある。 風俗産業に就き、あまりの過酷な労働に身体を壊した女性もいれば、借金で財産を失った者もいる。
藤木一恵もそういう道に引き摺られていくのだな、と想像できた。

彼女たちの後ろにつづく。 男が藤木一恵を無理やり引っ張っている光景が目に入った。
男が手を引っ張る先は、カラオケ店だった。 私はカラオケというものがあまり好きではない。 
ミュージックの視聴が無類に好きであるにもかかわらず、だ。 
カラオケ店に入ったことはあるが、あまりの不快感に逃げ出したくなった。
私の考えでは、ミュージックとカラオケの間には越えがたい深い溝があるのではないだろうか。

男が彼女を店に連れて行こうとする理由は推測できた。 ああいう店は中は個室で、歌を歌うことは文字通り、
「肉声」を聞かせ合うことでもあるので、お互いの距離を近づけるのには適しているのだろう。
もちろん部屋に入ったとたんに、彼女に襲いかかる心づもりなのかもしれないし、珍しいことではない。
彼女はかなり嫌がっていた、 腰を引き、しゃがむ寸前、傘を落としそうでもあった。
これ以上はわたしが関わることではないように思われた。
引き返そうと背を向けたのだが、ちょうどその時に声が飛んできた。

「千葉さん! 助けてください!」

はっきりとした輪郭を持った、大きな声だった。
トランペットが深い響きを発するかのように、藤木一恵は名前を呼んでいた。
私の名だ、と気づくのに時間がかかってしまった。


私は偶然居合わせたという態度で、「どうしたんだい」と近づくことにした。
彼女の隣に立つ男性は、私の正体を訝しんでいる。 上から下までじろじろ眺めてきた。
「千葉さん、助けてください」 彼女が私の腕をつかもうとした。
私は手袋をしていなかったので、それをよける。
「何があったんだ?」 素知らぬフリして訊ねるのも面倒臭い。
「この人が、あの、前に言った」 「電話の男性?」 「そうです」

「君は誰だね」 男は遠くから見た時よりは常識のあるタイプに見えた。
ただし、折り目正しい会社員という風貌ではない。 眼光が鋭く、睨まれると居心地が悪くなる。
「ただの知り合いだ」 私が言うと、藤木一恵が悲しそうな目になり、視線を逸らす。
「おたくは?」 「私は、彼女に用事があって」

その時、藤木一恵が勢いよく、走り出した。
フォームはひどいものだったが、必死さの伝わってくる駆け方だった。
手をがむしゃらに振り、頭を傾けて、バッグを落としそうになりながらも走っていく。
「千葉さん、すみません、また」とずいぶん遠くで、叫ぶのが聞こえた。
彼女の大声はアーケード街に反響し、とてもいい音になった。
「邪魔をするな」 男が私に、詰め寄ってくる。 前のめりになって飛びかかってくる迫力があった。
怖いな、と思った瞬間、彼はバランスを崩し、倒れ掛かっていた。 舌打ちが出る。
私は彼を抱え込む恰好で地面に転がっていた。 気づいた時には素手で相手に触っていた。
人間というのはどうしてこうも、好き好んで、問題を起こすのだろうか。
うんざりしかけた瞬間、彼の横顔を見て、はっとした。

私は男を追跡することにした。 それはごく個人的な関心、つまり仕事のためではなかった。
私はその男を知っていた。
そう言ってしまうと、まるで知り合いのようだが、正確に説明すれば彼の写真を見たことがある。
つい最近、立ち読みをした音楽雑誌に載っていたのだ。 
同僚が教えてくれた、あの、「天才」プロデューサーだ。 彼は携帯電話を取り出した。

好都合だ。 私たちは電波に乗った音声ならば、離れた場所でも聞き取ることができるのだ。
男の電話が呼び出し音を発しているのをつかまえる。
ほどなく、「はい」と女の声がした。 「俺だ」と彼が無愛想に言うのが聞こえる。
「どう?」 「もう少し待ってくれ」 と彼は言う。 「うまくいかなかったの? もう待てないんだけど」
「そんなこと言うなって。 ただ、本物には間違いない。 さっき聞いたんだ。 あの声は本物だ」
「本物の声なんてあるわけ?」 「ある。 歌ってのは才能で、つまりは声の魅力だ」
「いくら声が良くても、音痴かもしれないじゃない」 
「カラオケで歌ってもらおうとしたんだが、誤解された」
「何で、順を追って説明しないわけ? 怪しまれるだけでしょう」
「俺が音楽プロデューサーだと分かって、で、スカウトしたがっているなんて分かったら、大抵のやつはよけいな期待と緊張ばかりになって、嘘っぽくなる」
「考えすぎでしょ」

「本当にいい声だったんだ」 「馬鹿馬鹿しくはない? しかも、何度も苦情の電話をしたんでしょ」
「確信を得るためにはな。 聞けば聞くほどあの子の声はいい」 「ルックスは?」
「ぱっとしない」と男は即答してから、自分で噴き出した。 余裕のある温かい笑い声だ。
「大丈夫だ。 才能が発揮されていない者にありがちなことなんだ。 才能が発揮されれば、皮が剥がれるように、
外にも魅力が出てくる。そういうものだ」
「まあ、いいけど。 あと3日だけ待つから、連絡して」
電話が切れた。
私はそれ以上、彼を追わなかった。
あのプロデューサーは、電機メーカーの苦情処理担当者、藤木一恵の声に惹かれた。
苦情の電話で「歌ってみろ」と迫った。 無茶苦茶なやり方だ。 けれど、不快なやり方とも思わない。


さて、とそこで私は空を見上げ考えてしまった。
彼女はいったいどうなるのだろう、と。 本当に歌の才能があるのだろうか?
成功するとも限らないし、そんなことで彼女の人生が幸せになるのか、私には判断できなかった。
どうするべきだろうか、と自問する。 
このまま私が「可」の報告を出せば、藤木一恵は明日、この世から去ることになる。
私は、人間の死に興味はない。 担当している相手の人生がどのような形で終わろうと気にならない。

ただ、もし万が一、あのプロデューサーの直感が正しくて、さらに万が一、彼女が優れた歌手になり、
さらにさらに、私がいつか訪れたCDショップの試聴機で彼女の曲を聴くときが来たら、
それはそれで愉快かもしれないな、とは思った。
気づくと、雨脚が強くなってきたのか、地面に跳ね返る雫が音を立てはじめた。
まるで、私の結論を、急かすかのようだ。
藤木一恵の顔を思い浮かべてから、「よし」と思い決める。

ポケットから財布を取り出して、そこから十円玉を取り出す。 迷わずに、それを指で弾いた。
落ちてくる硬貨を手の甲で受け止めた。 

裏か表か。 それで決めようと終わった。 「可」にすべきか、「見送り」にすべきか。
彼女は明日死ぬのか、それとも寿命まで生きるのか。 
どちらにせよ、私にとっては大した違いはないのだし、コイントスで充分にも思えた。

硬貨を見る。 表だった。 あれ、と私は首を傾げる。
表の場合は「可」にするつもりだったのか、「見送り」にするつもりだったのか忘れてしまった。
雨がさらに勢いを増してきた。
それに小突かれるような気持ちで、もういいか、と決めた。


いいか、 「見送り」 で。