最後にどんでん返しがある小説というものがありますが、
この作品を上げる人も多いんじゃないでしょうか。

前田敦子と松田翔太で映画化もされました。


「イニシエーション・ラブ」 乾くるみ


side-A



1.揺れるまなざし

望月がその晩、4人目として誰を呼ぶ予定だったのか知らないが、僕はそいつに一生分の感謝を
捧げなければならないだろう。 そいつがドタキャンしてくれたおかげで、僕は彼女と出会えたのだから。


電話が掛かってきたのは午後5時すぎで望月は挨拶もそこそこに用件に入った。
「実はな、急な話で悪いんだけど、今夜これから飲み会があるんだけどさあ、急に一人来れなくなっちゃったんだけど。 おまえ今日これから・・・・・大丈夫? 予定とかは」
「いや、特にはないけど」と答えつつも、いきなりのお誘いに僕は少々面食らっていた。
望月とは履修するゼミ講が違っていたので、4年になってからはたまに顔を合わす程度の仲に
なってしまっていた。 それが突然のこの誘いである。
彼の言う「飲み会」とは、世間的には「合コン」などと言われているアレなのだ。
そうとわかって、僕はあまり気乗りがしなくなった。 「知らない女の子と飲んで、楽しいか?」
「鈴木もたまにはそういうのに出てみねえと。 カノジョ、いないんだろう?」

別にカノジョなんて欲しいとも思わない。 いや、合コンで出会ったそんな軽い女とは僕は
付き合いたくないのだ。 もっとちゃんとした相手と付き合いたいと思っている。
「あ、そうそう。 今日来る女の子でマツモトユウコってのが俺の連れだから、彼女はダメだから」
マツモトユウコはダメね。 はいはい。 頭の中にメモをする。


いきなり呼び出された人間なのに、店には一番乗りで到着してしまった。
望月の名前を出したら、予約席に案内された。 10分ほどして入口の戸が開き、隙間から望月の
顔を覗かせているのが見えた。 店の表で待ち合わせていたようで、ぞろぞろこちらに歩いてくる。

4人の女性が並んでいる――その2番目の女性に、僕の目は瞬間的に吸い寄せられた。

髪型に特徴があり、男の子みたいに思い切ったショートカットにしていた。
その顔にも特徴があった。 いつもニコニコしていたらそれが普段の表情として定着してしまいました、
というような顔立ちで、世間的にはファニーフェイスという分類になるのだろうか。
美人ではないが、とにかく愛嬌のある顔立ちだった。
スタイルは小柄でほっそりしていて、女性というよりは女の子。 涼しげな白のブラウスに、
紺色で膝丈のスカートを穿いていて、印象は地味なのだが、自然体な感じがして、僕には好感が持てた。


僕が奥の席。女性陣は、望月の正面には派手な顔立ちの女性、その隣が短髪の彼女で、さらにその隣には服装は派手だが顔立ちは地味な女性、僕の前には肥満気味で動作がせわしない女性。

望月が乾杯の音頭をとる。 喉を通るビールの冷たさが身に沁みた。
自己紹介になると、合コン未経験の僕はうまく喋れずにいると、望月がフォローしてくれた。
「うっそー。ウブいー」 と正面のデブ女が大はしゃぎし、その隣の派手服女が、
「合コン初体験があたしたちみたいなのでごめんねー」と遣り手婆のような口調で言った。
「鈴木さん、鈴木――何ていうの? 下の名前は」 と短髪の彼女が聞いてきた。

「あ、鈴木、夕樹って言います。 夕方の夕に樹木の樹、です」

というのが、彼女と交わした初めての会話。 特に意義のある質問でも答えでもなかったと思う。
短髪の彼女の自己紹介の番になった。
「ナルオカマユコです」 と言ってぺこんとひとつ頭を下げる。
「一番町にある秋山歯科クリニックっていう歯医者さんで、歯科衛生士をしています」
男性陣からは思わず、おお!、という歓声が洩れた。
そうか。 全員大学生ってわけでもないのか。 彼女はもう社会に出て働いているんだ。

料理が運ばれてきたところで、気づけば二つに分かれて会話する形になっていた。
彼女は望月たちと話している。 「マユちゃんは・・・・カレシがいるんですか?」という質問が
聞こえてきたときは、全身を耳にしてその答えを聞き逃すまいと思った。
「え? いないですよ」 というのが成岡さんの答えだった。 しかし大石がさらに質問を重ねる。
「ホントですか? じゃあその指輪は・・・・・?」
その問答は他のみんなの関心も惹きつけたようで、皆、成岡さんのほうに顔を向けていた。

「これは自分で買ったんです。 今年の春に就職してから3ヶ月間、ずーっと頑張ってきた、自分へのご褒美ってことで。 先週の木曜日が――7月の2日が、私の誕生日だったんですよ。 それで買って、で、せっかく買ったんだから誰かに見せたいじゃないですか」

「あたしね、マユと会った時にすぐ気づいてたんだけど」 派手服女の青島ナツコが言う。
「みんなの前では聞きづらくて――だってもしカレシに贈られたとかだったらアレじゃない・・・・それ、ルビー?」
「そう。 7月の誕生石」
「そうだよね。 合コンに来るのに、わざわざ薬指に指輪嵌めてくる子なんて普通はいないと思ったんだけど。 ただマユの場合はほら、普通とか常識って言葉が通用しないから」
「そんなことないよー。少なくともなっちゃんよりは常識人だと思います」 
ツンとした表情をしてみせる。

「先週が誕生日だって?」と、ここで男子メンバーの北原が会話に加わった。 「二十歳?」
「そうです」とニッコリしてみせる成岡さん。 「じゃあ、成岡さんの二十歳の誕生日を祝して乾杯!」
みんなで今日二度目の乾杯をした。 「ありがとう」 場のムードはさらに和やかになった。
ここで、北原はテーブルマジックを披露した。 見事なマジックで、僕はビックリしてしまった。
噂によると彼のマジックは玄人はだしで、手先の器用さだけでなく、当意即妙の受け答えなどといった
点も加味した上での評価なのだという。 そのマジックに見入っている、望月にしても大石にしても、
女性との会話を途切れさせないという点では、一種の「当意即妙」性が備わっていると言えるだろう。

だけど僕は。

気の利いた冗談ひとつ言うこともできず、ただニコニコしているしか能がない。
10分ほどで北原のマジックは終わり、僕たちは惜しみない拍手を贈った(途中で料理を運んできた店員さんが、そのままマジックに見入ってしまい、終わりの拍手とともに我に返り、慌ててカウンターのほうに戻っていったのが笑えた)。 そして再び歓談モードに入る。
マジックの興奮そのままに、目の前の青島さんと渡辺さんの興味は、北原ひとりに向いてしまったようで
僕はそれからしばらくの間は、いじられることもなく、ただ3人の会話を聞いているしかない状態が続くこととなった。
手持ち無沙汰でどうしようもなくなり、女性の前では控えようと思っていたタバコに結局、頼る。
久しぶりに発した言葉が「タバコを吸ってもいいですか?」というのも情けないが、一応それが
会話のネタにはなった。
「えー、鈴木さん、タバコを吸うの? ちょっとイメージになかったなあ」
しかし、会話も長くは続かない。 一本吸い終わったところで、僕は中座してトイレに向かった。

小用の便器に向かっている時に、望月が入ってきた。 どうやら心配して来てくれたようだった。
「大丈夫か鈴木。 無理して来てもらったけど。 やっぱり来なければ良かった?」
「ううん。 充分楽しんでるよ」 それはあながち強がりばかりでもなかった。
女性は苦手だと思っていたけど、今回のようにグループで接するのであれば――
やはり女性と一緒にいるのは基本的に楽しいことなのだと実感できた。
特にあの成岡さんのような女性がメンツの中にいる場合には。

などと考えながらトイレを出たら、本人と鉢合わせてしまった。 彼女の方から声を掛けてきた。
「あの、鈴木さん?」 「はい」 僕は少しだけうろたえる。
「あの、ここを出た後でみんなでカラオケに行こうって話が出てたんですけど・・・・・鈴木さんも一緒に行ってくれますよね?」
「あ。はい」 と反射的に答えていた。 「よかった」と言って成岡さんはほっこりした笑顔を見せた。
彼女との距離がたったの数十センチしかないことを不意に意識する。 彼女の表情に見とれた。

座敷に戻ったときには向かいの席の渡辺さんから「何かいいことでもあったの?」と聞かれてしまった。
正直に言うわけにもいかず、「そりゃあもう。溜めに溜め込んでいたものが全部出てスッキリ」
と誤魔化したら、大いにウケたので、却って僕のほうがビックリしてしまった。
それで何となくリラックスできた。 テキトーなことを言っていればいいのだ。
僕は一次会でのその後を、大いに飲み、大いに喋って過ごした。


そして二次会で行ったカラオケボックスでは、まず最初に「これが人生で初のカラオケです」と
正直に告白して、またそれがウケて、ただし歌はもとから好きだったので、マイクを握った時には
「本当に初めてなの?」と疑われたほど上手に歌えて、そのカラオケ店でも大いに飲んで・・・・・。
飲みすぎたのだろう。 実はカラオケ店での記憶がほとんどない。 ただ、楽しかった。

アパートに帰り着くと、気持ちが悪くなり、トイレに駆け込んだ。
やがて冷静さを取り戻したときには、さっきまでの出来事がまるで夢のように感じられていた。
今夜の集まりは最初からこの一夜限りのものとして計画されたものであり、もし気に入った相手が
いた場合には望月を通じて連絡を取り合うことも可能なのだろうが、僕はそんなことはしないだろうし、
女性陣からのアプローチもあるとも思えない。

つまり今日のようなことは、もう二度とないのだ。



2.君は1000%

合コンから一週間経った週末に、また望月から電話が掛かってきた。
「この間、どうだった?」 と聞くので、「楽しかったよ。 行ってよかった」と感想を述べた。
「そうか、ならよかった。 でさー、おまえ来月の2日って、何か予定とか入ってる?」
「いや、まだ何も決めてないけど」 「だったらさー、海行かねぇ? この間のメンツでさ」
この間のメンツで・・・・・・? それならば。

「いいよ」
「おっと、即答かと。 あはは。 じゃあ、そういうことで。 また何かあったら連絡するから」
「わかった」 受話器を置いた後、二度、三度と深呼吸した。 気づかないうちに興奮していた。

また彼女に会える。

・・・・・・・かもしれない。 もしかしたら彼女は来ないかもしれない。 「海か・・・・・」


悶々と過ごす二週間が過ぎた。
当日、早朝に目覚めた僕は珍しく朝からシャワーを浴びた。 脛毛が嫌だと言われるかもしれないので
短パンではなくジーパンを穿き、唯一持っていたアロハをTシャツの上に重ねてみる。
8時すぎに望月が来るまで迎えに来た。 助手席には松本さん。 「よし、じゃあ行くか」
道路はそんなに混んでおらず、30分ほどで焼津にある酒店についた。
静波海水浴場までのちょうど中間地点で、そこが望月が定めた集合場所だった。
男性陣たちが買い物を済ませ、ドリンクをクーラボックスに詰めているところに、
ようやく青島さんたち女性3人の乗った車が到着した。

「お久しぶりです」と再会の挨拶をする。 僕はすでに息が詰まりそうになっていた。
眩しすぎて彼女の方を直視できない。 視野の端で確認してようやく盗み見るように目にした。

成岡さんは麦わら帽子を被っていた。 肌を露出した肩のあたりに網目模様の影が落ちている。
赤茶色のタンクトップの下にはすでに水着を着ているのだろう。 白い肩紐が首の後ろで結ばれている。
ロングスカートが風になびいていて、足元は白のサンダルを履き、毛糸を編み込んだような手提げを
左肘にかけて立っている姿は、そのまま写真にして飾っっておきたいほど魅力的に見えた。

彼女に再会できたという、ただそれだけのことが、これほどまでに僕の胸を熱くするなんて。


目指す海水浴場に着いたのが午前9時半。 駐車スペースには既にたくさんの車が停められていた。
男4人でビーチに拠点を作ることになった。 砂浜に出ると、一歩踏み出すごとにサンダルが
砂に埋まり、足の皮膚が灼けた砂に触れて、やたらと熱かった。
ところで、浜辺のどこを見渡しても男はみんな海水パンツかもしくは望月たちのような短パン姿であり、
ビーチで長ズボンを穿いているのは僕くらいのものだった。 作業の途中で急に恥ずかしくなり、
とりあえず着替えてくるからと3人に言い置いて、一人で海の家に戻った。

女性陣はすでに着替えを終えていた。 「先に着替えちゃうことにしました」と言い、更衣室に向かう。
個室のドアを閉じてから、僕は今見た情景を記憶の中で反芻した。
成岡さんはワンピースの水着を着ていた。 白地にカラフルな花模様があしらわれたデザインで
彼女にとても似合っていた。 背中の部分が大きく露出しているが、ショートカットにしているせいか、
あるいは体つきがあまり豊満ではないせいなのか、客観的に見てあまりセクシーな感じはしなかった。
でもそこがいいと僕は思った。

青島さんのように女性性を過剰に意識させるような体つきだと、妙な圧迫感を覚えてしまうのだ。
その体の丸みは一種の武器になりうる。 僕の中の男性部分が、本能的にそれを警戒するのだ。
上半身には裸にアロハシャツを羽織ることにした。 着替えを終えて出ると、女性陣から「早いねー」と感心されてしまった。 僕は彼女たちと一緒にビーチに戻った。 陣地はほぼ完成していた。

よく冷えたビールが手渡される「じゃあ、僕らの再会を祝して。 乾杯!」

僕たちは交代で海に入った。 僕と北原と大石だけが浜に残った時があり、大石が「渡辺さんって
すごいものを持ってるよなあ」と言い出した。 「いや、いくら胸が大きくても腰のくびれがないと」
というのが北原の意見で、大石は「あれなら僕はギリギリオッケーだけど」と言う。
青島さんに関してはプロポーションは絶賛したが、その先で意見が分かれた。
「顔が、僕の好みからは大きく外れてるんだよな」という大石。
北原は「俺はできるぜ。 バックですりゃあ、顔とかは関係ねえし」などと言っている。
要するに二人は、彼女がセックスの対象になり得るかどうかを話しているのだった。

「じゃあ成岡さんは?」と北原が切り出した時には、僕はとても冷静に聞いていられなかった。
「俺はあの3人の中では一番いいと思ってるんだけど」と北原は言った。 やっぱりそうか。
「僕は・・・・パスかな」大石は迷いつつ言った。 「いや、性格はいいし、見た目は可愛いと思うんだけど、
胸もぺったんこだし、あれじゃあちょっと、まだ子どもっていうか」
そこから二人の話題は他にうつり、どうやらそのまま少し微睡んでしまったようだ。


胸元にいきなり冷水を浴びせられて僕は飛び起きた。 渡辺さんが後退りながらケラケラ笑っていた。
濡れた髪がいい具合に乱れていて、全身の肌にも水滴の玉が無数に貼り付いている。
やや太めだが、微妙に猫背で内股という無防備な姿勢も、瞬間的に可愛く見えてしまった。
ビキニで無防備というのは反則に近い。 

「いきなり焼くと火傷しちゃいますよ」と言ってまたクスクスと笑う。
「ビール飲みます?」と言って渡辺さんはクーラーボックスの中を覗き込む。 お尻こちらに向けて。
これは無防備を装った挑発なのでは、と僕は思った。 気づくとは浜辺には僕ら2人だけになっていた。
「隣に座っていいですか?」
間近で見るその体はやはりボリューム満点で、胸の谷間は確かに魅力的だったが、お腹に段ができて
いるのは、女性としてみればやはり減点の対象になるだろう。

「鈴木さんって、基本的に物静かなんですよね。 この前のカラオケでははっちゃけていましたけど。 もう一回あれが見たいな、なんちゃって。 飲んでくださいよ」
渡辺さんの横顔を見ると、意外なことに彼女が少し緊張しているようだったので、僕の方も妙な
心持ちになった。
どうやら思い違いでもなさそうだ。 渡辺さんは僕に好意を持ってくれている。
どうして成岡さんじゃないんだ・・・・・。 そんな理不尽なことを思った。

僕と渡辺さんはしばらく会話を続けた。 といっても喋っているのはほとんど彼女ひとり。
それをはたして会話と称していいものか。 僕はその間、妙に冷静な気持ちでいられた。
彼女の持ち出す話題は芸能界に関するものが多く、知的な話題は皆無だった。
彼女を愛するのは少なくとも僕の役ではない。 そう判断を下した時点で、話の区切りがつくと、
「ごめん、ちょっとトイレ」と断って海の家へと向かった。
僕は駐車場側の階段を昇って、海の家の座敷に腰を落ち着けることにした。 タバコを一服する。
僕はタバコを吸い終わると、座敷にゴロリと横になった。
結局、そのまままた微睡んでしまっていたようだった。


「鈴木さん?」という声で僕は目を覚ました。 この声は――――成岡さんだ!

「ちょっと寝てしまいました」と言いながら慌てて上体を起こす。 彼女は僕のほうを覗き込んでいる。
「ずーっと飲んでましたもんね。 起こしちゃってごめんなさい」
「いえいえ、とんでもない。 せっかくみんなで来たのに寝てばかりいて」
僕のそばにいるのは成岡さんだけだった。 にわかに緊張し始める。
上体を起こした僕の右横にしゃがみこんで、彼女は悪戯っ子のような表情を見せ囁くように言った。

「あの・・・・・タバコ、一本いただけません?」
思わず「え?」と言ってしまった。 「タバコ、吸うんですか?」
「仕事場とかでは吸わないんですけど、家で夜寝る前とかにはいつも。 意外ですか?」
「意外です。・・・・・あ、どうぞどうぞ」 「じゃあ、いただきます」
可愛らしく微笑んで、一本取り出し火をつけた。 ちゃんと煙を胸の中に吸い込んでいる。
「友達の前とかでも吸わないし、だから今日も置いてきちゃったんですけど、急に吸いたくなっちゃって」 と説明してまた煙を吸って、ふーっと吐き出す。
「鈴木さんは、タバコを吸う女性は嫌いですか?」
女性がタバコを吸うことに関しては、あまり好ましいとは思っていなかった。
でも成岡さんには好意を抱いている。 その成岡さんがタバコを吸っている・・・・・。

「正直に言えば、そういう気持ちもありましたけど、でも偏見ですよね、それって」
「やっぱりこれ、ちょっとキツイかな。 私がいつも吸ってるのはカプリっていうんですけど、この半分ぐらいの細さしかないんです。 だからいつもの倍の煙を吸ってることになるでしょ?」
「いや、細さっていうのがもし直径のことを言ってるんだったら、断面積は4分の1になるから、いつもの4倍の煙を吸ってることになるんじゃないですか?」と僕は思ったままを口にした。
「鈴木さんって数学科って言ってましたよね? いっつもそんなふうに物事を計算して考えてるんですか?」 
「そんなふうにって――」
「じゃあ、数字を憶えるのとかも得意?」
そう言って、彼女は不意に6桁の数字を口にした。
「ええ、大丈夫です。 覚えました」 僕はその数字を2度暗誦させられる。

「じゃあそれ、忘れないようにしておいてください。 それ、ウチの電話番号だから」

顔を寄せてそんな風に囁いた、次の瞬間にはもうすでにその身体は離れていた。
彼女はすたすたと階段のほうに向かって歩いていく。
彼女が現れてから、たった数分間の出来事だった。 僕は翻弄されるばかりだった。
何が起こったのかを理解するのまでには、さらに時間が必要だった。
そうだ、あの数字は――番号は――大丈夫だ。憶えている。 忘れないようにしておかないと。

海ではその後、成岡さんとも渡辺さんとも二人きりになる機会はなく、残りの時間を大過なく過ごす。 
夕方には僕らは撤収した。


1週間が経った。
海で焼けた皮膚が、ボロボロと剥がれ始めている。 僕はまだ成岡さんへ電話が掛けられないでいた。
もう一度彼女と会いたい。 しかし電話をして、彼女に何といえばいいのだろう。
もうこれ以上は延ばせない。 今は日曜日の午後9時過ぎ。 この時刻ならば家にいるだろう。
僕は受話器を上げ、あの6桁の数字をプッシュした。 出てくれ。 いや、出るな・・・・。
一度目のコール音が鳴った途端に、僕は受話器を置いてしまっていた。 そんな自分が情けなくなる。
しかし僕はひとつ大きく息を吐いて、再び受話器を取り上げると、リダイヤルのボタンを押した。

「はい。 もしもし、成岡です」
「あの、マユコさんをお願いします」 「私です。・・・・・もしかして、鈴木さん?」
「そうです」 「・・・・・ずっと待ってたんですよ。 もう諦めていました」
「ごめんなさい。 何を話したらいいかとか、あと家の人が出たらどうしようとか考えてて・・・」
「あ、言わなかったっけ? 私、独り暮らししてるんだけど」 「あ、そうなの?」

「あれからずっと考えてたんですよ。 どうして僕なんかにでん番号を教えてくれたのかって」
「もちろん」と彼女が言ってからしばらく間が空いた。 「こうして連絡を取りたいと思ってたから」
「僕も成岡さんと連絡を取りたいって思っていました」

「連絡を取るだけじゃなくて、デートにも誘ってほしいなって思ってたんだけど」
「デ・・・・・」 頭がショートしてしまった。 「じゃあ、誘ったら来てもらえるんですか?」
「デートっていうか・・・・・一緒に食事したり、お酒を飲みに行ったり。 私って仕事が終わったあといつも一人で家に帰ってきて、一人でご飯食べたりしてるんですけど、それってかなり寂しいことだと思いません? うーん、誰かに――心の隙間っていうの? それを埋めて欲しいって思ってたんですよ。 あ、でも誰でもよかったわけでもないんですよ。 この人とならって思える人じゃないと」
「それで僕のことを? でも僕は今までに女の人と付き合ったこともないし・・・・・」

「だからこそ、ですよ。 誠実だと思うんです、鈴木さんは。 私はそれが一番大事なことだと思っています。 だって、女の人を器用に扱える人って――それはもちろん、そういう人と付き合うほうが楽だとは思うんですけど、でも考えてみればその人がそうなるまでに、いったい何人女の人を泣かせてきたのかって考えると、そんな人は信用できない。 だったらもっと真面目で、そのぶん不器用だったりするけど、絶対に嘘なんかつけないような人がいいなって」

「不器用なのは得意です。 自信があります。 じゃあ平日の夕方がいいわけですね?」
「金曜日は大丈夫ですか? 金曜日ってほら、みんな誰かとどこかに行っているような気がしません? そういう中で私一人だけが真っ直ぐ家に帰っているような気がして、金曜の夜がいちばん気が滅入るんですよ。 だから鈴木さんが食事に付き合ってくれるっていうんでしたら・・・・・」
「大丈夫です」 僕はひとつ深呼吸して、「じゃあ成岡さん」 「はい」

「今度の金曜日、14日の夜、僕と食事していただけます?」

その後、僕らは待ち合わせ場所を決め、僕のほうの電話番号も彼女に伝えて、通話を終えた。



3.YES-NO

金曜日までの5日間が待ち遠しかった。

月曜日に家庭教師のバイトをこなし、火曜日の夜には電話のベルの音にびくつき(実家の母からだった)、
水曜日は大学の図書館に行って暇を潰し、木曜日にはまたバイトをこなして、そして金曜日当日。
意味もなく部屋の中を歩き回っては本を読むを繰り返し、本の内容は頭の中に入ってこなかった。
まだ少し早いが待ち合わせ場所の青葉公園に向かう。 約束の6時までには30分もあった。
ベンチに座ってタバコをふかす。 二本目のタバコを灰皿に捨てたとき、ひとつ先の交差点を
渡っている成岡さんの姿を見つけた。 短髪の彼女は遠くからでも目立っていた。
清楚な洋服を身に纏い、姿勢よくトコトコと歩いている。 彼女はすぐには僕の存在に気付かなかった。
パッと目が合った瞬間、彼女はその場に棒立ちになった。 一瞬の驚き顔がパッと輝く。

「ごめんなさい。 そんな格好で来るとは思ってなかったもんで」
彼女はそう言って、僕のスーツ姿を上から下まで何度も見直していた。
「おかしいですか?」 彼女が勤め帰りだということだったので、僕も合わせてきたつもりだった。
「ううん。 私はいつもラフな感じだから、鈴木さんもジーパンとかTシャツで構わないですよ」
「じゃあ、どこへ行きましょう」 「どうしましょう」

「あ、ちなみにお勘定はワリカンにしましょうね。 今日も、その先も。 で、私のほうがそんなに払えないから、もっと気楽に食べれるところにしましょう。 私は別にマックとかでもいいし」
「あ、じゃあマックにしましょう」
角のマクドナルドに入店した。 テーブルが小さくて食事には不向きな感じがしたが、
向かい合ったときの距離がより近く感じられるのは良いことだと思った。
彼女と同じタイミングでストローに口をつけると、よりいっそう成岡さんの顔が間近に見えて、
目が合うと彼女は愉快そうな、まるで悪戯っ子のような表情を見せる。

「鈴木さんって、今4年生なんですよね? 就職活動とかは大丈夫なんですか?」
「あ、僕はもう今年の春には内定を貰っています」 「どこに行くんですか?」
「あの・・・・・富士通です。 コンピューターの会社の」
「それは・・・・・東京ですか?」
「そうです。 もちろん就職した後でどこに配属されるかまでは知りませんが、とりあえず東京の本社で試験を受けて、そこで内定を貰ってますから」

そう言うと、成岡さんは「そうなんだ」とぼそりと呟いた。
もしかして、付き合うことになった場合を想定して、遠距離恋愛になるのを心配しているのかもしれない。
「ええと、今更のような質問になっちゃうんですが、成岡さんの名前って、マユコってどういう字を書くんですか?」
「あ、えーと、カイコのマユっていう字を書きます。 それに子供の子」
咄嗟に「繭」という字が浮かばず、彼女はトレイに指で字を書いてくれた。
「へえ。 それで繭子・・・・・さんですか」
「本当言うと、私はあんまり自分の名前好きじゃないんですよ。 自分の名前の中に虫っていう字が入っているのが」

彼女と実際に話してみて、一番の収穫だと思ったのは、彼女も読書を趣味にしていることだった。
ただし僕の趣味が推理小説オンリーなのに対して、彼女は古典文学を愛好していて、共通する部分がほとんどなかった。 
でも彼女は、「じゃあ、今度会うときには、お互いにお奨めの本を一冊ずつ持ってきて、交換しましょう」とまで言ってくれた。

さらに僕は勇気を振り絞り、なぜ独り暮らししているのかその理由を聞いてみた。
実家からだと通勤の便が悪いので職場に近い場所に部屋を借りているのだという。
去年一年間は歯科衛生士養成の専門学校に通っていたという話も出た。
一年制の専門学校があるなんて知らなかった。 高卒なら去年から働いていたはずだし、
どうも計算が合わないなあと、実はそれも疑問に思っていたのだった。
彼女は女子高で男の人とこんなに話したのは久しぶりだ、と言った。
つまり今までに男性と付き合ったことがないということを意味しているのではないか。

バーガーとポテトを片付けたところで、成岡さんの了解を得てタバコに火をつけた。
「成岡さんは今日は?」と聞いてみると、「実は持ってきてるんですけど、今はやめときます」
と言って、いたずらが見つかったときに子供が見せるような表情をしてみせた。


マクドナルドを出たのが午後7時前で飲み屋街を歩きながらどの店にするか決めかねていた。
やがて、成岡さんが立ち止まって、「ここにしよっか」と言ったのは、ちょっとオシャレな構えの店。
「いらっしゃいませー」
店員の声がかかり、僕たちはカウンターに案内された。
僕は生ビールの中ジョッキを注文し、彼女は生レモンサワーを頼んでいた。 まずは、乾杯を済ませる。

「鈴木さんって、免許は持ってないんですか?」 という質問をされる。
持ってないと答えると、彼女は、僕が東京で就職すると知った時と同様の反応を見せた。
「免許、取ろうかな」 と言うと、彼女はパッと顔を輝かせて、
「そうですよ。 絶対、車の免許ってあったほうがいいと思います」と弾んだ声を出した。
よし、免許くらい取ってやろうじゃないの、車ぐらい買ってみせようじゃないの、と決心する。
成岡さんはさらに注文をつけた。
「あと鈴木さんって、もうちょっとオシャレに気を遣ったほうがいいと思うんです。 あとちょっとだけ、オシャレにもう少し気を遣ったら、絶対にもっとカッコよくなるのにって思ってて・・・・・。何か、それがすごいもったいないような気がしてて」

ああ、ついに来たと思った。 そこを突かれると弱いのだった。
僕は今まで、あまりオシャレには気を遣うことがないまま生きてきた。
外見を飾るのはたやすいが、内面を磨くのはそれほどたやすくない。
そして僕は内面を磨くことを重視して今まで生きてきた。 そこを見て欲しいという気持ちが強かった。
人を外見で判断する人には認められなくていい。というかむしろ認められなくていい。
成岡さんは僕と同類のはずだった。
問題は、相手を選んだ後のことである。 内面で相手を選んだにしても、みすぼらしい格好よりは、
オシャレな格好をしているほうが気分がいいはずである。 その道理はわかる。
つまり、僕もこれからは多少は気を遣っていかなければならないのだろう。 成岡さんのために。

「例えばそのメガネも、もうちょっとオシャレな感じのものに変えるだけで、だいぶ印象って変わると思うし・・・・・コンタクトってしたことは? タック――」
と言ったところで言葉を詰まらせたので、どうしたのかと思ったら、「タックってわかります?」
と真顔で聞かれたので、やや憤慨気味に、「僕だってタックくらいわかりますよ。 こう、布を折り返して、ズボンとかに入ってる」 と答えると、彼女は「そうですよね、ごめんなさい」と言ってクスクスと笑った。
「――で、そう、たとえばそのズボンのタックとかも、一本入ってるか入ってないかっていうだけで随分印象が変わるから」
「そうだよね。 もうちょっとオシャレに気を遣います」


3杯目か4杯目のおかわりをしたころには――アルコールの効用というのはあるのだろうか、
僕たちの口調もぐっと砕けたものに変わっていた。
「鈴木くんは、映画はよく見るほう?」
「えーっとね、一昨年かな? ヒッチコックの映画で版権の切れたやつをロードショー公開したことがあって、そのときには一人で行きましたよ」
「ヒッチコックねえ、やっぱりサスペンスとかそっち方面なんだ。 あ、でも『レベッカ』ってヒッチコック監督の映画じゃない?」
「あ、そうです。 でも僕は見てないんですけど」
「私も見てないけど、デュ・モーリアの小説は読んだことがあって、それは結構良かった。 女の人がお金持ちの男の人と結婚して、その人の屋敷にお輿入れするんだけど......」
「あ、それって。 あの、推理作家に泡坂妻夫って人がいるんですよ。 その人の『花嫁のさけび』っていう小説が、ちょうどそれと同じような話で・・・・・」
「ホントに? じゃあ私、それ読んでみる・・・・・面白い?」
「いや、えーっとね、面白くはないんだけど、その人のだったらもっと面白いと思うのがあって・・・・・成岡さんが――マユちゃんが面白いと思うだろうと、僕が思うってことね」

「やっと呼び方変えてくれた。・・・・ホントのこと言うと、いつまで成岡さんって呼んでるんだろうって、さっきからずーっと思ってたんだけど」
「じゃあ、マユちゃんでいい?」 「もちろん」
「じゃあ、マユちゃん、その泡坂妻夫の本だったら『乱れからくり』っていうのが僕は一番好きで、
あと『11枚のとらんぷ』っていうのも読みやすいかな? 個人的には『迷蝶の島』も好きかな」
「じゃあ鈴木くんは次回、今言った本を持ってきて」 「全部?」
「うん、全部。 私、読むの早いから。 私は『レベッカ』を持ってくるね」 「わかった」
そうして約束もできたところで、そろそろ上がろうかという話になった。

外に出ると成岡さんは「今日はありがとう。 本当に。 私のワガママに付き合ってもらっちゃって」
と言い、ペコリと頭を下げた。 「そんなこと言わないでくださいよ。 今日は本当に楽しかったです」
と言って、軽く頭を下げた。
「じゃあ・・・・・私はこっちだから」 と言って、彼女は背後を振り返る。
「駅はこっち?」と僕は逆方向を示し、彼女が頷くのを見て、「じゃあ、ここで」と言った。

「じゃあ、おやすみなさい・・・・・来週は本を忘れないように」 「あ、はい。 じゃあ」

そう言って、逆方向に歩き出した。
これからは週に一回こういう時間があるのだ・・・・・。 そう考えると寂しさは感じられなかった。
途中で足を止め、背後を振り返ると、ネオンの滲む夜の街の中に、彼女の後ろ姿は見えなくなっていた。



続く・・・