広樹は受験に失敗したのが原因で登校拒否になったと思っていた。 だが、真実は違った。
その前からいじめられていた―――落ちることの許されない受験だったのだ。
一雄は未来を変えてやりたくて、引越しを提案する。
また、他の見知らぬ男に抱かれると知りながら、妻美代子を抱くのだった。
↑チューさんお気に入りの煙草、エコー。 旧三級品に分類される煙草で一般的なものよりも安い。
安い理由は普通の煙草では使わないような茎の部分などを使っているせい。
味はクセがあって、吸いづらいそうです。
では、最終回です。
「流星ワゴン」 重松清
暗闇を背負った窓ガラスに、オレンジ色の小さな炎が映りこんだ。 チュウさんが擦ったマッチの火だった。
自分がオデッセイに戻ったのだと気づいた。 ドアにもたれていた体を起こし、目をゆっくりと瞬く。
「お疲れさまでした」 運転席から橋本さんが言った。
「ああ・・・・どうも・・・・・」 声がかすれた。 喉がいがらっぽい。 風邪のひきはじめのような。
車内はずいぶん冷え込んでいた。
「先に帰ってたんだね」 チュウさんはぶっきらぼうに「おう」と答えた。 橋本さんも一声かけたきりだ。
何より、いつもは僕の帰りを待ちわびたように話しかけてくる健太くんの声が、まだ聞こえない。
怪訝に思って助手席を覗き込んだ。 ハーフパンツを穿いた脚が見える。 肝心の顔はわからない。
静かすぎる。 ずしんと沈み込んでしまうような重い沈黙だった。
「チュウさん・・・・」 「うん?」 声をひそめて「行ってきたの?」と訊いた。
煙草の煙だけが返ってくる。 「ほら、健太くんの・・・・・」
「もうええ」 「え?」 「黙っとれ、おまえは」
健太くんは黙ったままで動かない。 橋本さんがぽつりと言った。
「永田さん・・・・って息子さんのほうですけど、いかがでしたか、やり直しの現実は。 後悔することが少しは減りました?」 「ええ・・・・もう、ぜんぶ」
「そうですか。 すっきりした顔してますものね」 でしょうね、と僕は笑う。
ストロボのように明滅していた美代子への怒りや裏切られた悲しさも、最後には消えた。
許した―――とは思わない。 ただ、受け入れた。 まるごと美代子なのだと認めた。
湯島天神に向かった時と同じように、手をつないで眠った。
指を絡めあうのがこんなにも心地よいことなのだと、38年も生きてきたのに、今まで知らなかった。
美代子の指はこんなに細かったんだな、と夢うつつのなかで思った。 それが最後の記憶だった。
「やり直せてよかった。 本当に、そう思います。 ありがとうございます」
「でも、現実は何も変わらなかったでしょう?」 「ええ、変わりません」
「申し訳ないけど、そこは私たちにもどうにもならないんですよ」 「わかってます」
「現実はね、思い通りにならないから・・・・だから現実なんですよね」 橋本さんはちらりと健太くんを見た。
返事はなかったが、はなをすする音が聞こえる。 悪い予感がした。
「のう、健太。 男の子なんじゃろうが、いつまでもうじうじするな」
「うっさい!」 甲高い声で、健太くんは言い返す。
「うっさい! うっさい! 関係ないんだから、黙っててよ!」―――泣き出しそうな声になった。
「アホウ、こげなことで男が泣いてどげんするんな」
「うっさい! うっさい! うっさい!」
「・・・・・ほんまに道理のわからんやつじゃのう、こんなんも」
橋本さんは車のスピードをゆるめた。 「ちょっと休みましょうか」
「チュウさん、いまからおもしろい場所にお連れしましょうか」 車は静かに停まる。
ドアから降りたチュウさんが先に気づいた。
「おい・・・・・ここ・・・・・墓と違うんか」 「そうです」
見覚えがある。 間違いない。
永田家累代之墓―――。
「懐かしいでしょう。 ああ、でもあなたがこのお墓を建てるのは何年か先になるのかな」
たしかそうだ。 祖父の33回忌に合わせて墓を移したのだった。
「立派な墓だと思いますよ」 チュウさんの返事はない。
「もうすぐ、あなたは、ここに入るんです」
チュウさんはうめくように「もうすぐいうて、いつな」と訊いた。 「わかりません、そこまでは」
「・・・・・もったいつけるな」 「そんなつもりじゃないんですけどね。 ただ、お墓のまわり、すごくきれいでしょ。 今日の昼間、あなたの会社の若い人たちが掃除しにきたんです。」
「だから・・・・・ほんとうに、もうすぐ、なんです」
僕と橋本さんはチュウさんのそばから離れた。 橋本さんは車から遠ざかるように歩き出した。
「健太のことですけどね、これで成仏できると思うんです、あいつも」 「お母さんには会えたんですか」
「正確には、会ってません。 でも・・・・・もう、あいつは全部わかっちゃったんです」
自宅マンションは引き払われていた。 母親は2年前に再婚して、引っ越したのだという。
チュウさんはさすがにそのまま帰ろうとした。 だが、健太くんがどうしてもお母さんに会うと言い譲らなかった。
チュウさんと健太くんは、母親の住む街に向かった。 駅からは住所のメモを頼りに住宅街を歩いた。
途中に公園があった。 なにげなくそっちに目をやった健太くんは、次の瞬間、
歓声をあげて公園に駆け込んでいった。
「お母さんはいたんですか?」 「いました」 「・・・・一人で?」
「砂場で、よちよち歩きの赤ちゃんと遊んでました」 お母さんは、健太くんには気付かなかった。
「健太はそのまま、走る向きを斜めに変えて、全力疾走ですよ。 チュウさんあわてて追いかけて、ずいぶん探し回ったらしいんです。 迷惑かけちゃいました」
健太くんは泣かなかった。
うつむいて、歯を食いしばり、肩を抱くチュウさんの手を振り払って、あてもなく黙々と歩き続けた。
そして街を一周して再び公園に戻ってきた時にはお母さんと赤ちゃんはいなかった。
健太くんは砂場に行き、砂を両手ですくって・・・・・・泣き出した。
橋本さんの声は泣いてくれてほっとしたように聞こえた。 僕も同じ思いだ。
泣けばいい。 悲しいんだと伝えればいい。
親にとって何よりも辛いのは子供が悲しみを小さな胸に抱え込んでいることだと、僕はやり直しの現実で知った。
「さんざん泣いたあとね、チュウさんに肩車してもらったらしいです」 「肩車ですか」
バスに乗ると、健太くんはしゃくりあげながら、泣き疲れて眠ってしまった。
そしてチュウさんもすうっと引き入れられるように目を閉じて―――オデッセイに戻ってきたのだった。
お母さん宛に健太くんが書いた手紙というのを、橋本さんは見せてくれた。
<ママ、きょうは会えてうれしかったです。 いつまでもおげん気でいてください。 ぼくもげん気でがんばりますから、ぼくのことをけっしてわすれないでください。 さようなら>
「『けっして』っていうところが生意気なんですよね、あいつ」 つぶやきながら橋本さんは手紙を畳んだ。
「永田さん、やっぱりお父さんのこと、今でも嫌いですか」 「ええ・・・・」
「チュウさんは?」 少し考えて、「嫌いってわけじゃないです」と答えた。
「嫌いなままで別れるのって、ちょっと寂しい気もしますけどね」―――思っていたことを、先に言われてしまった。
「永田さんには悪いんですけど・・・・・私ね、チュウさんっていい父親だと思いますよ」
「そうですか?」
「少なくとも健太のことは感謝しています。 私があの場にいても何もしてやれないし、肩車なんて考えつかなかった」
「・・・・・親父、肩車が好きなんですよ」 「いいですよねえ、肩車って。 お父さんって感じがするじゃないですか」
いつだったっけ。 小学校に上がるか上がらないかのころだ、ふるさとに飛行船が来た時があった。
僕は父に肩車をしてもらった。 大きなクジラのような飛行船は飛ぶというより滑るように横切っていく。
僕はそれを、父の肩の上から、いつまでも飽きることなく見つめていたのだった。
ああそうか、とつぶやきが漏れた。 「どうかしました?」「いや、ちょっと違ってたかもしれない」
「肩車のこと。 親父が肩車を好きだったんじゃなくて、ほんとは、僕が肩車を好きだったんですよ」
「それ、チュウさんに話してあげたらいいんじゃないですか。 きっと喜びますよ」
チュウさんは墓の正面に腰を下ろして、煙草を吸っていた。
「チュウさん、煙草、一本くれない?」 「・・・・・吸うんか?」
「マイルドセブンって、知らないよね、軽い煙草の、スーパーライトって、もっと軽いやつなんだけど」
エコーのオレンジ色の箱がむしょうに懐かしい。 安っぽい紙と印刷の、透明のセロファンすらないエコーの箱は、
いつだってチュウさんの―――父のそばにあった。
生まれて初めてエコーを吸った。 思っていたよりずっと強い煙草だった。
喉が灼け、頭がくらくらして、首の後ろまで痛くなってきた。 これは無理だな、とあきらめた。
「チュウさんは、一日にどのくらい吸ってるんだっけ」 「二箱か・・・・仕事が忙しい時は、三箱じゃの」
「ずっとそのペースだったよ。 ヘビースモーカーだった。 お母さんや智子がいくら禁煙してくれって頼んでも、軽い煙草に変えるのもいやだって、言い張ってたんだ」
「ほうか・・・・・」
「最初にできたガンは、肺ガンだったんだよ。 もしも煙草をやめてたらガンにならなかったかもしれない」
「後悔してない?」 「なにをや」 「煙草やめなかったこと」
「わしはなんも後悔しとりゃせんよ。 欲しいだけ酒を飲んで、煙草を吸うて、会社を大きゅうして、こげな立派な墓まで建てて・・・・・後悔やら思い残すことやら、なーんもありゃせん」
チュウさんに会えてよかった。 子供の頃にはわからなかったはずのチュウさんの強がりがはっきり感じ取れる。
「僕のことは後悔してない?」
「これからぎょうさん失敗するんじゃろうの、カズとの付き合いかたを」
「失敗するよ。 チュウさんのやることは全部僕から嫌われるし、僕のやることは全部チュウさんを怒らせる」
「でも、最後にチュウさんに会えてよかった。 今の僕と同い歳のお父さんに会えて、本当に、よかったよ。 嬉しかった」
チュウさんは舌打ちして立ち上がった。 照れくささも、僕は大人だから、わかる。
「のう、カズ」
かすれた声でチュウさんが言った。 僕は目をそらしたまま、「なに?」と聞き返す。
「わしの棺桶、エコーも入れとけよ。 お母ちゃんはどうせ、びいびい泣いて役に立たんけん、頼んだど」
「・・・・・カートンで入れとくよ」 「酒も忘れんなや。 高い酒じゃなくてもええけん、ぎょうさんな」
「わかった。 あとは?」 「あとは・・・・・もうええわ、なんもいらん」
オデッセイは、夜の闇を走り続けた。 橋本さんは無言でハンドルを握り、健太くんは一言も話さない。
予感がする。 オデッセイのドライブはもうすぐ終わるだろう。
チュウさんは絶え間なくエコーを吸っては灰にしてまた吸っていた。
「・・・・・かなわんのう、ほんま」 低い声でつぶやく。貧乏ゆすりを始める。
「ねえ」 健太くんが口を開いた。「チュウさん・・・・・死ぬの・・・・・やっぱり怖い?」
「そげなことあるか。 人間、いつかは死ぬんじゃけえ」
だが、父は25年後、じたばたと生にしがみつく。 病院をいくつも移り、民間療法を片っ端から試し、
怪しげな祈祷師に驚く程の謝礼を払ったり、風水に基づいて、玄関の位置を変えると言い出し、
会社の連中をあわてさせたりしたすえに、もうすぐ死ぬ。
「ほんとに怖くない? ほんとのほんとに?」 「おう、ほんまじゃ」
「じゃあチュウさん、死ぬのが怖くないんだったらさあ、僕と代わってくんない?」
さらりと言った。 訴えかけるような重い口調ではなかったから、余計、切なさが滲みた。
「死んじゃうって、いなくなるっていうことだよね、そうでしょ?」 「ああ、そうだよ」 橋本さんが応える。
「でも、僕はここにいるよ。 ここにいるのって、僕でしょ?」
「ここにいても・・・・・むこうの世界からはもう5年も前にいなくなってるんだ、おまえは」
橋本さんの声は次第に震え始め、叱りつけるような、強い口調で続けた。
「健太もわかっただろう? ママだって忘れてないよ、絶対に健太のこと忘れない、忘れるわけない、でもな、おまえはもういないんだよ。 ママのいる世界にはおまえは行けないんだ。 わかるか?わかるだろ?」
健太くんは答える代わりに、あくび交じりの伸びをした。
「パパ、もういいよ。 着いてるんでしょ? とっくに」 「・・・・・ああ」
「降りるから、僕」 車は停まった。 橋本さんは、ふう、と息をつくと、うつ伏せてハンドルに顔を埋めた。
「外寒いよね。 ねえパパ、せっかく買ってきたんだから、僕のおみやげ着てくれない? フリースってめっちゃ暖かいの、マジ」
橋本さんの背中の震えは更に大きくなって、それを見つめる僕のまなざしまで揺れる。
隣ではチュウさんが喉をつぶしてうめきつづける。 子供の前で大人が涙を見せるわけにはいかない。
チュウさん、あんたらしくていい。
チュウさんは3列目のシートからユニクロの紙袋を取り出し、橋本さんの背中にフリースジャケットを掛けた。
「早う、出ていきんさいや。 健太くんに見せてやりんさい、よう似合うとるけんの、いうて」
橋本さんはうつ伏せたまま、うなずいた。 そのはずみでけたたましいクラクションが暗闇に響き渡った。
ひゃっと叫んで体を起こした橋本さんの頭を、チュウさんは一発はたいた。
「アホ、こげなとこにドジなことするな!」
笑いながら。 はなをすすりあげて。 チュウさんは、本当に短期で乱暴なひとなのだ。
車が停まっていたのは、事故現場の丘の手前だった。
お揃いのジャケットを着た健太くんと向き合って立つと、二人は近所のどこにでもいそうな親子だった。
「健太・・・・ごめんな、パパのせいで・・・・おまえ、死なせちゃって、ママと離ればなれにしちゃって・・・・」
「ほんとだよ。 マジ、大、大、大めーわくしちゃった」
「生まれ変わったら・・・・・生まれ変わったらさ、パパみたいなお父さんじゃなくてさ、もっとちゃんとして、しっかりしたお父さんの子供になれよ・・・・なれるよ、今度は」
「べつに、しっかりしてなくていいけど、もっと車の運転が上手いひとがいいな」
「パパ」
「なんだ?」
「僕、成仏して生まれ変わったら、いままでのことぜんぶ忘れちゃう?」 「ああ・・・・」
「でもさ、前世の記憶とかあるじゃん。 僕ね、絶対に前世の記憶を持って生まれ変わるから」
「・・・・・できるよ、健太には」
「でね、パパとママのこと、ぜーったいに思い出す。 ママってサイコーのママだったな、パパってサイテーのパパだったよな、ってさ」
バカ、とつぶやく橋本さんの声は涙で崩れた。 パパのことなんていいんだよ、忘れちゃっていいんだよ、
とつづける声は嗚咽にほとんどかき消された。
チュウさんが我慢できない、というふうに一歩前に出て言った。
「ほんまにええんか、のう、橋本さんよ、このまま別れて、ほんまにあんたはええんか」
橋本さんはチュウさんをちらりと見ただけで、健太くんに目を戻した。
「健太、いいから、もう行きなさい」 霧が濃くなってきた。 坂道の途中からはなにも見えない。
「健太・・・・パパ、健太と二人でドライブできて嬉しかった。 おまえは怒ると思うけど、パパはずーっと二人でドライブしただろ、それでやっとおまえのお父さんになれたんじゃないかって・・・・・仲良くなれたもんな、すごく・・・・・」
健太くんはゆっくりと顔を下ろした。 橋本さんと目が合うとはにかんで笑い、目線を下ろして言った。
「パパも成仏するんでしょ? 生まれ変わるんでしょ?」
「パパは・・・・いいんだ、ここにいるよ。 車の運転にもやっと慣れたしさ、生まれ変わったらまた教習所に通わなくちゃいけないだろ」 「わけわかんないこと言わないでよ」
「パパはここに残る」 「なんで?」
「永田さんみたいなひと、たくさんいるからな、オデッセイに乗せて、いろんなところに連れて行ってやらないと」
「でもさあ、そんなのって・・・・」 「歳もとらないし、おなかも空かないし、けっこういいぞお」
無理な冗談は失敗だった。 逆に感情の蓋を外してしまった。
「だって、そうだろ? パパがここにいないと、おまえのこと、誰も覚えててやれなくなるだろ? 橋本健太ってさあ、8歳だよ、まだ8歳で死んじゃったけど、すごく元気で生意気な男のことがいたんだよ、パパが生まれ変わったら忘れちゃうだろ、パパってドジだから、なにやらせても不器用だからさあ・・・・・・忘れちゃうんだよ、おまえのこと・・・・・そんなの、いやなんだよ、パパ、いやなんだよ・・・・・」
橋本さんは右手で顔を覆い、左手を振った。 早く行け、というふうに。 何度も振った。
健太くんはうつむいたまま、踵を返し、丘に向かって歩き出した。
「健太、行くんか、おまえ。お父ちゃんのこと置いて、行ってしまうんか、のう」
健太くんは歩き続ける。
「ちょっと待て! 健太、こら、おっちゃの言うこと聞かんか!」
チュウさんが駆け出そうとしたそのとき―――橋本さんが怒鳴った。
「健太を止めるな!」
空気が、キン、と鳴るほどの大きな叫び声だった。
健太くんは振り返ることなく歩く。 やがて、健太くんの背中は霧に包まれて、闇に溶けて、消えていった。
「よかった・・・・・」橋本さんはつぶやいて、フリースジャケットの袖口で涙を拭った。
「ありがとうございました。 行きましょうか」 チュウさんはまだ道路を睨んでいた。
「チュウさん、行こうよ。 もういいだろ」 「・・・・わしゃあ、こげな別れ方は好かん」
「文句言わないでよ。 橋本さんと健太くんだって、悩んで決めたんだから」 「ほいでも、好かん」
「俺たちの別れ方はもっと嫌な感じになるんだよ。お互いに嫌いあって、憎みあって・・・・それに比べたら、今のなんて、ほんとに幸せじゃないか。 幸せにわかれたんだよ」
返事すらなかった。
僕はため息をつき、「先に行ってるから」と言い捨てて、車に戻った。
橋本さんはすでに運転席に座っていた。 フリースジャケットのジッパーを所在無げに上げ下げしている。
ここからは寂しいドライブになるな、とうつむいて、ドアの取っ手に指をかけた。
「おい! カズ!」
チュウさんが怒鳴った。 「こっち来い! 早う来い!」―――飛び跳ねるようにして、叫ぶ。
霧の中、人影が見え隠れしながら、こっちに向かっている。 走っている。
少年が、上着の裾をひるがえして、僕たちに向かって駆けている。
チュウさんは「うおおおおおおーっ!」と雄叫びを挙げ、両手を大きく振って、飛び跳ねる。
「橋本さん! 降りてきて!」 呼ぶ必要などなかった。 橋本さんは振り向いて、
「なんででしょうねえ、なんで・・・・・なんでしょうねえ、あいつ、ばかですよねえ・・・・」と泣きながら言った。
チュウさんは、橋本さんよりも派手に泣き、橋本さんよりも派手に喜んだ。
「どうじゃ!」―――得意げに、僕を見る。
「幸せやらなんやら関係あるか!親はのう、親子いうたらのう、すごいんじゃ、理屈で別れるようなもんと違うんじゃけん。 別れよう思うても別れられんのが、親と子なんじゃ!わかったか!」
道ばたにへたりこんで泣くだけの橋本さんにも、バンザイを繰り返すチュウさんにも辟易したのか、
健太くんは僕のそばに歩いてきて、「まいっちゃうね」と笑った。
「ああ。 なんで戻ってきたんだ?」 「さあ・・・・よくわかんないけど」 「パパのこと好きか」
「好きっていうかさあ、よく考えたらパパって車を運転しながらだとエアコンのスイッチ触れないんだもん。 右手と左手で別々のことができない人なの。 だから、まあ、一人だと危ないし・・・・」
「ほんとに不器用なんだなあ」 「でしょ? サイテーだよね」 「でも、サイコー、だろ」
健太くんはそれには答えず、あ、そうだ、というふうにチュウさんのほうに駆け出した。
「チュウさん、肩車して!」
「よっしゃあ!」
肩車をされた健太くんは気持ちよさそうにあたりを見回した。 幼い頃の僕が、そこにいる。
父に肩車されているときの僕は、おとなになった今の僕よりも、ずっと背が高かった。
走り出したオデッセイは真っ暗な闇に変わって間もなく、停まった。
「おじさん」 健太くんが振り向いて言った。
「なんとなくわかってると思うけど、もうすぐ、おじさん、僕らとバイバイだから」 「ああ・・・・」
隣のチュウさんだけ、驚いた顔になった。 「わしが先に降りるんじゃないんか」
「まだ、なんです。 チュウさんには、もうしばらくドライブに付き合ってもらわないと」
「ちょっと待てや、おい。 カズが車を降りるいうことは・・・・カズも死ぬんか?」
橋本さんは前を向いたまま、静かに答えた。
「永田さんは、もう死んでもいいと思ったんです。 そういう時に、私たちと出会ったんです」
「どっちなんか。 カズは死ぬんか、死なんのか。 はっきり言えや、こら」
声を荒らげ、ヘッドレストを叩く。 橋本さんに動揺した様子はなかった。 健太くんも黙っている。
僕は言った。 「チュウさん・・・・・もういいんだよ」 「なに言うとるんな、バカたれが」
「覚悟はできてるから」 「・・・・・なんじゃと、こら。もういっぺん言うてみい」
「思い残すこと、ないんだ」
ドライブを始めた頃とは違う。 疲れきって死にたいと思っているのではない。 大切な場所をいくつも巡った。
言えなかった言葉を言えた。 あとは僕が死んだあとの美代子と広樹の幸せを祈るだけだ。
幸せになって欲しいと素直に願えるようになったことが、僕にとっての幸せなのだと思う。
「感謝しています」 橋本さんに言った。 「ほんとに、ありがとうございました」
「後悔は、もうないんですね?」 うなずくと、チュウさんはまたヘッドレストを叩いた。
「どっちがいいですか。 このまま死ぬのと、生きて戻るのと」 「・・・・どんな現実になってるんですか今」
橋本さんは答えない。
「種明かししてくださいよ。 もういいでしょう? 今の現実、少しは変わってるんですか」
健太くんが割って入った。「もしサイテーの現実だったら、おじさん、死んじゃったほうがマシ?」
僕は言葉に詰まる。 頭の片隅をよぎることすらなかった問いだった。 「選ぶような話じゃないだろ」
「のう、橋本さんよ・・・・カズの生き死にはあんたが決めるんか。 のう、あんたが握っとるんか?」
苛立った声で言った。 ヘッドレストを叩く代わりに、今度は運転席の背もたれを後ろから蹴った。
「もしそうだったら・・・・・どうします?」
「どうもこうもあるか、アホ。 わりゃ、カズのこと殺すんか。 そげなことしたらわしがこんなをぶち殺しちゃるわい」
「まいっちゃうな、私、もう死んでるんですけど」 「殺す言うたら殺すんじゃ!」
「チュウさんは、永田さんには死んでほしくない、んですね」 「あたりまえじゃ!」
「こどもに自分より先に死ねぇ言う親がどこにおるんな!」 橋本さんは答えない。
「・・・・・頼む」
チュウさんはうめき声で言って、橋本さんに頭を下げた。 「頼みます」と言い直して更に頭を深く下げた。
「どげなことでもしますけん、カズを死なせんといてつかあさい。 わしの大事な息子なんですわ、カズは・・・・」
チュウさんは―――父は、涙ぐんでいた。
このドライブで、僕は何度父の泣き顔を見ただろう。 こんなにも涙もろい人だとは思わなかった。
お父ちゃん。 声にはならない。 胸の奥で、言った。 お父ちゃん、お父ちゃん、お父ちゃん・・・
「なんでもしますけん、助けたってつかあさいや。 わしの命と引き替えでもええです。 のう、橋本さん、頼みます・・・・わしがあと3日生きられるんなら、その3日、カズにやってつかあさい、生きて帰してやってつかあさい・・・・・」
拍手の音が聞こえた。 健太くんが「もういいよね」と言った。 「ああ・・・・」橋本さんがゆっくり頷いた。
「おじさん、さっきの質問まだ終わってないんだけど。 どうするの?サイテーの現実、やってみる気、ある?」
「あるよ」と僕は言った。
「サイテーの、サイアクの、もう、めちゃくちゃでどーしようもない現実でも?」
「ああ・・・・・帰りたい」
健太くんはまた拍手をした。 パチパチパチッと、3回。
「それを聞きたかった」 橋本さんはやっとチュウさんと僕を振り返った 「チュウさんの、さっきの言葉もね」
「生かしてくれるんか、カズのことを」
「最初からさあ」 健太くんが笑う。 「おじさん、死なないことになってたんだけどね」
カッとしたチュウさんが何か言うのをさえぎって、橋本さんが言った。
「永田さん、散歩に行ってらっしゃいよ。 もうあまり時間がありませんから、お父さんと話せるのも最後です」
僕はうなずいてドアを開けた。
海にいた。 ふるさとの大学病院の真下の海だ。 僕とチュウさんは防波堤に立っている。
「チュウさん・・・・・さっき、ありがとう」 「朋輩なんじゃけえ、あたりまえのことじゃ」
「朋輩じゃなくて、親父だから、でしょ」 「知るか、そげなこと。 理屈で言うたん違うわい」
「チュウさん、こっち向いてよ」 「・・・・・なんじゃい、アホ。 気色悪いのう」
僕はチュウさんをじっと見つめる。 僕と同い歳の父親の姿を記憶に刻む。
「大きゅうなったのう、ほんま。 一人前のお父ちゃんじゃ、カズも」 嬉しそうに言ってくれた。
僕は最後の最後で、ようやく親孝行ができたのかもしれない。
「親子ってなんで同い歳になれないんだろうね。 でも、僕とお父さんは会えた」
「アホか。 こげなこと、奇跡いうか、魔法なんじゃ」 「魔法って・・・・・」思わず笑った。
自分でも恥ずかしくなったのか、チュウさんは「知らん」と吐き捨てて、そっぽをむいてしまった。
「今度もし、魔法にかかるんだったら、38歳になった広樹に会いたいよ」
「・・・・なにアホなこと言うとるんな」
38歳の広樹はどんな大人になっているのだろう。 今の僕と朋輩になってくれるだろうか。 なりたい。
「のう、カズ」 「うん?」
「わし、一つだけやってみたいことがあったんじゃ。 一丁前になったカズと連れションしてみたかったんじゃ」
「なに、それ」 「男同士は連れションじゃ。 女がどげん偉そうなこと言うても真似できんのじゃけえ」
「連れションなんて、一度もしなかったよ」 「わかっとる。 ほいじゃけえ、いま、するんじゃ」
僕とチュウさんは海に向かった。 思い出したように尿意を感じた。 小便が二筋、海に向かって落ちていく。
チュウさんのほうが太い筋だったが、僕のほうが遠くまで。 これも魔法なのかもしれない。
オデッセイの中で、橋本さんと健太くんが目を合わせて笑うのが、くっきりと浮かんだ。
「まあ、あれじゃ、元気でがんばれや」 「・・・・・わかってる」 「墓参りせんと、化けて出ちゃるぞ」
小便が尽きると、チュウさんは星のない夜空を見上げて、気持ちよさそうに言った。
「これで、わしも思い残すことがのうなった。 よっしゃ、そろそろ行くか」
化けて出てきた親父と会うのも悪くないな。 こっそり笑った。
オデッセイは走る。 前方の闇に、青い光がいくつも浮かぶ。
「永田さん、もうすぐです」 橋本さんが言った。 健太くんが振り向いて「おじさん、元気でね」と言う。
「ああ、健太くんもな」 「死んでるから、元気は無理だっつーの」 「・・・・でも、元気だよ、健太くんは」
オデッセイはスピードを上げた。
「いまさら、ですけど」橋本さんが言う。「現実に、あまり期待しないでください」
「ええ・・・・わかってます」 「サイテーでサイアクの現実だからね」 健太くんが念を押した。
「やり直しでの現実の出来事は、まったく残ってないんですか」 「申し訳ありませんが・・・・」
と、健太くんが言った。「一つだけ、残ってるから。 特別にさ、おじさんとチュウさんに、僕からのプレゼント」
聞き返すことはできなかった。
車のスピードはさらに上がった。ぐん、とついた加速とともに、僕はまばゆい光に包まれた。
カズ―――。
チュウさんの声が、最後に聞こえたような気がした。
現実の世界では、時間は流れていなかった。 僕は駅前のベンチに座っている。
オデッセイはいない。 駅前はしんと静まり返っていた。
僕はベンチから立ち上がり、手に持っていたウイスキーの瓶とおにぎりを近くのゴミ箱に捨てた。
空を見上げる。 思ったよりたくさんの星が出ていた。 あの日―――空を見上げたことはなかった。
ずっとうつむいていた。 もう何日も、何ヶ月も、そうしていたような気がする。
夜空をかすかな光がよぎった。 流れ星だったのだろうか。
いつか橋本さんに聞いたのと同じように、僕も、流れ星に願い事を祈り損ねる間抜けな男なのだろう。
甘いよな、と笑った。 さあ行こうぜ、と自分に言った。
家に向かって歩き出した。 上り坂を徒歩15分。 マンションが見えてくる。
学校に行けなくなってしまった一人息子と、家に帰らないこともある妻、そして、職を失った父親。
サイテーの現実が待っている家に、僕は戻る。
玄関の鍵を開けた。「・・・・ただいま」 つぶやいて薄暗いリビングに入り、明かりを点けた。
布地が切り裂かれたソファーが、真っ先に目に入った。 テーブルにはビールの空き缶、
乱雑に折りたたまれた新聞やチラシの山、キッチンのシンクに溜まった食器・・・・今朝のままだ。
カレンダーをめくってみた。 やり直しの現実で僕が書いたメモは、なにも残っていなかった。
広樹の部屋からは物音は聞こえない。 出てきそうな気配もない。
明け方まで起きていて、昼間眠る生活がずっと続いている。 美代子は今夜は帰ってくるのだろうか。
ゆっくり息をついて立ち上がる。 窓を一杯に開けた。
大掃除を始めた。 リビングを片付けて、キッチンの食器を洗う。 ゴミを分別する。
浴室にむかい、脱衣カゴに山盛りになっていた服や下着を洗濯機に放り込んで洗剤を、とりあえず2杯入れた。
洗濯機を回している間は浴室を掃除した。
日付はとっくに変わっていたが、かまわない。 僕は僕の現実を、ここから始めなければならない。
カビで黒ずんだタイルの目地をブラシでこすっていると、自然と鼻歌が出た。
洗濯機のアラームが鳴った。 洗剤が多すぎたのか、どれもべとついていた。
洗濯機を回すなんて、独身の頃以来だ。 洗濯物を乾燥機に放り込む。
次はトイレだな、と廊下に出たところで足が止まる。
廊下に、広樹が立っていた。
スウェットの上下を着て、ぼさぼさの髪をし、運動不足とスナック菓子の食べ過ぎで春から10キロ近く太った体を
僕に向けていた。
「・・・・・なにしてんの」
やり直しの現実で会った広樹の声とは微妙に違う。 低く、太くなった。 声変わりをしたのだった。
「風呂掃除してたんだ」 広樹は黙って頷いた。 僕の前で笑わなくなって、どれくらいになるだろう。
「起きてたのか」 「・・・・・悪い?」
「お茶でも飲むか、お父さん、コーヒーいれてやるぞ」 「いらない」
そっけなく言って僕に背中を向け、自分の部屋に戻っていく。 うまくいかなかった。
それでも―――僕は、ここから始めなければならない。
トイレ掃除を終えて寝室に入った。 ふと、思い出した。 まさかなと苦笑しながら押入れの天袋を開けた。
『黒ひげ危機一発』の箱が―――あった。
肩と頬から力が抜けた。 これが、健太くんからのプレゼントだった。 いたずらっぽく笑う顔が浮かぶ。
あいつ、今頃、どこをドライブしてるんだろうな。 チュウさんと喧嘩しなけりゃいいけどな。
箱の蓋を開けた。 チュウさんと2人で撮った観覧車の記念写真もあった。 手に取って見つめた。
満面の笑みとまではいかなくても、チュウさんなりに精一杯の、いい笑顔だと思う。
『黒ひげ危機一発』を両手でリビングに戻り、ソファーに座って、一人でゲームを始めた。
樽にあてずっぽうにナイフを突き刺していく。 残り数本になったところで、やっと海賊が跳んだ。
ひゃあっ、と大げさに驚いて笑いながらソファーに倒れこむ。
リセットして、もう一度。 さらにもう一度、もう一度、もう一度・・・・。 ちっとも飽きなかった。
ゲームを続けた。 途中で一度広樹が部屋から出てきてトイレに行った。 こちらをちらりと見た。
勘が冴えてきたのか海賊を早いうちに仕留められるようになった。
4時前になって、広樹はまた部屋から出てきた。 「・・・・・なに、これ」
「『黒ひげ危機一発』って、知ってるだろ」 「知ってるけど・・・・なんで?」 「買ったんだ」
「ヒロもやらないか」 「やだ」
「誰の写真?」 「お父さんと、おじいちゃんだ」 「はあ?」
「嘘だよ・・・・お父さんの隣にいるの、チュウさんっていうんだけど、知らないか」
広樹は黙ってうなずいた。
「ヒロと3人でレストランに行ったこともあるんだぞ」 「・・・・会ったことある気もするけど、赤ん坊の頃でしょ」
「ああ。 ずーっと昔の話だよ」
「なあ、ヒロ。 1回だけやってみろよ」 「かったるい」 「1回だけだって、ほら」
テーブルから赤いナイフを取って、広樹に差し出した。 広樹は面倒くさそうに立ったまま刺した。
海賊が跳んだ。
広樹はびくっと身を反らし、一歩あとずさる。 笑みが浮かびかけたが、すぐに眉を寄せた。
「もう1回やるか?」 「やだよ、もう」 「じゃあ明日またやろう。 ここに置いておくから」
広樹はなにも答えず、部屋を出て行った。
「おやすみ」 背中に声をかけると、ドアを抜けながら、小さな声で「うん・・・・」と返事が来た。
僕はソファーに寝転がった。 仰向けになって天井をみつめ、首筋がくすぐったくなって、笑った。
翌朝6時ちょうどに起きた。 睡眠時間が2時間足らずだったとは思えないほど、すっきりとした目覚めだった。
寝室に美代子がいないことを確認して、漏れそうになるため息を呑み込んで、家を出た。
車を運転して、駅前のロータリーの橋本さんのオデッセイがあったあたりに車を停めた。
美代子が改札から出てくるのを車の中で待った。 じっと待ち続けた。
7時過ぎ―――美代子が姿をあらわした。
車から手を振ると、美代子はきょとんとした顔を浮かべたが、すぐに気まずそうに目をそらした。
やり直しのやり直し。 僕はもう、美代子を迎えるときの表情に迷ったりはしない。
小走りに改札口に向かった。 美代子はたたずんで動かなかった。 僕たちは改札の横で向き合った。
「お帰り」 と僕は言った。
「ねえ・・・・前にもこんなことあった? 前にもこんなふうにあなたが駅まで迎えにきてくれたこと」
「あったかもしれないけど・・・・・・忘れた」 「そう」
「帰ろう」 「・・・・・うん」
家に帰り着くと、炊飯器からほのかに甘い湯気を吹いているだろう。
夕べのうちに作っておいた味噌汁は仕上げにネギを浮かせればいい。
早起きさせたら、広樹はキレるだろうか。 かまわない。 布団をはぎとってやろう。
3人で―――家族そろって、朝飯だ。
美代子の手を取って歩き出した。 美代子は驚いて腕を縮めたが、僕は離さない。
誰かと手をつなぐ心地よさを、僕は知ってるし、決して忘れない。
美代子の手は、僕の手を握り返してはこない。 ほんのちょっと力をゆるめればすぐに手は離れてしまうだろう。
滑り落ちかけた美代子の指は、つないだ手がはずれる寸前、そっと、僕の指先をつかんだ。
僕はその日から、空をぼんやりと眺めるようになった。 ハローワークからの帰り道や、
リビングの静けさを背負ったベランダでそのまま長い時間を過ごしていることもある。
橋本さんのオデッセイは流れ星だったのかもしれない。 僕は流れ星に乗ってドライブしていたのかもしれない。
僕は今、羽田空港行きのモノレールに乗って、窓の外を見つめている。
父が死んだ。
今日の昼前―――サイテーの現実に僕が戻ってきた5日後ということになる。
静かに眠るように逝ったらしい。 優しい死に顔だった、と言っていた。
チュウさんは僕と別れてからどこに連れてってもらい、どんなことをやり直したのか、
いつか、ずっと先のいつか、訊いてみたいと思う。
あと数時間もすれば、僕は父のなきがらと対面する。 きっと泣いてしまうだろう。 泣けるはずだ。
それが何より嬉しいし、橋本さんと健太くんも喜んでくれるに違いない。
妹の智子には「遺影」に使える写真見つかったから」と言っておいた。
詮索される前に、さっさと葬儀会社の人に渡して、トリミングを頼むつもりだ。
スーツケースの喪服は3人分。 広樹はゲームボーイに夢中で美代子はすぐに寝たふりをした。
我が家の現実はそんなに変わってはいない。 数日でひっくり返るほど甘くはないのが、現実なのだ。
僕たちは、ここから始めるしかない。
美代子は外泊をしなくなった。 ソファーの新しいカバーを、昨日デパートで買ってきた。
広樹は夜眠るようになり、朝食を3人でとっている。
僕の前ではやらないが、時々『黒ひげ危機一発』で遊んでいるようだ。
そして僕は、父の葬儀を終えるとすぐ、書類選考を通過した再就職先の一次面接に臨む。
まだ先は長い。
長いのだから、こんなところで終わってたまるか、と思う。
橋本さんの車は今も、どこかの街を走っているはずだ。
魔法を信じるかい―――?
あなたが魔法を信じるなら、もしかしたら、橋本さんたちに出会うかもしれない。
サイテーの現実にうんざりして、もう死んだっていいやと思っているとき、
不意に目の前にワインカラーのオデッセイが現れたら、それが橋本さんの車だ。
乗り込めばいい。
あなたにとって大切な場所に連れて行ってもらえばいい。
オデッセイの助手席には、男の子が乗っている。 ちょっと生意気な、けれど素直で元気な少年だ。
きっと二人は、おそろいのフリースジャケットを着ているはずだ。
もしも橋本さんと健太くんに会えたら、伝えてくれないか。
僕は元気でやっている。
春になったら、二人が逝った事故現場を訪ねて花を手向けるつもりだ。 できれば、美代子と広樹を連れて。
久しぶりに家族ででかけられたら、ゆっくりと、一晩がかりで、不思議なドライブの話をしようと思う。
流星ワゴン、素敵なお話でした。
特に、自分の子どもがいる人や、親を亡くしている人が読んだら胸に響くと思いますが、
自分はどちらにも当てはまっていませんが、家族愛っていいなあ・・・・と思いました。
特に、父と息子ってまた特別な感じがして。 チュウさんみたいな人、いいなぁ(^-^)
後半の健太くんが成仏しに事故現場へ行くくだり、泣ける。
個人的には、主人公のふるさとと、私Lilyの母親の故郷は同じ県みたいで、
だからチュウさんの方言もすごく懐かしいような、馴染み深いような感じで読んでいました。
この「流星ワゴン」は1年くらい前に連続ドラマやってたんですよね。
私、全然見てなかったんですよね (^_^;) その当時ってあまりドラマ見てなくて。
一度、ドラマも見てみたいです!
重松清さんは家族がテーマの小説を得意とされています。 というか、全部家族モノかも・・・・。
他にも読んでみたい作品がたくさんあるので、また近いうちに読みたいと思います♪
その前からいじめられていた―――落ちることの許されない受験だったのだ。
一雄は未来を変えてやりたくて、引越しを提案する。
また、他の見知らぬ男に抱かれると知りながら、妻美代子を抱くのだった。
↑チューさんお気に入りの煙草、エコー。 旧三級品に分類される煙草で一般的なものよりも安い。
安い理由は普通の煙草では使わないような茎の部分などを使っているせい。
味はクセがあって、吸いづらいそうです。
では、最終回です。
「流星ワゴン」 重松清
暗闇を背負った窓ガラスに、オレンジ色の小さな炎が映りこんだ。 チュウさんが擦ったマッチの火だった。
自分がオデッセイに戻ったのだと気づいた。 ドアにもたれていた体を起こし、目をゆっくりと瞬く。
「お疲れさまでした」 運転席から橋本さんが言った。
「ああ・・・・どうも・・・・・」 声がかすれた。 喉がいがらっぽい。 風邪のひきはじめのような。
車内はずいぶん冷え込んでいた。
「先に帰ってたんだね」 チュウさんはぶっきらぼうに「おう」と答えた。 橋本さんも一声かけたきりだ。
何より、いつもは僕の帰りを待ちわびたように話しかけてくる健太くんの声が、まだ聞こえない。
怪訝に思って助手席を覗き込んだ。 ハーフパンツを穿いた脚が見える。 肝心の顔はわからない。
静かすぎる。 ずしんと沈み込んでしまうような重い沈黙だった。
「チュウさん・・・・」 「うん?」 声をひそめて「行ってきたの?」と訊いた。
煙草の煙だけが返ってくる。 「ほら、健太くんの・・・・・」
「もうええ」 「え?」 「黙っとれ、おまえは」
健太くんは黙ったままで動かない。 橋本さんがぽつりと言った。
「永田さん・・・・って息子さんのほうですけど、いかがでしたか、やり直しの現実は。 後悔することが少しは減りました?」 「ええ・・・・もう、ぜんぶ」
「そうですか。 すっきりした顔してますものね」 でしょうね、と僕は笑う。
ストロボのように明滅していた美代子への怒りや裏切られた悲しさも、最後には消えた。
許した―――とは思わない。 ただ、受け入れた。 まるごと美代子なのだと認めた。
湯島天神に向かった時と同じように、手をつないで眠った。
指を絡めあうのがこんなにも心地よいことなのだと、38年も生きてきたのに、今まで知らなかった。
美代子の指はこんなに細かったんだな、と夢うつつのなかで思った。 それが最後の記憶だった。
「やり直せてよかった。 本当に、そう思います。 ありがとうございます」
「でも、現実は何も変わらなかったでしょう?」 「ええ、変わりません」
「申し訳ないけど、そこは私たちにもどうにもならないんですよ」 「わかってます」
「現実はね、思い通りにならないから・・・・だから現実なんですよね」 橋本さんはちらりと健太くんを見た。
返事はなかったが、はなをすする音が聞こえる。 悪い予感がした。
「のう、健太。 男の子なんじゃろうが、いつまでもうじうじするな」
「うっさい!」 甲高い声で、健太くんは言い返す。
「うっさい! うっさい! 関係ないんだから、黙っててよ!」―――泣き出しそうな声になった。
「アホウ、こげなことで男が泣いてどげんするんな」
「うっさい! うっさい! うっさい!」
「・・・・・ほんまに道理のわからんやつじゃのう、こんなんも」
橋本さんは車のスピードをゆるめた。 「ちょっと休みましょうか」
「チュウさん、いまからおもしろい場所にお連れしましょうか」 車は静かに停まる。
ドアから降りたチュウさんが先に気づいた。
「おい・・・・・ここ・・・・・墓と違うんか」 「そうです」
見覚えがある。 間違いない。
永田家累代之墓―――。
「懐かしいでしょう。 ああ、でもあなたがこのお墓を建てるのは何年か先になるのかな」
たしかそうだ。 祖父の33回忌に合わせて墓を移したのだった。
「立派な墓だと思いますよ」 チュウさんの返事はない。
「もうすぐ、あなたは、ここに入るんです」
チュウさんはうめくように「もうすぐいうて、いつな」と訊いた。 「わかりません、そこまでは」
「・・・・・もったいつけるな」 「そんなつもりじゃないんですけどね。 ただ、お墓のまわり、すごくきれいでしょ。 今日の昼間、あなたの会社の若い人たちが掃除しにきたんです。」
「だから・・・・・ほんとうに、もうすぐ、なんです」
僕と橋本さんはチュウさんのそばから離れた。 橋本さんは車から遠ざかるように歩き出した。
「健太のことですけどね、これで成仏できると思うんです、あいつも」 「お母さんには会えたんですか」
「正確には、会ってません。 でも・・・・・もう、あいつは全部わかっちゃったんです」
自宅マンションは引き払われていた。 母親は2年前に再婚して、引っ越したのだという。
チュウさんはさすがにそのまま帰ろうとした。 だが、健太くんがどうしてもお母さんに会うと言い譲らなかった。
チュウさんと健太くんは、母親の住む街に向かった。 駅からは住所のメモを頼りに住宅街を歩いた。
途中に公園があった。 なにげなくそっちに目をやった健太くんは、次の瞬間、
歓声をあげて公園に駆け込んでいった。
「お母さんはいたんですか?」 「いました」 「・・・・一人で?」
「砂場で、よちよち歩きの赤ちゃんと遊んでました」 お母さんは、健太くんには気付かなかった。
「健太はそのまま、走る向きを斜めに変えて、全力疾走ですよ。 チュウさんあわてて追いかけて、ずいぶん探し回ったらしいんです。 迷惑かけちゃいました」
健太くんは泣かなかった。
うつむいて、歯を食いしばり、肩を抱くチュウさんの手を振り払って、あてもなく黙々と歩き続けた。
そして街を一周して再び公園に戻ってきた時にはお母さんと赤ちゃんはいなかった。
健太くんは砂場に行き、砂を両手ですくって・・・・・・泣き出した。
橋本さんの声は泣いてくれてほっとしたように聞こえた。 僕も同じ思いだ。
泣けばいい。 悲しいんだと伝えればいい。
親にとって何よりも辛いのは子供が悲しみを小さな胸に抱え込んでいることだと、僕はやり直しの現実で知った。
「さんざん泣いたあとね、チュウさんに肩車してもらったらしいです」 「肩車ですか」
バスに乗ると、健太くんはしゃくりあげながら、泣き疲れて眠ってしまった。
そしてチュウさんもすうっと引き入れられるように目を閉じて―――オデッセイに戻ってきたのだった。
お母さん宛に健太くんが書いた手紙というのを、橋本さんは見せてくれた。
<ママ、きょうは会えてうれしかったです。 いつまでもおげん気でいてください。 ぼくもげん気でがんばりますから、ぼくのことをけっしてわすれないでください。 さようなら>
「『けっして』っていうところが生意気なんですよね、あいつ」 つぶやきながら橋本さんは手紙を畳んだ。
「永田さん、やっぱりお父さんのこと、今でも嫌いですか」 「ええ・・・・」
「チュウさんは?」 少し考えて、「嫌いってわけじゃないです」と答えた。
「嫌いなままで別れるのって、ちょっと寂しい気もしますけどね」―――思っていたことを、先に言われてしまった。
「永田さんには悪いんですけど・・・・・私ね、チュウさんっていい父親だと思いますよ」
「そうですか?」
「少なくとも健太のことは感謝しています。 私があの場にいても何もしてやれないし、肩車なんて考えつかなかった」
「・・・・・親父、肩車が好きなんですよ」 「いいですよねえ、肩車って。 お父さんって感じがするじゃないですか」
いつだったっけ。 小学校に上がるか上がらないかのころだ、ふるさとに飛行船が来た時があった。
僕は父に肩車をしてもらった。 大きなクジラのような飛行船は飛ぶというより滑るように横切っていく。
僕はそれを、父の肩の上から、いつまでも飽きることなく見つめていたのだった。
ああそうか、とつぶやきが漏れた。 「どうかしました?」「いや、ちょっと違ってたかもしれない」
「肩車のこと。 親父が肩車を好きだったんじゃなくて、ほんとは、僕が肩車を好きだったんですよ」
「それ、チュウさんに話してあげたらいいんじゃないですか。 きっと喜びますよ」
チュウさんは墓の正面に腰を下ろして、煙草を吸っていた。
「チュウさん、煙草、一本くれない?」 「・・・・・吸うんか?」
「マイルドセブンって、知らないよね、軽い煙草の、スーパーライトって、もっと軽いやつなんだけど」
エコーのオレンジ色の箱がむしょうに懐かしい。 安っぽい紙と印刷の、透明のセロファンすらないエコーの箱は、
いつだってチュウさんの―――父のそばにあった。
生まれて初めてエコーを吸った。 思っていたよりずっと強い煙草だった。
喉が灼け、頭がくらくらして、首の後ろまで痛くなってきた。 これは無理だな、とあきらめた。
「チュウさんは、一日にどのくらい吸ってるんだっけ」 「二箱か・・・・仕事が忙しい時は、三箱じゃの」
「ずっとそのペースだったよ。 ヘビースモーカーだった。 お母さんや智子がいくら禁煙してくれって頼んでも、軽い煙草に変えるのもいやだって、言い張ってたんだ」
「ほうか・・・・・」
「最初にできたガンは、肺ガンだったんだよ。 もしも煙草をやめてたらガンにならなかったかもしれない」
「後悔してない?」 「なにをや」 「煙草やめなかったこと」
「わしはなんも後悔しとりゃせんよ。 欲しいだけ酒を飲んで、煙草を吸うて、会社を大きゅうして、こげな立派な墓まで建てて・・・・・後悔やら思い残すことやら、なーんもありゃせん」
チュウさんに会えてよかった。 子供の頃にはわからなかったはずのチュウさんの強がりがはっきり感じ取れる。
「僕のことは後悔してない?」
「これからぎょうさん失敗するんじゃろうの、カズとの付き合いかたを」
「失敗するよ。 チュウさんのやることは全部僕から嫌われるし、僕のやることは全部チュウさんを怒らせる」
「でも、最後にチュウさんに会えてよかった。 今の僕と同い歳のお父さんに会えて、本当に、よかったよ。 嬉しかった」
チュウさんは舌打ちして立ち上がった。 照れくささも、僕は大人だから、わかる。
「のう、カズ」
かすれた声でチュウさんが言った。 僕は目をそらしたまま、「なに?」と聞き返す。
「わしの棺桶、エコーも入れとけよ。 お母ちゃんはどうせ、びいびい泣いて役に立たんけん、頼んだど」
「・・・・・カートンで入れとくよ」 「酒も忘れんなや。 高い酒じゃなくてもええけん、ぎょうさんな」
「わかった。 あとは?」 「あとは・・・・・もうええわ、なんもいらん」
オデッセイは、夜の闇を走り続けた。 橋本さんは無言でハンドルを握り、健太くんは一言も話さない。
予感がする。 オデッセイのドライブはもうすぐ終わるだろう。
チュウさんは絶え間なくエコーを吸っては灰にしてまた吸っていた。
「・・・・・かなわんのう、ほんま」 低い声でつぶやく。貧乏ゆすりを始める。
「ねえ」 健太くんが口を開いた。「チュウさん・・・・・死ぬの・・・・・やっぱり怖い?」
「そげなことあるか。 人間、いつかは死ぬんじゃけえ」
だが、父は25年後、じたばたと生にしがみつく。 病院をいくつも移り、民間療法を片っ端から試し、
怪しげな祈祷師に驚く程の謝礼を払ったり、風水に基づいて、玄関の位置を変えると言い出し、
会社の連中をあわてさせたりしたすえに、もうすぐ死ぬ。
「ほんとに怖くない? ほんとのほんとに?」 「おう、ほんまじゃ」
「じゃあチュウさん、死ぬのが怖くないんだったらさあ、僕と代わってくんない?」
さらりと言った。 訴えかけるような重い口調ではなかったから、余計、切なさが滲みた。
「死んじゃうって、いなくなるっていうことだよね、そうでしょ?」 「ああ、そうだよ」 橋本さんが応える。
「でも、僕はここにいるよ。 ここにいるのって、僕でしょ?」
「ここにいても・・・・・むこうの世界からはもう5年も前にいなくなってるんだ、おまえは」
橋本さんの声は次第に震え始め、叱りつけるような、強い口調で続けた。
「健太もわかっただろう? ママだって忘れてないよ、絶対に健太のこと忘れない、忘れるわけない、でもな、おまえはもういないんだよ。 ママのいる世界にはおまえは行けないんだ。 わかるか?わかるだろ?」
健太くんは答える代わりに、あくび交じりの伸びをした。
「パパ、もういいよ。 着いてるんでしょ? とっくに」 「・・・・・ああ」
「降りるから、僕」 車は停まった。 橋本さんは、ふう、と息をつくと、うつ伏せてハンドルに顔を埋めた。
「外寒いよね。 ねえパパ、せっかく買ってきたんだから、僕のおみやげ着てくれない? フリースってめっちゃ暖かいの、マジ」
橋本さんの背中の震えは更に大きくなって、それを見つめる僕のまなざしまで揺れる。
隣ではチュウさんが喉をつぶしてうめきつづける。 子供の前で大人が涙を見せるわけにはいかない。
チュウさん、あんたらしくていい。
チュウさんは3列目のシートからユニクロの紙袋を取り出し、橋本さんの背中にフリースジャケットを掛けた。
「早う、出ていきんさいや。 健太くんに見せてやりんさい、よう似合うとるけんの、いうて」
橋本さんはうつ伏せたまま、うなずいた。 そのはずみでけたたましいクラクションが暗闇に響き渡った。
ひゃっと叫んで体を起こした橋本さんの頭を、チュウさんは一発はたいた。
「アホ、こげなとこにドジなことするな!」
笑いながら。 はなをすすりあげて。 チュウさんは、本当に短期で乱暴なひとなのだ。
車が停まっていたのは、事故現場の丘の手前だった。
お揃いのジャケットを着た健太くんと向き合って立つと、二人は近所のどこにでもいそうな親子だった。
「健太・・・・ごめんな、パパのせいで・・・・おまえ、死なせちゃって、ママと離ればなれにしちゃって・・・・」
「ほんとだよ。 マジ、大、大、大めーわくしちゃった」
「生まれ変わったら・・・・・生まれ変わったらさ、パパみたいなお父さんじゃなくてさ、もっとちゃんとして、しっかりしたお父さんの子供になれよ・・・・なれるよ、今度は」
「べつに、しっかりしてなくていいけど、もっと車の運転が上手いひとがいいな」
「パパ」
「なんだ?」
「僕、成仏して生まれ変わったら、いままでのことぜんぶ忘れちゃう?」 「ああ・・・・」
「でもさ、前世の記憶とかあるじゃん。 僕ね、絶対に前世の記憶を持って生まれ変わるから」
「・・・・・できるよ、健太には」
「でね、パパとママのこと、ぜーったいに思い出す。 ママってサイコーのママだったな、パパってサイテーのパパだったよな、ってさ」
バカ、とつぶやく橋本さんの声は涙で崩れた。 パパのことなんていいんだよ、忘れちゃっていいんだよ、
とつづける声は嗚咽にほとんどかき消された。
チュウさんが我慢できない、というふうに一歩前に出て言った。
「ほんまにええんか、のう、橋本さんよ、このまま別れて、ほんまにあんたはええんか」
橋本さんはチュウさんをちらりと見ただけで、健太くんに目を戻した。
「健太、いいから、もう行きなさい」 霧が濃くなってきた。 坂道の途中からはなにも見えない。
「健太・・・・パパ、健太と二人でドライブできて嬉しかった。 おまえは怒ると思うけど、パパはずーっと二人でドライブしただろ、それでやっとおまえのお父さんになれたんじゃないかって・・・・・仲良くなれたもんな、すごく・・・・・」
健太くんはゆっくりと顔を下ろした。 橋本さんと目が合うとはにかんで笑い、目線を下ろして言った。
「パパも成仏するんでしょ? 生まれ変わるんでしょ?」
「パパは・・・・いいんだ、ここにいるよ。 車の運転にもやっと慣れたしさ、生まれ変わったらまた教習所に通わなくちゃいけないだろ」 「わけわかんないこと言わないでよ」
「パパはここに残る」 「なんで?」
「永田さんみたいなひと、たくさんいるからな、オデッセイに乗せて、いろんなところに連れて行ってやらないと」
「でもさあ、そんなのって・・・・」 「歳もとらないし、おなかも空かないし、けっこういいぞお」
無理な冗談は失敗だった。 逆に感情の蓋を外してしまった。
「だって、そうだろ? パパがここにいないと、おまえのこと、誰も覚えててやれなくなるだろ? 橋本健太ってさあ、8歳だよ、まだ8歳で死んじゃったけど、すごく元気で生意気な男のことがいたんだよ、パパが生まれ変わったら忘れちゃうだろ、パパってドジだから、なにやらせても不器用だからさあ・・・・・・忘れちゃうんだよ、おまえのこと・・・・・そんなの、いやなんだよ、パパ、いやなんだよ・・・・・」
橋本さんは右手で顔を覆い、左手を振った。 早く行け、というふうに。 何度も振った。
健太くんはうつむいたまま、踵を返し、丘に向かって歩き出した。
「健太、行くんか、おまえ。お父ちゃんのこと置いて、行ってしまうんか、のう」
健太くんは歩き続ける。
「ちょっと待て! 健太、こら、おっちゃの言うこと聞かんか!」
チュウさんが駆け出そうとしたそのとき―――橋本さんが怒鳴った。
「健太を止めるな!」
空気が、キン、と鳴るほどの大きな叫び声だった。
健太くんは振り返ることなく歩く。 やがて、健太くんの背中は霧に包まれて、闇に溶けて、消えていった。
「よかった・・・・・」橋本さんはつぶやいて、フリースジャケットの袖口で涙を拭った。
「ありがとうございました。 行きましょうか」 チュウさんはまだ道路を睨んでいた。
「チュウさん、行こうよ。 もういいだろ」 「・・・・わしゃあ、こげな別れ方は好かん」
「文句言わないでよ。 橋本さんと健太くんだって、悩んで決めたんだから」 「ほいでも、好かん」
「俺たちの別れ方はもっと嫌な感じになるんだよ。お互いに嫌いあって、憎みあって・・・・それに比べたら、今のなんて、ほんとに幸せじゃないか。 幸せにわかれたんだよ」
返事すらなかった。
僕はため息をつき、「先に行ってるから」と言い捨てて、車に戻った。
橋本さんはすでに運転席に座っていた。 フリースジャケットのジッパーを所在無げに上げ下げしている。
ここからは寂しいドライブになるな、とうつむいて、ドアの取っ手に指をかけた。
「おい! カズ!」
チュウさんが怒鳴った。 「こっち来い! 早う来い!」―――飛び跳ねるようにして、叫ぶ。
霧の中、人影が見え隠れしながら、こっちに向かっている。 走っている。
少年が、上着の裾をひるがえして、僕たちに向かって駆けている。
チュウさんは「うおおおおおおーっ!」と雄叫びを挙げ、両手を大きく振って、飛び跳ねる。
「橋本さん! 降りてきて!」 呼ぶ必要などなかった。 橋本さんは振り向いて、
「なんででしょうねえ、なんで・・・・・なんでしょうねえ、あいつ、ばかですよねえ・・・・」と泣きながら言った。
チュウさんは、橋本さんよりも派手に泣き、橋本さんよりも派手に喜んだ。
「どうじゃ!」―――得意げに、僕を見る。
「幸せやらなんやら関係あるか!親はのう、親子いうたらのう、すごいんじゃ、理屈で別れるようなもんと違うんじゃけん。 別れよう思うても別れられんのが、親と子なんじゃ!わかったか!」
道ばたにへたりこんで泣くだけの橋本さんにも、バンザイを繰り返すチュウさんにも辟易したのか、
健太くんは僕のそばに歩いてきて、「まいっちゃうね」と笑った。
「ああ。 なんで戻ってきたんだ?」 「さあ・・・・よくわかんないけど」 「パパのこと好きか」
「好きっていうかさあ、よく考えたらパパって車を運転しながらだとエアコンのスイッチ触れないんだもん。 右手と左手で別々のことができない人なの。 だから、まあ、一人だと危ないし・・・・」
「ほんとに不器用なんだなあ」 「でしょ? サイテーだよね」 「でも、サイコー、だろ」
健太くんはそれには答えず、あ、そうだ、というふうにチュウさんのほうに駆け出した。
「チュウさん、肩車して!」
「よっしゃあ!」
肩車をされた健太くんは気持ちよさそうにあたりを見回した。 幼い頃の僕が、そこにいる。
父に肩車されているときの僕は、おとなになった今の僕よりも、ずっと背が高かった。
走り出したオデッセイは真っ暗な闇に変わって間もなく、停まった。
「おじさん」 健太くんが振り向いて言った。
「なんとなくわかってると思うけど、もうすぐ、おじさん、僕らとバイバイだから」 「ああ・・・・」
隣のチュウさんだけ、驚いた顔になった。 「わしが先に降りるんじゃないんか」
「まだ、なんです。 チュウさんには、もうしばらくドライブに付き合ってもらわないと」
「ちょっと待てや、おい。 カズが車を降りるいうことは・・・・カズも死ぬんか?」
橋本さんは前を向いたまま、静かに答えた。
「永田さんは、もう死んでもいいと思ったんです。 そういう時に、私たちと出会ったんです」
「どっちなんか。 カズは死ぬんか、死なんのか。 はっきり言えや、こら」
声を荒らげ、ヘッドレストを叩く。 橋本さんに動揺した様子はなかった。 健太くんも黙っている。
僕は言った。 「チュウさん・・・・・もういいんだよ」 「なに言うとるんな、バカたれが」
「覚悟はできてるから」 「・・・・・なんじゃと、こら。もういっぺん言うてみい」
「思い残すこと、ないんだ」
ドライブを始めた頃とは違う。 疲れきって死にたいと思っているのではない。 大切な場所をいくつも巡った。
言えなかった言葉を言えた。 あとは僕が死んだあとの美代子と広樹の幸せを祈るだけだ。
幸せになって欲しいと素直に願えるようになったことが、僕にとっての幸せなのだと思う。
「感謝しています」 橋本さんに言った。 「ほんとに、ありがとうございました」
「後悔は、もうないんですね?」 うなずくと、チュウさんはまたヘッドレストを叩いた。
「どっちがいいですか。 このまま死ぬのと、生きて戻るのと」 「・・・・どんな現実になってるんですか今」
橋本さんは答えない。
「種明かししてくださいよ。 もういいでしょう? 今の現実、少しは変わってるんですか」
健太くんが割って入った。「もしサイテーの現実だったら、おじさん、死んじゃったほうがマシ?」
僕は言葉に詰まる。 頭の片隅をよぎることすらなかった問いだった。 「選ぶような話じゃないだろ」
「のう、橋本さんよ・・・・カズの生き死にはあんたが決めるんか。 のう、あんたが握っとるんか?」
苛立った声で言った。 ヘッドレストを叩く代わりに、今度は運転席の背もたれを後ろから蹴った。
「もしそうだったら・・・・・どうします?」
「どうもこうもあるか、アホ。 わりゃ、カズのこと殺すんか。 そげなことしたらわしがこんなをぶち殺しちゃるわい」
「まいっちゃうな、私、もう死んでるんですけど」 「殺す言うたら殺すんじゃ!」
「チュウさんは、永田さんには死んでほしくない、んですね」 「あたりまえじゃ!」
「こどもに自分より先に死ねぇ言う親がどこにおるんな!」 橋本さんは答えない。
「・・・・・頼む」
チュウさんはうめき声で言って、橋本さんに頭を下げた。 「頼みます」と言い直して更に頭を深く下げた。
「どげなことでもしますけん、カズを死なせんといてつかあさい。 わしの大事な息子なんですわ、カズは・・・・」
チュウさんは―――父は、涙ぐんでいた。
このドライブで、僕は何度父の泣き顔を見ただろう。 こんなにも涙もろい人だとは思わなかった。
お父ちゃん。 声にはならない。 胸の奥で、言った。 お父ちゃん、お父ちゃん、お父ちゃん・・・
「なんでもしますけん、助けたってつかあさいや。 わしの命と引き替えでもええです。 のう、橋本さん、頼みます・・・・わしがあと3日生きられるんなら、その3日、カズにやってつかあさい、生きて帰してやってつかあさい・・・・・」
拍手の音が聞こえた。 健太くんが「もういいよね」と言った。 「ああ・・・・」橋本さんがゆっくり頷いた。
「おじさん、さっきの質問まだ終わってないんだけど。 どうするの?サイテーの現実、やってみる気、ある?」
「あるよ」と僕は言った。
「サイテーの、サイアクの、もう、めちゃくちゃでどーしようもない現実でも?」
「ああ・・・・・帰りたい」
健太くんはまた拍手をした。 パチパチパチッと、3回。
「それを聞きたかった」 橋本さんはやっとチュウさんと僕を振り返った 「チュウさんの、さっきの言葉もね」
「生かしてくれるんか、カズのことを」
「最初からさあ」 健太くんが笑う。 「おじさん、死なないことになってたんだけどね」
カッとしたチュウさんが何か言うのをさえぎって、橋本さんが言った。
「永田さん、散歩に行ってらっしゃいよ。 もうあまり時間がありませんから、お父さんと話せるのも最後です」
僕はうなずいてドアを開けた。
海にいた。 ふるさとの大学病院の真下の海だ。 僕とチュウさんは防波堤に立っている。
「チュウさん・・・・・さっき、ありがとう」 「朋輩なんじゃけえ、あたりまえのことじゃ」
「朋輩じゃなくて、親父だから、でしょ」 「知るか、そげなこと。 理屈で言うたん違うわい」
「チュウさん、こっち向いてよ」 「・・・・・なんじゃい、アホ。 気色悪いのう」
僕はチュウさんをじっと見つめる。 僕と同い歳の父親の姿を記憶に刻む。
「大きゅうなったのう、ほんま。 一人前のお父ちゃんじゃ、カズも」 嬉しそうに言ってくれた。
僕は最後の最後で、ようやく親孝行ができたのかもしれない。
「親子ってなんで同い歳になれないんだろうね。 でも、僕とお父さんは会えた」
「アホか。 こげなこと、奇跡いうか、魔法なんじゃ」 「魔法って・・・・・」思わず笑った。
自分でも恥ずかしくなったのか、チュウさんは「知らん」と吐き捨てて、そっぽをむいてしまった。
「今度もし、魔法にかかるんだったら、38歳になった広樹に会いたいよ」
「・・・・なにアホなこと言うとるんな」
38歳の広樹はどんな大人になっているのだろう。 今の僕と朋輩になってくれるだろうか。 なりたい。
「のう、カズ」 「うん?」
「わし、一つだけやってみたいことがあったんじゃ。 一丁前になったカズと連れションしてみたかったんじゃ」
「なに、それ」 「男同士は連れションじゃ。 女がどげん偉そうなこと言うても真似できんのじゃけえ」
「連れションなんて、一度もしなかったよ」 「わかっとる。 ほいじゃけえ、いま、するんじゃ」
僕とチュウさんは海に向かった。 思い出したように尿意を感じた。 小便が二筋、海に向かって落ちていく。
チュウさんのほうが太い筋だったが、僕のほうが遠くまで。 これも魔法なのかもしれない。
オデッセイの中で、橋本さんと健太くんが目を合わせて笑うのが、くっきりと浮かんだ。
「まあ、あれじゃ、元気でがんばれや」 「・・・・・わかってる」 「墓参りせんと、化けて出ちゃるぞ」
小便が尽きると、チュウさんは星のない夜空を見上げて、気持ちよさそうに言った。
「これで、わしも思い残すことがのうなった。 よっしゃ、そろそろ行くか」
化けて出てきた親父と会うのも悪くないな。 こっそり笑った。
オデッセイは走る。 前方の闇に、青い光がいくつも浮かぶ。
「永田さん、もうすぐです」 橋本さんが言った。 健太くんが振り向いて「おじさん、元気でね」と言う。
「ああ、健太くんもな」 「死んでるから、元気は無理だっつーの」 「・・・・でも、元気だよ、健太くんは」
オデッセイはスピードを上げた。
「いまさら、ですけど」橋本さんが言う。「現実に、あまり期待しないでください」
「ええ・・・・わかってます」 「サイテーでサイアクの現実だからね」 健太くんが念を押した。
「やり直しでの現実の出来事は、まったく残ってないんですか」 「申し訳ありませんが・・・・」
と、健太くんが言った。「一つだけ、残ってるから。 特別にさ、おじさんとチュウさんに、僕からのプレゼント」
聞き返すことはできなかった。
車のスピードはさらに上がった。ぐん、とついた加速とともに、僕はまばゆい光に包まれた。
カズ―――。
チュウさんの声が、最後に聞こえたような気がした。
現実の世界では、時間は流れていなかった。 僕は駅前のベンチに座っている。
オデッセイはいない。 駅前はしんと静まり返っていた。
僕はベンチから立ち上がり、手に持っていたウイスキーの瓶とおにぎりを近くのゴミ箱に捨てた。
空を見上げる。 思ったよりたくさんの星が出ていた。 あの日―――空を見上げたことはなかった。
ずっとうつむいていた。 もう何日も、何ヶ月も、そうしていたような気がする。
夜空をかすかな光がよぎった。 流れ星だったのだろうか。
いつか橋本さんに聞いたのと同じように、僕も、流れ星に願い事を祈り損ねる間抜けな男なのだろう。
甘いよな、と笑った。 さあ行こうぜ、と自分に言った。
家に向かって歩き出した。 上り坂を徒歩15分。 マンションが見えてくる。
学校に行けなくなってしまった一人息子と、家に帰らないこともある妻、そして、職を失った父親。
サイテーの現実が待っている家に、僕は戻る。
玄関の鍵を開けた。「・・・・ただいま」 つぶやいて薄暗いリビングに入り、明かりを点けた。
布地が切り裂かれたソファーが、真っ先に目に入った。 テーブルにはビールの空き缶、
乱雑に折りたたまれた新聞やチラシの山、キッチンのシンクに溜まった食器・・・・今朝のままだ。
カレンダーをめくってみた。 やり直しの現実で僕が書いたメモは、なにも残っていなかった。
広樹の部屋からは物音は聞こえない。 出てきそうな気配もない。
明け方まで起きていて、昼間眠る生活がずっと続いている。 美代子は今夜は帰ってくるのだろうか。
ゆっくり息をついて立ち上がる。 窓を一杯に開けた。
大掃除を始めた。 リビングを片付けて、キッチンの食器を洗う。 ゴミを分別する。
浴室にむかい、脱衣カゴに山盛りになっていた服や下着を洗濯機に放り込んで洗剤を、とりあえず2杯入れた。
洗濯機を回している間は浴室を掃除した。
日付はとっくに変わっていたが、かまわない。 僕は僕の現実を、ここから始めなければならない。
カビで黒ずんだタイルの目地をブラシでこすっていると、自然と鼻歌が出た。
洗濯機のアラームが鳴った。 洗剤が多すぎたのか、どれもべとついていた。
洗濯機を回すなんて、独身の頃以来だ。 洗濯物を乾燥機に放り込む。
次はトイレだな、と廊下に出たところで足が止まる。
廊下に、広樹が立っていた。
スウェットの上下を着て、ぼさぼさの髪をし、運動不足とスナック菓子の食べ過ぎで春から10キロ近く太った体を
僕に向けていた。
「・・・・・なにしてんの」
やり直しの現実で会った広樹の声とは微妙に違う。 低く、太くなった。 声変わりをしたのだった。
「風呂掃除してたんだ」 広樹は黙って頷いた。 僕の前で笑わなくなって、どれくらいになるだろう。
「起きてたのか」 「・・・・・悪い?」
「お茶でも飲むか、お父さん、コーヒーいれてやるぞ」 「いらない」
そっけなく言って僕に背中を向け、自分の部屋に戻っていく。 うまくいかなかった。
それでも―――僕は、ここから始めなければならない。
トイレ掃除を終えて寝室に入った。 ふと、思い出した。 まさかなと苦笑しながら押入れの天袋を開けた。
『黒ひげ危機一発』の箱が―――あった。
肩と頬から力が抜けた。 これが、健太くんからのプレゼントだった。 いたずらっぽく笑う顔が浮かぶ。
あいつ、今頃、どこをドライブしてるんだろうな。 チュウさんと喧嘩しなけりゃいいけどな。
箱の蓋を開けた。 チュウさんと2人で撮った観覧車の記念写真もあった。 手に取って見つめた。
満面の笑みとまではいかなくても、チュウさんなりに精一杯の、いい笑顔だと思う。
『黒ひげ危機一発』を両手でリビングに戻り、ソファーに座って、一人でゲームを始めた。
樽にあてずっぽうにナイフを突き刺していく。 残り数本になったところで、やっと海賊が跳んだ。
ひゃあっ、と大げさに驚いて笑いながらソファーに倒れこむ。
リセットして、もう一度。 さらにもう一度、もう一度、もう一度・・・・。 ちっとも飽きなかった。
ゲームを続けた。 途中で一度広樹が部屋から出てきてトイレに行った。 こちらをちらりと見た。
勘が冴えてきたのか海賊を早いうちに仕留められるようになった。
4時前になって、広樹はまた部屋から出てきた。 「・・・・・なに、これ」
「『黒ひげ危機一発』って、知ってるだろ」 「知ってるけど・・・・なんで?」 「買ったんだ」
「ヒロもやらないか」 「やだ」
「誰の写真?」 「お父さんと、おじいちゃんだ」 「はあ?」
「嘘だよ・・・・お父さんの隣にいるの、チュウさんっていうんだけど、知らないか」
広樹は黙ってうなずいた。
「ヒロと3人でレストランに行ったこともあるんだぞ」 「・・・・会ったことある気もするけど、赤ん坊の頃でしょ」
「ああ。 ずーっと昔の話だよ」
「なあ、ヒロ。 1回だけやってみろよ」 「かったるい」 「1回だけだって、ほら」
テーブルから赤いナイフを取って、広樹に差し出した。 広樹は面倒くさそうに立ったまま刺した。
海賊が跳んだ。
広樹はびくっと身を反らし、一歩あとずさる。 笑みが浮かびかけたが、すぐに眉を寄せた。
「もう1回やるか?」 「やだよ、もう」 「じゃあ明日またやろう。 ここに置いておくから」
広樹はなにも答えず、部屋を出て行った。
「おやすみ」 背中に声をかけると、ドアを抜けながら、小さな声で「うん・・・・」と返事が来た。
僕はソファーに寝転がった。 仰向けになって天井をみつめ、首筋がくすぐったくなって、笑った。
翌朝6時ちょうどに起きた。 睡眠時間が2時間足らずだったとは思えないほど、すっきりとした目覚めだった。
寝室に美代子がいないことを確認して、漏れそうになるため息を呑み込んで、家を出た。
車を運転して、駅前のロータリーの橋本さんのオデッセイがあったあたりに車を停めた。
美代子が改札から出てくるのを車の中で待った。 じっと待ち続けた。
7時過ぎ―――美代子が姿をあらわした。
車から手を振ると、美代子はきょとんとした顔を浮かべたが、すぐに気まずそうに目をそらした。
やり直しのやり直し。 僕はもう、美代子を迎えるときの表情に迷ったりはしない。
小走りに改札口に向かった。 美代子はたたずんで動かなかった。 僕たちは改札の横で向き合った。
「お帰り」 と僕は言った。
「ねえ・・・・前にもこんなことあった? 前にもこんなふうにあなたが駅まで迎えにきてくれたこと」
「あったかもしれないけど・・・・・・忘れた」 「そう」
「帰ろう」 「・・・・・うん」
家に帰り着くと、炊飯器からほのかに甘い湯気を吹いているだろう。
夕べのうちに作っておいた味噌汁は仕上げにネギを浮かせればいい。
早起きさせたら、広樹はキレるだろうか。 かまわない。 布団をはぎとってやろう。
3人で―――家族そろって、朝飯だ。
美代子の手を取って歩き出した。 美代子は驚いて腕を縮めたが、僕は離さない。
誰かと手をつなぐ心地よさを、僕は知ってるし、決して忘れない。
美代子の手は、僕の手を握り返してはこない。 ほんのちょっと力をゆるめればすぐに手は離れてしまうだろう。
滑り落ちかけた美代子の指は、つないだ手がはずれる寸前、そっと、僕の指先をつかんだ。
僕はその日から、空をぼんやりと眺めるようになった。 ハローワークからの帰り道や、
リビングの静けさを背負ったベランダでそのまま長い時間を過ごしていることもある。
橋本さんのオデッセイは流れ星だったのかもしれない。 僕は流れ星に乗ってドライブしていたのかもしれない。
僕は今、羽田空港行きのモノレールに乗って、窓の外を見つめている。
父が死んだ。
今日の昼前―――サイテーの現実に僕が戻ってきた5日後ということになる。
静かに眠るように逝ったらしい。 優しい死に顔だった、と言っていた。
チュウさんは僕と別れてからどこに連れてってもらい、どんなことをやり直したのか、
いつか、ずっと先のいつか、訊いてみたいと思う。
あと数時間もすれば、僕は父のなきがらと対面する。 きっと泣いてしまうだろう。 泣けるはずだ。
それが何より嬉しいし、橋本さんと健太くんも喜んでくれるに違いない。
妹の智子には「遺影」に使える写真見つかったから」と言っておいた。
詮索される前に、さっさと葬儀会社の人に渡して、トリミングを頼むつもりだ。
スーツケースの喪服は3人分。 広樹はゲームボーイに夢中で美代子はすぐに寝たふりをした。
我が家の現実はそんなに変わってはいない。 数日でひっくり返るほど甘くはないのが、現実なのだ。
僕たちは、ここから始めるしかない。
美代子は外泊をしなくなった。 ソファーの新しいカバーを、昨日デパートで買ってきた。
広樹は夜眠るようになり、朝食を3人でとっている。
僕の前ではやらないが、時々『黒ひげ危機一発』で遊んでいるようだ。
そして僕は、父の葬儀を終えるとすぐ、書類選考を通過した再就職先の一次面接に臨む。
まだ先は長い。
長いのだから、こんなところで終わってたまるか、と思う。
橋本さんの車は今も、どこかの街を走っているはずだ。
魔法を信じるかい―――?
あなたが魔法を信じるなら、もしかしたら、橋本さんたちに出会うかもしれない。
サイテーの現実にうんざりして、もう死んだっていいやと思っているとき、
不意に目の前にワインカラーのオデッセイが現れたら、それが橋本さんの車だ。
乗り込めばいい。
あなたにとって大切な場所に連れて行ってもらえばいい。
オデッセイの助手席には、男の子が乗っている。 ちょっと生意気な、けれど素直で元気な少年だ。
きっと二人は、おそろいのフリースジャケットを着ているはずだ。
もしも橋本さんと健太くんに会えたら、伝えてくれないか。
僕は元気でやっている。
春になったら、二人が逝った事故現場を訪ねて花を手向けるつもりだ。 できれば、美代子と広樹を連れて。
久しぶりに家族ででかけられたら、ゆっくりと、一晩がかりで、不思議なドライブの話をしようと思う。
流星ワゴン、素敵なお話でした。
特に、自分の子どもがいる人や、親を亡くしている人が読んだら胸に響くと思いますが、
自分はどちらにも当てはまっていませんが、家族愛っていいなあ・・・・と思いました。
特に、父と息子ってまた特別な感じがして。 チュウさんみたいな人、いいなぁ(^-^)
後半の健太くんが成仏しに事故現場へ行くくだり、泣ける。
個人的には、主人公のふるさとと、私Lilyの母親の故郷は同じ県みたいで、
だからチュウさんの方言もすごく懐かしいような、馴染み深いような感じで読んでいました。
この「流星ワゴン」は1年くらい前に連続ドラマやってたんですよね。
私、全然見てなかったんですよね (^_^;) その当時ってあまりドラマ見てなくて。
一度、ドラマも見てみたいです!
重松清さんは家族がテーマの小説を得意とされています。 というか、全部家族モノかも・・・・。
他にも読んでみたい作品がたくさんあるので、また近いうちに読みたいと思います♪