またまた続けて読書の記事でいきます本

今回読んだ本はガツンと大人の恋愛モノですよドキドキ
たまにはいいですね~、本気の恋愛小説。 しかも相手は普通の相手ではありません。


「プリズム」 百田尚樹




私が初めて岩本家を訪れたのは3月の初めだった。

成城の古いお屋敷街には立派な家が立ち並んでいたが、岩本家はその中でもひときわ大きかった。
今時、こんな大きな屋敷もあるんだ、と感心しながら、門扉横のブザーを押した。
名前を告げるとすぐに格子の扉の錠が開く音がした。
重い扉を押して中に入ると、扉は自動的に閉まり、錠がかかった。

門から母屋までは十数メートルあり、緩やかな階段状に石が敷き詰められていた。
石の階段の両側には様々な木々が植えられている。花もいつくも植わっていたがまだ蕾のままだった。

母屋も学生時代に見た、神戸の異人館を思い出させるような古い洋館だった。
気持ちが少し怯むのを感じた。 こんな家で仕事が務まるだろうか。
まさか初めて訪問する家がこんな豪邸だとは想像もしていなかった。
上等の御召物を纏った「ざます」口調の奥様に、眼鏡をかけたこまっしゃくれたおぼっちゃまを連想して、
石段を上りながら、心の中でため息をついた。

豪華な木製の扉の横にもインターホンがあり、それを押すと、はい、という声が聞こえた。
しばらくして扉が開き、長い髪をアップにし、黒いワンピースを着た女性が現れた。

「いらっしゃい」


「家庭教師センターから参りました、梅田聡子と申します」 私は深々と頭を下げた。


「岩本です。 どうぞ、お入りください」
30代後半に見える夫人は、綺麗な顔立ちをしていた。 170センチは超えているだろうか。
若い時はモデルみたいだったろうと思った。

玄関に足を踏み入れると、吹き抜けの広いホールだった。
その玄関ホールだけで、私の住むマンションのLDKよりも広い。 長い廊下を歩いた。
通された応接室は20畳はあろうかと思える広さだった。
高い天井には大きなファンのついたシャンデリアがあり、電球が切れたらどうやって替えるのだろう、
と愚にもつかぬことを考えた。


「どうぞお座りください」 夫人に言われて本革の高級感漂うソファーに腰を下ろした。
「梅田さんとおっしゃいましたね」「はい」
「お若い方なんですね」 「若いと言えるか――32歳です」
夫人は少し驚いたようだった。 私の年齢を聞くと、たいていの人が驚く。
「もしかして女子大生かと思いました」 それは言い過ぎのように思えたが、私は恐れ入りますと答えた。

「家庭教師歴は長いのですか?」「5年くらいです」
本当は先週登録したばかりだ。 実績を聞かれたら5年と答えろと会社から言われていたのでそう答えた。

「梅田さんは理学部の数学科を出ておられるんですね」「はい」
「それで中学校の数学教師の免許をお持ちなんですね」「はい」
これは本当だ。 ただ、実際に教職についたことはない。

「それは心強いですわ。 今、息子を連れてきます」 夫人はそう言うと、部屋を出て行った。
私は小さくため息をついた。 一応、最初の関門はクリアしたようだ。
ふと窓に目をやった。
レースのカーテン越しに庭が見えた。 窓に近寄って庭を眺めた。
思わず心の中で、わーおと声をあげた。 うっとりするほど美しい庭だったからだ。
あちこちに巨木が何本もあり、大きな庭石がいくつもあり、気は綺麗に剪定されていた。
驚いたことに築山まである。 築山の近くには瓢箪型の池が見えた。 そのくびれたところに木橋がかかっている。
池を眺めていると、鯉が跳ねた。
庭の奥の方は林のように木が生い茂り、向こう側が見えないようになっていた。


ドアをノックする音がして、夫人が息子を連れて入ってきた。
私はソファーに座って待っていなかった無作法を隠すように「お庭を拝見しておりました」と言った。
「とても美しいお庭ですね」
「見る分にはいいのでしょうが、手入れが大変です」

「息子の修一です。 小学校の5年生です」夫人の横に立つ男の子がちょこんと頭を下げた。
「初めまして、梅田です。よろしく」修一は少し照れたように笑った。
「早速始めましょうか」と私は言った。

私が登録している家庭教師センターでは、最初の日に「お試しコース」という1時間の授業がある。
もちろん料金は無料だ。 そこで母親に気に入られれば、契約成立となる。
子供部屋は2階にある、15畳はたっぷりある広い部屋だった。
私は持参した問題を修一にやらせてみた。
算数の学力は平均以上だった。 ただ、有名私立中学を受けるには全然足りない。
私はまず修一が間違えた問題から教えた。 私の言うことをよく聞き、理解も早かった。
既定の1時間が終わった頃、夫人がお茶を用意します、と言って部屋を出た。

「お手洗いを借りてもいいかしら?」 
「廊下を出て右に行ったところ」 修一は言った。 私は部屋を出た。

2階の廊下からは玄関ホールが見おろせた。 玄関を掃除している家政婦らしきおばさんがいた。
トイレも広くゆったりと作られていた。
我が家のトイレは少し体を前に倒しただけでドアに頭をふつけそうになるが、
岩本家では手を伸ばしてもドアに届かないくらいのスペースがあった。


トイレから出て部屋に戻ろうとすると、廊下で若い男性とばったり出くわした。
会釈したが青年は私から目を逸らすようにして俯いた。 あえて気付かないふりをしているようにも見えた。
男性は30歳くらいの印象で修一の父にしては若すぎる。
私はもう一度会釈したが、彼は廊下の手すりを両手で掴んだまま、下の玄関ホールを見つめていた。
何か、心がない人みたいと思った。

部屋に戻ると、修一は漫画を読んでいた。 
「廊下に男の人がいたわ」
修一は漫画に夢中で私の言葉が聞こえないようだった。いや、聞こえないふりをしていたのかもしれない。




「早々に決まってよかったな」

夫の康弘はそう言って、皿の上のピーナッツをつまんだ。
康弘は出版社に勤めていて年は2つ上の34歳だ。 私も以前は康弘と別の出版社で働いていた。

「けど、週に4回って多くない?」
「センターの人も珍しいって言ってた。 普通は多くても週に2回みたい。 中学受験のためだって」
「いきなりそんなに仕事して、自分の時間がなくならない?」
「大丈夫よ。もともと週に4日くらいは仕事したいと思っていたから」

それは本当だ。家庭教師の仕事をしようと思ったのも一日中家にいるのがストレスになりつつあったからだ。
3年前に体調を崩して仕事を辞めた。 退職したのは子作りのためでもあった。
しかし1年間まったく妊娠せず、病院に行くと排卵障害と診断された。
以来、専業主婦をしながら不妊治療を続けてきたが、それだけに専念するのは辛いものがあった。
私は女として至らないという思いと安くはない不妊治療の出費で康弘には随分と負い目を感じていた。

康弘とは大学時代から付き合っていて、10年前私が大学を卒業した年に結婚した。
当時康弘は大学生だった。2留していたからである。 その後彼は大学院に進み、
彼の学費も生活費もすべて私が工面した。
その間一度だけ妊娠したが、生活のことを考えて中絶した。
彼は院を卒業した後、就職した会社は仕事が合わないといって1年で退職した。 私は随分がっかりした。
その1年後に大手出版社に就職した時は本当に嬉しかった。



翌週から、家庭教師の仕事が本格的にスタートした。

1回の勉強時間は2時間で、途中10分の休憩時間を取った。
修一は手のかからない生徒だった。集中力があった。子供に一番大切なのは集中力だ。
10分の休憩時間は修一に自由に過ごさせた。 修一は携帯用のゲーム機で遊んだり漫画を読んだりした。

「先生はどうして結婚したの?」
2回目の家庭教師の日、休憩時間に修一がふいに尋ねた。
「さあ、どうしてだろうね」
「恋愛結婚?」「一応ね」 修一は首をかしげた。
「好きだったんでしょう?」「まあね」

今となってはどうして康弘と結婚したのかよくわからない。

「修一君は好きな女子がいるの?」「いないよ」そう答えたが、赤くなった顔が嘘と言っていた。
「告白したの?」首を振った。
「でも好きなのね」今度は縦に振った。
「その子のどこが好き?」
修一は少し考えて「全部」と答えた。
「全部?いやなところはないの?」
「ない。全部好き!」

修一は力強く言った。 私は修一の幼さに微笑んだが、同時に彼の気持ちを羨ましく思った。
こんなふうに一切の迷いもなく異性を好きになれるのは幼い時だけかもしれない。
大人になれば、そんなふうに人を想うことはできない。
私も若い頃はいろんな男性が素敵に見えた。
私は器量がいい方ではないから恋なんてできないと思っていた。 康弘も垢抜けないモテない男だった。
地味な男と女が何となく付き合うようになっただけだ。
今、思い返してもあれが来恋だったのかどうかさえわからない。


「大人の人も、誰かを好きになったりするのかな」
「あのね、普通の人は大人になると恋をしなくなるの」
「どうして?」
「恋は若い時のものなの。激しいスポーツは若い時にしかやれないのと一緒かな」
言いながら、この喩えはちょっとエロチックだったかなと一瞬思った。

「じゃあ、先生はまだ大丈夫?」
「先生は若くないし、それに結婚してるよ」「あ、そうか」
修一が笑った。私も笑いながら、自分には恋なんて縁がないと思った。もちろんそんな願望もない。


その週末、家庭教師を始めて4回目の日、休憩時間に庭を見ていると修一が後ろから、
「先生はいつも庭を見てるね」と声をかけてきた。
「何か変わったものが見えるの?」「ううん。すごく綺麗なお庭だから見て楽しんでるの」

修一は不思議そうな顔をして、ふーんと言うと、再びゲーム機の画面に目を戻した。
生まれた時からこの庭を見ている子供にとっては、別に何ということもない庭なのだろう。
また庭を眺めていると、修一が再び「先生」と声をかけてきた。

「そんなに好きなら、あとで庭に出てみる?」「いいの?」「うん」
「勝手に出たりして、お母さんに叱られないかしら」「大丈夫だよ。ぼくがママに言っとく」

授業が終わり、夫人が部屋にやってきた時、修一が「先生を庭に連れて行ってもいい?」と言ってくれた。
夫人は少し考える素振りを見せたが「あんな庭でよければ構いませんよ」と答えた。
「あんな庭だなんて――こんな素晴らしいお庭は初めてです」
夫人は微笑んだが、その笑顔はどこか無理して作ったように見えた。
私はそれに気付かないふりをした。
庭へは1階の応接室を通ってでた。


庭は和洋折衷で造られていた。 木を中心とした日本庭園の良さと、花を中心とした洋風のガーデン。
それがアンバランスにならず、不思議な調和を保っていた。
自分の足で歩いてみると、窓から見た以上に庭の美しさを実感した。 思わずため息をついた。

「素敵な庭ね」 「そうかなあ。ぼくは野球の練習場が欲しいけど」 修一が言った。
「それに犬を飼いたい。 広い庭で犬を放し飼いにするの」
無邪気な笑顔で言う修一が可愛かった。

「ぼく、部屋でゲームしてきていい?」「いいわよ」
「じゃあ、先生はもう少しお庭を見ていてもいい?」「いいよ」修一は走って屋敷に戻っていった。

私は築山の周囲をぐるりと周り、池に架かる橋を渡った。橋の上から数匹の錦鯉が見えた。
庭にはひときわ大きなケヤキの木があった。 樹齢100年以上経っていそうだった。
「保存樹木」と書かれたプレートがかかっていた。
私はケヤキの木に近づき、その肌をそっと撫でた。 その木肌もきめ細かく美しかった。
めくれた木肌を触ると、ぼろっと剥がれて落ちた。


突然、背後から、「木に触るな!」という鋭い怒鳴り声が聞こえた。
驚いて振り返ると、数メートル離れたところから、男が凄まじい形相でこちらを睨んでいた。


「木を傷つけるな」
「ごめんなさい」 慌てて謝った。 「でも、傷つけたわけじゃありません」
「傷つけたじゃないか!」 私は返答に困った。
そうしながら、この人は誰なんだろうと頭の中で考えた。
顔はよく覚えていないが、たぶん先週、廊下ですれ違った男だ。 でも確信はなかった。

「人の木に勝手に触っていいのか!」「すみませんでした」 男はしげしげと私を見つめた。
「おまえは誰だ?」「あなたのほうこそ、誰なんですか?」「何っ!」
男は私を睨みつけた。


その直後、男は持っていた植木鉢を私に向かって投げつけた。


咄嗟に身をかわしたが、素焼きの鉢は私の体を大きくそれて、庭の石に当たって砕けた。
「何するのよ!」
私が叫ぶと、驚いたことに男は今度は唾を飛ばした。数メートルは離れていたため届くはずもなかった。
しかし、その奇矯な行為は私をたじろがせた。すぐに逃げ出せるように身構えた。
ところが、男はくるりと背を向けると、庭の奥の木立のほうに駆けて行った。

私は彼が走り去った方向をただ茫然と見つめていた。 一体何が起こったのだ。 あの男は誰なの――。

男が走り去った木立の奥に離れが見えた。
それは洋風の小さな平屋の建物で、木々に隠れるように建っていた。
よく見ると庭とは低い木の塀で仕切られていた。 男は離れの住人なのだろうか。

母屋を振り仰ぐと、2階の部屋からこちらを見ている修一と目が合い、その途端窓から顔を引っ込めた。
応接室に戻ると夫人がいたが、あの男のことを聞くのはやめた。 この家のタブーな気がしたからだ。


3日後、再び岩本家を訪れた。

休憩中、修一に3日前の出来事を訊いた。
「修一君は見てたんでしょう、私に植木鉢を投げた人を」 「見てない」
返事があまりにも早すぎた。

「あの人は誰?」 「知らない」
どうやらこの家には人目をはばかる人物がいるようだ。
その後、何度も岩本家を訪れたが、謎の青年には一度も出くわさなかった。

あれ以来、勉強が終わると庭に出るのが私の習慣になっていた。 
夫人からいつでも出ていいと許可はもらっていた。
庭で過ごすのは気持ちがよかった。 夕暮れの庭は少し薄暗く、それがまたよかった。
庭で何かするわけでもないが、ぼんやりとするだけでも長い不妊治療で積み重なった鬱屈などがやわらいだ。
3月の終わりに玄関の脇と、庭園のソメイヨシノが満開の花を咲かせた時は最高の贅沢を味わった気分だった。


家庭教師を始めてから生活にリズムが生まれた。もともと数学が好きだったから算数の勉強は楽しかった。

康弘はいつも帰宅が遅い。 午前様になることも珍しくない。 以前はそれでいらいらすることも多かった。
彼には恐らく浮気相手がいる。 証拠があるわけではなかったが、間違いないという自信があった。
しかしそのことで彼を問い詰めたり責めたりする気はない。
私には相変わらず優しかったし、見て見ぬふりをしておこうと思っていた。
それでも以前は、気が滅入ることがあった。しかし外出する機会が増えると気持ちが楽になった。
長かったストレートヘアを肩にかかる程度に切ってゆるいパーマをかけたのもそんな気分の変化だった。


4月初旬のある日、いつものように岩本家に行くと、「主人がご挨拶をしたいと申しております」と言われた。
応接室に案内されると、ソファーに中年男性が座っていた。 「修一の父です」
彼はソファーから立ち上がるとにっこり笑って名刺を差し出した。

代表取締役社長の肩書きの下に岩本洋一郎と書かれてあった。
洋一郎はがっしりとした体型をしていた。 年齢は40歳くらいに見える。
表情や身のこなしが洗練されていて、全体に自信に溢れていた。

「それにしても大きなお屋敷ですね」私は言った。
「うちより立派な屋敷はいくらでもありますよ」 洋一郎はさらっと答えた。 私は笑うしかなかった。
「梅田先生は独身ですか?」「いいえ」
「ご結婚されてるんですか。てっきり独身かと思いました。 大学を出たくらいに見えたから」
「ありがとうございます。でももう32です」 
「とても見えませんね」「恐れ入ります」
「魅力的な方ですね」「とんでもないです」 私は慌てて胸の前で手を振った。
「いやいや、なかなか個性的な美人ですよ」「個性的とはよく言われます」

個性的とは便利な表現で、要するに「不美人」の別の言い方だ。
私の顔は全体が尖っていて、簡単に言えば「愛嬌のない顔」だ。康弘にだって綺麗と言われたことは一度もない。

「あれ、もしかしたら誤解されたかな。個性的と言ったのは褒め言葉ですよ」 私は苦笑した。
「いや、実に素敵だ」「奥様とは比べものになりません」 私が言うと洋一郎は豪快に笑った。
「妻も若い頃はそこそこの美人でしたが、今はもう――」 夫人はかすかに顔をしかめた。
「昔は私の秘書だったんですよ」 なるほど、と思った。

私が夫人とともに部屋を出るとき、洋一郎は「今度はお酒をごちそうさせてください」と言った。
私は「是非、お願いします」と答えた。

「素敵なご主人ですね。ダンディーで」廊下に出た時、夫人に言った。
「そうでしょうか、素敵なところがあるかしら」 そう言いながら夫人は満更でもなさそうだった。
まさに絵に描いたような玉の輿だ。美人は得だというのを目の当たりにして心の中で小さなため息をついた。



続く・・・