信越マテリアルの技術者たちを引き抜いて急成長を遂げている会社があった。
株式会社テンナイン。 代表取締役は――――仁科佐和子。
坂本の遺した暗号、109とは、テンナインのことだった!?
「果つる底なき」 池井戸潤
■登場人物(登場順/全て記載)■
伊木遥:二都銀行渋谷支店、融資担当の課長代理。
坂本健司:伊木の同僚。 伊木に謎の言葉を残し、突然死する。
古河課長:信頼できる、伊木の上司。
高畠浩一郎支店長:赴任してまだ間もない、支店長。
北川睦夫副支店長:横柄な態度の嫌味な上司。
坂本曜子:坂本の妻。 元は伊木の恋人だった。
西口淳:伊木が元いた企画部で一緒だった。 大学の先輩で企画部の調査役にいる。
佐伯昭太郎:企画部時代の当時取締役企画部長。 昇格のために無理矢理買収を推し進めようとした。
柳葉菜緒:東京シリコンの社長の娘。 以前は親しくしていた。
柳葉朔太郎:東京シリコンの社長だった男。 倒産して自殺した。
山崎耕太:二都商事から信越マテリアルに出向している社員。
大庭刑事:坂本の事件のことを調べている、年輩の刑事。 失礼な物言いをする。
滝川刑事:大庭刑事につく、七三分けの青年。 無表情で無口。 ノートを片手にメモを取る役目。
藤枝謙:渋谷支店の前支店長。 現在は本部の企画部長で西口の上司。
宮下:営業課で金庫の管理を任されている。 人がいい。
難波俊造:信越マテリアルの社長。 現在は行方不明。
青木扶佐子:北川の愛人だった女。 北川が横領した金でスナックを開業した。
仁科佐和子:信越マテリアルから技術者を引き抜いて急成長している会社の代表取締役。
サキ:菜緒の飼っている黒猫。 緑色の瞳をしている。 煙草の臭いが嫌い。
第五章 回収
朝7時過ぎ、甲州街道から環状8号線へ入った。 長野方面へ向かうルートに進む。
快晴。 菜緒が入れたFMラジオが梅雨明けを宣言していた。 夏が到来したのだ。
難波俊造が知らせてきた長野市内のマンションを探しあてた。
白い漆喰に似せたコンクリートの壁は薄汚れ、埃の跡がヒビのように建物全体を覆う。
エレベーターに乗り「7」のボタンを押すが反応が鈍い。 ごろんという音がし、鈍重な体を持ち上げた。
「かなりね、これ」 階数の数字が変わっていくのを見上げながら菜緒が恐れをなして言う。
703号室のインターホンを鳴らした。 男の短い返事があった。 菜緒が名乗る。
ドアが開き、50前の男が顔を覗かせた。 疲れと思いつめたような表情が滲んでいた。
招き入れられ、半畳ほどのコンクリートの玄関に立つ。 フローリングの床の向こうに居間らしい空間が見える。
部屋ではなく「空間」と感じたのは、家具らしい家具がまったくなかったからだ。
「どうぞ。 ほんとに何もないところでお恥ずかしいのですが」
難波はお茶を淹れに行った。
部屋の中央にはいまどきテレビのホームドラマでしかお目にかかれないような卓袱台があった。
ベランダには洗濯物を干すためのヒモが2本。 風鈴があったが風受けがなく白い糸がただ下がっているだけだ。
エアコンもない。 30年前からタイムスリップしてきたような部屋だ。
それは紛れもなく破産した男の住居だった。
「難波さん、お構いなく。 ご家族の方はどうされていますか」
「妻とは先月離縁しまして、実家に戻しました。 子供たちも今は松本におります。 とはいえ、妻とは5年以上別居しておりましたから単に法律上のケリがついたという程度です。 それより――」
難波は菜緒のほうに座り直し、両手を畳について深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした。 私の責任でこんなことになってしまって。 どうか、許してください。 この通りです――申し訳ありません」
難波は声を詰まらせた。 私のところから難波の汚れた裸足が見えた。 背中が震えていた。
「難波さん、どうぞお上げください。 お気持ちはわかりましたから」 「ありがとう、ございます」
難波は濡れた頬を上げ、正座をした膝の上で固く拳を握った。
そして体の向きを変え、難波は私にも深々と頭を下げた。
難波は話しだした。
設備投資の失敗で信越マテリアルは行き詰まり、ありとあらゆる努力をしたがどうにもならなかった。
二都商事の思惑など何も知らなかったのだろうと思うとこの男が気の毒になった。
背筋を伸ばし、眠っているかのように斜めに傾けた頭を揺らしている。 まるで老人に見える。
「仁科佐和子という方をご存知ありませんか」 難波の体がぴくりとし、大きく目が見開かれた。
「彼女が何か」 「お知り合いなんですね」
「ええ、私の秘書でした」 「――秘書?」
新宿御苑のビルで見た仁科佐和子の姿を思い浮かべた。
見ようによっては秘書にも水商売の女にも社長にも見える女だった。
「実は、東京シリコンさんから仁科さん宛にかなりの額を送金しているんです。 その金は信越マテリアルが振り出した手形を二都銀行で割引して作ったものなのですが、このことは?」
「ええ、承知してます」 「何の資金だったんです」 「それは裏金です」
「裏金?」 思わず、菜緒と顔を見合わせた。
「私は焦っていました。 海外へ進出することにしたのです。 韓国と取引することで業績を安定的に伸ばす予定でした。 ところが交渉段階になって相手企業の幹部が裏金を要求してきたのです。 半端な額ではありません。 そんな金があったらこっちが欲しいくらいですが、なんとかしようと思い、東京シリコンの柳葉社長に相談したんです」
「それで実体のない手形を振り出し、東京シリコンがそれに金融をつけたと」 「そうです」
「どうして秘書の口座に?」
「裏金のための手形は会社の預金口座を通すわけにいかずそれで仁科の口座を利用したのです」
「政治家ならともかく、一般企業では普通、秘書にそんなことはさせない」
「おっしゃりたいことはわかります。 ご推察の通り、彼女は――私と特別な関係にありました。 もともとは水商売をしていた女でしたが、私が自社に引っ張ったのです。 彼女は商売のセンスというものがありました。 韓国進出を提案してくれたのは彼女です」
「韓国進出の協力を求めるとき、難波さんの会社がどんな状況なのか、柳葉社長に説明しましたか」
「返す言葉がありません。 柳葉さんには本当に申し訳ないと思っています。 ただ、私は韓国進出が成功すれば、必ず業績は盛り返すものと確信していました。 そう言い聞かせていました。 私も苦しかったんです」
難波は苦悩に喘いだ。 その様子を凝視している菜緒の目に映しているのは怒りではなく憐れみだ。
「仁科さんは、自分が信越マテリアルにいたことなど一言も話してくれませんでしたよ」
「彼女に会ったんですか」 難波は身を乗り出した。
「教えてください。 今彼女はどこにいるんです。 どこで何をしているんでしょうか」
私は難波の狼狽ぶりに驚かされ、信越マテリアルの行き詰まりと共に彼と仁科佐和子の関係が終わったと悟った。
「新宿で会社をやっています」 「会社を? 何の会社をやってるんですか」 「本当にご存知ないんですか」
「知りません。 和議申請して私が身も心もぼろぼろになったとき、彼女は住んでいたマンションから消えてしまったのです。 それ以来、何の連絡もありません。 私も転々として、このマンションに住むまでは電話も持てない生活でした。 彼女は今何をしているんですか」
「半導体の企業を経営しています」 「はんどうたい?」
難波の唇が曖昧に言葉を辿った。 はんどうたい。 はんどうたい。 はん、どうたい・・・・・・
彼はしばらく黙って、それから、そうなんですか、と小さな声で言った。
難波は、幻を追うように遠くを見つめた。 「彼女、元気でしたか」 「ええ」
「そうですか。 それなら――」 難波はほっと息をついた。
「よかった。 彼女に会ったら伝えてください。 いろいろありがとうって。 夢は一瞬で終わったけど、私に夢を与えてくれたことは感謝しています」
その表情を菜緒が瞬きすら忘れて眺めていた。
「あの、難波さん。 あなた――」 両手を胸の前で上げ、難波は私の言葉を遮った。
「いいんです、私は。 彼女が元気でやっていれば、それで。 一つ教えてください。 なんという会社ですか」
「テンナイン。 株式会社テンナイン」
「てん、ないん、か」 懐かしい人の名を口にするようだった。
「それは私にとって研究の原点ですよ。 成功するといいですね。 いや今度こそ成功してもらいたい」
その言葉に二人の間にあるものが単なる恋愛感情だけではないことを察した。
愛人というより、パートナーという方が近かったのかもしれない。
「資本金は2億円。 全額を彼女が出しています」
その言葉の意味が難波にはわからないわけはなかった。 だが、難波は嬉しそうにうなずいただけだった。
私は信越マテリアルの技術部長の佐竹という男の連絡先を手に入れた。
路地に出ると、シビックに直射日光がきらきら照り返していた。
ドアを開け放ち、高温になった車内の空気を入れ替えた。 菜緒は壁にもたれて古ぼけたマンションを見上げている。
「どうしてあんなに優しくなれるのかしら。 仁科佐和子なんか庇うことないのよ」
不満そうに彼女は言った。 菜緒は難波の気持ちがまったく理解できないというように浮かぬ顔をしている。
「きっと根が優しい男なんだよ、難波という人は。――優しすぎたんだよ。 ビジネスにも、女にも」
「まるで女に優しくしすぎるとろくなことにならない、とでも言いたそうね」 菜緒は棘のある口調で言った。
「でも、今回はまさにそのとおりよ」
難波のマンションから郊外へ向かった。 東京シリコンの閉鎖した工場が次の目的地だ。
「くすねた裏金で信越マテリアルのライバル会社を設立していたなんて恐れ入るわ。 なんて女なの」
「しかし、坂本の言った『期待しないで期待してほしい』という言葉の意味がわかった。 坂本のことだ、仁科佐和子について徹底的に調べて難波の秘書だったということをつきとめたんだよ。 奴は仁科に横領の事実をつきつけ、資金の返済を迫ろうとした――あるいは迫った」
信号が赤に変わった。 郊外に向かうにつれ交通量は減ってきた。
ふいに低いディーゼルエンジンの音が近づいてきた。
ミラーの中をタンクローリーが走ってきて後方の視界を埋めた。
青。 銀色の車体が威圧するように揺れ、動き出す。 車線を変更した。 道をゆずるつもりだった。
抜いてこない。 同じ車線に入ってきた。 黒煙が排気され、車間距離がみるみる縮まる。
心の中にぽとりと黒い染みが落ちた。
加速した。 ホンダの軽快なエンジンが吹き上がり、するするっと前に出る。 制限速度一杯だ。
タンクローリーはあっという間に迫ってきた。 制限速度をはるかにオーバーしている。
右車線に入る。 ついて来た。 黒い染みが大きくなった。
「どうしたの」 菜緒は私の変化を微妙に察して表情を強ばらせた。 「リア」 親指を後ろへ振る。
アクセルを踏み込んだ。 相手のスピードはそれを上回っている。 急接近してくる。
「つかまれ、来るぞ!」
重い衝撃がきた。 ザッ、という音。 リアウィンドウが割れ落ちた。 菜緒が短い悲鳴を呑み込み、首をすくめる。
「なんなの!?」
衝撃のあと、数メートル間隔が開いた。 次の信号が迫っていた。 赤に変わったところだ。 菜緒の体が凍りつく。
右折車線に白いセダンが止まっている。 アクセル全開。 いったん引き離した。
相手はそれに火を注がれたように猛然と突進してくる。 フロントグリルがグイグイ迫る。
前方を横切っていた車の流れが途切れた。 信号は赤のままだ。 ゆっくり3つ数えた。
3,2,1――!
ブレーキを踏み込み、スピンターンに備えた。 左手をサイドブレーキに置いた。
賭け。
突っ込む。
サイドブレーキを引くと同時に、路面をグリップしていたタイヤが浮いた。
そのとき、交差点の右側で影が動いた。 全身の血の気がひいた。 進入車だ。 スカイライン。
流された。 視界が歪む。 焦点が合わない。 菜緒の絶叫が研ぎ澄まされた刃のように耳に刺さった。
スカイラインのリアが視界に迫った。
駄目か――!
そう思ったとき、なんとかかわして反対車線に回り込んでいた。 同時に背後から強烈な衝撃音が追ってくる。
車の向きをコントロールするため、逆にハンドルを回した。 軽い。 効いていない。
ガードレールが眼前にきた。 まだ流れていく。
止まれ! 祈った。 止まれ。 止まれ。 止まれ――!
その刹那、手応えがあった。
ワンテンポ遅い。 がつん、という鈍い音とともに左サイドの後部ガラスが崩れ落ちた。
横から衝撃がきて止まった。
しばらくは頭の芯が白々として言葉が出なかった。 心臓が猛烈な勢いで脈を打っている。
反対車線のガードレールだ。 左のフェンダーに食い込んでいる。
「菜緒――菜緒」 しばらく返事がなかった。
菜緒は大きく呼吸し、私を見ると、無理に笑ってみせた。 蒼白な表情で焦点の合わない視線を前方に漂わせる。 怪我はないようだ。
ドアを押し開けて外に降りた。 膝が震えていた。 タンクローリーの姿はすでに見えなくなっていた。
私は畑で仰向けになっているスカイラインのほうへ歩いて行った。 足がいうことをきかない。
若い茶髪の男がいた。 その男は額から血を流しながら、それでもシートベルトを外そうとしていた。
「大丈夫か?」
若い男は言葉が出てこないようだった。 私は肩を貸して沿道に座らせた。
救急車のサイレンが遠くから聞こえ、すぐそばまで来て止まった。 「こっちこっち」 土地の人が叫んだ。
救急車から隊員が降り、手際よく若い男を担架に乗せ運んだ。
シビックのところへ戻ると菜緒はまだそこに座っていた。
「立てるか?」
「ええ。 でも、震えが止まらないのよ」 菜緒はまるで真冬の路上にいるかのように両手で体を抱いている。
「しっかし、これはひでえなあ。 レッカー車、呼ぼっか」 警官がシビックを眺めて言う。 損傷がひどい。
エンジンを掛けてみる。 音を聞いた。 大丈夫のようだ。
ボディは惨憺たる有様だったが、エンジンをやられなかったのは運がよかった。
アクセルを踏む。 ガードレールに接触したまま、動かなかった。 強くアクセルを踏み、もう一度ハンドルを切る。
ぼこん、という鈍い音がして、外れた。 呆れた顔で警官がその作業を見ていた。
「悪いが工場見学は次の機会にしてくれ」 「どこへ行くの」 菜緒が聞いた。
「難波さんのところだ。 放っておくとあの人も危ない」
「難波さん、どうするの」
「東京へ連れて行こう。 あのマンションで狙われたらひとたまりもない。 誰が来ようとフリーパス状態だ」
再び難波の住むマンションに到着し、7階まで上がった。 難波は驚いてどうしたんです、と聞いた。
「私たちと一緒に来てもらえませんか。 ここにいてはあなたも狙われる」
難波は穏やかな表情をしていた。 「仁科は私を殺そうとはしないでしょう」
「なぜです」 「私は仁科のことを赦しています」
「でも、仁科佐和子はそうは思ってないわ、きっと」 菜緒が言った。
「いいえ。 わかっているはず。 彼女は私のことをよく理解しています。 私たちはお互いを理解しあってきました」
「彼女はあなたを裏切ったのよ、難波さん」
「もし、彼女が私を殺そうとするのなら私もそれを運命だと思って諦めますよ。 でも仁科佐和子はそんな女ではありません。 バカな奴だと思われるでしょうが、私は今でも仁科のことを信用しています。 彼女は金のために人を殺すほど性根の腐った女ではありません」
「でも、実際にもう――」 反論しようとした菜緒を制し、首を振った。
「わかりました。 余計なことを申し上げたようです。 行こう。 これは難波さんと仁科の問題のようだ」
難波はその言葉に微笑んだ。
「いったい、あの人どうなっちゃってるの」 廃車寸前のシビックの助手席で菜緒は頬を膨らませた。
「仁科は難波さんにとって本当に必要な人だったんだろう。 仁科にとっても」
「じゃあ、なんで仁科は難波さんを捨てたの」
「難波のビジネスに魅力がなくなったからじゃないだろうか。 仁科佐和子も半導体に取り憑かれた一人だってことさ。 難波さんは確かに技術力はあった。 だけど、商才というようなものは彼にはあまり感じられない」
「人まで殺すような女よ」 「本当にそうだろうか」 「どういうこと?」 私は応えなかった。
何か、そう、何かが違うのだ。
「技術力のあるベンチャー企業なんてごまんとある。 テンナインがあれだけの成長を遂げている背景にはなにかあるはずだ。 仁科一人であれだけのことができたとは思えない。 それに技術者が引き抜かれてるって話も気になる」
私は難波から教えてもらったメモの人物に、途中見つけた公衆電話から電話した。
電話番号は変わっていた。 044で始まる番号。 川崎だ。
「佐竹でございます」 女性の声だ。 名前を言い、難波の紹介で電話していることを告げた。
「孝治さんはいらっしゃいますか」
佐竹孝治。 信越マテリアルの技術部長だ。 しばらくして本人が出た。
「なんの用件です」 相手はぶっきらぼうな返事をした。 信越マテリアルに関して、と言うと彼は言った。
「あのね、せっかくだけど、私はもうその会社を退職したんだ」 ある程度、予測はしていた。
「いまはどちらの会社へいってらっしゃるんですか」 「そんなこと、お宅に関係ないでしょう」
「テンナインですか」
相手は口籠った。 テンナインの研究所は川崎市川崎区にある。
「実はお伺いしようと思っていたのはそのことです」 「どういうことですか」
「信越マテリアルからテンナインへ人材が流出していると聞きまして。 二都銀行は信越マテリアルにかなりの債権があります。 私はその担当なのですが、技術者の流出は債権回収に重大な影響が出てくる可能性があるのです。 少しお話を聞かせてもらえませんか」
私は今夜、佐竹と会う約束を取り付けた。
車に戻ると菜緒が地図を持って待っていた。
「テンナインに引き抜かれてた」
「技術部長なんでしょう、この人?」
「ああ、ここまで徹底して人材を引き抜くなんて、大したもんだ」 菜緒は真顔でうなずいた。
長野から川崎までは4時間近くかかった。
マンションの地下駐車場へシビックを入れ、疲れを感じながらエレベーターに乗り込んだ。
「サキ」
ピアノの上にいた黒猫がするりと床におり、しなやかな足取りで近づいてくる。
「シャワー浴びたい」 菜緒が言ったとき、インターホンが鳴った。 顔を見合わせた。
部屋に入るなり、大庭は菜緒がそこにいるのを見て少し驚いたようだ。
私の部屋に女性がいるのが相当意外なようだった。 しかも彼らが疑っていた曜子ではない。
大庭に続いてきた滝川は相変わらず感情のこもらない目を、それでも丸くして菜緒と私の顔を見比べた。
「これはどうも。 お取り込み中でしたか」 言い草がおかしかったので思わず笑った。
「別に取り込み中というわけではありませんから、ご遠慮なく」 二人をソファへ案内した。
「長野県警から連絡がありまして、事故にあわれたようで」 「何かわかったんですか」
「ええ。 タンクローリーは現場近くの整備工場から盗まれたものです。 運転していた人物は見つかっていません」
大庭は私を見た。 真剣な表情だ。 「よく思い出してくださいよ。 運転していたのは李洋平でしたか」
「わかりません。 見えなかったんです。 でも事故ではない。故意です。 猛スピードで追突してきたんです」
「なるほど。 それで若者が一人、死んだというわけですか」 私ははっとなって、大庭を見つめた。
「本当ですか。 あの、スカイラインに乗っていた?」 滝川がボードのページをめくった。
「長野県警からの情報ですが、内臓破裂で病院に運ばれたとき危篤状態でした。 さっき連絡がありました。 18時11分、お亡くなりになりました」
「そうですか」
菜緒がキッチンの向こうから唖然とした眼差しを向けている。
7時前、スーツに着替え、
疲れた様子の菜緒を残して信越マテリアルの元技術部長に会うためにマンションを出た。
7時45分には武蔵小杉駅のロータリー側の改札に立っていた。
「伊木さん・・・・?」
8時になろうかというとき、青白い顔をした痩せた男が近づいてきて声をかけた。
紺のダンガリーシャツにジーンズ。 裸足にサンダルで短髪に黒縁の眼鏡をかけていた。
「佐竹さんですか」 彼は私の格好を見て「休みなのに大変ですね」と言った。
佐竹は駅の横にあるホテルの喫茶ルームに案内した。
「電話では失礼しました。 てっきり前の会社からの引き留め工作か何かかと勘違いしました」
「まだ会社を変わられて間もない?」 「ええ。半月ほどです」
「そうでしたか。 実は私どもの銀行では信越マテリアルさんに数億円の債権があるんです。 今回の和議にも賛成させていただいたわけですが、 肝心の技術者のほうがかなり流出しているという話を聞きまして、危機感を強めているわけなんです」
もっともらしく、私は説明した。 債権額は実際よりも多く言った。
「仁科佐和子さんという方はご存知ですか」 「ええ。知っています」
「どういう方ですか」 「難波社長の秘書でした」
「聞くところによると、今はテンナインの社長をつとめてらっしゃるとか」 佐竹は黙って私を見つめた。
「ご存知だったんですか」
「ええ。 佐竹さん、信越マテリアルからテンナインへお移りになった理由はなんですか」
「まあ、いろいろ考えて今の会社の方が将来性があると判断したんです」
「何人くらいのかたがテンナインへ移籍されたんですか」 「私を入れて、10人です」
「どうやってテンナインを知り、行かれたんですか。 誰かに誘われた?」 佐竹は迷っている。
「まあ、そうですね」 曖昧な返事。 だが、聞きたいのはまさにその部分だった。
「どなたからのお誘いですか。 仁科佐和子さんですか」 返事なし。 違う。
「それは言えない約束になっているので」
「移籍に際して準備金の支払いはありましたか」 「それは銀行さんには関係ないことですよね」
「関係あるんです」
はっきり言った。 隣のテーブルに座っているカップルがこちらを振り返った。 「どういう関係?」
「ご存知ないようなので、はっきり申し上げます。 信越マテリアルから巨額の資金を横領した者がいます。 あなたに支払われた移籍金がその一部で賄われているのはまず間違いありません。 ですから近日中に返還請求をするかもしれません。 もちろん、請求するのは私たち債権者です」
返還請求云々ははったりだったが、効果は十分だった。
「ここだけの話ですが、いずれ警察からも参考人として聴取を受けることになると思ってください。 民事裁判も検討しています」
裁判という言葉に佐竹は取り乱した。 「裁判――? 冗談じゃないよ、私たちはそんなこと知らなかったんだ」
「この件についてその方からはなんのお話もありませんでしたか」 「もちろん」
語気を強める。 その目を見ながら、もう一度聞いた。
「誰なんです」
「それは・・・・・・」
「佐竹さんからお伺いしたということは絶対に口外しません。 それはお約束いたします」
「本当に口外しないと約束できるんですか」 案の定、佐竹の決断は早かった。
「もちろんです」
「でも、名前を言ってもあんたの知らない人だと思うよ」
「誰なんです?」
佐竹は、一人の男の名前を告げた。 メモをとる必要はなかった。
続く・・・