伊木は支店の防犯カメラの記録を調べるためにビデオテープを拝借した。
上司の古河と一緒に飲みに行った帰り、古河は伊木をかばって大怪我を負う。
例の男だ。 奴が狙っていたのは伊木のカバン、ビデオテープだった。
「果つる底なき」 池井戸潤
■登場人物(登場順/全て記載)■
伊木遥:二都銀行渋谷支店、融資担当の課長代理。
坂本健司:伊木の同僚。 伊木に謎の言葉を残し、突然死する。
古河課長:信頼できる、伊木の上司。
高畠浩一郎支店長:赴任してまだ間もない、支店長。
北川睦夫副支店長:横柄な態度の嫌味な上司。
坂本曜子:坂本の妻。 元は伊木の恋人だった。
西口淳:伊木が元いた企画部で一緒だった。 大学の先輩で企画部の調査役にいる。
佐伯昭太郎:企画部時代の当時取締役企画部長。 昇格のために無理矢理買収を推し進めようとした。
柳葉菜緒:東京シリコンの社長の娘。 以前は親しくしていた。
柳葉朔太郎:東京シリコンの社長だった男。 倒産して自殺した。
山崎耕太:二都商事から信越マテリアルに出向している社員。
大庭刑事:坂本の事件のことを調べている、年輩の刑事。 失礼な物言いをする。
滝川刑事:大庭刑事につく、七三分けの青年。 無表情で無口。 ノートを片手にメモを取る役目。
藤枝謙:渋谷支店の前支店長。 現在は本部の企画部長で西口の上司。
宮下:営業課で金庫の管理を任されている。 人がいい。
第三章 依頼書
帰宅して、シャワーを浴び、目覚ましをセットするといつの間にか眠りについた。
ほんの数時間眠っただけだったが、少しは体がすっきりした。
曜子に電話してこれから荷物を持っていくと告げた。 古ぼけたシビックに段ボール箱を積む。
坂本の社宅を訪れるのは初めてだった。 瀟洒な住宅街にあってはみすぼらしく、汚れている。
エレベーターはなく、階段で3階まで上がった。
箱を床にそっと置き、ドアベルを鳴らした。 「はい」 曜子の声が小さく聞こえる。
「パパ――!」 ドアが開くと、曜子より先に紗絵が飛び出してくる。 しかし私だとわかると表情が曇った。
「紗絵ちゃん、こんにちは」 人見知りをするのか、曜子の膝に顔を埋めている。
「パパが帰ってくると思ってるの。 帰ってきたらこのぬいぐるみ、あげるんだって」
幼い横顔を見ていると胸を締め付けられる思いがした。
「ありがとう。 わざわざ持ってきてもらって」 「これで全部だ」
「重かったでしょう、どうぞ」 躊躇った。
「どうぞ」 曜子が重ねて言った。 「じゃあ少しだけ」
曜子はお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。
「とりあえず、実家にもどろうかと思ってるの。 次のことを考えるのはそれからね。 今はまだ、何も考えられる状況じゃないの」
「わかるよ」 私は安っぽい励ましの言葉をコーヒーを一緒に呑み込んだ。
「社宅の人からは色々なことを言われているのよ。 紗絵ちゃんのパパは泥棒だとか」
刹那、頬がふるえ、彼女の瞳いっぱいの涙が一筋こぼれ落ちた。
「坂本がそんなことをするはずがない。 あいつはそんなこと絶対にしない。 他の連中が何言ったって、坂本のことを一番知ってるのは俺たちだ。 それを証明してみせるよ」
「――――そうよね。 ねえ、紗絵。 パパはそんな悪いことしないわよね」 娘を抱きしめる。
その姿にふと、かつての彼女を重ねてみて、過ぎ去った時の重みを感じた。
「遺品を整理したんだけど、銀行に返すべきかわからないものは別に分けておいたのよ。見てくれるかしら」
家でも仕事を持ち帰ってこなしていたのだろう。 遺品のなかには熱心な仕事ぶりを示す痕跡がいくつもあった。
私は書類を確認して、思わず手を止めた。 「どうしたの?」
「いや――。 このコピー、預かってもいいか」 「いいけど、それがどうかしたの」
「探してたんだ」
私は箱の中からそれを手に取って眺めた。
9月6日。 振込依頼人、東京シリコン。 振込金額4500万円。
坂本はたどり着いていたのだ、振込依頼書に。 送金先欄に視線は行き、釘付けになった。
だが戸惑った。 私が予想した「株式会社信越マテリアル」ではない。
送金の相手は個人だった。 女性だ。
「仁科佐和子」
聞いたことのない名前だった。
坂本は綴りからコピーしている。 坂本が調べたときには振込依頼書は存在していた。
その後、行内の誰かが処分したことになる。
それにしてもなぜだ。 なぜ、柳葉朔太郎はこの女に送金していたのだろう?
「伊木です、テープをもらいにきた」 室岡の住居まで上がってインターホンを押すと室岡が顔を出した。
「ああ。 店に置いてあるからちょっと待って」
ビルの裏側に出入り口がありそれから1階のビデオ屋に出入りできるのだ。
ふと、裏手の公園のほうに目をやると、心臓が跳ねた。
あの男だ。 私が見たのは後ろ姿だ。 だが、間違いなかった。 どこからつけられてたのかわからない。
室岡がテープを持って現れた。 私は財布から4000円を出して渡した。
「もう一つ頼みたいことがある」 「ややこしいことならお断りだよ」
「簡単なことさ。 非常階段から降りたいんだ」 室岡の顔色が変わった。
中に息をひそめている存在に悟られたくない様子だ。
「それはちょっと・・・・・」
「それとできればしばらくここで煙草でも吸っていてもらいたい。 表通りから顔は見えないようにして」
私は室岡の狼狽ぶりを無視して、たばこを取り出し、一本つけて室岡に無理やり渡した。
煙草を掴みそこね、拾うタイミングで素早く室岡と入れ替わった。
「ちょっと、頼むよ、伊木さん」 懇願する室岡の言葉を聞き流し、中に入る。
非常階段の場所はわかっている。 リビングから洗面所へ抜けた突き当たりだ。
ソファで寝そべっていた女が跳ね起きた。 私はそのかたわらを抜けて鉄の扉を開けた。
駐車場に戻る前にしばらく様子をうかがったが、もう男の姿は見えなかった。
マンションの地下駐車場にシビックを入れ、そのまま5階へあがった。
鍵を締め、ドアチェーンをかけた。 窓からは男の姿は見当たらない。 大庭に電話をかけたら肝心な時に不在だ。
窓の施錠を確認し、カーテンを閉め切ったままでビデオテープをの再生ボタンを押した。
店内の様子が映っており、わたしのデスクも右下にかろうじて映し出されている。
私が見えた。 手に東京シリコンの資料を持っている。 20秒後、私の資料がデスクの上に見えた。
12時近くなって窓口業務が忙しくなっていくのが画面でわかる。 皆接客に追われている。
12時23分。 問題のシーンが始まった。
ある人物が現れた。 別に目的がある様子ではない。 仕事ぶりを見るように歩いている、そんな様子だ。
切り替わる。 次のシーン。 その人物が私のデスクで立ち止まり、資料を手にしていた。
場面が変わった。 次に映った時にはその人物の姿はそこになかった――資料とともに。
間違いない。 そのまま小一時間考えて、気持ちを落ち着かせるために、しばらくピアノを弾いた。
来客を知らせるベルが鳴ったのは夕方近くになってからだ。
「はい」 「北川だが」 その声を聞いた途端、頭の中で警報音が鳴り出した。
「ちょっと話がある」 「お一人ですか」 「そうだ」
追い返すわけには行かない。 私のインターホンの脇の解錠ボタンを押した。
「どうぞ」 北川は黙って入ってくると私が出したスリッパを無視してまっすぐリビングに入った。
「飲み物は」 「けっこうだ」 その表情からは生気が抜け、半日でやつれてしまったかのように蒼白だ。
「話というのはなんです」 「何を調べている」 北川はくってかかるように言った。
「なんのことかわかりませんが」 「とぼけるな。 お前が防犯カメラのテープを持ってることぐらいお見通しだ」
「そんなことを聞くためにわざわざ休日にいらっしゃったわけですか」
「ふざけるのもいい加減にしろ。 これは支店にとって重大な問題なんだ!」
「支店にとって、ではなく、あなたにとってじゃないんですか」
「きっ、さまぁ――!」 北川は立ち上がり、私の胸ぐらを掴んだ。
「出せっ! どこだっ、出せっ!」 「何をそんなに怯えているんです」 「うるさいっ!」
北川の拳が上がった。 足元を払いあげる。 190センチの巨体があっけなく床に転がった。
「貴様、上司に対してこんなことをしてただで済むと思っているのか!」
私は床に這いつくばった北川を見下した。 北川は物凄い形相で挑みかかってきた。
容赦はしなかった。
パンチを繰り出すと、のっぺりとした頬にぱちんという派手な音とともに決まった。
北川の頭がのけぞり、膝から崩れ落ちた。 ただ体が大きいというだけで俊敏さも力もない。
「まだやりますか」
「よくも。 いいか、将来はないと思え!――何がおかしい」
私は思わず洩れかかった失笑をこらえ、必死の形相で睨めつける北川を見据えた。
「あんたの考え方があまりに滑稽だからだ」 「なんだと」
「人事をちらつかせれば相手を動かせるという考えが情けないと言ったんだ」 すでに北川に戦意はなかった。
「ひとつ忠告してやる。 いい気になってちょっかい出しているといまに吠え面さらすぞ、伊木。 この件から手を引け」
「この件って、なんのことです」 「とぼけるなっ!」
「それでは、私もひとつ忠告をしておきましょうか。 いまにあんたの本性を暴いてやるから覚悟しておいたほうがいい。 うまく坂本に罪をなすりつけたつもりか知らないが、あんたがやったことはもうわかってるんだ、北川。 覚悟するのはあんたのほうだぞ」
北川の顔面から血の気が失せた。
「き、貴様なんぞに何ができるか。 握りつぶしてやる。 握りつぶしてやるからな!」
そう言うと北川は殴られた頬をさすりながら脇目も振らずに出て行った。
ソファに戻ってリモコンの再生ボタンを押す。 男が書類を手にしている場面で静止させた。
画面に映っている北川睦夫の表情を、私はしばらく眺めていた。
その夜、11時にはベッドに横になった。 疲れていたのだ。 どれだけ眠っただろう。
意識のどこかで音がしていた。 執拗に鳴り続ける。 ベッドサイドの電話の子機をつかんだ。
デジタル時計を見ると、午前5時。
「――はい」「伊木君か」 声の主を特定するのに時間がかかった。
「高畠だ」「支店長。どうしたんです、こんな時間に」
「――――北川君が事故で亡くなった」
高畠が何を言ってるか理解できない。 次の瞬間には眠気はどこかへ消えていた。
「今連絡があってね。 晴海埠頭で車ごと海に転落しているのが見つかったらしい」
北川の自宅は京成線佐倉駅に近い新興住宅地にあった。 間口が狭く縦に長い和風の建売住宅だ。
「北川でございます」 小柄な女性が、深々と頭を下げた。
「伊木です。 このたびは本当にご愁傷様でした」
しばらく親戚の輪の中に座っていると、
北川の家族がこの小柄な奥さんと大学生になる長男だけだということがわかった。
気丈に振る舞う夫人とは反対に、長男は自室にこもったままだ。
しばらくすると高畠たちも現れ、葬儀の段取りをしたあとは勧められた食事を辞退し、北川の自宅をあとにした。
思い切って事故現場である晴海埠頭へ回ってみた。
埠頭の端に白いセダンが申し訳なさそうに濡れそぼっているのを見つけた。
数人の警官と、鑑識らしい男が車の周辺を調べていた。
事故だとは思えなかった。 まして、自殺のはずはない。
遅い昼食を外で済ませて戻ると、見計らったようにインターホンが鳴った。
「代々木警察です」 この濁声を聞いたのは、もう何度目だろう。
二人を部屋に通し、昨日北川が部屋にきたときのことを正確に話した。 北川を殴ったことも。
そして私は東京シリコンに対する融資枠に疑問を抱いた経緯から説明した。
「なるほど融資手形か。 言葉は聞いたことあるな。 それはでも違法じゃないわけだよね」
「まあ、そうです」
「この振込に何か秘密があるんじゃないかと、こう言いたいわけですな」
話を聞くうちに大庭の態度も多少軟化してきた。
「この仁科佐和子という人物について、振り込みの相手銀行ならわかるんですが、我々では調べようがないんです。 聞いても教えてくれないでしょうから。 でも警察なら調べられるはずです。 調べて教えてもらえませんか、どこの誰なのか。 それを聞けばなにかわかるはずです」
大庭は難しい顔をしていたが、まあいいでしょう、と言うと滝川とともに腰を上げた。
憂鬱な月曜日は生暖かい雨で始まった。
大庭から電話があったのは午前11時を過ぎた頃だ。
しかし仁科佐和子について詳しい情報は得られなかった。 期待していただけに落胆も大きい。
午後になって、信越マテリアルの債権者集会で和議が可決されたとの連絡が入った。
菜緒に電話した。 「柳葉です」 1回のコールで菜緒が出た。 「和議、成立したらしい」
「聞いた。 いま弁護士から電話があった」 「あ、それから――」
「北川副支店長のことだけど」 「そんな名前、聞きたくないわね。 転勤でもしたの」
「死んだ。 土曜の夜。 車ごと海に落ちて」
沈黙が返ってきた。
「いい気味じゃない」 やっと菜緒は言った。 「奥さんと息子、大学生だって言ってたけど残された」
菜緒は言葉を呑み込んだ。 しばらくして、呟くほどの声が聞こえた。 「そう、可哀想ね」
「あいつが死んでショック?」 「まあ、別な意味でね」 電話の向こうで菜緒は黙りこくった。
「ねえ。今夜、空いてる?」 突然、菜緒が聞いた。
「ああ、一応、空いてるけど」 「たまには食事でもおごってよ」 身寄りのない彼女の心細さが伝わってきた。
「8時頃なら出られると思う」 「リタ・マリーで待ってる。 最近あそこ行ってる?」
「いや。 忙しすぎてご無沙汰してる」 リタ・マリーは菜緒が紹介してくれた店だ。
「それじゃあ、待ってるから」 そう言って菜緒は電話を切った。
私は7時半過ぎに支店を出て、道玄坂の待ち合わせ場所に急いだ。
リタ・マリーの看板をくぐると、すでに菜緒が来ていて、片隅でコーヒーを飲んでいた。
パープルのVネックの胸元にサングラスをぶら下げ、白いミニスカートから素脚を伸ばしている。
「早いね」
生ビールを2つ頼み、コースではなくアラカルトでオーダーした。
菜緒は最初の生ビールをあっという間に飲み干し、熱いピザを口に入れた。
「今日、退学届出してきた」
私はリゾットをつついていた手の動きを止め、驚いて菜緒を見つめた。
「あと半年もすれば修士課程卒業じゃないか」
「そういう問題じゃない。私にはもっと他にやらないといけないことがあるってことに気づいたの」
「他にやらなきゃいけないことって何?」
「東京シリコンを再建する」
我が耳を疑った。 「君が?」
「世の中がそう甘くないってことはわかってるわよ。 でももう、取引先からの借金は残ってないから」
どういうことなのかわからなかった。 数億円単位の債務があったはずだ。
「実は父がなくなったあと、山梨に持っていた山が売れたの。 採掘業者が高く買ってくれたわ」
「ただ一つ問題がある。 君が事業を継続したいのはよくわかわるが、東京シリコンは金融機関に数億円の借金が残ったままだ。 仮に事業はうまくいっても社会的な信用は得られないし、2回目の不渡りを出してるから取引停止処分の3年間は手形や小切手を振り出せないハンデもある」
「どうすればいいの。 実は、そういうことも教えてもらいたいの」
菜緒はひるむことなく私をまっすぐに見た。 一文無しから出直した朔太郎の不屈の意志が乗り移ったかのようだ。
「新しい会社を作ったほうがいい。 社員は以前勤めていた人をできるだけ呼び戻す」
「父が設立した有限会社が確かあったと思うけど、それなんか使えるかしら」 「有限会社?」
「所在地は東京シリコンと同じ。 少し事業を広げようと思ったんじゃないかしら」
「もし、そんな有限会社があるなら最高だね」
「出来るだけビジネスプランを立てたいの。 それ、手伝ってもらえないかな。 あなたの力が必要なの」
「もちろん」 快諾した。 菜緒は安心したのか、ほっとした表情になって美味しそうにジョッキを傾けるのを眺めた。
「ねえ、ところで北川のことだけど――事故だったの?」「たぶん事故じゃないと思う、自殺でも」
「疑われてる?」「正直、警察がどう考えてるかわからない」
「ところで君は、仁科佐和子という名前に聞き覚えはないか」 「聞いたことない。 その人がどうしたの」
「先週調べた融通手形だが、東京シリコンからの振り込みはその女の口座に入っていた」
菜緒を照れす琥珀色のランプの光が彼女を照らすなか、その瞳を丸く見開かれていた。
「なぜなの?」
私はこの10日ほどの出来事を菜緒に話して聞かせた。 坂本の最期を見送った場面から。
「北川が殺されたとすれば、別の犯人がいるの? 口封じする必要があった。 北川の役割ってなんだったの」
「銀行内部の協力者か、利用されていただけか」
「何か見落としてるんじゃないかしら。 融通手形のために人が死ぬとは考えられない。 難波さんと連絡が取れれば何かわかりそうなんだけど。 ほんと頭くるアイツ」
信越マテリアル社長だった難波の行方はまだわからないのだ。
「信越マテリアルの技術ってどんなものだったんだい」
「リサイクルよ」 「リサイクル?」 菜緒が私のグラスにワインを注いだ。 彼女はもう3杯目だ。
「半導体の基盤になるのがシリコンウェハーなんだけど、これを作るのはとても難しいの。 10個作っても商品になるのは3個から9個。 あとは不良品になるわけ」
「つまり、歩留まりが3割から9割とばらつきがあるわけだ」 「ふうん、そういうの歩留まりっていうの」
ちぐはぐな会話だ。 菜緒には半導体の知識はあっても商売の知識はない。
「難波さんの研究は、その不良品になったシリコンウェハーを回収し、再加工して商品化する技術だったのよ。 いわゆるベンチャーね。 大成功だったわけ。 過剰投資がたたってああなっちゃったけどね」
「信越マテリアルが成功すると、同じビジネスを狙った企業もあったらしいけど皆うまくいかなかったわ。 それだけ信越マテリアルの技術的優位は圧倒的だったわけ。 そういえば二都商事なんかも参入しようとして失敗したのよ」
「商事が?」 山崎の顔が浮かんだ。
「最初、半導体の会社をつくった。けど、どうしてもうまくいかなくて結局みんなやめちゃったのよ。 それで自社は諦めて、信越マテリアルにお金を出すことにしたの」
「出資したわけだな」 「そう、それ」
「本当は信越マテリアルを買収しようとしたこともあったのよね。 それをその、出資で我慢したわけ」
私は唸った。 企業買収はトップシークレットであり、通常は決して公にならない水面下で交渉される。
それを菜緒から聞かされるとは思いもよらなかった。
「これは驚いたな。 商事が、信越マテリアルを?」 成長株を早めに買収しようとした商事の思惑もわからなくもない。
「なぜ、買収は失敗したのかな」 「反対したからよ。 難波さんと、父が」 「柳葉社長が?」
柳葉社長がそれほど影響力のある存在だということに驚きだった。
難波と柳葉は仲が良かったという。
「坂本のスケジュール・ソフトにあった109というのに何か心当たりはないか?」
「109ねえ・・・わからないな」 菜緒はしばらく考えていたが、思いつかなかったようだ。
事件に関する推測が息詰まると、沈黙が訪れた。
「なあ、菜緒。 俺たちのことなんだけど」
グラスを回している菜緒の手が止まった。 彼女は私の言葉を待っていた。
「もとに戻れないか」
「映画見てお買い物して食事して家まで送ってくれて、父にまで挨拶しちゃってさ。 お行儀良かったよね、遥。 それに戻るの?」
驚いて菜緒を見た。 言葉につまった。 取引先の娘、大学院進学。
そんな環境に気を遣いすぎて、素直になれなかった自分に気づかされた。
彼女が私のことを名前で呼んだのは、初めてだった。
「ごめん」
「バカみたい。 謝らないでよね。 こっちが惨めになるじゃない」
「もとに戻るなんて、絶対にいや。 進歩がないもん。 遥、私にみんな話してくれた? 遥のこと。 私はみんな話したよ。 父や会社のことや大学のことなんか気にしてたんでしょうけど私そんなことどうでもいいってずっと思ってた。 形ばっかり気にしてる関係なんて、もうどうでもいいのよ。 そんなの私には必要ない」
「菜緒・・・・・」
「それができるの?」
「やってみるさ」 自信はなかった。
「ほんとかな」 菜緒は疑わしげな視線をくれる。
「ほんとうだ」
私たちは店を出た。 菜緒が私に腕をからませてくる。
リタ・マリーの前でタクシーをつかまえ、運転手に行き先を告げた。 私のマンションだ。
セキュリティの暗証番号を打ち込んでいると、菜緒が物珍しそうに歪んだステンレスの郵便受けを眺める。
「扉の開け方も知らない獣が、虫を配達してきた」
私は菜緒をドアの内側へ誘った。 菜緒が笑った。
「世の中にはお行儀のいい人ばかりじゃないのよ」
続く・・・