やっと、やっと、手元にきました いつも借りられてたんですよね。
宮部みゆきの最高傑作とも言われている、この本です
「火車」 宮部みゆき
火車【かしゃ】 火がもえている車。 生前に悪事をした亡者をのせて地獄に運ぶという。 ひのくるま。
電車が綾瀬駅を離れたところで雨が降り始めた。 なかば凍った雨だった。
どうりで朝から左膝が痛むはずだった。
本間俊介は、ドアの脇に右手で手すりをつかみ、左手に閉じた傘を持って立っていた。
尖った傘の先端を床につき、杖の代わりにしている。 そして窓の外を眺めていた。
平日の午後3時、常磐線の車内はすいている。 座ろうと思えば空席はたくさんあった。
実際、座ったほうが楽なのだ。 午前中に理学療法をみっちり受け、そのあと捜査課に寄ってきた。
タクシーも使わず、徒歩と電車だけでひどく疲れている。
捜査課では係長が死人が生き返ってきたといわんばかりに大げさな歓待をして、
暗黙のうちに(早く帰れ)と促してくれた。
昨年末に退院してから、職場に顔を出すのは今日は2回目だ。
休職などしないほうがよかったのかもしれない。
そのせいか阿呆くさい意地を張り、車内でずっと立っている。 物思いしている間にも雨は降り続いた。
亀有の駅に着くと、4,5人の中年の婦人客が本間の傍らを通り過ぎていく。
身体の向きを変えた時に意識しないうちに唸っていたらしい。 女子高生がちらりとこちらに目をやった。
金町駅で降りる時がまた一苦労だった。
意地を張った報いで、駅の階段を降りることが、ほとんど拷問のように感じられた。
結局、駅から家までの道程にはタクシーを使うことにした。
エレベーターで3階の共同廊下へ上がるとすぐに、東端の自宅のドアを開けて智(さとる)が立っているのが見えた。 タクシーが着くのを上から見ていたらしい。
「遅かったね」 と言いながら近寄ってきて手を貸してくれようとする。 「大丈夫だよ」
息子はまだ10歳だ。 もたれて歩くには小さすぎる。 転べば二人で怪我をする。
それでも、智は両手を広げて、倒れてきたら受け止めようとしていた。
智に代わって、今度は井坂恒男がドアを押さえてくれている。
「お疲れでした」 と、井坂は言った。
半白の髪に、小柄で小太りの身体、それによく似合うエプロン姿で井坂は肩を貸してくれた。
「何か変わったことがあったか?」
3年前に妻の千鶴子が亡くなってからは、家族内での社交辞令のような言葉だった。
そして返事は、いつもこうだった。 別に、なんにも。 だが、今日は違った。 「あったよ」
「あのね、電話があったんだ。 栗坂のお兄さんから」
誰のことを言っているのかすぐにはピンとこなかった。 「ほら、銀行に勤めている人でさ」
栗坂家は、亡くなった千鶴子の側の親戚である。 あれこれ考えてやっと得心がいった。
「わかった。 和也くんか」 「そうそう。 あの背の高い人」
「何の用だって?」 「ボクには喋れないって。 大事な用があるから、夜に来るってさ」
「今夜かな?」 「うん」 「なんだろう」 井坂が脇で首をひねった。
「カッちゃんとこに行ってくるよ」 そりゃかまわんが、と思った。
カッちゃんとは5階に住んでいる同級生で、共働きの両親は多忙でいつも一人で留守番をしている。
智が行ってしまったので、椅子を引いて座るとき、遠慮なく顔をしかめることができた。
「あんまり無理はしないほうがいいですな」 井坂が湯呑みを目の前に置いてくれ、言った。
井坂の笑顔がきれいに磨かれたテーブルの天板に映っている。
彼はテーブルに食器の糸じりの痕が残っていたり、こぼしたコーヒーのしみがついていたりすることを、冒涜と考えている家庭人なのだった。
「夕食は3人分用意します」 と井坂が言った。 「すみません。 手間をかけさせて」
「2人分も3人分も大差はないですよ。 しかし、栗坂さん――和也さんですか、親戚でしょう?」
「どういうふうに呼べばいいんですかね。 家内の従兄の子供だから」
わざわざ何の用で訪ねてくるのだろう。 彼は千鶴子の葬儀にも顔を出さなかったというのに。
仏壇へと目をやると、千鶴子の顔が見返してきた。
気のせいに決まっているが、遺影の彼女も首をひねっているように見えた。
栗原和也が訪ねてきたのは、その夜9時近くになってのことだった。
雪が降り続き、交通機関にも影響が出ていた。 今夜は来ないだろうと思い始めていた。
だがもし手間をかけてわざわざ来たならその「大事な用」が半端じゃないという証拠になる。
嫌な予感がするな――そう思っていたところに、ドアチャイムが鳴ったのだった。
記憶の中の顔より、痩せているように思った。 嫌な予感が当たったらしい。
智はコーヒーを入れてくれると、さっさと風呂に入りにいってしまった。
「いくつになったっけ?」 彼に尋ねてみた。 「29です」 青年は薄く笑った。
「あ、いけない。 僕はまだお悔やみも言ってなかった」 3年前のことだから本当に「まだ」である。
「おばさんのことは本当に残念でした。 僕は通夜にも告別式にも出られなくて――」 「仕方ないよ」
「おばさんはいつだって安全運転だったから、まさかあんなことになるなんて」
「相手があることだからね。 こっちが何もしてなくても、ぶつけられることはある」
バツが悪そうな顔で腰を浮かし、和也は仏壇に線香をあげにいった。
「それで? 大事な用というのは何だい? よほどのことなんだろう」
和也は目を伏せて黙っている。 そしてやっと顔を上げた。
「ひょっとするとすごく失礼なお願いになるんじゃないかと思って――ただ、本間さんはこういう方面の専門家だし、いつもは忙しくて無理だけど、母から休職中だと聞いたので」
「暴力団に関わっちまったとか、友達から預かったものが盗品だったとか、盗まれた自分の車がどこかでナンバーを替えて売られているのを発見したとか、そういう類のことかい?」
「いえ、違います」 否定の言葉は素早く返ってきた。 「じゃあ、どういうこと?」
喉をごくりとさせて和也は言った。 「僕、婚約しました」 「そりゃ、おめでとう」
「それが全然めでたくないんです。 その婚約者が消えちまったんですから。 だから、彼女を探して欲しいんです」
懇願するように、身を乗り出す和也にまともに見つめられて、本間はちょっと言葉が出なかった。
「ちょっと待ってくれ。 いくら俺だってそんなことをホイホイ引き受けるわけにはいかない。 だから、とりあえずだ。 とりあえず、事情を話してくれ」
ペンとメモ用紙を手に取った。
「えーと・・・・どこから話せばいいのか――」
「じゃあ、こっちから質問していこうか。 彼女の名前は?」 「関根彰子(しょうこ)」
「年齢」 「今年28歳になります」
「職場恋愛かな」 「いいえ。 僕の取引先の社員です。 いえ、でした」
「その会社は?」 「今井事務機といいます。 小さな会社でした」
「いつごろ知り合ったの?」 「えーと、一昨年だから平成2年か。 9月の連休前だったかな」
そして2人の結婚は親に反対されていた。 和也のほうの親にだ。
彰子は両親を亡くし、天涯孤独だという。 父親は小学生の時に病死で、母親は2年前に事故死だ。
彼女は行方不明になる前は杉並区方南町のアパートで一人暮らししていた。
宇都宮の地元の高校を出て、上京してきたそうだ。
そういえば、千鶴子からこんなことを聞いたのを思い出した。
和也の父親とその一家は親族の中でも妙にエリート意識が強い家で、本間が千鶴子と結婚した時も
(警官と言ったって、キャリア組でなけりゃ将来性なんてないぞ)と随分馬鹿にされたと言っていた。
「僕は、両親とは考え方が違います。 人柄がよくて一緒に暮らしていけると思ったなら、学歴だの職歴だのそんな下らないものに意味はないですよ」 和也は少し怒った口調で言った。
「下らなくはないよ。 そこまで言うと、言いすぎだ。」 本間は静かに言った。
「きみは、彼女の失踪の理由を知ってるのか?」
かなり長いこと、和也は黙りこくってた。 ため息混じりの問いに和也は答え始めた。
「正月休みに僕たち二人で買い物に行ったんです。 家具やカーテンなんかをそろえるために」
「なるほど」
「で、現金で払おうとしたらもう金があまり残ってなかったんです。 僕が払ったんですけど、その時初めて彼女が一枚もクレジットカードを持ってないって聞いて驚いたんです。
――で、その日話し合ったんです。 色々買うものもあるし、この際カードを作っておけよって。 僕がそう言うと、彰子は素直に承知してくれました。 で、うちのカード会社の申込用紙を渡してその場で記入してもらって、支店へ持ち帰ったんです。」
その申込用紙は担当者の手に渡り、銀行系列のカード会社へ送られた。
「カードを作るには普通1ヶ月くらいかかります。 ただ僕にはカード会社に知り合いがいまして、彰子のカードを早めに作ってもらえるよう、頼んでおいたんです。そして電話がかかってきて――」
「悪いけど、彰子のカードは作れないって言うんです」
和也の口元がまた震え始めた。
「それだけじゃない。 彼女と結婚するんならよく調べてみたほうがいいぞって言うんです」
「どういう理由で?」
大きく息を吐き、自分をはげますように肩を上下させてから、和也は答えた。
「関根彰子の名前が、銀行系と信販会社系、両方の信用情報機関のブラックリストに載ってるからです」
要するに、支払い状況の悪い、要注意人物だということだ。
「僕は仰天しましたよ。 だって彰子はこれまでクレジットカードを持ったことがないと言ってたんですから。 そんな人間がどうやったらブラックリストに載れるっていうんです?」
「人違いじゃないのかい?」
「僕もそう思いました、しかし『そんなミスなんかしない』って。 人違いじゃない。 俺に報せる前によく確かめたんだからって」
「それで?」
「僕はすぐ彼に謝ってもっと詳しく調べてくれるように頼んだんです」
「そんなことが簡単に出来るの?」 「出来ます。 いえ――本当は出来ません」
その知人の立場なら出来るということだろう。
「実際、大した手間はかかりませんでした。 彼は火を見るより明らかだって言うんです」
そう言うと、和也は背広の内ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
それは代理人の弁護士が書いた、破産申立ての文書だった。
負債総額一千万円、債権者30名と書かれている。
「彼女、自己破産してたんですよ」 と、和也は言った。
「これを見て、それからどうした?」 和也はぼそりと答えた。 「彰子に訊いてみました」
「身に覚えがあるかと?」 「はい」 「いつ」 「15日です」
「すると、彼女は消えてしまったというわけか」 和也はうなずいた。
「君がこれを見せたときは?」 「ただ、すうっと青ざめただけでした」
「・・・・・探してやってくれませんか。 興信所だと両親にバレてしまうかもしれない」
だが、身内ならいいというわけだ。 しかも休職中で暇を持て余してる刑事だ。
和也は必死になって頼んだ。 彰子と繋がる人物も知らないという。
顎を震わせ、かすかにカチカチと歯が鳴る音がした。 本間は彼を見つめていた。
頭の中で二つの考えが争っていた。
一つは純粋な好奇心だ。 職業病というべきかもしれない。
もう一つは苦い不快感だった。 和也は生前千鶴子には随分可愛がってもらったはずなのに、
忙しいからと葬式にも出席しなければ、一度の連絡もなかった。
そのくせ、自分の頼みごととなると、吹き降りの雪をついてでもやってくる。 勝手な奴だ。
和也が恐る恐る声を出した。
「本間さん、まだ身体のほうがよくなくて、動き回るのは無理ですか・・・・」
「いや」 素っ気なくそれだけ答えた。 「母の話だと撃たれたとか――」 「よく知ってるね」
事件自体は大したものではない。 ケチな強盗が刃物を見せて脅しはするが人を傷つけたことがない。
お守りくらいのつもりで安物の改造拳銃を懐に忍ばせていた。
あとで本人が言うには、「撃つ気はなかったんだけども、ついうっかり」
弾が飛び出して、本人もびっくり仰天だと言う。 膝を撃ち抜かれた本間としても、つまらない話だ。
口をつぐむ和也を、本間はまた黙って見つめた。 だが、自分が少し興奮していることに気づいた。
「多少は力になれるかもしれないが――」 和也はぱっと頭を上げた。
「あんまり期待されちゃ困る。 まだ引き受けたわけじゃない。 この状況をどうにかできないか、当たってみるという程度だ。 それでもよければ」
「それで結構です。 お願いします」
朝食を済ませた智がランドセルをつかんで玄関に向かいながら、途中で振り返った。
「お父さん、今日、出かける?」 本間は新聞を広げながら「うん」と答えた。
「栗原のお兄さんに何か頼まれたんだね」 「そうだよ」 「だいじょうぶなの?」
「大丈夫なように行動するよ」 「栗原のお兄さん、何を頼みに来たの?」 「・・・・遅刻するぞ」
通勤ラッシュの時間帯を避けたいので10時まで家で「自己破産」の意味を調べてみたりした。
破産の事実は戸籍などにも記載されず、選挙権などの停止を受けることもない、と書いてある。
意外だった。 ということは黙っていれば破産したということは分からないということだ。
関根彰子もクレジットカードを作ろうとさえしなければ、過去の事実が露見することはなかったのだ。
駅へ行くためにタクシー会社に電話した。
経費は請求するよ、という申し出も和也は無条件で呑んだ。
途中、1階の井坂家に寄って鍵を預け、挨拶を交わしてから出かけた。
歩路のあちこちに掻き集められた雪の小山ができている。
今井事務機は、新宿駅西口から徒歩5分ほどのところにあった。 5階建ての共同ビルの2階だ。
受付も応接も事務室も、ひと目で見通しがきく――そういう会社だった。
事務の女性はまだ20歳くらいだろう。 子供みたいな声だった。 身体も小柄だ。
「社長さんか、関根さんの上司のかたに、出来たらお目にかかりたいんですが」
「社長、向かいのビルの喫茶店にいますから」 「商談中ですか」
「ショウ――いえいえ、コーヒー飲んでるだけです、いつもそうなんです。 呼んできます」
もうドアのほうに向かいかけている。 せかせかと振り返って、
「あの、あたしの留守に電話がかかってきたら、どうしましょう」 こちらのほうが訊きたいことだ。
彼女はちょっと考えた。 「かかってこないと思います」 面倒なことは棚上げする性格らしい。
「すぐ戻りますから、おかけになっててください」 言い残して雀が飛び立つように駆けて行った。
狭い室内には事務机が3つある。
関根彰子がいたときは女性事務員が2人いたことになる。 それほどの仕事があるのか・・・・
危ぶみたくなるような雰囲気だ。 と、思っていたところにさっきの女性が社長を連れて戻ってきた。
「おう、お待たせしました」 声の大きい老人だった。
ワイシャツに毛糸のベスト、ループタイという服装で遠近両用のメガネをかけている。
「関根さんのご家族とか?」 「いえ、彼女の婚約者の身内です」 「ああ、栗原さんのね」
昨夜、和也に持ってるだけの名刺を出させ、その裏に彼の自筆で、
「この本間俊介氏は私の親戚で、今回のことで調査を頼んであります。 よろしくお願いいたします」 と書かせておいた。
和也はそんなものは要らないのではという顔をしたが、休職中の身、警察手帳も刑事部屋に預けたままだ。
「栗坂さんのお身内というのはどういう繋がりで?」
「和也は私の家内の従兄の息子なんです」 「ははあ・・・」
「いつも困るんですよ。 続柄としてどう言えばいいんでしょうかね」
「はとこかねぇ。 ねえ、みっちゃん」 と、雀のような事務員を振り仰ぐ。 みっちゃんというらしい。
みっちゃんはまたせかせかと答えた。 「辞書ひいてみます」
「それで、と。 関根さんのことですが、まだ帰ってこないんですか」
和也がここに電話を入れたのは4日前だ。
「関根さんは以前にも無断欠勤したことがあったんですか」
「一度ありましたねえ。 熱を出して寝込んでて、電話をかけられなかったと話してましたな」
取引先の和也と関根彰子の婚約の報告を聞いたのは酒の席だという。
その時に彼女は周りの者に、和也からもらったとサファイアの指輪を見せていた。
そして関根彰子はそのサファイアの指輪を持って姿を消したそうだ。
「気の毒だが私らには何もしてあげられそうにないなあ。 話と言ったって栗坂さんにしたのと同じことしか話せんし。 なあ、みっちゃん?」
みっちゃんはうなずいた。 それから言った。 「はとこじゃないみたいですよ、社長」
「できたら彼女の履歴書を見せていただけませんか」
「あ、いいですよ」 と拍子抜けするほど気軽に言って、社長は立ち上がった。
ここで初めて本間は関根彰子の顔を見たことになる。 ――美人だな、と思った。
平均以上の美貌だと考えていい。 よく街で声をかけられたそうだ。 それはそうだったろう。
関根彰子の生年月日は1964年9月14日。 本籍は東京都になっている。
生まれは宇都宮と聞いているから転籍したのだろう。 職歴欄には3つの会社名が載っている。
「ここの求人はどういうふうになさったんですか?」 「求人欄ですよ。 新聞の」
「当時は関根さん一人でした。 みっちゃんはまだ半年くらいですから。 な、みっちゃん?」
みっちゃんはうなずいた。
彼女の行き先について、社長もみっちゃんも残念そうに、心当たりがない、と言った。
本間は彼女の履歴書を貸してもらった。
「関根さん、早く見つかるといいですな」 立ち上がるとみっちゃんがコートを着せてくれようとしたが、
身長差があるのでうまくいかなかった。
「さっきの奥さんの従兄の子供をどう呼ぶかってことですけど」 と生真面目な感じで言う。
「はとこじゃないってことしかわかりませんでしたぁ」 いかにも残念そうだった。
「じゃ、わかったら教えてください」 と言わずにはいられないようなところがあった。
「はい」とみっちゃんは答えた。 社長はにこにこしていた。
関根彰子は給料は安かったかもしれないが、そう悪い会社で働いていたわけではないなと思いながら、本間は階下へ降りた。
続く・・・
宮部みゆきの最高傑作とも言われている、この本です
「火車」 宮部みゆき
火車【かしゃ】 火がもえている車。 生前に悪事をした亡者をのせて地獄に運ぶという。 ひのくるま。
電車が綾瀬駅を離れたところで雨が降り始めた。 なかば凍った雨だった。
どうりで朝から左膝が痛むはずだった。
本間俊介は、ドアの脇に右手で手すりをつかみ、左手に閉じた傘を持って立っていた。
尖った傘の先端を床につき、杖の代わりにしている。 そして窓の外を眺めていた。
平日の午後3時、常磐線の車内はすいている。 座ろうと思えば空席はたくさんあった。
実際、座ったほうが楽なのだ。 午前中に理学療法をみっちり受け、そのあと捜査課に寄ってきた。
タクシーも使わず、徒歩と電車だけでひどく疲れている。
捜査課では係長が死人が生き返ってきたといわんばかりに大げさな歓待をして、
暗黙のうちに(早く帰れ)と促してくれた。
昨年末に退院してから、職場に顔を出すのは今日は2回目だ。
休職などしないほうがよかったのかもしれない。
そのせいか阿呆くさい意地を張り、車内でずっと立っている。 物思いしている間にも雨は降り続いた。
亀有の駅に着くと、4,5人の中年の婦人客が本間の傍らを通り過ぎていく。
身体の向きを変えた時に意識しないうちに唸っていたらしい。 女子高生がちらりとこちらに目をやった。
金町駅で降りる時がまた一苦労だった。
意地を張った報いで、駅の階段を降りることが、ほとんど拷問のように感じられた。
結局、駅から家までの道程にはタクシーを使うことにした。
エレベーターで3階の共同廊下へ上がるとすぐに、東端の自宅のドアを開けて智(さとる)が立っているのが見えた。 タクシーが着くのを上から見ていたらしい。
「遅かったね」 と言いながら近寄ってきて手を貸してくれようとする。 「大丈夫だよ」
息子はまだ10歳だ。 もたれて歩くには小さすぎる。 転べば二人で怪我をする。
それでも、智は両手を広げて、倒れてきたら受け止めようとしていた。
智に代わって、今度は井坂恒男がドアを押さえてくれている。
「お疲れでした」 と、井坂は言った。
半白の髪に、小柄で小太りの身体、それによく似合うエプロン姿で井坂は肩を貸してくれた。
「何か変わったことがあったか?」
3年前に妻の千鶴子が亡くなってからは、家族内での社交辞令のような言葉だった。
そして返事は、いつもこうだった。 別に、なんにも。 だが、今日は違った。 「あったよ」
「あのね、電話があったんだ。 栗坂のお兄さんから」
誰のことを言っているのかすぐにはピンとこなかった。 「ほら、銀行に勤めている人でさ」
栗坂家は、亡くなった千鶴子の側の親戚である。 あれこれ考えてやっと得心がいった。
「わかった。 和也くんか」 「そうそう。 あの背の高い人」
「何の用だって?」 「ボクには喋れないって。 大事な用があるから、夜に来るってさ」
「今夜かな?」 「うん」 「なんだろう」 井坂が脇で首をひねった。
「カッちゃんとこに行ってくるよ」 そりゃかまわんが、と思った。
カッちゃんとは5階に住んでいる同級生で、共働きの両親は多忙でいつも一人で留守番をしている。
智が行ってしまったので、椅子を引いて座るとき、遠慮なく顔をしかめることができた。
「あんまり無理はしないほうがいいですな」 井坂が湯呑みを目の前に置いてくれ、言った。
井坂の笑顔がきれいに磨かれたテーブルの天板に映っている。
彼はテーブルに食器の糸じりの痕が残っていたり、こぼしたコーヒーのしみがついていたりすることを、冒涜と考えている家庭人なのだった。
「夕食は3人分用意します」 と井坂が言った。 「すみません。 手間をかけさせて」
「2人分も3人分も大差はないですよ。 しかし、栗坂さん――和也さんですか、親戚でしょう?」
「どういうふうに呼べばいいんですかね。 家内の従兄の子供だから」
わざわざ何の用で訪ねてくるのだろう。 彼は千鶴子の葬儀にも顔を出さなかったというのに。
仏壇へと目をやると、千鶴子の顔が見返してきた。
気のせいに決まっているが、遺影の彼女も首をひねっているように見えた。
栗原和也が訪ねてきたのは、その夜9時近くになってのことだった。
雪が降り続き、交通機関にも影響が出ていた。 今夜は来ないだろうと思い始めていた。
だがもし手間をかけてわざわざ来たならその「大事な用」が半端じゃないという証拠になる。
嫌な予感がするな――そう思っていたところに、ドアチャイムが鳴ったのだった。
記憶の中の顔より、痩せているように思った。 嫌な予感が当たったらしい。
智はコーヒーを入れてくれると、さっさと風呂に入りにいってしまった。
「いくつになったっけ?」 彼に尋ねてみた。 「29です」 青年は薄く笑った。
「あ、いけない。 僕はまだお悔やみも言ってなかった」 3年前のことだから本当に「まだ」である。
「おばさんのことは本当に残念でした。 僕は通夜にも告別式にも出られなくて――」 「仕方ないよ」
「おばさんはいつだって安全運転だったから、まさかあんなことになるなんて」
「相手があることだからね。 こっちが何もしてなくても、ぶつけられることはある」
バツが悪そうな顔で腰を浮かし、和也は仏壇に線香をあげにいった。
「それで? 大事な用というのは何だい? よほどのことなんだろう」
和也は目を伏せて黙っている。 そしてやっと顔を上げた。
「ひょっとするとすごく失礼なお願いになるんじゃないかと思って――ただ、本間さんはこういう方面の専門家だし、いつもは忙しくて無理だけど、母から休職中だと聞いたので」
「暴力団に関わっちまったとか、友達から預かったものが盗品だったとか、盗まれた自分の車がどこかでナンバーを替えて売られているのを発見したとか、そういう類のことかい?」
「いえ、違います」 否定の言葉は素早く返ってきた。 「じゃあ、どういうこと?」
喉をごくりとさせて和也は言った。 「僕、婚約しました」 「そりゃ、おめでとう」
「それが全然めでたくないんです。 その婚約者が消えちまったんですから。 だから、彼女を探して欲しいんです」
懇願するように、身を乗り出す和也にまともに見つめられて、本間はちょっと言葉が出なかった。
「ちょっと待ってくれ。 いくら俺だってそんなことをホイホイ引き受けるわけにはいかない。 だから、とりあえずだ。 とりあえず、事情を話してくれ」
ペンとメモ用紙を手に取った。
「えーと・・・・どこから話せばいいのか――」
「じゃあ、こっちから質問していこうか。 彼女の名前は?」 「関根彰子(しょうこ)」
「年齢」 「今年28歳になります」
「職場恋愛かな」 「いいえ。 僕の取引先の社員です。 いえ、でした」
「その会社は?」 「今井事務機といいます。 小さな会社でした」
「いつごろ知り合ったの?」 「えーと、一昨年だから平成2年か。 9月の連休前だったかな」
そして2人の結婚は親に反対されていた。 和也のほうの親にだ。
彰子は両親を亡くし、天涯孤独だという。 父親は小学生の時に病死で、母親は2年前に事故死だ。
彼女は行方不明になる前は杉並区方南町のアパートで一人暮らししていた。
宇都宮の地元の高校を出て、上京してきたそうだ。
そういえば、千鶴子からこんなことを聞いたのを思い出した。
和也の父親とその一家は親族の中でも妙にエリート意識が強い家で、本間が千鶴子と結婚した時も
(警官と言ったって、キャリア組でなけりゃ将来性なんてないぞ)と随分馬鹿にされたと言っていた。
「僕は、両親とは考え方が違います。 人柄がよくて一緒に暮らしていけると思ったなら、学歴だの職歴だのそんな下らないものに意味はないですよ」 和也は少し怒った口調で言った。
「下らなくはないよ。 そこまで言うと、言いすぎだ。」 本間は静かに言った。
「きみは、彼女の失踪の理由を知ってるのか?」
かなり長いこと、和也は黙りこくってた。 ため息混じりの問いに和也は答え始めた。
「正月休みに僕たち二人で買い物に行ったんです。 家具やカーテンなんかをそろえるために」
「なるほど」
「で、現金で払おうとしたらもう金があまり残ってなかったんです。 僕が払ったんですけど、その時初めて彼女が一枚もクレジットカードを持ってないって聞いて驚いたんです。
――で、その日話し合ったんです。 色々買うものもあるし、この際カードを作っておけよって。 僕がそう言うと、彰子は素直に承知してくれました。 で、うちのカード会社の申込用紙を渡してその場で記入してもらって、支店へ持ち帰ったんです。」
その申込用紙は担当者の手に渡り、銀行系列のカード会社へ送られた。
「カードを作るには普通1ヶ月くらいかかります。 ただ僕にはカード会社に知り合いがいまして、彰子のカードを早めに作ってもらえるよう、頼んでおいたんです。そして電話がかかってきて――」
「悪いけど、彰子のカードは作れないって言うんです」
和也の口元がまた震え始めた。
「それだけじゃない。 彼女と結婚するんならよく調べてみたほうがいいぞって言うんです」
「どういう理由で?」
大きく息を吐き、自分をはげますように肩を上下させてから、和也は答えた。
「関根彰子の名前が、銀行系と信販会社系、両方の信用情報機関のブラックリストに載ってるからです」
要するに、支払い状況の悪い、要注意人物だということだ。
「僕は仰天しましたよ。 だって彰子はこれまでクレジットカードを持ったことがないと言ってたんですから。 そんな人間がどうやったらブラックリストに載れるっていうんです?」
「人違いじゃないのかい?」
「僕もそう思いました、しかし『そんなミスなんかしない』って。 人違いじゃない。 俺に報せる前によく確かめたんだからって」
「それで?」
「僕はすぐ彼に謝ってもっと詳しく調べてくれるように頼んだんです」
「そんなことが簡単に出来るの?」 「出来ます。 いえ――本当は出来ません」
その知人の立場なら出来るということだろう。
「実際、大した手間はかかりませんでした。 彼は火を見るより明らかだって言うんです」
そう言うと、和也は背広の内ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
それは代理人の弁護士が書いた、破産申立ての文書だった。
負債総額一千万円、債権者30名と書かれている。
「彼女、自己破産してたんですよ」 と、和也は言った。
「これを見て、それからどうした?」 和也はぼそりと答えた。 「彰子に訊いてみました」
「身に覚えがあるかと?」 「はい」 「いつ」 「15日です」
「すると、彼女は消えてしまったというわけか」 和也はうなずいた。
「君がこれを見せたときは?」 「ただ、すうっと青ざめただけでした」
「・・・・・探してやってくれませんか。 興信所だと両親にバレてしまうかもしれない」
だが、身内ならいいというわけだ。 しかも休職中で暇を持て余してる刑事だ。
和也は必死になって頼んだ。 彰子と繋がる人物も知らないという。
顎を震わせ、かすかにカチカチと歯が鳴る音がした。 本間は彼を見つめていた。
頭の中で二つの考えが争っていた。
一つは純粋な好奇心だ。 職業病というべきかもしれない。
もう一つは苦い不快感だった。 和也は生前千鶴子には随分可愛がってもらったはずなのに、
忙しいからと葬式にも出席しなければ、一度の連絡もなかった。
そのくせ、自分の頼みごととなると、吹き降りの雪をついてでもやってくる。 勝手な奴だ。
和也が恐る恐る声を出した。
「本間さん、まだ身体のほうがよくなくて、動き回るのは無理ですか・・・・」
「いや」 素っ気なくそれだけ答えた。 「母の話だと撃たれたとか――」 「よく知ってるね」
事件自体は大したものではない。 ケチな強盗が刃物を見せて脅しはするが人を傷つけたことがない。
お守りくらいのつもりで安物の改造拳銃を懐に忍ばせていた。
あとで本人が言うには、「撃つ気はなかったんだけども、ついうっかり」
弾が飛び出して、本人もびっくり仰天だと言う。 膝を撃ち抜かれた本間としても、つまらない話だ。
口をつぐむ和也を、本間はまた黙って見つめた。 だが、自分が少し興奮していることに気づいた。
「多少は力になれるかもしれないが――」 和也はぱっと頭を上げた。
「あんまり期待されちゃ困る。 まだ引き受けたわけじゃない。 この状況をどうにかできないか、当たってみるという程度だ。 それでもよければ」
「それで結構です。 お願いします」
朝食を済ませた智がランドセルをつかんで玄関に向かいながら、途中で振り返った。
「お父さん、今日、出かける?」 本間は新聞を広げながら「うん」と答えた。
「栗原のお兄さんに何か頼まれたんだね」 「そうだよ」 「だいじょうぶなの?」
「大丈夫なように行動するよ」 「栗原のお兄さん、何を頼みに来たの?」 「・・・・遅刻するぞ」
通勤ラッシュの時間帯を避けたいので10時まで家で「自己破産」の意味を調べてみたりした。
破産の事実は戸籍などにも記載されず、選挙権などの停止を受けることもない、と書いてある。
意外だった。 ということは黙っていれば破産したということは分からないということだ。
関根彰子もクレジットカードを作ろうとさえしなければ、過去の事実が露見することはなかったのだ。
駅へ行くためにタクシー会社に電話した。
経費は請求するよ、という申し出も和也は無条件で呑んだ。
途中、1階の井坂家に寄って鍵を預け、挨拶を交わしてから出かけた。
歩路のあちこちに掻き集められた雪の小山ができている。
今井事務機は、新宿駅西口から徒歩5分ほどのところにあった。 5階建ての共同ビルの2階だ。
受付も応接も事務室も、ひと目で見通しがきく――そういう会社だった。
事務の女性はまだ20歳くらいだろう。 子供みたいな声だった。 身体も小柄だ。
「社長さんか、関根さんの上司のかたに、出来たらお目にかかりたいんですが」
「社長、向かいのビルの喫茶店にいますから」 「商談中ですか」
「ショウ――いえいえ、コーヒー飲んでるだけです、いつもそうなんです。 呼んできます」
もうドアのほうに向かいかけている。 せかせかと振り返って、
「あの、あたしの留守に電話がかかってきたら、どうしましょう」 こちらのほうが訊きたいことだ。
彼女はちょっと考えた。 「かかってこないと思います」 面倒なことは棚上げする性格らしい。
「すぐ戻りますから、おかけになっててください」 言い残して雀が飛び立つように駆けて行った。
狭い室内には事務机が3つある。
関根彰子がいたときは女性事務員が2人いたことになる。 それほどの仕事があるのか・・・・
危ぶみたくなるような雰囲気だ。 と、思っていたところにさっきの女性が社長を連れて戻ってきた。
「おう、お待たせしました」 声の大きい老人だった。
ワイシャツに毛糸のベスト、ループタイという服装で遠近両用のメガネをかけている。
「関根さんのご家族とか?」 「いえ、彼女の婚約者の身内です」 「ああ、栗原さんのね」
昨夜、和也に持ってるだけの名刺を出させ、その裏に彼の自筆で、
「この本間俊介氏は私の親戚で、今回のことで調査を頼んであります。 よろしくお願いいたします」 と書かせておいた。
和也はそんなものは要らないのではという顔をしたが、休職中の身、警察手帳も刑事部屋に預けたままだ。
「栗坂さんのお身内というのはどういう繋がりで?」
「和也は私の家内の従兄の息子なんです」 「ははあ・・・」
「いつも困るんですよ。 続柄としてどう言えばいいんでしょうかね」
「はとこかねぇ。 ねえ、みっちゃん」 と、雀のような事務員を振り仰ぐ。 みっちゃんというらしい。
みっちゃんはまたせかせかと答えた。 「辞書ひいてみます」
「それで、と。 関根さんのことですが、まだ帰ってこないんですか」
和也がここに電話を入れたのは4日前だ。
「関根さんは以前にも無断欠勤したことがあったんですか」
「一度ありましたねえ。 熱を出して寝込んでて、電話をかけられなかったと話してましたな」
取引先の和也と関根彰子の婚約の報告を聞いたのは酒の席だという。
その時に彼女は周りの者に、和也からもらったとサファイアの指輪を見せていた。
そして関根彰子はそのサファイアの指輪を持って姿を消したそうだ。
「気の毒だが私らには何もしてあげられそうにないなあ。 話と言ったって栗坂さんにしたのと同じことしか話せんし。 なあ、みっちゃん?」
みっちゃんはうなずいた。 それから言った。 「はとこじゃないみたいですよ、社長」
「できたら彼女の履歴書を見せていただけませんか」
「あ、いいですよ」 と拍子抜けするほど気軽に言って、社長は立ち上がった。
ここで初めて本間は関根彰子の顔を見たことになる。 ――美人だな、と思った。
平均以上の美貌だと考えていい。 よく街で声をかけられたそうだ。 それはそうだったろう。
関根彰子の生年月日は1964年9月14日。 本籍は東京都になっている。
生まれは宇都宮と聞いているから転籍したのだろう。 職歴欄には3つの会社名が載っている。
「ここの求人はどういうふうになさったんですか?」 「求人欄ですよ。 新聞の」
「当時は関根さん一人でした。 みっちゃんはまだ半年くらいですから。 な、みっちゃん?」
みっちゃんはうなずいた。
彼女の行き先について、社長もみっちゃんも残念そうに、心当たりがない、と言った。
本間は彼女の履歴書を貸してもらった。
「関根さん、早く見つかるといいですな」 立ち上がるとみっちゃんがコートを着せてくれようとしたが、
身長差があるのでうまくいかなかった。
「さっきの奥さんの従兄の子供をどう呼ぶかってことですけど」 と生真面目な感じで言う。
「はとこじゃないってことしかわかりませんでしたぁ」 いかにも残念そうだった。
「じゃ、わかったら教えてください」 と言わずにはいられないようなところがあった。
「はい」とみっちゃんは答えた。 社長はにこにこしていた。
関根彰子は給料は安かったかもしれないが、そう悪い会社で働いていたわけではないなと思いながら、本間は階下へ降りた。
続く・・・