最近、無性に伊坂幸太郎さんの本が読みたい
好みの作風なんですよね、多分。 読書好きの間でも評価の高い、こちらの本を読んでみましたよ
「アヒルと鴨のコインロッカー」 伊坂幸太郎
腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくかもしれないけど、
僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた。
夜のせいか頭が混乱しているせいか、罪の意識はなかった。 強いて言えば親への後ろめたさはある。
細い県道沿いにある小さな書店。
午後10時過ぎ。 辺りは薄暗く、車の音もしない。 人通りもない。
僕たちが到着したときはちょうど閉店時間の直前だった。
古そうな白いセダン一台だけが停まっている。
僕たちは閉店間際にわざわざやってきた。 客ではないからだ。
裏口ドアの磨りガラスから店内の明かりが零れていた。
そうだ、モデルガンを持ち上げなくてはいけない。 窓ガラスの位置にモデルガンを近づけた。
気が付くと足が震えていた。 ボブ・ディランを口ずさむ。
「椎名のやることは難しくないんだ」 河崎はそう言っていた。
確かに難しくない。 モデルガンを持ったまま書店の裏口に立っていること。 それだけ。
ボブ・ディランの「風に吹かれて」を10回歌うこと。 2回歌い終わる度にドアを蹴飛ばすこと。
「店を実際に襲うのは俺だ。 椎名は裏口から店員が逃げないようにしてくれ」 河崎は言った。
「裏口から悲劇は起きるんだ」
河崎はすでに書店に飛び込んで、「広辞苑」を奪いに行った。
引っ越してきた日のことを思い出す――たった二日前のことだ。
◆現在 1
二日前、引っ越してきたばかりの僕はまず猫に会い、その次に河崎に会った。
2階建てのアパートは築15年の木造で、建物の真ん中に階段があり、左右に4部屋ある。
ちなみは4は不吉だという迷信は未だ根強いのか103号室の隣は105号室となっている。
隣人に挨拶に行こうと、「ピン」という軽快な音がして離すと「ポーン」と呼び鈴は鳴った。
しかし隣人は留守のようで、僕は自分の部屋、105号室に戻った。
部屋には段ボールの山が無言の圧力を与えてくる。
この山積みの箱が消えることなんてアメリカの軍隊が消えることくらいに不可能がことに思えた。
夕方4時過ぎ。 ステレオを繋いで音楽を流す。 猫がやってきたのはそれから一時間後くらいだ。
ガラスを引っ掻き始めたので慌てて窓を開けると猫は軽快に部屋の中に入ってきた。 我が物顔で。
毛並みのいい黒猫で首輪はなかった。 長い尻尾の先はぽきりと折れ曲がっていた。
10分ほどかかってようやく捕獲した。
河崎に会ったのは午後6時頃。 段ボールを部屋の外に置きに出た時だった。
初めは気づかず、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいた。
それなりに大きな声で歌っていたので、後ろから声をかけられた時はかなり驚いた。
103号室の前に立っていた彼は「ディラン?」と真っ先に質問してきたので、
「ディラン」と肯定した。「風に吹かれて」
「引っ越してきたんだ?」 「え、ええ」
背が高く細身で短めの髪はラフな雰囲気だった。 日焼けなのか肌の色は濃い茶色で全身が黒ずくめ。
黒いシャツにブラックレザーのパンツを穿いている。
外国の諺を思い出していた。『悪魔は絵で見るより黒くない』
どんなに悪人でもどこかしらいいところがある、というような意味ではなかっただろうか。
この人は悪魔だったりして、と想像してみた。
「手伝おうか?」 「い、いや、もう随分片付いたから」 嘘を言った。 「それならうちに来いよ」
どう返事をしようか迷っていると・・・・「あ、そうだ」
「シッポサキマルマリが来ただろ?」 あ、これは悪魔の言葉に違いないな、と思った。
彼は部屋の台所からワインボトルとグラスを持ってきた。 「さあ、乾杯だ」 と呟いた。
「俺はカワサキ」 「カワサキのカワは三本川の川か、それとも河童の河?」
「どちらでも」 彼は適当なことを言うので、河崎だなと僕は推測した。 そのほうが似合っている。
そして彼は再びシッポサキマルマリと口にした。 「それは何?」 「猫」 あの猫のことだった。
「あの野良猫、可愛いだろう? 尻尾の先がさ、しゃくなげの枝のように丸まっている」
「よく来るんだ?」 「シッポサキマルマリ?」 「そう、シッポサキマルマリ」
「猫はたいてい、寂しい人間のところにやってくる」 「黒い猫は特にそうだな」 と続けた。
「実はさ、俺は死から復活したんだ」 僕をじっと見る。 「死から?」 「不治の状態から」
何か胡散臭い話になるのではないかと、僕は気を引き締めた。
「椎名は学生かい」 「そうなんだ明後日から」 「ちょうど良かった」 「ちょうど?」
「やりたいことがあったんだ」 ホモセクシャルに性的な関係を迫られているようだった。
「このアパートの101号室に外人が住んでいる。 アジア人だ」 「それがどうかしたの?」
「その彼が引きこもっているんだ。 元気がない・・・いろいろあったんだ。 だからプレゼントをしたい」 「いいかもしれない」 と言いながら、僕はちっとも良いとは思っていない。
「彼は辞書を欲しがっていた」 「ジショ?」 「彼には調べたい言葉が二つあるらしい」
「一つは『ろくでなし』もう一つは『がんばる』だ」
「それで俺は辞書をプレゼントしたいんだ」 「いいと思うよ」
「広辞苑を奪ってやるんだ」
言葉を失った。 はじめは聞き間違いかと思った。 そして彼はさらにつづけた。
「一緒に本屋を襲わないか」
教訓を学んだ。 本屋を襲うくらいの覚悟がなければ、隣人に挨拶に行くべきではない。
◇2年前 1
その時行方不明の犬を捜していたわたしは、
まず轢かれた猫に会い、その次にペット殺しの若者たちに会った。
常識外れの速度で駆け抜けた車が「きぃ」というブレーキ音を立てて、「どん」と短い音を立てた。
「What happend?(どうしたの?)」 わたしの横をキンレィ・ドルジが英語で話しかけてきた。
「車が何かをはねたみたい」 「車が、ですか」 ドルジがたどたどしい日本語で言ってくる。
「クロシバですか?」
クロシバはわたしの勤めているペットショップでいなくなった柴犬だ。
胸が痛くなりながら早足で坂道を下った。 ドルジも後ろからついてくる。
23歳のブータン人は、軽快だ。
マンホールの上に黒猫が倒れていた。 「可哀相に」 「不幸、ですね」
「こういう時には、不幸と言うより、不運、って言うんだってば」 「ソウデスネ」
聞き取れない日本語に出会ったり返答に窮した時にはたいてい、ソウデスネと言う。 彼の口癖だ。
ドルジはためらいもなく、紙袋に猫の死体を移し、埋められる場所がないかを探すことにした。
ドルジと初めて会ったのは半年前だ。 深夜1時頃。
突然車道に飛び出している男がいた。 路上で寝ていた泥酔者を助けようとしたらしい。
駆け寄ったわたしは彼の勇気を誉め称え、無謀さを叱り、騒々しくまくし立てた。
「(こんな騒々しい日本人には初めて会ったよ)」 英語で喋るドルジに日本人でないことに気付いた。
ドルジの外見は日本人にしか見えなかった。
「(怪我してるじゃない。 病院行く?)」 わたしは英語を得意としていた。
ドルジはブータンから来た留学生であると打ち明けた。
猫を埋める場所がこれほど見つからないとは思わなかった。 ようやく見つけたのは公園の前にある、
「立入禁止」 の立て看板。 杉林のある公園で敷地は大きそうだった。 土砂崩れ防止の工事中だ。
ドルジはシャベルを持つと、手馴れた手つきで土を掘る。 5分とかからない間に充分な穴が出来た。
猫をその中に入れると、上から土をかぶせた。
わたしたちは水道を手を洗い、缶コーヒーを買うと公園のベンチに座って休憩をした。
私たちが話していると、背後からけたたましい笑い声が聞こえた。
その場から去るべきだったのかもしれないが、じっとしていることを選んだ。 恐怖心だ。
背後の言葉に耳を傾けた。
「ありゃ、最高だよな。 すげえ、ないてたし」 品のない、若い男の声だ。
「ないてるやつを無理やりやるのがたまらない」 これは女の声だった。
私たちには気づかずに杉林に入っていく。 若い男が2人と女が1人だ。 20代半ばくらいだ。
しばらくして若者たちが戻ってくる足音が聞こえた。
「収穫なしかよ」 「やっぱりさ、もう野良猫とかもいないんじゃねえのかな」 「つまんなぁい」
「それならあれだよ、店だよ。 店から犬とか猫とか取ってくんだよ」 「いいねえ」
「お腹減ったから、いつものところでだらだらしようか?」 女がファーストフード店の名を口にした。
「でもさ、今日またあれやりたかったよな」 残念そうな男。 もう一人が「ペンチ?」 と訊ねる。
「ほんとあの猫最高だったね、最高最高」 女がけたけたと笑い声をあげた。
「俺はさ、あれがいいよ。 足」 「足切り?」 何が可笑しいのか、女が下品に笑った。
わたしはドルジに言った。 「(もしかすると、猫に悪戯してる奴らかも)」 「(ペット殺し?)」
わたしは胃が痛くなると同時に怒りを覚える。
3ヶ月ほど前から、ペットが殺される事件が連続して起きている。 酷い方法で殺害されていた。
わたしが知っているだけで、20件以上は発生している。
「(間違いない。 あいつら絶対犯人だって)」 「(そうかなぁ?)」 ドルジは冷めている。
そのすぐ後、ドルジに怯むような色が浮かんだ。 わたしもだ。 足音が鳴り、彼らが移動した。
気づいたときには、わたし達の座っているベンチが揺れていた。 背もたれが蹴られた。
わたしは反射的に立ち上がった。 突発的な恐怖に襲われた。 ドルジも立ち上がり目を丸くしている。
若者が険しい目つきでこちらを見ていた。
「おまえら何してるんだよ、こんなところで」 男が口を尖らせて言った。
教訓を学んだ。 立入禁止の場所に侵入するときには、それなりのリスクを覚悟しなければならない。
◆現在 2
「本屋を襲うってどうしてそんな話になるんだい? 辞書をあげるんだったら本屋に行って買えばいい。 そうだろう?」
「本屋から広辞苑を奪ってもいいだろう?」 河崎は平然としている。
「本屋を襲うことがどうしていけない?」 冗談かと思ったが彼はひどく真面目な顔をしていた。
「ほ、法律に違反している」 法学部の学生としては当然の返事だった。
『政治家が間違っている時、正しいことは全て誤っている』 河崎はそう言った。
政治家は正しくない。つまり法律は間違っている、河崎は興奮しているのか若干早口だった。
「広辞苑をプレゼントしたいわけじゃない。 お金で買った広辞苑はいらない。 本屋を襲って取った広辞苑が欲しいんだ」
「訳がわからないよ」 「椎名がやるのは難しいことじゃない」
「店を実際に襲うのは俺だ。 椎名は裏口から店員が逃げないようにしてくれ」
ちょっと待ってくれ、と言おうとするが声が上手く出なかった。
「裏口で待っていて、ドアを蹴るだけ」 「ドアを蹴る?」 「店員に逃げられたくない」
河崎は一瞬目を伏せ、「裏口から悲劇は起きるんだ」と言った。
ああ、そう。と聞き流すと、彼はもう一度、「裏口から悲劇は起きるんだ」 と繰り返した。
僕は彼の言うことは理解できなかったけど、河崎が怪しい人物にも見えなかった。
部屋を後にすることにした。 ドアを開けようとしたところで呼び止められた。
彼は勇ましくも美しい悪魔のようだ。
「街にペットショップがある。 そこの店長に気をつけろ」 「え?」
「麗子という女がいるんだ。 もし会うことがあっても信じるな」 僕は曖昧な返事をして肩をすくめた。
「変人には二種類あるんだよね。 敬遠したいタイプと怖いもの見たさでしばらく付き合ってみたいタイプ」 以前叔母がそう言っていたことがある。 河崎に対しては後者のほうだった。
自分の部屋の鍵を開けながら101号室の外国人にどんな出来事があったんだろうな、と想像してみた。
◇2年前 2
「おまえら、何やってんだよ」 暗闇の公園で若者三人がわたし達の正面に立っている。
三人とも知性が蒸発してしまっているように見える。
わたしは左右を見た。 通行人を呼ぶのも難しそうだ。 気づくと長髪の男が近寄っていた。
「いやらしいことでもしてたんじゃねえの?」 男が唇を歪めた。 「勝手にいちゃついてろよ」
「そうだ、あんたたちさ」 女がそこで口を開いた。 「そっちの林に行った?」
「行ってないけど」 「罠に猫とかかかってなかった?」 更に質問してきた。 心臓が早鐘を打つ。
「それ、俺たちの獲物だからさ。 獲物っていうかおもちゃ」 ピアスの男が言う。
するとそこで、ピアスなしの男が「どうせならそろそろ人間もやってみねえ?」 と言った。
「この女のことかよ」 とピアスありの男が答える。 男二人がちらちらとこちらを眺めてくる。
「すみません、帰ります」 ドルジが突然声を出してわたしを後ろに引っ張る。
彼らも追いかけてまでは来なかった。 公園の出口までくるとわたしは気が大きくなったのか、
憤りがそこで爆発したのかもしれない。 彼らが立っている方向に向かって、
「あんたたちのこと、警察に言ってやるから」 と声を上げていた。
「(琴美、早く)」 ドルジが慌てて、わたしの腕を引っ張った。
細い十字路に入ったところで小走りをやめていた。 「いまいち、すっきりしない」
「(あいつら絶対に怪しい)」 英語で言った。 「(琴美は危ない。 気をつけたほうがいい)」
ドルジは心配しながらも叱りつけてくるようだった。
その後は河崎の話になった。 わたしは彼と一ヶ月だけ付き合った。
そんな話をドルジは愉快そうに聞く。 十字路で信号が赤になり立ち止まった。
ドルジは路肩に立つ鏡に目をやって神妙な顔つきになった。 「(どうかした?)」 「いや別に)」
50メートルほど進んだところでドルジが「コンビニ、行きたいです」 と急に言った。
雨も降りそうにないのにドルジは入口のビニール傘を取ってレジへと向かった。
ドルジの様子が変だなと思ったら周囲をやたら気にし始めた。 「この近く、交番あるですか?」
「(落し物?)」 「(いざとなったら、琴美は先に逃げて)」 「(なんのこと)」
「くるま」 黒いミニワゴンがつんのめるようにして停まると慌ただしく降りてくる影が見えた。
「(3人。 さっきのあいつらだ)」 わたしは思考が止まってしまった。
ピアスの男が走り寄ってくる。 「何、あんたたち、しつこいわね」
「すげえ捜したんだよね、公園からあちこち走ってさ」 「警察に言うってどういうことだよ」
余計なことを言うんじゃなかったと今更ながらに後悔する。
「車で連れて行こうよ」 女が面倒臭そうに言う。 「だな」 ピアスなしの男がそう言う。
すると男たちの前にドルジが立ちはだかった。 「やめて、ください」
ドルジは傘の柄を相手に向けるとそのまま突き出した。 ピアスなし男の顔を殴った。
そしてドルジはコンクリートの塊を掴むと、ピアスの男の胸に投げつけた。
その隙にわたし達は全速力で逃げた。 ポケットから何か落ちた気がするけれど気にしていられない。
マンションの駐輪場に出て、ようやく一息つく。 足が絡まってバランスを崩し、地面に片膝をついた。
ドルジは奴らが追いかけてきてるのがわかって、傘を買ったのだった。
「(さっき怖かった?)」 ドルジが訊ねる。 「死ぬかと思った」 早口で聞き取れないようだった。
自分の部屋の鍵を触りながらあの若者たちは本当にペット殺しなのだろうか、と想像してみた。
◆現在 3
朝の9時に目覚めた僕はまずシャワーを浴びた。 身体を片端から洗っていく。
頭が重い。 慣れない部屋で眠ったせいなのか、ワインのせいなのか判断がつかなかった。
春物のセーターを着込み、ジーンズを穿くと部屋の外に出た。
隣の103号室が目に入る。 河崎はまだ眠っているのだろうか。
「一緒に本屋を襲わないか」 あの言葉が頭に浮かんだ。 同意したのかどうかすぐに思い出せない。
駅前まで行く市バスに乗っていると外の景色が新鮮だった。
痴漢に気づいたのは5分ほどしてからだ。 被害者は運転席の後ろでつり革につかまっている女性だ。
ふと彼女の方に視線を向けた時だった。 そわそわとする彼女が目に入った。
気にかかって様子を窺うと、彼女の腰のあたりを男の手が撫でているのを見つけた。
ああ、痴漢か。
実際にそんな場面に直面したのは初めてだったので実感が湧かなかった。
脇の座席には葱の入った買い物袋を抱えた婦人が座っている。 その葱の香りがただよっていた。
痴漢の男はすぐに判明した。 後ろに立っている坊主頭の中年だ。 30代後半~40代だ。
体格がよく、眉は薄く、気味の悪い笑みを浮かべている。
僕はその光景を観察することしかできなかった。
彼女は何度か男の手を払っている。
「やめてください」 バスの大きな揺れで彼女の言葉は期待したほど響かなかった。
痴漢の男は全く怯む様子がない。
彼女は周りの人達を見回し、すがるような目で見た。 何人かは痴漢行為に気づいたが、
男の顔を見てはっとし、動作が止まる。 男は睨みをきかせ、威嚇していた。
誰も痴漢を注意しなかった。 変だ、と僕は思った。 助けなくてはいけない。
彼女は泣きそうな顔で「やめてください」ともう一度言った。 しかし誰も何も言わない。
彼女の目が僕の方を向いた。 しかし・・・僕は目を逸らしたのだ。 臆病な自分に呆れた。
「ちょっとどいてどいて」 後ろから声がしたのは、その時だった。 女性の声だ。
僕の体に寒気が走った。 その女性の顔があまりに白かったせいだ。
まるでホラー映画に出てくる死人のようだった。 「どいて」
彼女はとても美人だったけど発泡スチロールや豆腐のような真っ白い肌のせいで生命力を感じない。
「ちょっとどいてくれる」 人々がどいて道を作った。 次の停留所で降りる準備ではなかった。
「やめてよ」 その女性が言った。 「ああ?」男は睨みをきかせる。
「痴漢はやめろよ、エロジジイ」 ひいっと悲鳴をあげたくなったのは乗客全員だ。
葱を持った婦人がびくっと手を震わせ、さらに匂いが散らばる。
「なんのことだよ、姉ちゃん」 「さっきから、この子が嫌がってるのが聞こえてくるんだけど」
そこで坊主頭は弾けるように大声を出した。 「何だと、ああ? 殺すぞ」
「おまえこそ、ぶっ殺されてえのか」 彼女は怯む様子もなくそんなことを言った。
言葉は乱暴だったが、口調は強弱がなく、機械が喋っているかのようだ。
「女だからって、許さねえぞ」
「男だからって、許さねえぞ」 彼女は男の口調を真似た。
男は我慢できなくなったのか彼女の襟首を掴もうとしたが、それを彼女は素早く左手で払った。
「いいから、痴漢はやめろよ。 見苦しいんだってば」 と彼女がまた言う。
坊主頭が降車用のボタンを押した。 「おまえ、次の停留所で降りろ」
「嫌だ。 どうせ、わたしを殴るか蹴るかするんだろう? 体格が違うんだ。 相手にならない」
「その綺麗な顔を不細工にしてやるよ。 後悔しても遅い。 次、降りろよ」
「喧嘩になったら、わたしが勝てるわけないだろ。 エロジジイ」 男の顔が赤くなる。
奇妙なもので彼女の声は興奮することも震えることもなく、感情がこもっていなかった。
停留所前でバスが速度を落としはじめる。
「いいから、降りろよ」 彼女はしばらく黙って、「わかった。 降りようじゃないの」 と言った。
車内の誰もが悲鳴とも感嘆ともつかない溜め息をつこうとしていた。
「あの、やめたほうが」 痴漢をされていた女性も訴えた。 そしてバスの扉は開いた。
僕は誰かが彼女を引き止めないか、まだ期待していた。 見事なまでの他力本願だ。
運賃を支払って、バスのステップを坊主頭が降りていく。
色白女性はためらう素振りを見せず、同じように足を進めた。
するとそこで、突然、ぷしゅうという音とともにバスのドアが閉じた。
僕は首をひねる。 閉まったドアの向こうで、坊主頭が何か怒鳴った。
バスはそれに構わずに発進した。 女性も驚いたのか、表情は変えなかったが運転手を振り返った。
運転手が機転を利かせたのかもしれない。 坊主頭だけを取り残し、バスは加速していく。
「おお」 誰からともなく、感心するような称賛するような声が上がった。 僕たちは胸を撫で下ろす。
見知らぬ街をうろつくことは新鮮ではあったけど、不安の方が強かった。
河崎のことを思い出した。 彼はいったい何をやっている青年なんだろう。
ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさむ。
どうしてこの歌を覚えたのかと言うと、中学生の時に好意を寄せていた女の子がこの曲を好きだった。
曲を繰り返し聴き、覚えた。 空で歌えるようになるまで練習した。
そしてそう、あれは卒業式の前日だ。 彼女と二人きりになる機会があり僕はその曲を口ずさんだ。
あれは馬鹿馬鹿しかったな、と今でも思う。
感心してくると思ったのに彼女は予想外の反応を示した。 「それって何ていう曲?」
「え?」 僕は驚いた。 何って、君の好きな 「風に吹かれて」 に決まってるじゃないか。
たぶん彼女はディランの曲など、聴いたことがなかったのだ。
そうして、僕はあの歌をスムーズに歌えるのだった。
人間必死になれば大抵のことは出来る。
アパートに戻る頃になって、あの色白の女性は何者だったのだろうか、と思い出した。
◇二年前 3
朝の6時から目が覚めてしまったわたしは、洗顔や着替えをするよりも先に、クロゼットの服を調べた。
ポケットを片端から探っていく。
「(どうかした?)」 布団からドルジが顔を出した。
「(嫌な感じなんだよね)」 「(嫌な感じ?)」 「(パスケースを捜してて)」
「(あの時に落とした気がするんだよね)」 「(あの時?)」
「(昨日、あの若者たちから逃げている時にね、ポケットから何か落ちた気がするの。 あの時は夢中だったし、気のせいかと思ったんだけど」 わたしの笑みは引きつっていただろう。
「(もし)」 ドルジが探るように眉を傾けた。 「(もし、そうだとすると?)」
「(あのパスケースに住所が書いてあるから。 ここのね)」 ドルジの顔がわずかに青褪めた。
「(彼らが拾ったとしたら、ここの場所がわかるってこと?)」 「(そうなるね)」
「(もし住所がわかったら、彼らは来るかな?)」 「(どれだけ暇で、怒ってるかによるけど)」
「(それは・・・・・それは嫌な感じだ)」 「(でしょ・・・でも考えても仕方ないよね)」
結局、二人で昨日のコンビニから家までの帰路を探しに行ったが、見つからなかった。
わたしは漠然とした恐怖が背中にのしかかってきて、苛立ってもいた。
だからバッティングセンターに行くことを思いついた。
むしゃくしゃしたり、鬱々とした気分になると、バッティングセンターに行くことが多いのだ。
そう思っていたら先読みしたドルジが「(バッティングセンターに行く?)」 と言ってくれた。
バッティングセンターは相変わらず空いている。
わたしとドルジはおのおのが好き勝手に打席に入り打つ。
わたしが20球を見事なまでに空振りして出てくると、ドルジはすでに打ち終えていた。
「(少しすっきりした)」 ぜいぜいと息があがりながらドルジに言うと・・・
「(あれ、河崎さんかな?)」 「え?」 不吉というか縁起でもない気持ちになった。
わたしたちには背を向けて、特別うまいわけではないが、3球に1球くらいは快音を響かせていた。
横顔を見てわたしは舌を鳴らす。 「(そうね、あの男だ)」
わたしは知らぬふりで帰ろうと思ったけど、ドルジが近づいていった。 河崎は「やあ」と手を上げる。
相変わらずの中性的な顔立ちだった。 細くて柔らかそうな髪は美しく、目は大きかった。
くっきりとした眉毛が鋭敏な印象を作っている。
「琴美も」 彼は馴れ馴れしくわたしに向かって手を上げた。 「呼び捨てにしないでほしいんだけど」
「怖いな。 いいじゃないか、琴美は琴美なんだから」 と能天気に笑う。
「珍しいね、女と一緒じゃないなんて」 「だろ、時には一人の時もある」 「あ、そう」
河崎はドルジをちらっと見て訊ねた。 「琴美とは英語で会話をしているんだっけ?」
「(だいたい、そうだね)」 ドルジは綺麗な発音で言う。 河崎が片眉を上げた。
「そんなことだと、いつまで経っても日本語は上達しないぜ。 琴美もわかってるだろ。 日本語のイントネーションと発音はさ、膨大な会話の中で覚えるしかないんだって。 大抵、留学生ってのは聞くことはできても、喋るのは下手なんだよな」
「(日本語を喋れるようになりたくないか?)」 今度は英語で言った。
「なりたい、です」 ドルジが強くうなずいた。 「琴美のアパートに空き部屋はないか?」
「なんでまた」 「今、住んでいるところが取り壊しになるんだ。 近くに住んだら日本語を教えられる」
「一緒のアパートに? 本気? 大体あんたはどうしてここにいるわけ」
「ここでバットを振ると、不安だとか不満が吹き飛ぶ。 誰かにそう言われたのを思い出した」
「どこかの女に聞いたんでしょ」 「そうだな、たぶん、どこかの女に」
彼の知り合いの8割がたは女性で、その半数以上と彼はホテルに行っている。
「一応、言っておくけど、それを教えたの、たぶん、わたしだから」
「で、何を悩んでいるわけ? あまりにもたくさんの女と付き合って、セックスをしているから、順番とかスケジュールがわからなくなった、とか?」
「相変わらず琴美は攻撃的だよあ。 違うよ。 下らない悩みは俺にもあるんだって」
「河崎さん、ウワキショウですか?」 ドルジがたどたどしい日本語で言った。
「男ってのは女性が好きなんだよ。 それが普通なんだ。 俺は突出して好きというだけだ。 俺は見ての通り外見に恵まれた。 それならこの世の女という女に声をかけて、可能な限りセックスをするべきだ。 そう思わないか?」
「絶対に思わない」 わたしは言い切る。
ドルジに河崎の言うことをざっと訳すと「(いや、僕は河崎さんの意見に近いよ)」と笑った。
ブータン人の気質なのか、ドルジは穏やかで礼儀正しいが性には無頓着で奔放な印象があった。
ブータンの話になった。
「日本人は報いをすぐに欲しがるだろ。 ブータン人はそうじゃない。 今じゃなくていいんだ。 生まれ変わった後に、それが返ってくるかもしれない。 そう思ってるんだ。 日本人は即効性を求めるから、いつも苛々、せかせかしている。 それに比べればブータン人は優雅だよ。 人生が長い」
わたしがブータンには殺人がないのかと問うと、河崎は偉そうにないと答えたが、
話を聞いたドルジが残念そうに、「(いやブータンにも殺人はあるんだ)」と答えたので可笑しかった。
わたしと河崎の意見は全く噛み合わず、「行こう、ドルジ」と出口へ向かった。
「河崎さん、面白いですね」 ドルジが言う。 「(あれは特殊な日本人だから)」
「(そういえば)」 ドルジが首をひねる。
「(彼の尻のポケットに保険証が入ってたね。 病気なのかな)」
「え?」 病気の人がバッティングセンターには来ない、とわたしは言った。
「(でももしかして彼も、不安を吹き飛ばしに来たのかもしれない。 病気の不安を)」
ドルジの思いつきのようだったが、彼の勘が鋭いのも事実だった。
あの男はどんな病気だって気にしないんだから、と言った。
振り返ると早くも女子高生と喋っていた。 あれも一種の病気だな、と呆れる。
帰り道でもやはりパスケースは見つからず、
「嫌な感じ」は消えないものだな、と感心するような気分になった。
続く・・・
好みの作風なんですよね、多分。 読書好きの間でも評価の高い、こちらの本を読んでみましたよ
「アヒルと鴨のコインロッカー」 伊坂幸太郎
腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくかもしれないけど、
僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた。
夜のせいか頭が混乱しているせいか、罪の意識はなかった。 強いて言えば親への後ろめたさはある。
細い県道沿いにある小さな書店。
午後10時過ぎ。 辺りは薄暗く、車の音もしない。 人通りもない。
僕たちが到着したときはちょうど閉店時間の直前だった。
古そうな白いセダン一台だけが停まっている。
僕たちは閉店間際にわざわざやってきた。 客ではないからだ。
裏口ドアの磨りガラスから店内の明かりが零れていた。
そうだ、モデルガンを持ち上げなくてはいけない。 窓ガラスの位置にモデルガンを近づけた。
気が付くと足が震えていた。 ボブ・ディランを口ずさむ。
「椎名のやることは難しくないんだ」 河崎はそう言っていた。
確かに難しくない。 モデルガンを持ったまま書店の裏口に立っていること。 それだけ。
ボブ・ディランの「風に吹かれて」を10回歌うこと。 2回歌い終わる度にドアを蹴飛ばすこと。
「店を実際に襲うのは俺だ。 椎名は裏口から店員が逃げないようにしてくれ」 河崎は言った。
「裏口から悲劇は起きるんだ」
河崎はすでに書店に飛び込んで、「広辞苑」を奪いに行った。
引っ越してきた日のことを思い出す――たった二日前のことだ。
◆現在 1
二日前、引っ越してきたばかりの僕はまず猫に会い、その次に河崎に会った。
2階建てのアパートは築15年の木造で、建物の真ん中に階段があり、左右に4部屋ある。
ちなみは4は不吉だという迷信は未だ根強いのか103号室の隣は105号室となっている。
隣人に挨拶に行こうと、「ピン」という軽快な音がして離すと「ポーン」と呼び鈴は鳴った。
しかし隣人は留守のようで、僕は自分の部屋、105号室に戻った。
部屋には段ボールの山が無言の圧力を与えてくる。
この山積みの箱が消えることなんてアメリカの軍隊が消えることくらいに不可能がことに思えた。
夕方4時過ぎ。 ステレオを繋いで音楽を流す。 猫がやってきたのはそれから一時間後くらいだ。
ガラスを引っ掻き始めたので慌てて窓を開けると猫は軽快に部屋の中に入ってきた。 我が物顔で。
毛並みのいい黒猫で首輪はなかった。 長い尻尾の先はぽきりと折れ曲がっていた。
10分ほどかかってようやく捕獲した。
河崎に会ったのは午後6時頃。 段ボールを部屋の外に置きに出た時だった。
初めは気づかず、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいた。
それなりに大きな声で歌っていたので、後ろから声をかけられた時はかなり驚いた。
103号室の前に立っていた彼は「ディラン?」と真っ先に質問してきたので、
「ディラン」と肯定した。「風に吹かれて」
「引っ越してきたんだ?」 「え、ええ」
背が高く細身で短めの髪はラフな雰囲気だった。 日焼けなのか肌の色は濃い茶色で全身が黒ずくめ。
黒いシャツにブラックレザーのパンツを穿いている。
外国の諺を思い出していた。『悪魔は絵で見るより黒くない』
どんなに悪人でもどこかしらいいところがある、というような意味ではなかっただろうか。
この人は悪魔だったりして、と想像してみた。
「手伝おうか?」 「い、いや、もう随分片付いたから」 嘘を言った。 「それならうちに来いよ」
どう返事をしようか迷っていると・・・・「あ、そうだ」
「シッポサキマルマリが来ただろ?」 あ、これは悪魔の言葉に違いないな、と思った。
彼は部屋の台所からワインボトルとグラスを持ってきた。 「さあ、乾杯だ」 と呟いた。
「俺はカワサキ」 「カワサキのカワは三本川の川か、それとも河童の河?」
「どちらでも」 彼は適当なことを言うので、河崎だなと僕は推測した。 そのほうが似合っている。
そして彼は再びシッポサキマルマリと口にした。 「それは何?」 「猫」 あの猫のことだった。
「あの野良猫、可愛いだろう? 尻尾の先がさ、しゃくなげの枝のように丸まっている」
「よく来るんだ?」 「シッポサキマルマリ?」 「そう、シッポサキマルマリ」
「猫はたいてい、寂しい人間のところにやってくる」 「黒い猫は特にそうだな」 と続けた。
「実はさ、俺は死から復活したんだ」 僕をじっと見る。 「死から?」 「不治の状態から」
何か胡散臭い話になるのではないかと、僕は気を引き締めた。
「椎名は学生かい」 「そうなんだ明後日から」 「ちょうど良かった」 「ちょうど?」
「やりたいことがあったんだ」 ホモセクシャルに性的な関係を迫られているようだった。
「このアパートの101号室に外人が住んでいる。 アジア人だ」 「それがどうかしたの?」
「その彼が引きこもっているんだ。 元気がない・・・いろいろあったんだ。 だからプレゼントをしたい」 「いいかもしれない」 と言いながら、僕はちっとも良いとは思っていない。
「彼は辞書を欲しがっていた」 「ジショ?」 「彼には調べたい言葉が二つあるらしい」
「一つは『ろくでなし』もう一つは『がんばる』だ」
「それで俺は辞書をプレゼントしたいんだ」 「いいと思うよ」
「広辞苑を奪ってやるんだ」
言葉を失った。 はじめは聞き間違いかと思った。 そして彼はさらにつづけた。
「一緒に本屋を襲わないか」
教訓を学んだ。 本屋を襲うくらいの覚悟がなければ、隣人に挨拶に行くべきではない。
◇2年前 1
その時行方不明の犬を捜していたわたしは、
まず轢かれた猫に会い、その次にペット殺しの若者たちに会った。
常識外れの速度で駆け抜けた車が「きぃ」というブレーキ音を立てて、「どん」と短い音を立てた。
「What happend?(どうしたの?)」 わたしの横をキンレィ・ドルジが英語で話しかけてきた。
「車が何かをはねたみたい」 「車が、ですか」 ドルジがたどたどしい日本語で言ってくる。
「クロシバですか?」
クロシバはわたしの勤めているペットショップでいなくなった柴犬だ。
胸が痛くなりながら早足で坂道を下った。 ドルジも後ろからついてくる。
23歳のブータン人は、軽快だ。
マンホールの上に黒猫が倒れていた。 「可哀相に」 「不幸、ですね」
「こういう時には、不幸と言うより、不運、って言うんだってば」 「ソウデスネ」
聞き取れない日本語に出会ったり返答に窮した時にはたいてい、ソウデスネと言う。 彼の口癖だ。
ドルジはためらいもなく、紙袋に猫の死体を移し、埋められる場所がないかを探すことにした。
ドルジと初めて会ったのは半年前だ。 深夜1時頃。
突然車道に飛び出している男がいた。 路上で寝ていた泥酔者を助けようとしたらしい。
駆け寄ったわたしは彼の勇気を誉め称え、無謀さを叱り、騒々しくまくし立てた。
「(こんな騒々しい日本人には初めて会ったよ)」 英語で喋るドルジに日本人でないことに気付いた。
ドルジの外見は日本人にしか見えなかった。
「(怪我してるじゃない。 病院行く?)」 わたしは英語を得意としていた。
ドルジはブータンから来た留学生であると打ち明けた。
猫を埋める場所がこれほど見つからないとは思わなかった。 ようやく見つけたのは公園の前にある、
「立入禁止」 の立て看板。 杉林のある公園で敷地は大きそうだった。 土砂崩れ防止の工事中だ。
ドルジはシャベルを持つと、手馴れた手つきで土を掘る。 5分とかからない間に充分な穴が出来た。
猫をその中に入れると、上から土をかぶせた。
わたしたちは水道を手を洗い、缶コーヒーを買うと公園のベンチに座って休憩をした。
私たちが話していると、背後からけたたましい笑い声が聞こえた。
その場から去るべきだったのかもしれないが、じっとしていることを選んだ。 恐怖心だ。
背後の言葉に耳を傾けた。
「ありゃ、最高だよな。 すげえ、ないてたし」 品のない、若い男の声だ。
「ないてるやつを無理やりやるのがたまらない」 これは女の声だった。
私たちには気づかずに杉林に入っていく。 若い男が2人と女が1人だ。 20代半ばくらいだ。
しばらくして若者たちが戻ってくる足音が聞こえた。
「収穫なしかよ」 「やっぱりさ、もう野良猫とかもいないんじゃねえのかな」 「つまんなぁい」
「それならあれだよ、店だよ。 店から犬とか猫とか取ってくんだよ」 「いいねえ」
「お腹減ったから、いつものところでだらだらしようか?」 女がファーストフード店の名を口にした。
「でもさ、今日またあれやりたかったよな」 残念そうな男。 もう一人が「ペンチ?」 と訊ねる。
「ほんとあの猫最高だったね、最高最高」 女がけたけたと笑い声をあげた。
「俺はさ、あれがいいよ。 足」 「足切り?」 何が可笑しいのか、女が下品に笑った。
わたしはドルジに言った。 「(もしかすると、猫に悪戯してる奴らかも)」 「(ペット殺し?)」
わたしは胃が痛くなると同時に怒りを覚える。
3ヶ月ほど前から、ペットが殺される事件が連続して起きている。 酷い方法で殺害されていた。
わたしが知っているだけで、20件以上は発生している。
「(間違いない。 あいつら絶対犯人だって)」 「(そうかなぁ?)」 ドルジは冷めている。
そのすぐ後、ドルジに怯むような色が浮かんだ。 わたしもだ。 足音が鳴り、彼らが移動した。
気づいたときには、わたし達の座っているベンチが揺れていた。 背もたれが蹴られた。
わたしは反射的に立ち上がった。 突発的な恐怖に襲われた。 ドルジも立ち上がり目を丸くしている。
若者が険しい目つきでこちらを見ていた。
「おまえら何してるんだよ、こんなところで」 男が口を尖らせて言った。
教訓を学んだ。 立入禁止の場所に侵入するときには、それなりのリスクを覚悟しなければならない。
◆現在 2
「本屋を襲うってどうしてそんな話になるんだい? 辞書をあげるんだったら本屋に行って買えばいい。 そうだろう?」
「本屋から広辞苑を奪ってもいいだろう?」 河崎は平然としている。
「本屋を襲うことがどうしていけない?」 冗談かと思ったが彼はひどく真面目な顔をしていた。
「ほ、法律に違反している」 法学部の学生としては当然の返事だった。
『政治家が間違っている時、正しいことは全て誤っている』 河崎はそう言った。
政治家は正しくない。つまり法律は間違っている、河崎は興奮しているのか若干早口だった。
「広辞苑をプレゼントしたいわけじゃない。 お金で買った広辞苑はいらない。 本屋を襲って取った広辞苑が欲しいんだ」
「訳がわからないよ」 「椎名がやるのは難しいことじゃない」
「店を実際に襲うのは俺だ。 椎名は裏口から店員が逃げないようにしてくれ」
ちょっと待ってくれ、と言おうとするが声が上手く出なかった。
「裏口で待っていて、ドアを蹴るだけ」 「ドアを蹴る?」 「店員に逃げられたくない」
河崎は一瞬目を伏せ、「裏口から悲劇は起きるんだ」と言った。
ああ、そう。と聞き流すと、彼はもう一度、「裏口から悲劇は起きるんだ」 と繰り返した。
僕は彼の言うことは理解できなかったけど、河崎が怪しい人物にも見えなかった。
部屋を後にすることにした。 ドアを開けようとしたところで呼び止められた。
彼は勇ましくも美しい悪魔のようだ。
「街にペットショップがある。 そこの店長に気をつけろ」 「え?」
「麗子という女がいるんだ。 もし会うことがあっても信じるな」 僕は曖昧な返事をして肩をすくめた。
「変人には二種類あるんだよね。 敬遠したいタイプと怖いもの見たさでしばらく付き合ってみたいタイプ」 以前叔母がそう言っていたことがある。 河崎に対しては後者のほうだった。
自分の部屋の鍵を開けながら101号室の外国人にどんな出来事があったんだろうな、と想像してみた。
◇2年前 2
「おまえら、何やってんだよ」 暗闇の公園で若者三人がわたし達の正面に立っている。
三人とも知性が蒸発してしまっているように見える。
わたしは左右を見た。 通行人を呼ぶのも難しそうだ。 気づくと長髪の男が近寄っていた。
「いやらしいことでもしてたんじゃねえの?」 男が唇を歪めた。 「勝手にいちゃついてろよ」
「そうだ、あんたたちさ」 女がそこで口を開いた。 「そっちの林に行った?」
「行ってないけど」 「罠に猫とかかかってなかった?」 更に質問してきた。 心臓が早鐘を打つ。
「それ、俺たちの獲物だからさ。 獲物っていうかおもちゃ」 ピアスの男が言う。
するとそこで、ピアスなしの男が「どうせならそろそろ人間もやってみねえ?」 と言った。
「この女のことかよ」 とピアスありの男が答える。 男二人がちらちらとこちらを眺めてくる。
「すみません、帰ります」 ドルジが突然声を出してわたしを後ろに引っ張る。
彼らも追いかけてまでは来なかった。 公園の出口までくるとわたしは気が大きくなったのか、
憤りがそこで爆発したのかもしれない。 彼らが立っている方向に向かって、
「あんたたちのこと、警察に言ってやるから」 と声を上げていた。
「(琴美、早く)」 ドルジが慌てて、わたしの腕を引っ張った。
細い十字路に入ったところで小走りをやめていた。 「いまいち、すっきりしない」
「(あいつら絶対に怪しい)」 英語で言った。 「(琴美は危ない。 気をつけたほうがいい)」
ドルジは心配しながらも叱りつけてくるようだった。
その後は河崎の話になった。 わたしは彼と一ヶ月だけ付き合った。
そんな話をドルジは愉快そうに聞く。 十字路で信号が赤になり立ち止まった。
ドルジは路肩に立つ鏡に目をやって神妙な顔つきになった。 「(どうかした?)」 「いや別に)」
50メートルほど進んだところでドルジが「コンビニ、行きたいです」 と急に言った。
雨も降りそうにないのにドルジは入口のビニール傘を取ってレジへと向かった。
ドルジの様子が変だなと思ったら周囲をやたら気にし始めた。 「この近く、交番あるですか?」
「(落し物?)」 「(いざとなったら、琴美は先に逃げて)」 「(なんのこと)」
「くるま」 黒いミニワゴンがつんのめるようにして停まると慌ただしく降りてくる影が見えた。
「(3人。 さっきのあいつらだ)」 わたしは思考が止まってしまった。
ピアスの男が走り寄ってくる。 「何、あんたたち、しつこいわね」
「すげえ捜したんだよね、公園からあちこち走ってさ」 「警察に言うってどういうことだよ」
余計なことを言うんじゃなかったと今更ながらに後悔する。
「車で連れて行こうよ」 女が面倒臭そうに言う。 「だな」 ピアスなしの男がそう言う。
すると男たちの前にドルジが立ちはだかった。 「やめて、ください」
ドルジは傘の柄を相手に向けるとそのまま突き出した。 ピアスなし男の顔を殴った。
そしてドルジはコンクリートの塊を掴むと、ピアスの男の胸に投げつけた。
その隙にわたし達は全速力で逃げた。 ポケットから何か落ちた気がするけれど気にしていられない。
マンションの駐輪場に出て、ようやく一息つく。 足が絡まってバランスを崩し、地面に片膝をついた。
ドルジは奴らが追いかけてきてるのがわかって、傘を買ったのだった。
「(さっき怖かった?)」 ドルジが訊ねる。 「死ぬかと思った」 早口で聞き取れないようだった。
自分の部屋の鍵を触りながらあの若者たちは本当にペット殺しなのだろうか、と想像してみた。
◆現在 3
朝の9時に目覚めた僕はまずシャワーを浴びた。 身体を片端から洗っていく。
頭が重い。 慣れない部屋で眠ったせいなのか、ワインのせいなのか判断がつかなかった。
春物のセーターを着込み、ジーンズを穿くと部屋の外に出た。
隣の103号室が目に入る。 河崎はまだ眠っているのだろうか。
「一緒に本屋を襲わないか」 あの言葉が頭に浮かんだ。 同意したのかどうかすぐに思い出せない。
駅前まで行く市バスに乗っていると外の景色が新鮮だった。
痴漢に気づいたのは5分ほどしてからだ。 被害者は運転席の後ろでつり革につかまっている女性だ。
ふと彼女の方に視線を向けた時だった。 そわそわとする彼女が目に入った。
気にかかって様子を窺うと、彼女の腰のあたりを男の手が撫でているのを見つけた。
ああ、痴漢か。
実際にそんな場面に直面したのは初めてだったので実感が湧かなかった。
脇の座席には葱の入った買い物袋を抱えた婦人が座っている。 その葱の香りがただよっていた。
痴漢の男はすぐに判明した。 後ろに立っている坊主頭の中年だ。 30代後半~40代だ。
体格がよく、眉は薄く、気味の悪い笑みを浮かべている。
僕はその光景を観察することしかできなかった。
彼女は何度か男の手を払っている。
「やめてください」 バスの大きな揺れで彼女の言葉は期待したほど響かなかった。
痴漢の男は全く怯む様子がない。
彼女は周りの人達を見回し、すがるような目で見た。 何人かは痴漢行為に気づいたが、
男の顔を見てはっとし、動作が止まる。 男は睨みをきかせ、威嚇していた。
誰も痴漢を注意しなかった。 変だ、と僕は思った。 助けなくてはいけない。
彼女は泣きそうな顔で「やめてください」ともう一度言った。 しかし誰も何も言わない。
彼女の目が僕の方を向いた。 しかし・・・僕は目を逸らしたのだ。 臆病な自分に呆れた。
「ちょっとどいてどいて」 後ろから声がしたのは、その時だった。 女性の声だ。
僕の体に寒気が走った。 その女性の顔があまりに白かったせいだ。
まるでホラー映画に出てくる死人のようだった。 「どいて」
彼女はとても美人だったけど発泡スチロールや豆腐のような真っ白い肌のせいで生命力を感じない。
「ちょっとどいてくれる」 人々がどいて道を作った。 次の停留所で降りる準備ではなかった。
「やめてよ」 その女性が言った。 「ああ?」男は睨みをきかせる。
「痴漢はやめろよ、エロジジイ」 ひいっと悲鳴をあげたくなったのは乗客全員だ。
葱を持った婦人がびくっと手を震わせ、さらに匂いが散らばる。
「なんのことだよ、姉ちゃん」 「さっきから、この子が嫌がってるのが聞こえてくるんだけど」
そこで坊主頭は弾けるように大声を出した。 「何だと、ああ? 殺すぞ」
「おまえこそ、ぶっ殺されてえのか」 彼女は怯む様子もなくそんなことを言った。
言葉は乱暴だったが、口調は強弱がなく、機械が喋っているかのようだ。
「女だからって、許さねえぞ」
「男だからって、許さねえぞ」 彼女は男の口調を真似た。
男は我慢できなくなったのか彼女の襟首を掴もうとしたが、それを彼女は素早く左手で払った。
「いいから、痴漢はやめろよ。 見苦しいんだってば」 と彼女がまた言う。
坊主頭が降車用のボタンを押した。 「おまえ、次の停留所で降りろ」
「嫌だ。 どうせ、わたしを殴るか蹴るかするんだろう? 体格が違うんだ。 相手にならない」
「その綺麗な顔を不細工にしてやるよ。 後悔しても遅い。 次、降りろよ」
「喧嘩になったら、わたしが勝てるわけないだろ。 エロジジイ」 男の顔が赤くなる。
奇妙なもので彼女の声は興奮することも震えることもなく、感情がこもっていなかった。
停留所前でバスが速度を落としはじめる。
「いいから、降りろよ」 彼女はしばらく黙って、「わかった。 降りようじゃないの」 と言った。
車内の誰もが悲鳴とも感嘆ともつかない溜め息をつこうとしていた。
「あの、やめたほうが」 痴漢をされていた女性も訴えた。 そしてバスの扉は開いた。
僕は誰かが彼女を引き止めないか、まだ期待していた。 見事なまでの他力本願だ。
運賃を支払って、バスのステップを坊主頭が降りていく。
色白女性はためらう素振りを見せず、同じように足を進めた。
するとそこで、突然、ぷしゅうという音とともにバスのドアが閉じた。
僕は首をひねる。 閉まったドアの向こうで、坊主頭が何か怒鳴った。
バスはそれに構わずに発進した。 女性も驚いたのか、表情は変えなかったが運転手を振り返った。
運転手が機転を利かせたのかもしれない。 坊主頭だけを取り残し、バスは加速していく。
「おお」 誰からともなく、感心するような称賛するような声が上がった。 僕たちは胸を撫で下ろす。
見知らぬ街をうろつくことは新鮮ではあったけど、不安の方が強かった。
河崎のことを思い出した。 彼はいったい何をやっている青年なんだろう。
ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさむ。
どうしてこの歌を覚えたのかと言うと、中学生の時に好意を寄せていた女の子がこの曲を好きだった。
曲を繰り返し聴き、覚えた。 空で歌えるようになるまで練習した。
そしてそう、あれは卒業式の前日だ。 彼女と二人きりになる機会があり僕はその曲を口ずさんだ。
あれは馬鹿馬鹿しかったな、と今でも思う。
感心してくると思ったのに彼女は予想外の反応を示した。 「それって何ていう曲?」
「え?」 僕は驚いた。 何って、君の好きな 「風に吹かれて」 に決まってるじゃないか。
たぶん彼女はディランの曲など、聴いたことがなかったのだ。
そうして、僕はあの歌をスムーズに歌えるのだった。
人間必死になれば大抵のことは出来る。
アパートに戻る頃になって、あの色白の女性は何者だったのだろうか、と思い出した。
◇二年前 3
朝の6時から目が覚めてしまったわたしは、洗顔や着替えをするよりも先に、クロゼットの服を調べた。
ポケットを片端から探っていく。
「(どうかした?)」 布団からドルジが顔を出した。
「(嫌な感じなんだよね)」 「(嫌な感じ?)」 「(パスケースを捜してて)」
「(あの時に落とした気がするんだよね)」 「(あの時?)」
「(昨日、あの若者たちから逃げている時にね、ポケットから何か落ちた気がするの。 あの時は夢中だったし、気のせいかと思ったんだけど」 わたしの笑みは引きつっていただろう。
「(もし)」 ドルジが探るように眉を傾けた。 「(もし、そうだとすると?)」
「(あのパスケースに住所が書いてあるから。 ここのね)」 ドルジの顔がわずかに青褪めた。
「(彼らが拾ったとしたら、ここの場所がわかるってこと?)」 「(そうなるね)」
「(もし住所がわかったら、彼らは来るかな?)」 「(どれだけ暇で、怒ってるかによるけど)」
「(それは・・・・・それは嫌な感じだ)」 「(でしょ・・・でも考えても仕方ないよね)」
結局、二人で昨日のコンビニから家までの帰路を探しに行ったが、見つからなかった。
わたしは漠然とした恐怖が背中にのしかかってきて、苛立ってもいた。
だからバッティングセンターに行くことを思いついた。
むしゃくしゃしたり、鬱々とした気分になると、バッティングセンターに行くことが多いのだ。
そう思っていたら先読みしたドルジが「(バッティングセンターに行く?)」 と言ってくれた。
バッティングセンターは相変わらず空いている。
わたしとドルジはおのおのが好き勝手に打席に入り打つ。
わたしが20球を見事なまでに空振りして出てくると、ドルジはすでに打ち終えていた。
「(少しすっきりした)」 ぜいぜいと息があがりながらドルジに言うと・・・
「(あれ、河崎さんかな?)」 「え?」 不吉というか縁起でもない気持ちになった。
わたしたちには背を向けて、特別うまいわけではないが、3球に1球くらいは快音を響かせていた。
横顔を見てわたしは舌を鳴らす。 「(そうね、あの男だ)」
わたしは知らぬふりで帰ろうと思ったけど、ドルジが近づいていった。 河崎は「やあ」と手を上げる。
相変わらずの中性的な顔立ちだった。 細くて柔らかそうな髪は美しく、目は大きかった。
くっきりとした眉毛が鋭敏な印象を作っている。
「琴美も」 彼は馴れ馴れしくわたしに向かって手を上げた。 「呼び捨てにしないでほしいんだけど」
「怖いな。 いいじゃないか、琴美は琴美なんだから」 と能天気に笑う。
「珍しいね、女と一緒じゃないなんて」 「だろ、時には一人の時もある」 「あ、そう」
河崎はドルジをちらっと見て訊ねた。 「琴美とは英語で会話をしているんだっけ?」
「(だいたい、そうだね)」 ドルジは綺麗な発音で言う。 河崎が片眉を上げた。
「そんなことだと、いつまで経っても日本語は上達しないぜ。 琴美もわかってるだろ。 日本語のイントネーションと発音はさ、膨大な会話の中で覚えるしかないんだって。 大抵、留学生ってのは聞くことはできても、喋るのは下手なんだよな」
「(日本語を喋れるようになりたくないか?)」 今度は英語で言った。
「なりたい、です」 ドルジが強くうなずいた。 「琴美のアパートに空き部屋はないか?」
「なんでまた」 「今、住んでいるところが取り壊しになるんだ。 近くに住んだら日本語を教えられる」
「一緒のアパートに? 本気? 大体あんたはどうしてここにいるわけ」
「ここでバットを振ると、不安だとか不満が吹き飛ぶ。 誰かにそう言われたのを思い出した」
「どこかの女に聞いたんでしょ」 「そうだな、たぶん、どこかの女に」
彼の知り合いの8割がたは女性で、その半数以上と彼はホテルに行っている。
「一応、言っておくけど、それを教えたの、たぶん、わたしだから」
「で、何を悩んでいるわけ? あまりにもたくさんの女と付き合って、セックスをしているから、順番とかスケジュールがわからなくなった、とか?」
「相変わらず琴美は攻撃的だよあ。 違うよ。 下らない悩みは俺にもあるんだって」
「河崎さん、ウワキショウですか?」 ドルジがたどたどしい日本語で言った。
「男ってのは女性が好きなんだよ。 それが普通なんだ。 俺は突出して好きというだけだ。 俺は見ての通り外見に恵まれた。 それならこの世の女という女に声をかけて、可能な限りセックスをするべきだ。 そう思わないか?」
「絶対に思わない」 わたしは言い切る。
ドルジに河崎の言うことをざっと訳すと「(いや、僕は河崎さんの意見に近いよ)」と笑った。
ブータン人の気質なのか、ドルジは穏やかで礼儀正しいが性には無頓着で奔放な印象があった。
ブータンの話になった。
「日本人は報いをすぐに欲しがるだろ。 ブータン人はそうじゃない。 今じゃなくていいんだ。 生まれ変わった後に、それが返ってくるかもしれない。 そう思ってるんだ。 日本人は即効性を求めるから、いつも苛々、せかせかしている。 それに比べればブータン人は優雅だよ。 人生が長い」
わたしがブータンには殺人がないのかと問うと、河崎は偉そうにないと答えたが、
話を聞いたドルジが残念そうに、「(いやブータンにも殺人はあるんだ)」と答えたので可笑しかった。
わたしと河崎の意見は全く噛み合わず、「行こう、ドルジ」と出口へ向かった。
「河崎さん、面白いですね」 ドルジが言う。 「(あれは特殊な日本人だから)」
「(そういえば)」 ドルジが首をひねる。
「(彼の尻のポケットに保険証が入ってたね。 病気なのかな)」
「え?」 病気の人がバッティングセンターには来ない、とわたしは言った。
「(でももしかして彼も、不安を吹き飛ばしに来たのかもしれない。 病気の不安を)」
ドルジの思いつきのようだったが、彼の勘が鋭いのも事実だった。
あの男はどんな病気だって気にしないんだから、と言った。
振り返ると早くも女子高生と喋っていた。 あれも一種の病気だな、と呆れる。
帰り道でもやはりパスケースは見つからず、
「嫌な感じ」は消えないものだな、と感心するような気分になった。
続く・・・