イツキと両想いになったさやか。 果たしてこの先に待ち受けるものは?
最終章です。


「植物図鑑」 有川浩


9.アカザ・シロザ/ヨモギ そしてハナミズキ

梅雨が明けるといきなり夏日が続くようになった。
ミントティーも冷たくするとまた風味がキリッと締まって美味しい。

「さやか、ちょっと来てみて」 「え、何?」 イツキがさやかの手を引き、庭に連れ出す。
「はい、お待ちかねの第二フェーズ」
言われるまですっかり忘れていた。 残した一本のあまりロマンチックでない名前のつる草。

「何これ・・・・すっごい・・・・」
驚く程鮮やかで可憐な花がフェンスに絡みついたつる草を白く飾っていた。
その花に見とれた。 こんな綺麗な第二フェーズ、知らなかった。

「もうそろそろ狩りのシーズンも終わりかな」 ブランチを食べながらイツキが呟いた。
「えーつまんない。 夏に採れる山菜ってないの?」
「強いていうならヨモギかな。 行ってみる?」

春先から使っていた若草色のパーカーはもう暑い。 インナーをノースリーブにして長袖シャツを探す。

「お、ノースリーブいいね」 もう着替えを見られるくらいはお互い平気だが不意を突かれると・・・
「肌触りいいんだよなー、さやか」 イツキが包み込むようにさやかを抱き締めた。
「オヤジポイント加算!」
そう言いながら、イツキのひきしまった背中を見て、慌てて目をそらした。
あの背中に爪を立ててるんだな、などど考えてしまって顔が赤くなる―――あたしも結構オヤジだ。


自転車でしばらく走るとビニールハウスが見えてきた。 

「ラッキー」 「ラッキーって何が?」
「畑で作業してる人がいる。 ハウスの辺りうろうろしてたら野菜泥棒に間違われることあるからね」
そしてイツキはハウスのある方へ土手を駆け下りていった。

「すみませーん!」

躊躇のない大声に、しゃがんでいたオジサンが腰を上げた。 イツキの大胆さにまず驚きだ。
さやかもぺこりと頭を下げる。
「いきなりですみません、お願いがあるんですけど」 「何だね?」
「そこのハウスの入口辺りにヨモギが生えてますよね。 もしよかったら少しもらってもいいですか?」
え、あれヨモギ!? さやかはびっくりした。 さやかの腰丈程もあったのだ。
オジサンは驚いたようにイツキを、イマドキな人相風体の兄ちゃんを見つめた。

「・・・・・持ってってどうすんだ、あんなもん」
「えーと、まずは天ぷらでしょ。 あと葉っぱが生茶で美味しいし、乾かして茶葉にしてもいいし」
オジサンがにやりと笑った。 イツキのことを気に入ったらしい。
「好きなだけ持ってけ。 それからこれも」 「ニンジン!?」 葉ごと3,4本をイツキに渡した。
ヨモギを採った後は、畑の中の人影に向けて大きな声をあげた。

「ありがとうございました―――!」  オジサンが気づいて、両手を大きく振る。
二人で同じように大きく手を振り返して自転車をこぎだした。


「あ、ねぇ! これアカザでしょ?」 「あ、ホントだ」 図鑑で見たやつだ。
ギザギザの葉は見るからに柔らかそうで、葉のてっぺんに淡い紅色の粉が吹いている。
この粉が白いシロザという植物もあったはずだ。 「おいしいんだよね?」
「それは置いといてあげて。 最近すごく少なくなってきた植物なんだ。 シロザもなんだけど」
「分かった。 そっとしとく」 「ありがと」

家に帰って最初に二人はヨモギの茎から葉っぱをむしり取った。
ポットにヨモギの葉を入れ、沸いた湯をそそぐ。 独特な香りが鼻をくすぐる。
思いのほかあっさりとした味だった。 ヨモギの匂いがする日本茶、という感じだ。

夕飯はユキノシタとヨモギの天ぷら、そしてニンジンの葉の炒め物、クレソンのサラダが出た。
ヨモギの天ぷらは鼻にヨモギの香りが抜けるが、味は優しい。
ニンジンの葉の炒め物もごま油を利かせた味付けがおいしかった。


やがて夏が来た。

狩りは中止となったが散歩をして日射病になり、イツキに怒られた。

「今日の晩御飯何にしようかなー」 「イツキでも献立迷うことあるんだ?」
「さやか、今日何食べたい?」 「んーと、じゃあパスタ。 今までに食べたことのないやつ」

買い物は商店街で。 スーパーで生クリームと細めのパスタ、アボカド。 八百屋でアスパラとトマト。 
魚屋でエビだ。 大きなタイガーエビを生で10匹とかなり贅沢。
残りの材料は家にあるからよし、とイツキが全部一人で持った。

そしてイツキが足を止めたのは―――ケーキ屋の前だった。

「ワンホールにネーム付きと小さいケーキ色々買うのとどっちがいい?」 
「え、え、でも何で」


「今日何日?」 「8月・・・15日」 答えて初めて自分の誕生日を思い出した。


「・・・・覚えてたの?」 話題に出たのは春先だ。
「で、どっちがいいの?」 答えずに催促したのは照れ隠しだ。 「小さいの色々!」

「たった一食でこんなにお金使っていいの?」 「誕生日、ちゃんと祝ってほしくないの?」
さやかは首を横に振った。 「鈍い彼女って楽だけど苦労する」 さやかはイツキの手に指を絡めた。


夕飯に出てきたパスタは、エビとアボカドの冷たいパスタだった。
エビとアボカド、アスパラを混ぜた冷たいクリームソースをパスタで和えて彩りにトマトを添えてある。

「いただきます」 神妙に手を合わせた。

「美味しい。 そんで食べたことない」 「ケーキはミントティーで食べたいね。 摘んでくる!」
庭から戻ると、さやかの席に四角い包みが置いてあった。 中身は―――とてもイツキらしい。
ポケット図鑑シリーズの『日本の草花』 の夏と秋 と 『日本の木々』 の上下巻だ。
「待って! このシリーズ結構高いよね! 一気に4冊って大丈夫なの!?」
「こら、計算すんな、やめ!」

「そういえばイツキの誕生日って? あたしもお祝いしたい」 「誕生日が近づいたら教えるよ」



厳しい残暑を乗り越えてようやく秋が来た。

「ねえ、駅までの街路樹ってハナミヅキだったんだね!」 イツキは呆れ顔だ。
流行った歌はあったが、どんな花か、どころかハナミヅキが樹木であることすら知らなかったのである。


「何? あたしの顔、何かついてる?」
ふと気づくとイツキに見つめられていることが増えた。

「ううん―――さやかはかわいいなぁと思ってさ」
そういうときのイツキはまともに見返せないほど優しい顔をしている。
「何、急に」 さやかのほうは俯いて凌ぐしかない。 でないと―――
「好きだよ」  そんな甘い言葉が来て撃沈される。


やがて、ハナミズキの木もすっかり丸裸になった。 これからどんどん冬になる。
ある日、家に帰っていつものリズムでチャイムを鳴らすとドアが開かなかった。

久しぶりに自分で玄関の鍵を出してドアを開けると、しんと静まり返った部屋が出迎えた。
真っ暗で灯り一つ点いていない。 その冷え切った室温で悟った。
鍵を締め、電灯を点けていく。

寝室に入ると、イツキが来る前のレイアウトに戻っていた。
恐くて一番後回しにしていた居間の襖を開ける。
灯りを点けると、テーブルの上に洋封筒とノート、そして部屋の合鍵が一本載っていた。
「さやかへ」 封筒のサイズに合った一筆箋が一枚。



ごめん。 またいつか。



「またいつか」 それだけがイツキの隠しきれない未練だった。
そして便箋の下にはプリントした写真が数枚入っていた。

花かんむりを被ってはにかんでいる、さやか。
中腰で藪の中を歩き回っている横顔―――きっとこれはワラビを採ったとき。
指先に宝石のようなノイチゴをつまんだ笑顔。

その3枚だった。 その3枚を見て、初めて手が震えた。
震える手でノートをめくると、イツキの作った料理のレシピだった。

一体どれほど前から―――ここを出て行く準備をしていたのだろう。 今日の昼間書ける量ではない。

寝室に飛び込んで布団の中に頭を突っ込む。 号泣のような泣き声が迫り上がり飛び出した。


本当はもう分かっていた。
いつまでもこのままではいられない。
さやかはイツキの名前しか知らない。
イツキはどこかで何かを決断した。
それも本当は分かっていた。
イツキはいつの頃からかさやかに所有印をつけなくなった。


夢だと笑われてもいい。 それでもずっと一緒にいたかった。
一生ずっと一緒にいたかった。 二人でいつまでもどこまでも。

自分の中にこんなに水があるなんて知らなかった。 全部涸れて死んでしまえばいいと思った。


10.巡る季節

そういえば、イツキには合鍵を2本渡していた。 手紙と一緒に置いてあったのは一本だ。
いつか帰ってくる意思表示だろうか。


それから始まった冬はほとんど呆然としたまま過ごした。

イツキが置いていったレシピノートがかろうじて日常にしがみつく綱になった。
それは味噌汁の作り方から始まっていた。 さやかのレベルをよく読んでいる。
イツキが作ってくれた味には程遠いが、会社から帰ると毎日毎日味噌汁だけを作っていた。

おかずも最初はひどいものだった。 焦がしたり煮過ぎたりは日常茶飯事。
でも、素材の味を楽しむことを教えてくれたこの味覚をなくしたくない。 あの記憶を離したくない。
自転車置き場にイツキが使っていた自転車がまだ残っている。 すっかりタイヤの空気も抜けている。


こういうの失恋っていうのかな。
分からない。 別れるという意思表示はなかった。
ただ、相手も思いを残していることがわかる痕跡だけを残して―――いなくなった。


ちょうどイツキを「拾った」頃、ある日竹沢に夕食を誘われた。
私はそれを断った。 「お茶だけでも駄目?」 そう食い下がった。
何となく用件はわかったが、それは振り払えずに応じた。 竹沢の指定したカフェへ。
注文が来てから、竹沢の口が重くなった。 ああ、来るな。 そう思っていたらやがて来た。

「河野さんさ、付き合ってる人いる?」 竹沢は悪くない。
「ううん。 今はいない」 「じゃあさ・・・・」 竹沢がしばらく口籠り、思い切ったように言った。

「俺と付き合ってくれないかな」

お調子者で明るく、たまに無神経だが怒られるとしょんぼり反省する。 
付き合ったら優しくて楽しい彼氏になるのだろう、きっと。
ありがとう。
そう答えた声で察したらしく、彼は俯いた。

「ごめんなさい。 好きな人がいるの」

もう会えるかどうかわからないけど好きなの。
もう4ヶ月も経つのに全然色褪せないの。
知ってるのは名前だけ。 年がいくつなのかさえ知らない。 誕生日も出身も。
知ってるのはただ、―――彼がどんな人だったかということだけ。
彼と過ごした毎日がどんなに楽しかったかということだけ。

目が熱くなって涙が溢れた。 慌ててハンカチで押さえる。 イツキとお揃いのハンカチ。

「何で振った側が泣くんだよ、泣きたいのフツー俺じゃん。 返事もらってすっきりした。 ありがとね」
席を立つときに竹沢は伝票を持った。 「あ、あたしの分・・・・」
竹沢は少し情けなさそうな顔で笑った。 「振られた男にこれくらいは華持たせてよ」
落胆していないわけではないのだろう。 それでもおどけた声を出せるのは竹沢の優しさだ。


寒さが緩んでゆっくりと春がやってきた。

待ちかねていたようにさやかは河川敷に出かけた。
フキとフキノトウ、そしてツクシ。  「もう覚えたよ」
イツキの作ってくれた料理を全部作った。 不格好ながらなんとか作ることができた。

そんな風に季節を追った。
ノビルとセイヨウカラシナのパスタ。 ノビルを掘るのは苦心惨憺だった。
河川敷が花であふれる頃には花かんむりも編んだ。
初めての時、ユキノシタは食べられるのかと不安なほど毛が強かった。 今では躊躇なく採る。

竹沢は告白の後、何事もなかったかのようにあっけらかんと―――多分努力して接してくれてる。
「気が変わったら俺まだ空いてっから」 そんな冗談を言って笑う。 その冗談口に救われる。

ノイチゴも摘みに行った。 もう虫が入っていても動じない。
庭のアップルミントも勢力範囲を拡大しつつある。
作って落ち着かせったジャムをバゲットに塗り、ミントティーを淹れて優雅にお茶。

ココロの中にぽっかり空いた穴にもすっかり慣れた。
どんなに悲しくても人間は悲しさで死なない。 寂しさでも死なない。 失恋なんかじゃ人は死なない。


そして夏がやってきた。

部長の客先回りに同行することになった。 たまにこういう仕事も気分転換になっていい。
「いや、暑いねぇ」 部長がハンカチで汗を拭う。 男は遠慮なく顔を拭えるのが羨ましい。

と、目の端に見覚えのある草花が引っかかった。 月極の駐車場のフェンスにびっしりと絡みついて、
小花を咲き誇らせているのはさやかにとって思い入れの深いヘクソカズラだった。

「―――ほう! 見事なものだな。 地主が植えてあるのかな?」
「やだ部長。 あれは雑草ですよ」 「雑草!?」 部長は驚いたように目を丸めた。
「和名はヘクソカズラと言います」 「屁糞!?」
その後、詳しい説明をしてしまい、部長は呆気に取られていた。
「君のような若いうららかな女性から凄まじい単語がさらっと出てきて驚いていたところだよ」
しまった、と臍を噛む。 あたしったら何ておばか!  イツキ! あんたのせいだ!

別れる男に花の名を一つは教えておきなさい。 花は毎年必ず咲きます。

川端康成の言葉である。 たった一つでも毎年花は咲くというのに―――
自分はイツキにどれだけ花や野草の名前を教えこまれただろう!
こんなにたくさん刻まれたら、きっと一生忘れることなんてできない。
なんてことしてくれたのよ、あんた。

ごめん。 またいつか。

ねえ。 そんな短い言葉だけ遺されて、あたし一体どうしたらいいのよ。
またいつかって―――いつなのよ!

「河野くん、そろそろ行こうか」 部長に声をかけられ、「はいっ」 と景気よく返事をした。


ある日、書留が届いた。

差出人はさやか本人だが、筆跡は・・・毎日毎日食い入るように眺めるレシピと同じ字だった。
封筒越しの感触で胸が冷えた。 開けると中から部屋の鍵が滑りでた。 そして一筆箋が一枚。



ごめん。 待たなくていいです。



「―――バカ」

思い切らせるなら上手にやってよ。 イツキは嘘が巧くない―――だからさよならと書けない。
こんなに未練を溢れさせておいて、待たなくていいだなんて。 分かりやすい嘘つかないでよ。

その日は久しぶりにたくさん泣いた。


まだヨモギを採ってなかったなと思って自転車を走らせた。
あたし、いつまで続けるつもり? 好きな人の思い出なぞるように季節を追って。
何だかあたし、すごく女々しくない?

「うるさい!」  周りに人がいないのをいいことに声に出して怒鳴った。

思い出を片付けるのは無理だ。 誰に迷惑かけてるわけでもないんだから、気が済むまで追わせろ!


やがてイツキがヨモギを採ったビニールハウスが見えてきた。 あの時のおじさんが出てくる。

「こんにちわ!」 躊躇なく声をかけた。 オジサンは怪訝な顔で土手を見上げた。
「去年、彼と一緒にヨモギとニンジンをいただきました」 その説明で思い出したらしい。
「あの時の姉ちゃんか! 何だ、今年もヨモギを採りにきたのか?」 「はい、いただけるなら」
「こんな雑草でよければ欲しいだけもってけ」 「ありがとうございます!」

「兄ちゃんは一緒じゃないんか、今日は」 言葉に一瞬詰まった。 そして、なんとか笑う。
「はい。 ちょっと旅に出ちゃって。 放浪癖のある人だから」
「そいつは困ったもんだな。 待つ側の都合も考えてくれにゃあ」

その相槌ですとんと何かが腑に落ちた。


あたしはあたしの都合で待とう。
あたしが待つのはあたしの勝手だ。
イツキは待たなくていいとは書いたが、待たないでくれとは書かなかった。
さよならとも書かなかった。


オジサンに教えてもらったピーマンのごま和えを早速作ってみた。
ピーマンの苦味が柔らかくなっていて、面白い風味。 これなら子供も好きになりそうだ。
イツキ、あたしのほうからも教えられる料理が一つだけできたよ。
去年のあのオジサンに教えてもらったんだよ。


残暑が過ぎ、秋が来た。

街路樹のハナミズキにまた赤い実がついた。 
ハナミズキがすっかり裸になった頃、最初の寒波が来た。


そして年が明けた。

まだまだ夜が凍りつく、冬終わりかけの休日前夜。 白く霞んだ夜空には朧月。
ああ―――こんな晩だった。 こんな晩だったね。

拾ってください。 咬みません。 躾のできたよい子です。
玄関ポーチの集合ポストをいつも通り開ける。 その日は心当たりのない茶色の書籍封筒が入っていた。
ネットで本とか買った覚えないんだけど、と首を傾げる。
取り出して裏を返す―――そしてさやかは封筒を持ったままその場に固まった。
まるでこの寒さが凍らせたかのように。


日下部 樹


リターンアドレスはなく、名前だけが手書きだった。 もどかしくその場で封筒を開ける。
中には本が一冊。 さやかが持ってるのとは違うシリーズのポケット図鑑だった。
『日本の野草・春編』  迷わず図鑑の最終ページを開けた。 さやかの目に飛び込んできた。

写真提供者の欄に、著者の次に 日下部樹 の名前があった。 ―――掴まった!

この出版社に連絡すればイツキの連絡先はわかる。 失踪者だと言って聞き出してやる!
図鑑の表紙を睨みつけたまま、つかつかと部屋へ向かう。と、


「その勢いで蹴られたら痛いな」


急に声をかけられて悲鳴が上がった。 
部屋の前に座り込んでいたのは―――ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、


「もう新しい犬、拾っちゃった?」


さやかは首を横に振った。 バカなこと―――バカなこと訊かないでよ!
あたしが、今まで、どんな思いで、夢にまで見た、何度も枕を濡らした、新しい犬なんて、


「拾うわけないでしょ、バカッ!」


さやかは立ち上がったイツキにぶつかるようにしがみついた。
子供のように大きな泣き声が上がった。


「一年すっとばしちゃったけど、俺の誕生日が近くなったら教えるって約束、まだ有効?」


そんな約束してたのに―――黙っていなくなりやがって!
イツキがなだめるようにさやかの肩を抱いた。

「まだ俺が入っていいなら部屋に入れて。 じゃないとちょっと近所迷惑だし」
現実的な提案にさやかは財布を取り出した。 財布の中にお守りのように入れていたものがある。

「自分で開けろ、バカ!」 怒鳴ってお守りを叩きつけた。 それは送り返された合鍵だ。
「・・・・ごめんなさい」 イツキはしおれたように頭を下げて、一年ぶりにその鍵を使った。


「何で急に・・・・黙って・・・・」
「ごめん。 あのままじゃもうさやかと一緒にいられないと思ったんだ。 自分のことを色々片付けないと。 待っててほしいなんてあんな半端な状態で言えなかったし。 俺がヘタレでチキンで弱々でどうしようもなかっただけ」

「今まで何してたの?」
「ん、最終的にはその本作った巽先生が大学教授なんだけど、その先生の研究室で助手に使ってもらえることになった」
「大学ってこの近く?」 「うん。 俺の母校なんだけど」

「最終的な成果の前は?」
「俺にとっては一番恐いところに帰ってた」 イツキはしばらく言い淀んで・・・「家」と吐いた。
「さやか、前に生け花の展示会のチケット持ってきただろ」


「あのときの作家が俺の父親で、俺、長男なんだ」


「あのすっごい雅号の人だよね。 有名だって聞いた」
「下に弟妹もいて、全員華道も教え込まれてたんだけど、親父の跡は俺が継ぐもんだってことになってて、でも俺子供の頃から生け花より地べたに咲いているような花が好きで」
それを父親は許さなかった。 憎々しげな弟妹の眼差しも感じる。
そうしたものからイツキは逃げていた。


そしてあの日、今日のような凍える夜、イツキはマンションの前で行き倒れていたのだ。

「最初は正直ラッキーって思ってた」 イツキは正直に告白した。
「お金貯められるし、拾ってくれた女の子がいい子でかわいくてさ、俺の作る料理すげー嬉しそうに食ってくれて、俺の趣味にも付き合ってくれて、しかも俺のこと好きになってくれたりするわけ」

さらりと言われて思わず肩をすくめる。  「・・・・・いつから知ってた?」
「多分、けっこう最初から。 いろいろ蓋すんの大変だった」

「居心地よくて幸せで、でも全部それがかりそめだって分かるんだよな。 幸せな時間が長引けば長引くほど。 糾弾する声がどんどん大きくなるわけ。 こんな中途半端なままでずっとこの子のそばにはいられないぞって」
帰ってから継ぐ継がないの押し問答、とイツキは苦く笑った。
「最終的にあの家に関するものの相続権を一切放棄してやっと解放された。 それだけで半年以上かかったかな」
「そんな・・・・・放棄とかしてよかったの?」
イツキはすっきりしたように笑った。

「それで自由になれたんだよ。 もうどこで何をしようが、誰とどうしようが文句言われない」

「俺の誕生日、3月1日。 あと10日ほどで28になります」
「あ、あたしと同い年なんだ」 「早生まれだから学年はいっこ上だけどね」
「プレゼント何がほしい? 一年すっとばしたから奮発するよ」
「金はかかんないけど、すごく大それたものがほしい」 そしてイツキはさやかに向き直った。



一緒に生きていきたい。



真正面から切り込まれた。

「・・・・給料安いし金ないから楽させてやれないけど。 贅沢もあんまり・・・・・」
そんなこと。 あたしがどんな気持ちで「待ってた」か知らないから言えるんだわ。

「書類一枚で済むなんて安いプレゼントだね。―――この部屋ね、初期投資したら二人で充分暮らせると思うの。 だから今度は間に合わせじゃなくて、ベッド捨ててダブルの布団買って、箪笥も二人分の服が入るやつ安くてもいいから買って、」

さやかはイツキを軽く睨んだ。

「間違っても資源ゴミの朝にサッと自分の持ち物処分して出て行けないような二人暮らしの部屋にしようね」
「・・・・・やっぱり、けっこう根に持ってる?」
「持ってないと思える根拠がどこにあるの?」

今度はさやかが存分に今までの話を聞いてもらう番だった。


Fin.


■カーテンコール ゴゴサンジ

細かいエピソードや本編のその後の様子などが書かれています。


■カーテンコール 午後三時

少女杏奈と柴犬のサクラ、そしてイツキの心温まるショートストーリーです。


■巻末特別付録 イツキの”道草料理”レシピ

本編に登場した料理のレシピが全てではないですが、写真付きで載っています。 
フキの混ぜごはんなんかは挑戦しやすそうです。




しばらく有川浩さんの小説は読む予定なかったんですが、人気の作品が珍しく図書館にあったので
借りることに。

たまには、ほのぼのとした小説もいいですね。 まあ少々物足りなくもありましたけど(笑)
途中までは料理の本みたいでした。 野草美味しそう・・・・。
そういう私も子供の頃は祖母の家の近くに生えてる、
食べられる野草をガジガジとそのまま噛じって食べる、ワイルドなお子様でした。

やっぱり有川浩の描く恋愛ものって少女漫画みたいですね。 いつも理想的な男性が出てくる。
私は好きですけど、男性は読んだらどう思うのかな?

イツキみたいなの拾いたい(笑)  料理が出来るっていうのがポイント高いですね!
でも急にいなくなられるのは困りますが。

この作品は今年6月に映画化するそうです!