ただいま祖母の田舎にきております。  明日会いに行ってきますシャキーン 
今日はゆったり温泉宿温泉まぁくでのんびりとしたいと思います。


本日の本ですが、
読書好きのかたがおすすめ本として「重力ピエロ」の名前を上げていたので読んでみました。


「重力ピエロ」 伊坂幸太郎



春が二階から落ちてきた。


そう言うと、季節のことを気取って言ってるのかと誤解されるが、そうではない。
春は弟の名だ。 私の二年後に生まれた。
パブロ・ピカソが死んだのが全く同じ日で1973年4月8日だった。


それから16年後、彼が高校生で私が大学生の時だ。

夕方遅く、電話がかかってきた。  「兄貴、頼みがあるんだ」 春からの頼みは初めてだった。
「持って来てほしいんだ」 「何を」 「ジョーダンバット」

父がアメリカ旅行に行ってきた。 まだ癌に身体をおかされる前だ。 母もそのときは生きていた。

私たちの土産にと誇らしげに取り出したのが、マイケル・ジョーダンのサイン付きの木製バットだった。
何故、野球用のバットにマイケル・ジョーダンだったのか。

「そう、あのジョーダンバット」


私は言われたとおり、春の高校まで持っていった。
「じゃあ行こう」 「え」 「やっつけにさ」

クラスの中に高慢ちきな女生徒がいる。 親が県会議員というだけで同級生を見下す。
その女生徒を気に食わない男子生徒が集まって、レイプを企てていた。

体育倉庫にたどり着いたとき、それはもう始まっていた。
春が二階から落ちてきた。  弟は飛んだのだ。 やわらかな着地だった。
バットで男たちを殴りつけた。  一分もしないうちに立っているのは春だけになった。
「すげえな」 私は思わず感嘆の声をあげた。

お礼を言う女生徒。 春はバットを逆さにすると女生徒の腹を殴った。 遠慮もない。 力強く突いた。
「別におまえを助けにきたんじゃないんだ」 表情を変えない弟は冷淡にも見えた。
体育倉庫を出た。 「あの女は腹立たしいんだ」 「わかるよ」 と私は言った。



春が「性的なるもの」に憎しみに近い嫌悪を抱いているのには理由がある。
分かりやすい理由だ。
春と私は半分しか血が繋がっていない。 母親は同じだが、父親が異なっている。
そう言うと、私が母の連れ子で、春が今の父親の子供だと皆思うが、違う。


私が一歳の頃、母は突然部屋に押し入ってきた男に襲われた。 すなわち―――レイプされた。
で、その時に妊娠したのが春だ。


事件から十日後、犯人は捕まった。  常習犯で未成年だった。
少女から妊婦まで見境がない犯行だった。 仙台市内で三十件以上の強姦を行ったにもかかわらず、
数年間少年院で反省のフリをしていれば罪が許された。 
未成年だから。 人を殺したわけではないから。 少年の情報は名前すら知らされなかった。



―――自分の会社がまさか本当に燃えていたとは、知らなかった。

ゴミ袋に火を点けたくらいで簡単に焼けるわけがなく、ボヤですんだのが幸いだが、
何者かによって自分の会社が燃やされようとした事実は衝撃だった。
実のところ、自分の会社が放火されたことよりも、別のことに驚いていた。

昨晩、私の自宅の留守電に春から伝言が入っていたのだ。
「兄貴の会社が放火に遭うかもしれない。 きをつけたほうがいい」 冗談だと思ったが的中した。

同期の高木は言った「放火ってのは恨みとかストレスが原因なんだよ。もしくは遺伝子のせいだな」

私たちの会社は 「遺伝子情報」 を扱う企業だった。
「そう言えばあれを聞いたか。薬局から薬が盗まれた」 「ああ」
一週間ほど前に会社の調剤室から睡眠薬が大量に盗まれていた。


その日の夕方、春から電話がかかってきた。
「兄貴、無事だった?」 「お前なんでわかったんだ?」
春は答える代わりに、明日会えないかな、と言った。


夜になって高木と約束した居酒屋に行った。 彼には妻子がいるが見知らぬ女を連れていた。
さっき知り合ったばかりらしい。 女好きの浮気性だ。 少し頭が弱そうな女だった。 

「女を見ればナンパをするのはやめたほうがいい」 「どうしてだ」 「家族が悲しむから」
「わかってはいるんだ。 堅いこと言うなよ。 俺は最適な二十三本を探してるんだから」
「何、二十三本って?」 女が言った。
「DNAが集まって染色体というのがあるわけだ。 人間の細胞にはDNAのセットが四十六個あるってこと。 男と女の遺伝子が半分ずつ合体して四十六本の染色体となるわけ。 俺は自分の染色体とピッタリ合う二十三本を探しているんだ・・・・・もしかしたら、それは君なのかもしれない」
高木の調子よさに感心した。

うちの会社は研究に嫌気がさした学者がたまたま資産家だったので会社をおこした。
社長の名前は「仁」という。
遺伝子操作によって作り出された優秀な遺伝子のことを「ジーンリッチ」と呼ぶ事がある。
社長は自分の名前を紹介するときには嬉しそうに「仁リッチ」と言う。

「あれ、トイレ行くの?」 「気が変わったの。 あたし、帰ろっかなと思ってえ」
「は?」 「そろそろ彼が帰ってくるし」
高木は唖然として彼女が店を出ていくのを見送った。 彼女は通路途中で、一度戻ってきた。

「そうそう。 さっき言ってたけど、二重螺旋は三十四オングストロームごとに一回転、捻れてるのよ。 オングストロームって百億分の一メートルなのは知ってるわよね。 でも、あの単位って、スウェーデンの物理学者の名前からつけたらしいけど、知ってた?」  と、彼女は早口で言った。

「さっき分からなかったみたいだから、参考までに教えてあげるわ」 彼女は片目をつぶった。

私たちは目を丸くして、閉店まで飲んだ。 「飲むしかねえな」 と高木は顔を歪めた。 「だね」


土曜日に弟と会った。
地下道にいた。 春は壁一面に描かれている落書きを消している。
彼が消しているのは 『グラフィティーアート』 と呼ばれるものだった。 スプレーによる落書きだ。
落書きを消すのが春の仕事だった。 研究を重ねて特殊な薬液を作り出し、
「俺はたぶん、日本一落書きを消すのが上手だよね」 と胸を張る。 面白いように落書きが消えていく。

「そうだ、グラフィティーアートのルール知ってる?」 「ルール?」
「一つ目 『絶対に見つかってはいけない』  二つ目 『できるだけ素早く描くこと』  三つ目 『自分より上手いグラフィティーアートの上には描いてはいけない』 」

「兄貴、俺は下手糞な絵を自信満々に自慢している奴らが許せないんだ。 本当に腹立たしい。 そういう意味ではネアンデルタール人だね」
「ネアンデルタール?」
「ネアンデルタール人が進化してクロマニョン人になったって教わったけど実際は違うんだ。別物なんだよ。 どこかで勢力の交代があったんだ。 今はそういう説が有力だ」
春は時々、私も知らないようなことを口にする。



春の芸術的才能についても述べておくべきだろう。
春が小学五年生の時、彼の描いた絵が、県のコンクールで大賞に選ばれた。
家族は大騒ぎして喜んだ。

県庁の展示場へ家族で出向くと、春の作品は会場のど真ん中に飾られていた。 
風景画だったが、左側に崖が描かれている。その質感といったら・・・土砂が崩れたようで
折れた木が崖下に崩れ、泥にまみれた岩が転がっている。
その場にいる臨場感さえあった。

審査員と名乗る女性が 「きっと親の血ですわね」 と嫌な微笑み方をした。
「いえいえ、私たち夫婦はてんで駄目なんですよ」

「そうじゃなくて、父親のほうの血ですよ」 審査員は声を低くしてそうつづけた。

街の中には母の襲われた事件を知る者もいた。
噂話は広がるものだ。

「妙な言い方をされますが、泉水も春も私の息子ですよ」 父は立派だった。
「よく存じております、よくね。 お父さんそっくりですものねえ」 春と父の外見は似ていなかった。


審査員の女性に立ち向かったのは春だった。


「僕とお父さんが似ていないのが何かいけないわけ?」 「そういうわけじゃないのよ」
「僕とお兄ちゃんに何か文句あるわけ?」

春は壁にかかった自分の額入りの絵を取り外すと、女の前まで戻ってきた。
「おばさんの子供はきっとデブばっかりだね」
そして躊躇することなく、絵を振り回し、審査員の女性の尻を思い切り叩いた。
何度も叩き、彼女は前のめりになって床に倒れた。

「やめなさい」 母が言って、絵を取り上げたが母の言葉はそれほど怒っていなかった。
すると、春から奪った額を振りかぶり、倒れたままの審査員の尻を今度は母が叩いた。
春と私は驚いた顔で母を見上げ、春の受賞は取り消された。


「でもさ、母さんが額であの女を叩いたのはびっくりした」
「最高だったな」 父は涙を見せながらも笑った。

母の葬儀が終わった後の会話だった。



春はとても魅力的な外見をしていた。 眼は大きく眉は綺麗な直線で、高い鼻は上品だ。
小学生の頃から春に近づいてくる女性は数え切れないほどいた。
しかしどんな美人にも春は動じなかった。

今で言うところのストーカーというのもいた。 たびたび家に押しかけてきた。
地味な子に見えたが、その執念、粘着たるやなかった。 春をつけまわすその子を我が家では、
「夏子さん」と呼んだ。 「春」を追いかけ回すのは「夏」しかないからだ。

とにかく春は首尾一貫して 「性的なるもの」 から距離を保とうとしていた。



「癌とルームシェアしている」  父の見舞いに行くと、あまり出来のよくない冗談を言った。
痩せてはいたが、元気そうだった。

「春の仕事ぶりを見てきた」 「街の落書き消しか?」
「今度、春自身が落書きするらしい」 「春が?」 
役所から許可をもらって地下道に絵を描くのだと説明した。
「俺はピカッソの生まれ変わりだから」 春はピカソのことをピカッソと呼ぶ。
「できたらその絵を見に行きたいもんだな」 「病院を出たら一緒に見に行こう」 春は言う。

目の前にあるはずのない景色がうかんだ。  我に返って部屋を見渡す。  
部屋には癌がいる。 消えやしない。 いい気になりやがって。



仙台の放火事件のルールがわかったんだ。 春は言った。

「放火された現場近くには必ずグラフィティーアートがあるんだ。 仕事柄情報が入ってくるんだ」
浮浪者が春に情報を教えてくれるらしい。 春にはなぜか浮浪者の知り合いが多かった。
「妙な落書きなんだ。 英語の文字が描かれているんだ。 それだけなら珍しくないんだけど、
初めに『God』と描かれていて次に『can』で『talk』」
続けて「God can talk」 神様は話すことが出来ます、か。
春は全ての火災現場を調べた。 すると、浮かんできた文字は・・・・
『God can talk Ants goto America 280 century』
謎の文章だった・・・・。

「兄貴は途中参加の時はまるでやる気がないのに、自分が最初から参加してると熱心だし意固地だ」
「だから?」
「放火事件とグラフィティーアートの謎も、兄貴ならきっと解ける」

父はこの放火事件に興味を示して、情報をしきりに確認していた。 そのときはまだゲーム感覚だった。
「この勢いだと父さんは本当に犯人を捕まえるかもしれない」 春が私に笑ってみせた。

まさか、その事件が自分たちの足元に絡みつき私の人生をぐらぐら揺らし始めるとは予想だにしていなかった。



母は十代の頃からファッション雑誌のモデルをしていて、とにかく容姿に恵まれていた。
三十代後半になっても美しい母は自慢でもあった。

母が、春を妊娠したとき、「産もう」 と決断したのは父だ。
「おまえが反対でないのなら、産もう」
春は生まれてくる前に死を宣告されるという危機を脱した。
救ったのは父だ。 決定し、待ち望み、歓迎し、手を広げて春を迎えたのは父だ。

「父さんは春のことをどう思ってるわけ?」 と聞いたことがある。
父は即答した。
「春は俺の子だよ。 俺の次男で、おまえの弟だ。 俺たちは最強の家族だ」
父の言葉はわたしを救った。 地味で、目立たず、特技もないが、父はやはり凄い。



春が尊敬する歴史上の人物は、昔からずっとガンジーと徳川綱吉だ。
ガンジーは春にとって魅力的な人物だった。 
性的なものに嫌悪感を抱いて、人間にとってもっとも大切なのは抑制だとも言った。
徳川綱吉を支持する理由は簡単で、ようするに「生類憐みの令」だ。
犬が人間より偉くて何が悪い、とよく言った。


子供の頃、サーカスを見に行ったことがある。
獣の臭いがただようテントの中で、春は 「犬かな、犬かな、犬が出るのかな」
「ライオンだよ」 春は顔を青くした。 「犬が食べられたりしないかな」 「大丈夫だよ」

断片的な記憶・・・自転車をこぐ熊、美しい白人女性、炎の輪をくぐるライオン。
そして――――――――ピエロだ。

大きな玉の上に乗り、軽快に動き回るピエロは、この世にいてはいけない者にも見えた。
春がうめくような声をあげたのは空中ブランコが始まった時だった。
ためらいもなく飛ぶと、時折落ちそうになる素振りをピエロは見せるのでひやひやした。
落ちそうだよ、と言うと落ないわよ。と母は答えた。

「ふわりふわりと飛ぶピエロに、重力なんて関係ないんだから」
「そうとも、重力は消えるんだ」 父もそう言った。
「どうやって?」 私が訊ねる。
「楽しそうに生きてればな、地球の重力なんてなくなる」
「そうね。あたしやあなたは、そのうち宙に浮く」


私たちはファーストフード店で食事をとり、春が運転席に乗り、私が助手席に乗り込んだ。
ふと、駐車場を歩いている女性と目があった。 色白の美人だった。 年は二十代半ばだろう。
気にかかった。 私の顔をじっと見ていたからだ。 はっとするほどの美人だった。

車の中で「橋」の話になった。
「青葉山の橋は危ないからさ、兄貴も車で通るときは気をつけたほうがいい」
飛び降り自殺が多いことで有名な橋だ。
鉄格子のような高いフェンスがあるけど、橋の両端は昔のままで背が低くて弱々しいフェンスだ。

まさか春の口から青葉山の橋の話が出てくるとは思わなかったので驚いた。
自分の悪事が露見してしまった気分にもなった。


放火された自分の会社の近くで落書きされた場所を訪れてみた。  ビジネスホテルだ。
中に入るとフロントに煙草をくわえた初老の男がいた。 新聞を広げている。

「ちょっと訊きたいんですが。 落書きのことです」
そう言うと、フロントの男の目があからさまに変わってフロントの奥へと歩いていってしまう。
「あの」 と呼びかけた時だった。
男は腕をまくるとこちらに向かってきて勢いよくジャンプし、カウンターに飛び乗った。
私は棒のように固まっていた。 驚いて、口も開けない。

「おまえがやったのかあ!」 襟首を掴まれて怒鳴られた。

「違いますよ。 違います。 うちも落書きされたんで調べようと思って見に来たんですよ」
とっさに嘘をついた。 「なんだ、そうか」
落書きがあった駐車場を見に行ったがもう消されていた。
消したのはうちの弟です、とは言えなかった。

「もし犯人が現れたら許さねえぞ。 ああいう隠れたところでこそこそというのが俺は嫌いなんだよ」
「ですよねえ。 菓子折り持ってきたって、投げ返しますよねえ」
「いや、あれならいいな。 あの菓子」 と言って仙台名物のカスタード入りの菓子の名前を言った。
地元の名物で珍しくもなかった。
「好物でな。 でも、自分の住んでる街の土産物なんてわざわざ買わねえだろうが。 だから買ってきてもらえるとな、嬉しいわけよ」

そんなことで、とは言う勇気はなかった。




続く・・・