今回は私が一番好きな、第7章です。
ラストの観覧車観覧車のシーンの美月と哲朗の会話。 追いかける哲朗・・・・
読んでいるとグッとくるシーンです。


「片想い」 東野圭吾


■登場人物■

西脇哲朗/主人公。大学時代はアメフトのクォーターバックのエース。現・スポーツライター。
日浦美月/元女子マネ。10年ぶりの再会で男の心を持ち、人を殺したことを告白。
西脇理沙子/哲朗の嫁。元女子マネ。職業はカメラマン。旧姓・高倉
中尾功輔/アメフト仲間で美月の大学時代の彼氏。今は逆玉で成城の家で嫁と子供と暮らす。以前に比べてひどく痩せている。
早田/同じくアメフト仲間。今は新聞の社会部の記事を書く記者。恐ろしく勘が鋭い。
須貝/アメフト仲間。いい奴なのだが、少々天然なところがある友達。

戸倉明雄/美月に殺されたというストーカー男。
佐伯香里/『猫目』のホステス。死んだ戸倉につきまとわれていた。本当は立石卓という男である。
立石卓/佐伯香里と戸籍交換をした。もとは女。
嵯峨正道/劇団金童の主宰者
望月刑事/戸倉殺害の件を調べている警視庁の刑事。





第7章

哲朗はダイニングテーブルの上に紙を置き、
まず「佐伯香里」と書いた。 そしてその横に「立石卓」と書き線で繋いだ。

「この二人では多分入れ替わっている」

男として生きたい香里に、女の戸籍が欲しかった立石。
両者の利害関係が一致したわけだ。

「理沙子、今まで俺は戸倉宅にあった戸籍謄本を破ったのは戸倉本人だと思ってた。
しかし忘れてはならないのは戸倉はストーカーだ。 ストーカーはゴミ袋をあさる」
「戸籍謄本を持っていたのは香里さんだったのね。 でもどうして美月の戸籍謄本を・・・」
「美月も誰かと戸籍を交換するつもりだってことだ」


哲朗がバーボンのオンザロックを飲んでいると理沙子がうかない顔で言った。

「私・・・やっぱりこの件から手を引く。 だってあの人たちは家族も友人も全て捨ててまで戸籍を交換して
新しい自分として生きていこうとしてるんでしょう。 彼女たちを不幸にしたくない」

「俺は失わせようなんて思ってない、ただ日浦を見つけ出したいだけだ。
とにかく・・・・・俺はやめない」

理沙子は彼の顔を睨みつけると部屋を出ていった。



翌日、嵯峨正道に再び話を聞きに行くことにした。
その前に奇妙なことがあった。 自宅に置いていた劇団金童の小冊子が無くなっていた。
理沙子に尋ねても「知らないわよ」というばかりだった。

嵯峨のマンションに着くと望月刑事が来ていた。 ここを嗅ぎつけたようだ。
望月刑事が帰るのを確認すると、305号室のチャイムを鳴らした。

「なんだ、またあんたか」 相変わらず怪訝な表情を見せる嵯峨だった。

「立石卓さんのことを教えていただけますか」 嵯峨の顔つきが明らかに厳しいものになった。
「あの刑事に教えてやってもいいんですよ」
哲朗は知り得た佐伯香里と立石卓の戸籍交換の話を嵯峨に言った。  大きな賭けだった。

嵯峨はふぅ・・・と息をつくと、

「教えるわけにはいかない。ただ勝手に見られちまうのは仕方ないなぁ。」
・・・と、玄関に向かうと、
「ちょっと煙草を買ってくる。15分・・・20分くらいで戻る」
「待ってください。連絡先を書いたものはどこに」
「今時、ノートにでも書くと思ってるのか。 頭使いなよ」
「あっ」

哲朗はパソコンの電源を入れると「メンバー」というファイルを見た。
そこにあった立石卓の連絡先をメモした。

何気なくそのパソコンの中に保存していた芝居のあらすじに目を通していた。
そこにあった『男の世界』という芝居のあらすじを読むと・・・・その内容に哲朗は見覚えがあった。

部屋に戻ってきた嵯峨に訊ねた。
「この作品は誰が考えたものなんですか?」 「俺だよ」
「仮に書いたのは嵯峨さんだとしても原案を出したのは誰なんですか」
嵯峨はもう何も言うことはない、と哲朗を追い返した。



家に帰ると理沙子にたずねた。

「劇団金童の小冊子を出してくれ。誤魔化さなくていい。俺はもう知ってしまった」
「・・・・・・」
理沙子は寝室に行くと、小冊子を取ってきた。

「驚いた?」 「まあね、君はすぐに気づいたのか」
「そりゃあ自分のことが書いてあるんだもの」
「男の世界に入れてもらえないかわいそうな女が私、傲慢な元野球選手があなたよ」

「知ってたのか」 「ずっと前からね、自分から話してくれるのを待ってた」
「視力・・・どれくらい?」 「0.01あるかどうか」 「そんなに・・・」



―――雨の日の体育館。

ウェートトレーニングをしていれば良かったのに、ヘルメットをかぶらずミニゲームをしていた
その時起きた事故で哲朗は意識を失った。
その事故で1.5あった左目の視力はどんどん落ちていった。


「今思うと結婚を見合わせるべきだった。 夢を捨てる理由さえ話してくれない相手と
一生暮らしていけるなんて、どうして考えたのかな」

哲朗は理沙子がそんな風に考えていたとは知らなかった。


「ねえ、どうしてあなたの目のことを知ってたと思う?」
「あいつから聞いたのか」  そう、あいつだけが気付いていた・・・・・中尾功輔だ。

一連の出来事と中尾は関わっているのか。

「なぁ、偶然ってことはないかな?」
「残念だけど、それはないわ。 だってこのセリフは私が中尾君に言ったことだもの」



翌日、学生時代の名簿を見て中尾の実家に電話をしてみた。
やはり中尾は離婚していたようだ。
ただ、母親もその行き先も連絡先も知らないという。
一度だけ連絡があり、しばらく旅行に行くから心配しないでくれと言ったそうだ。
中尾宅を再び訪れるものの、妻子ともに実家にでも移ったのだろう。やはり人の気配はなかった。


その後、立石卓の自宅を訪れた。
扉を開けて現れたのは女性だった。立石の彼女だろう。 立石は仕事にでていた。

怪しむ彼女は扉を閉めようとするが、哲朗は咄嗟に足をはさんだ。
「何するんだよ、警察呼ぶよ」
「騒ぎが大きくなったら困るのは君たちだ。卓君の本名がバレるぞ」
驚き、怯えた表情を見せた彼女だったが、君たちから何かを奪う気はない、
強引なことをしたくない・・・そう告げると、立石卓の職場の連絡先を教えてくれた。

事務所に行くと、立石卓がいた。

「いろいろ訊きたいことがあってね」 「わかっています。でもここでは話せない」
立石は『木の葉』という喫茶店で待っていてくださいと言った。

声は完全に男だった。彼を女性だと見抜ける者はほとんどいないだろう。

『木の葉』に着き、コーヒーを飲み干した頃だ。 30分は待っていた。


その時、哲郎の携帯電話が鳴った。


「もしもし」  「もしもし、QB,元気そうだね」

「日浦っ」  思わず大きな声を出していた。

「オレの言うとおりにしてほしい。そこには立石卓は現れない。もちろん佐伯香里も」
男として生きている立石卓の邪魔はしないで欲しいという美月。

「じゃあ、これからいうこところに来てくれないか」
「会えるのか」  「うん、会えるよ」


待ち合わせ場所はお台場の観覧車の前だった。
午後5時を過ぎた頃に到着すると、周りは若いカップルばっかりだった。

10分ほど経った頃再び携帯電話が鳴った。
「観覧車の前に着いたかい」  「すぐ前にいる。おまえはどこにいるんだ」
「そう焦るなよ、QB。とりあえずは、観覧車の列に並んでくれ」

列の最後尾に並んだ。一人で並んでいるのは哲朗だけだ。
そして再び携帯電話が鳴ると、順番が来たら一人で乗ってくれ、という美月。
「おい、ちょっと待ってくれ」  そのまま電話は切られてしまった。

観覧車に乗ると携帯電話が鳴り、素早く通話ボタンを押した。
「おい、どういうことなんだ。会ってくれるんじゃなかったのか」
「そう無理いうなよ。オレが電話した理由はひとつなんだ。この件からは手を引いてくれ」
そして美月は哲朗たちを巻き込んだことを謝った。
哲朗の予想通り、美月も誰かと戸籍交換をするつもりだった。
そのために作られたのがあの劇団金童だった。

「ひとつ訊きたい。 中尾のことだ。あいつはどう関わってる」
美月は即答しなかった。 「功輔のことはオレたちに任せてくれ」
「あいつはどこにいる? おまえたちと一緒か」
「・・・・・一緒だよ」

やはり劇団金童の芝居の案を出したのは中尾だった。
中尾と嵯峨は古くからの知り合いなのだという。
そして、先日久しぶりに美月と中尾は再会したように見せていたが
本当は以前から連絡をとっていたのだ。

「ごめんなさい、ここまでだよ。 オレの言えることは一つだけ、QBはもう関わっちゃいけない」
「待ってくれ。 おまえは今こどにいるんだ。 とにかく一度会ってくれ」
「オレも会いたいよ。QBの顔をそばで見たい。でも会わないほうがいい。寂しいけどもうこれでお別れだ」


「美月っ」 哲朗は叫んでいた。

一瞬の沈黙のあとにかすかに笑い声が漏れた
「名前で呼んでくれたね。 オレの記憶が確かなら、たぶんそれは二度目だよ」


電話を終える気配に焦りながら、立ち上がると哲朗は気付いた。
西側にある駐車場にある二人の人影に。
黒い革ジャンの人物にロングコートの髪の長い女性。
革ジャンのほうは美月だ。携帯電話を耳に当てている。 長髪の女は香里か。

「日浦、そこにいてくれ。今から行く」

「元気でね、QB。さよなら。 理沙子のことをよろしく。 彼女は素晴らしい女だよ」


電話が切れると、ゴンドラの動きが途端に遅く感じられた。
扉が開くと彼は、飛び降り、駆け出した。
和やかに談笑している人々を縫うように走り抜け、カップルを追い越し駐車場に出た。

しかし美月の姿はすでになかった。


彼女らが立っていた場所に立ち観覧車を見上げた。


俺はおまえに会えたけど、おまえは俺に会えなかった。それでもいいのかよ―――。

心の中で呟いた。



―――>第8章へ続く