今回、文中に出てくる「メビウスの帯」というのはこういうやつのことです。


表だと思っていたら裏になり、裏かと思っていたら表になる。
つまり表であり裏である。 それがメビウスの帯です。


「片想い」 東野圭吾



■登場人物■

西脇哲朗/主人公。大学時代はアメフトのクォーターバックのエース。現・スポーツライター。
日浦美月/元女子マネ。10年ぶりの再会で男の心を持ち、人を殺したことを告白。
西脇理沙子/哲朗の嫁。元女子マネ。職業はカメラマン。旧姓・高倉
中尾功輔/アメフト仲間で美月の大学時代の彼氏。今は逆玉で成城の家で嫁と子供と暮らす。以前に比べてひどく痩せている。
早田/同じくアメフト仲間。今は新聞の社会部の記事を書く記者。恐ろしく勘が鋭い。
須貝/アメフト仲間。いい奴なのだが、少々天然なところがある友達。

戸倉明雄/美月に殺されたというストーカー男。
佐伯香里/『猫目』のホステス。死んだ戸倉につきまとわれていた。
嵯峨正道/劇団金童の主宰者
末永睦美/第一高校の陸上選手。女と男の生殖機能を持つ半陰陽という特殊な身体を持つ。




第6章

新宿3丁目、哲朗は須貝と待ち合わせていた。
向かった先は『BLOO』という店。  早い話、オナベの店だ。 
須貝の知っているこの店に手がかりを求めて、話を聞きに行くことになったのだ。

佐伯香里のことと美月のことを聞いたが、写真を見せても知らないようだった。
そこの店の相川という店員から 『メビウスの帯』 の話を聞いた。
「男と女はメビウスの表と裏にの関係にあると思っています」

表だと思っていたらいつの間にか裏にいる。
男だって完全な男はいないし、完全な女もいない。
誰しも男性的な部分もあり、女性的な部分もある。そういうことだった。

相川の目からは揺るぎない意思が感じられた。


ほかの店員にも佐伯香里の写真を見せ訊ねた。
すると・・・・
「この女性は知らないけど、横に写ってる銀色のクリスマスツリー・・・これ劇団金童で見たような・・・」

「劇団金童?それはどんな劇団なんですか?」
「普通の人達が集まっている劇団ですよ。もっともあなたたちに言わせれば、
ミスターレディとかミスダンディなんて意味をつけるかもしれないけど」

ここに繋がる道がありそうだと思った哲朗は連絡先を教えてもらう。
ただ主宰者が厄介な人で、話が出来るかどうかわからないそうだ。
もらった名刺にはこう書かれていた。

『劇団金童 主宰 嵯峨正道』

名刺の連絡先に電話を何度しても出ることはなく、返信もなかった。
哲朗は名刺の住所に足を運ぶ。
その部屋には「嵯峨」と書かれた紙が貼ってあった。
人の気配がなく、引き返そうとした時、下から角刈りの太った男が階段で上がってきた。
年齢は40前というところか。 嵯峨正道だった。

事務所に案内されると、嵯峨はかかってきた電話に体格とは似つかわしくない素早さで受話器を取り、
ガサツな話し方で電話相手と話すと電話が壊れるんじゃないかと思うくらい乱暴に受話器を置いた。
その後、パソコンのキーを叩き始めた。 なかなかの手つきだった。

哲朗はこれでも読んどきな、と劇団の小冊子を一冊もらった。
そこには劇団の成り立ちが書いてあった。

「なぜ多くの人は性染色体のタイプにはしばられるのだろう。
XXだろうとXYだろうと人間には変わりないのに。
金童はそんな疑問から生まれた劇団である」(一部抜粋)

嵯峨に色々質問するものの、何一つ答えてはくれなかった。
嵯峨はこの後、仕事だという。長距離トラックの運転手をしてるんだそうだ。


家に帰って理沙子に報告すると、
大晦日の晩だというのに理沙子は撮影だと言い、出かけた。
哲朗は冷凍ピザを温め、ビールで一人年を越した。



正月、アメフトの試合を見に行っていると須貝から電話があった。

「実は、中尾のことなんだけどさ・・・おかしいんだよ。家の電話にかけたらこの電話は使われていませんって・・・」
「わかった、調べてみるよ」

中尾の携帯電話にかけてみるがつながらなかった。


哲朗は成城にある中尾の自宅に向かった。

外観は変わらないものの、カーテンは全て閉められており、人の気配は感じられなかった。
哲朗はあたりを見回た。
門を開けると庭に入り、閉じられているカーテンの隙間から中の様子をうかがった。
テレビの下にあるビデオデッキが電源が抜かれており、表示パネルの文字が消えていた。


「どちら様ですか」

突然声をかけられ哲朗は息をのんだ。

それは中尾の嫁だった。披露宴で見たことがある。彼女は犬を連れていた。
彼女は不信感いっぱいに哲朗を見ると、

「誰なんですか、この犬は訓練されていてリードを離すとあなたに飛びかかりますよ」
「いや、西脇です。西脇といいます。 大学時代の友人です」
「帝都大の?」
「はい、披露宴でもお目にかかりました」

中尾は家を出たそうだ。 ここに住んでいない彼女はいつ出ていったのかは知らないということだった。

行き先を聞くと、
「連絡先も聞いておりません。こちらから連絡することは何もありませんから」

会社の始まる日を聞くと、
「あの人は会社も辞めました」
「えっ」 哲朗は口を半開きにした。 仕事を辞めた原因は教えてもらえなかった。
家に帰って知り合いに中尾の居所をあたるものの、誰もそれを知るものはいなかった。


家の電話がなった。 中尾からでは、と思ったが理沙子からだった。

「今、新宿にいるんだけど出てこれない? ある人と一緒にいるの」

待ち合わせの場所に行くと、それは意外な相手だった。 早田幸弘だ。

「高倉は何もしゃべってない。俺のほうからカマをかけてみたけど、尻尾は出さなかった。」

「だけどな・・・・西脇、知ってるか?高倉の癖を」
「癖?」
「ああ、彼女は嘘をつくとき、唇の右端が微妙に上がるんだ」
哲朗は思わず妻の顔を見た。 そういう癖があることを知らなかった。

「その癖を久しぶりに見て、俺は確信した。お前たちがやばい場所に立っているってことをな」


早田は大きく身を乗り出して言った。

「お前たちは事件から手を引け。そのほうが身のためだ。今ならまだ間に合う」

早田は警察さえ掴んでいない、鍵を握っているらしい。 もちろんその内容は教えてくれなかったが。


「これが最後の警告だ」そう言うと早田は振り向くことなく店を去った。



4日後の日曜日、哲朗は大阪に来ていた。 新春大阪ハーフマラソンの取材のためだ。
ここには末永睦美も来ていた。彼女は大学の研究に協力することになったと言う。
それは半陰陽の彼女と他の人間との違いをあらゆる面で検証するということだ。

それは睦美の心に変化があったようだった。
「今日はあの人は来てないんですか?」 美月のことだった。
彼女はやはり美月が普通の女性でないことを気付いていた。
睦美は哲朗に心を開いてきたようで、話してくれた。

「そうだ。いいものを見せてやろう」

そう言うと、哲朗は理沙子が撮影した美月の裸体の写真を彼女の前に置いた。
芸術写真を見るように睦美は写真を眺めた。

そして、彼女はふと他の写真に目をやった。
「どうかした?」
「その写真の人・・・・」

『猫目』の香里が同僚のホステスと写っている写真だった。
睦美は香里のことを知っているようだった。

「知っているなら教えてくれないか?実は今この女性を探してるんだ」
「会ったことあります。一度だけ。 ジェンダーを考える会・・・という集まりです」
「ジェンダー・・・性意識の? そんなところにこの女性がいたのかい?」

「その人、違います」 「えっ?違うって?」


「違うんです。女性じゃないんです。その人は男の人です。」



哲朗は再び『猫目』を訪れていた。

睦美は香里自身が自分は男だと言ったという。 あの睦美ですら男だということを見抜けなかった。
彼女は「タテイシ」と名乗ったという。そして睦美に戸籍について悩んでることはないかと声をかけた。
睦美は彼女から連絡先をもらったそうだが、そのメモはなくしていた。

猫目のママが出勤してきた。 哲朗はママに聞きたいことがあった。
「香里ちゃんのことだよ。 いや・・・・タテイシ君と言ってもいい」
ママは笑ったまま、固まった。

ママは「ピット」という喫茶店の2Fで待っていてくれと哲朗に言った。
「ピット」に行くと客は一人もいなかった。なるほど、これなら誰かに聞き耳を立てられることもない。
コーヒーが運ばれると同時にママがやってきた。

「あの子はね、カストラートなんです」 「カストラート・・・ってあの?」
少年期の美声を保つために幼い頃に去勢をした男性歌手のことだ。

驚くことに彼は去勢をしたという。

「やったのは自分なんです。 あの子はお姉さんのようになりたかったみたい」

少年の家はパン屋だった。 製パン所には食パンをスライスする機械がある。
思いつめた少年は、自分の睾丸を切り落としてしまうことにした。
悲鳴で両親がかけつけた時には床が血だらけだったそうだ。
傷は一見すると治ったように見えたものの、本来の機能は果たせなくなっていたそうだ。
だから声変わりもしなかったし、男らしい体つきにもならなかった。

「立石卓というのが本当の名前です」


美月のことも聞くが、今どうしてるのかはわからないというママ。


「ただ香里が言ったんです。  ママ、あたしたちは犯人じゃない。
あたしは戸倉さんを殺していないし、美月ちゃんも殺してない。 そのことだけは信じてって」


「美月も殺してない・・・・」



―――>第7章へ続く