ウズベキスタン | Lily's TranSupport ~リリーズ・トランサポート~ (宮城県仙台市)

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リリーズ・トランサポート!通称リリーのトラサポです! 宮城県仙台市の通訳・翻訳者です。トラサポは通訳・翻訳・語学支援を通して『人と言葉をつなぐお手伝い』をしております!

いよいよ3月9日(日)の世界一周カフェでは
『ウズベキスタン編』開催となります。

なかなかどんなところなのか知ることが少ないウズベキスタンですが、
実は根っからの大親日国なのです。こんなエピソードがありました。

■■■■■■■■■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
    日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆
  ■転送歓迎■ No.1373 ■ H19.12.03 ■ 9,344 部 ■■■■■■■

   ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇
場は、レンガ造りの三階建て観客席1400の建物で、市中心
部の代表的建造物として威容を誇っている。

 この劇場正面には、「1945年から46年にかけて極東から強制
移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、そ
の完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記された
プレートが設置されている。

 ウズベキスタンには大戦後、ソ連によって約2万5千人の日
本人抑留者が移送され、水力発電所や運河、道路などの建設に
あたった。中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、いまも国民
に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督
に会った。この人物は、まじめに、そして懸命に汗を流してい
た日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったという。

 捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地
元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ま
しながら、黒パンを握らせてくれたという。

 日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人
の抑留者によって2年がかりで建設したナボイ劇場なのである。
レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。

 66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際
も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日
本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親
日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人
への好感度は飛び抜けている、という。

 1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めるウズベキス
タンは、カリモフ大統領をはじめに日本の明治維新や戦後復興
をモデルとして「日本に見習え」を合言葉にしている。

 劇場前のプレートの表記についてはカリモフ大統領が、「決
して日本人捕虜と表記するな。日本とウズベキスタンは一度も
戦争していない」と厳命したそうである。

  2万人の抑留者のうち、800人以上が現地で死亡し、各地
の墓地に埋葬されたが、その多くは荒れ放題となった。しかし、
元抑留者たちが中心となって募金活動を行い、ウズベキスタン
政府の協力も得て、日本人墓地が整備された。また「日本に帰っ
てもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった抑留
者のために日本からサクラの苗木千三百本が送られた。

ウズベキスタンの人々は、ソ連時代、日本人墓地を潰して更地にするようにと指令が出ていたにも関わらず、その指令を無視して日本人墓地を荒らさずに守ってくれていました。
整備こそできないまでも、ここには日本人が眠っているのだからと、草が茂れば草刈りをしてくれたウズベキスタンの人々の友情と、祖先を大切にする優しい心に感謝しています。

墓地整備の目処がついた頃、ウズベキスタン政府に、
日本人墓地の整備をしたいとお願いしました。スルタノフ首相(当時)から直ぐに答えが返ってきました。
「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、
日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証として、
ウズベキスタン政府が責任を持って行う。
これまで出来ていなかったことは大変はずかしい。
さっそく整備作業に取りかかります」
ウズベキスタンでも呼応するかのように、素晴らしい提案がありました。
コジン・トゥリャガノフタシケント市長(当時)からの、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案でした。
今この公園は「さくら公園」と呼ばれているそうです。
中山恭子氏著 「ウズベキスタンの桜」より