学生時代に習った歴史がどんどん変わっているのですが、教科書から「聖徳太子」の名前が消えつつあると知り、驚きました。
「厩戸王(聖徳太子)」と記載されているものが多いそうです。
山岸涼子さんの『日出処の天子』により、厩戸皇子の名前には馴染みがあるのですが、聖徳太子の存在すら否定する説まであるそうです。
厩戸皇子と言えば、随への国書に
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや
と記し、煬帝を怒らせたという話が有名です。
この逸話は、『隋書倭国伝』に記載されていますが、
大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す
と、王の名前が「多利思比孤」と記されています。
大業三年(607年)当時の天皇は、推古天皇なのですが、「ひこ」という男性を思わせる名前から、「多利思比孤」は、厩戸王であったのではないかという説があるようです。
さらに、その前の随の記録書によると
開皇二十年、俀王、姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞彌は使を遣はし闕に詣る
とあります。
「俀」は「倭」、「北」は「比」の誤り、「阿輩雞彌」は「オホキミ」ではないかと言われています。
開皇二十年(600年)は、第1回の遣隋使が派遣された年とされていて、やはり推古天皇の時代です。
はたして、「阿毎多利思比孤」は誰であったのでしょうか?
推古天皇、厩戸王、用明天皇、蘇我馬子などの諸説があるようです。
私は、「阿毎多利思比孤」は「アメノタリシヒコ」で、天から下りて来た人、つまり天皇の当時の名称として使われていたのではないかという説が一番納得できます。
女帝が存在しなかった唐(唯一の女帝である武則天の即位は690年)に合わせた偽装であったという説もあるのですが、特に性別によって名称を区別する意識はなかったのではないでしょうか。
他の記述からの矛盾点が解明されていないのですが、ごくシンプルに「阿毎多利思比孤」は推古天皇であったと考えています。