江戸幕府の三大改革である「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は、いずれも質素倹約を基本方針としています。

改革と言うと、成功して経済が安定したかのようですが・・・


「享保の改革」は、江戸幕府中興の祖と呼ばれる徳川吉宗が実施した改革です。

小石川養生所

町火消し

目安箱

青木昆陽による甘藷の研究

大岡忠相の登用

などが有名ですが、実は最大の改革は農業による税収の増加で、不満を持つ百姓たちによる一揆が増加したそうです。

幕府の財政は安定しますが、年貢に頼る財政では一時的なものにしかならず、問題点を残しました。


その後、田沼意次が商業重視の政策に転換します。

近年、優れた経済政治家として評価されるようになった意次ですが、飢饉や天災が相次ぐなど不運が重なり失脚しています。


その次の松平定信は、尊敬する祖父吉宗に倣い、質素倹約を方針とする「寛政の改革」を実施します。

現代人としては、経済は回さないと財政は潤わないよと言いたいところです。

松平定信の「寛政の改革」は、失敗に終わったと評価されていますが、わずか6年の間に実施した政策の多さに驚きます。

優れた政策も数多くあったようですが、厳格すぎる改革は支持を得られなかったようです。

失脚の理由に、11代将軍徳川家斉が、実父の徳川治済に大御所の地位を贈ろうとした際に、隠居した将軍以外が大御所になったことがないと反対したためとする説もあります。事実かどうかは不明ですが、定信の逸話としてはありそうなので、「べらぼう」で登場するかもしれませんね。


そして、水野忠邦による「天保の改革」がまたまた質素倹約!

倹約令により深刻な不景気を引き起こし、やることなすこと失策ばかりです。

良い面を探そうと思ったけど、ことごとく失敗ばかりでした。あえて言うなら、外国船を刺激しなかったことでしょうか。

遠山景元が異議を唱え、忠邦と対立したそうです。「遠山の金さん」伝説は、庶民の人気から生まれたのでしょうね。

大名から庶民にいたるまで不評で、忠邦は反感を買い失脚しています。


もし田沼意次の政策が引き継がれていたら、江戸幕府はもう少し続くことができたのでしょうか?