三条天皇の譲位により、後一条天皇が即位し、道長がついに「摂政」となりました。

藤原道長といえば「摂関政治」と習ったのですが、実は「摂政」であった時期は、翌年頼通に引き継ぐまでのわずか1年ほどだったのですね!

道長の娘の威子が、後一条天皇に入内します。

産まれた時から「后がね」として育てられたとはいえ、9歳年下の甥への入内は複雑な心境だったことでしょう。

「光る君へ」では、はっきり嫌だと言っていて、その後ずっと能面のようになっていました。


中后・皇太后・太皇太后の三后すべてが道長の娘となり、祝宴で有名な「望月の歌」が詠まれました。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば


この「望月の歌」については、数年前に京都先端科学大学の山本淳子教授が、

「今夜は心ゆくまで楽しいと思う。空の月は欠けているが、私の月(后となった娘たち)と宴席の皆と交わした盃は欠けていないのだから」

という新解釈を発表されました。


「この世」を「この夜」と解釈しているので、そもそもこの歌が書き残されている『小右記』の漢字がどうなっているのかと思ったのですが、


此世乎は 我世と所思 望月乃 虧たる事も 無と思ヘハ


と「此世」と書かれていて、「此夜」ではなかったようです。

ただ、『小右記』の自筆原本は現存しておらず、

古写本も「望月の歌」の箇所については「望月の欠け」が残るくらいでその前後の文字の多くは焼失していて、江戸時代の新写本でしか確認できないそうです。


「光る君へ」の道長は、栄華の美酒に酔いしれているという雰囲気ではなく、ここに至るまでの道で失ったものに思いを馳せているかのように見えました。

后である娘達の冷ややかな表情や公卿達のそれぞれの思いが見えるような表情の中で、まひろは何か気づいたようでした。


敦成親王の誕生に際し、まひろは

めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代もめぐらめ

と詠んでいました。

望月の歌は、時を超えた返歌だったのでしょうか。


繰り返される唱和が寂しく響き、物語が終わりに近づいていることを感じさせられる回でした。