「百人一首」は子供の頃覚えたので、歌の正確な意味はわかっていませんでした。
中学生くらいになってから、徐々に歌の意味や解釈を学んで行きましたが、子供の頃の感覚のままの歌も数多くあります。
まひろが講義をしていた紀貫之の
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける
もその一つで、人の心は変わるけど、故郷の花はいつまでも変わらなく咲いているという通年的な歌だと思い込んでいました。
ところが、『古今和歌集』の詞書を読まなければ、この歌は理解できないと聞き、初めて読みました。
初瀬にまうづるごとに宿りける人の家に、ひさしく宿らで、程へてのちにいたりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやどりはある」と、言ひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる
長谷寺にお参りするたびに泊まっていた宿の主に長い間のご無沙汰を皮肉られて、梅の花を枝を折って詠んだ機知の歌だそうです。
「ふるさと」を「故郷」とするのがそもそもの間違いで、「昔馴染みの里」を意味しているそうです。
「変わったのではあなたの方ではないですか?梅の花は変わっていませんよ」と返しているのですね。
宿の主が誰かはわからないそうですが、このやり取りだとやはり女性だと考えた方が自然なように思います。
さて、「光る君へ」ではまひろがこの歌は唐の時代の詩人である劉希夷の
年年歳歳 花相似たり、歳歳年年人同じからず
を踏まえていると解説していました。
奥深いです。