『枕草子』によると、清少納言は優れた歌人の子孫であることにプレッシャーを感じていたようです。
「五月の御精進のほど」の章段で、中宮定子に歌を詠みたくない理由を
「優れた歌詠み(三十六歌仙に選ばれた父の清原元輔や曾祖父の清原深養父)の子孫なので、少しは他の人より上手く詠めて「あの時の歌は素晴らしかった。さすがにあの歌人の子だけのことはある。」と言ってもらえるなら詠み甲斐もあるけど、それほどでもないのに、我先にと最初に詠むのは、亡き父に申し訳ないのです。」(簡単な意訳です)
と話し、中宮より今後は歌を詠めとは言わないという承諾を得ます。
その後の庚申待ちの夜の催しで、歌を詠まないでいたところ、伊周から詠むようにと無理強いされますが、理由を話して詠まないでいると、中宮から
元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはおる
(元輔の後継者と言われているあなたなのに、今夜の歌詠みに参加しないでいるのね)
という文を投げて寄越され、大笑いして
その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし
(元輔の後継者と言われない身だったら、今夜の歌を一番に詠んだのですけどね)
と返しています。
清少納言が歌を詠むことを苦手としていたとは思わないのですが、出来具合や他人からの評価を気にしていたみたいですね。
『清少納言集』の歌は、言葉選びのセンスはさすがと思うのですが、
あまり響かない
のです。
美意識の高い人だから、自分の歌についても、冷静に評価していたのかもしれません。
清少納言の感性は、三十一文字には収めきれなかったのかもしれませんね。