「光る君へ」で、伊周が定子サロンを再び盛り上げるために『枕草子』を書写させて広めようと言い出す場面が描かれていました。


流布の経緯については、『枕草子』の跋文に、清少納言が里に下がっている時に源経房が訪ねて来て、意図せず目に触れたものをそのまま持ち帰り、かなり経ってから戻って来たけれど、ここから世間に流布されるようになったと書かれています。


「殿などのおはしまさで後」の段にて、道隆の死後、長徳の変が起こり、清少納言も道長方についたと疑われて、宮中に居づらくなり長い間里に下がっていたことが、

殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮も参らせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里に居たり。

と書かれています。

再出仕までのこの時期に『枕草子』が書き進められていたようです。