「光る君へ」では、三条天皇となる居貞親王が登場しました。


東宮である居貞親王の方が、一条天皇より4歳歳上であったため、「さかさの儲けの君」と呼ばれていたそうです。

居貞親王の母は、藤原兼家の娘である超子です。


兼家にとっては、二人とも孫になるので、外祖父として権力を手にすることはできるはずなのに、

984年の花山天皇即位に際し、年下の一条天皇が東宮として選ばれたのは何故でしょうか。


一条天皇の父である円融天皇(在位969-984)と、花山天皇と三条天皇の父である冷泉天皇(在位967-969)は、どちらも村上天皇の皇子ですが、藤原兼家は、冷泉天皇には長女の超子を入内させていたけれど、中継ぎと見られていた円融天皇に娘を入内させることにはあまり積極的ではなかったと言われています。

この時点で、円融天皇は兼家に良い感情を抱いてはいなかったと思われます。


詮子が入内し、皇子が生まれますが、子がいないにも関わらず藤原遵子を中宮としたことで、兼家と円融天皇の関係は悪化します。


冷泉天皇と超子女御には、居貞親王達3人の親王と内親王が生まれており、冷泉系に皇統が引き継がれていくのかと思われましたが、円融天皇が懐仁親王(一条天皇)の立太子を譲位の条件としたそうです。


この時、居貞親王が東宮とならなかったのは、この2年前の982年に超子女御が亡くなっていたことが、多少の要因としてあるのではないかと推察しています。

外戚の後見を取り持つ母后の重要性は、この後の詮子の果たした役割でも明らかかと思います。


花山天皇(在位984-986)の退位にあたり、一条天皇(在位986-1011)が即位し、居貞親王が「さかさの儲けの君」となりました。

三条天皇(在位1011-1016)即位まで25年間東宮として過ごすことになります。