藤原道兼は、関白就任からわずか数日で疫病により亡くなり、「七日関白」と呼ばれています。

民のために良い政治をすると道長に語る道兼は、意欲に溢れていました。

白居易の諷喩詩のテーマである「兼済」の志が思い浮かびます。

まひろが、弟の惟規に白居易の『新楽府』の話を聞いて読みたがっていましたが、道兼・道長兄弟はすでに読んでいたのかもしれません。

紫式部が宮廷出仕した際に、中宮彰子への漢文進講のテキストとして『新楽府』を使用したそうです。


道兼の死去により、いよいよ道長と伊周による後継争いとなります。

道隆死去の時、道兼35歳、道長28~29歳、伊周20~21歳でした。

道隆は後継を伊周にすることを望んでいましたが、年齢を考えると、道兼が選ばれたことは自然でした。

道兼死去にあたり、道長と伊周の年齢差が8歳であったことから、ここで初めて後継争いが起きたのかと思います。


一条天皇の寝所に女院詮子が乗り込み、道長を選ぶように迫った話は、『大鏡』により伝えられています。

実際にこのような出来事があったかは不明ですが、一条天皇がまだ14~15歳であったことを考えると、母の意向が与えた影響は大きかったと思います。


倫子と母穆子が、女院を土御門邸にお招きしていて良かったと話す場面がありました。

この時、詮子が土御門邸を御所にしていたことは、道長を頼みにしていたことの現れであり、道隆の失敗だったと思います。

また、若い伊周の無理な登用も公卿達の反感を招いていました。

ドラマでは、一条天皇が公卿達が二つに分かれることを望まないとして、道長に内覧宣旨を与えます。

この後、伊周・隆家兄弟が長徳の変という軽挙妄動を起こしたことを併せて考えると、一条天皇の判断は賢明であったと思います。


敗れた伊周が、中宮定子に「素腹の妃」という酷い言葉を浴びせ、父である道隆と同じように「皇子を産め!」と迫る場面が強く印象に残りました。

実際には、父と兄と言えど、中宮にこのような無礼を働くことはあり得ないことですが、皇子誕生は中関白家にとっての悲願でしたので、定子のプレッシャーは大きかったと思われます。

一家の没落後に、念願の皇子誕生となったのも、歴史の皮肉を感じます。