兼家が臨終の際に、妻である道綱母の歌を詠んでいましたが、道隆もまた妻の貴子(儀同三司母)の歌
忘れじの行末までは難ければ今日を限りの命ともがな
を詠み、出会いの思い出を語っていました。
貴子は「スン」としていたそうです。(「虎に翼」笑)
糖尿病となり余命わずかとなった道隆が、伊周や貴子達の行く末を案じ、道兼や一条天皇に縋り、中宮定子に「皇子を産め!」と叫び続ける様子は凄まじく、哀れなものでした。
責められる定子が可哀想だったのですが、一条天皇は14~15歳であり、ちょうど傀儡であることへの疑問や反発が芽生える時期であったと思います。
もしこの時に皇子がすでに産まれていたら、皇統を継がすための道隆亡きあとの後見を考慮したと思われるので、歴史が変わっていたかもしれません。
女院詮子が、道兼を好きではなかったけど、伊周はもっと嫌という率直な発言をしていましたが、それほど単純な話ではなく、東宮が冷泉系であり、一条天皇より年上であったことを考えると、皇統を引き戻すためには、若年の伊周では不足と考えたのではないでしょうか。
今回すでに「長徳の変」の原因となった三の君のもとに伊周が通っているという話題がありました。
軽率な中関白家の兄弟は、詮子にとっては関白の地位を任せられる存在ではなかったかと思われます。
まひろが、荘子の「胡蝶之夢」を書写していました。
夢と現実がはっきりしないという説話ですが、豊臣秀吉の辞世の句
露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢
を思い出しました。
臨終に際し「秀頼を頼む」と徳川家康達に頼み続けていた姿が道隆と重なります。
人の世の栄華は儚く、権力は移ろい行くものであることを歴史は繰り返し語っています。
だけど、『源氏物語』のように千年の時を超えるものを、人は創ることもできるのだと、まひろが何かを書き始める姿が教えてくれています。