こんにちは。
最近放映されている赤飯おむすびの素のCMが好きです。
いいCMです。
ああいうCMを作る人はどんな人だろうと想像します。
最近、マスメディアは伝える情報をもっと意義があるものにして欲しいと感じることが増えてきました。
何でそんなことを感じるようになってきたのか考えてみました。
テレビに出ている人はテレビが持つ世間への影響力をきちんと理解しているのかと疑問に思うことが多々あります。その中でもニュースとかワイドショーとかは主観を織り交ぜながら報道しすぎだと思います。
考えるというプロセスは視聴者一人ひとりが持つべきです。
考えるということは人間の大きな特徴ですから。
分かりづらい報道内容については詳しく説明してもらわねば、視聴している側が「考える」という段階に進めないこともあります。
しかし、最近の報道は、報道の内容に対していくつかのものの見方ができるはずなのに、ある一つの視点からしかニュースの内容を伝えていない気がします。
視聴者は、ニュースで報じられた内容についていくつかの見方ができるということを理解した上で、自分はこの視点からニュースを見るのがいいと判断するのが理想だと思います。
しかし、報道する側はしばしば、視聴者にいくつかの視点を提供せぬまま、そのニュースを分析して解釈までしてしまうのです。
これは、視聴者から「考える」という視聴者にとって重要なプロセスを奪っているといえます。
考えることを奪われた視聴者は、その番組を見て、テレビ局がニュースについて考えた後に出てきた結果を見ることしかできません。
つまり、自分で考えた産物ではない思考の結果として得られた、「テレビ局の意見」を「自分の意見」とすりかえられているのです。
扇動です。
そもそも「報道」という言葉には知らせるという意味合いのレベルしかないと僕は考えているので、そこから一歩以上踏み込んだ「選択」「解釈」「理解」を行っている現代のメディアは「報道」とは呼べないと思います。
また、報道する側にだけ責任があるのではないとも思います。
これは、現代の視聴者がその報道のあり方を望む傾向があるから報道がこのように変化してきたということです。
あまりテレビの世界に詳しくないので推測の域を出ませんが、恐らく、テレビ番組は視聴者からの人気による淘汰の世界だと思います。人気がある番組は存続し、人気の無い番組は消えていく。
番組を作る側は次々といろいろなタイプの新番組を制作し、それが視聴者の人気によってふるいにかけられていく。そういうものだと思います。
つまり今の報道とは呼びがたい「報道」を選択して、それを生存させてきたのは視聴者自身であると思うのです。
これまでのことをまとめて考えると、視聴者は考えることを放棄しているのではないかと思われます。
視聴者は、自分が「考える」行程をテレビ局に委嘱しているともいえます。
「視聴者の考える権利」略奪のストーリーは、
民放のニュースのように、ニュースの前後にパーソナリティが「痛ましい事件です」等の主観を忍ばせる。こうして、テレビの中で、ある一つの意見を自己完結させるような番組が偶然放映される。それを受けて、考えるというプロセスが少なくて済むこうした番組を多くの視聴者が見る。
その番組の人気が上がり存続する。
その結果を見たテレビ局は、これこそが今の時代に求められている番組のあり方なのだと思いこむ。盲目的に。
というものです。
テレビは多くの人が視聴するものであり、人々に対して大きな影響力を持ちます。
したがって、そこで放映される内容は人々を悪い方向へ導いてはならないと思います。
ですが、そのテレビで放映される内容は人々によって取捨選択されるのです。
このシステムは非常に不安定で危険なものであると思います。
人々が取捨選択する事が必ずしも正しいあるいは良いとは限りません。
しかし、このシステムは正しいことを抽出する、あるいは悪いことを排除するというフィルターもなしに人々の判断を増幅してしまうのです。
こうした装置は、無秩序が増大する可能性と、秩序が増大する可能性を持っていますが、前者の可能性のほうが後者の可能性よりもはるかに大きいと思われます。
なんか、こんなことを書くと大衆を扇動しようとしている人みたいになってしまいますが、そういうことが言いたいのではなく、要するに報道は分をわきまえろということがいいたかったのです。
そもそも報道が、報道する側の主観を報道する内容に織り交ぜ始めたのがこの無秩序増大の発端です。
いくら視聴者がそうした報道(視聴者が考えることを放棄して、本来の報道から更に視聴者が考えるべき領域に踏み込んで来ること)を望んでいるとしても、テレビ局は、自らが持つ影響力の強さと、視聴者とテレビ局の関係性の不安定さを自覚して、そういった出すぎた報道を自粛すべきであるということです。
最近では、(言葉は悪いですが)報道する側もアホになっていると思います。
お昼時の報道などはまさにオバチャンの井戸端会議状態です。
公共の電波でそんな中身の無い議論を数時間に渡って放映するなどということは、くどいほど述べてるテレビが持つ影響力を無視しているとしか言えません。
全く社会の情勢など理解しておらず、学問も無い人々の井戸端会議が社会の意見になりうるということです。
これは誰が考えても危ういことです。
ましてや、「視聴者の視点から、親近感ある報道をすべく中卒のお笑い芸人をコメンテーターに!」
などとはもってのほかです。
分不相応はなはだしい限りです。
それをあたかも前衛的でセールスポイントのように声高に述べまくっているテレビ局はもはや自分がもつ影響力を微塵も理解できていません。こうなってくるとテレビ局としての存在意義は無いものと思われます。
「最近社会がどこかおかしい」
とかそういう類のことをニュースの感想として述べているコメンテーター等がいます。
これは、まだ確証を掴んだわけではないのですが、人々が考えることを放棄していることに起因するのではないかと思っています。
そして、テレビが視聴者の考えるプロセスを奪ったことは、この人々の「考えることの放棄」の原因の一つとして存在していると思います。
テレビは人々の考える機会を削り始めたので、社会がおかしくなってきたというのは少し過激すぎますか・・・
ごめんなさい。
ですが、もしテレビ局すらこの事に気づいていないとしたら非常にたちが悪いと思います。
自覚している悪影響よりも、自覚できていない悪影響の方が深刻ですから・・・
だんだん論が過激になってきました。
べつに扇動者とかじゃないです、ただの日記なので皆さん受け流してください。
お粗末さまでした。
最近放映されている赤飯おむすびの素のCMが好きです。
いいCMです。
ああいうCMを作る人はどんな人だろうと想像します。
最近、マスメディアは伝える情報をもっと意義があるものにして欲しいと感じることが増えてきました。
何でそんなことを感じるようになってきたのか考えてみました。
テレビに出ている人はテレビが持つ世間への影響力をきちんと理解しているのかと疑問に思うことが多々あります。その中でもニュースとかワイドショーとかは主観を織り交ぜながら報道しすぎだと思います。
考えるというプロセスは視聴者一人ひとりが持つべきです。
考えるということは人間の大きな特徴ですから。
分かりづらい報道内容については詳しく説明してもらわねば、視聴している側が「考える」という段階に進めないこともあります。
しかし、最近の報道は、報道の内容に対していくつかのものの見方ができるはずなのに、ある一つの視点からしかニュースの内容を伝えていない気がします。
視聴者は、ニュースで報じられた内容についていくつかの見方ができるということを理解した上で、自分はこの視点からニュースを見るのがいいと判断するのが理想だと思います。
しかし、報道する側はしばしば、視聴者にいくつかの視点を提供せぬまま、そのニュースを分析して解釈までしてしまうのです。
これは、視聴者から「考える」という視聴者にとって重要なプロセスを奪っているといえます。
考えることを奪われた視聴者は、その番組を見て、テレビ局がニュースについて考えた後に出てきた結果を見ることしかできません。
つまり、自分で考えた産物ではない思考の結果として得られた、「テレビ局の意見」を「自分の意見」とすりかえられているのです。
扇動です。
そもそも「報道」という言葉には知らせるという意味合いのレベルしかないと僕は考えているので、そこから一歩以上踏み込んだ「選択」「解釈」「理解」を行っている現代のメディアは「報道」とは呼べないと思います。
また、報道する側にだけ責任があるのではないとも思います。
これは、現代の視聴者がその報道のあり方を望む傾向があるから報道がこのように変化してきたということです。
あまりテレビの世界に詳しくないので推測の域を出ませんが、恐らく、テレビ番組は視聴者からの人気による淘汰の世界だと思います。人気がある番組は存続し、人気の無い番組は消えていく。
番組を作る側は次々といろいろなタイプの新番組を制作し、それが視聴者の人気によってふるいにかけられていく。そういうものだと思います。
つまり今の報道とは呼びがたい「報道」を選択して、それを生存させてきたのは視聴者自身であると思うのです。
これまでのことをまとめて考えると、視聴者は考えることを放棄しているのではないかと思われます。
視聴者は、自分が「考える」行程をテレビ局に委嘱しているともいえます。
「視聴者の考える権利」略奪のストーリーは、
民放のニュースのように、ニュースの前後にパーソナリティが「痛ましい事件です」等の主観を忍ばせる。こうして、テレビの中で、ある一つの意見を自己完結させるような番組が偶然放映される。それを受けて、考えるというプロセスが少なくて済むこうした番組を多くの視聴者が見る。
その番組の人気が上がり存続する。
その結果を見たテレビ局は、これこそが今の時代に求められている番組のあり方なのだと思いこむ。盲目的に。
というものです。
テレビは多くの人が視聴するものであり、人々に対して大きな影響力を持ちます。
したがって、そこで放映される内容は人々を悪い方向へ導いてはならないと思います。
ですが、そのテレビで放映される内容は人々によって取捨選択されるのです。
このシステムは非常に不安定で危険なものであると思います。
人々が取捨選択する事が必ずしも正しいあるいは良いとは限りません。
しかし、このシステムは正しいことを抽出する、あるいは悪いことを排除するというフィルターもなしに人々の判断を増幅してしまうのです。
こうした装置は、無秩序が増大する可能性と、秩序が増大する可能性を持っていますが、前者の可能性のほうが後者の可能性よりもはるかに大きいと思われます。
なんか、こんなことを書くと大衆を扇動しようとしている人みたいになってしまいますが、そういうことが言いたいのではなく、要するに報道は分をわきまえろということがいいたかったのです。
そもそも報道が、報道する側の主観を報道する内容に織り交ぜ始めたのがこの無秩序増大の発端です。
いくら視聴者がそうした報道(視聴者が考えることを放棄して、本来の報道から更に視聴者が考えるべき領域に踏み込んで来ること)を望んでいるとしても、テレビ局は、自らが持つ影響力の強さと、視聴者とテレビ局の関係性の不安定さを自覚して、そういった出すぎた報道を自粛すべきであるということです。
最近では、(言葉は悪いですが)報道する側もアホになっていると思います。
お昼時の報道などはまさにオバチャンの井戸端会議状態です。
公共の電波でそんな中身の無い議論を数時間に渡って放映するなどということは、くどいほど述べてるテレビが持つ影響力を無視しているとしか言えません。
全く社会の情勢など理解しておらず、学問も無い人々の井戸端会議が社会の意見になりうるということです。
これは誰が考えても危ういことです。
ましてや、「視聴者の視点から、親近感ある報道をすべく中卒のお笑い芸人をコメンテーターに!」
などとはもってのほかです。
分不相応はなはだしい限りです。
それをあたかも前衛的でセールスポイントのように声高に述べまくっているテレビ局はもはや自分がもつ影響力を微塵も理解できていません。こうなってくるとテレビ局としての存在意義は無いものと思われます。
「最近社会がどこかおかしい」
とかそういう類のことをニュースの感想として述べているコメンテーター等がいます。
これは、まだ確証を掴んだわけではないのですが、人々が考えることを放棄していることに起因するのではないかと思っています。
そして、テレビが視聴者の考えるプロセスを奪ったことは、この人々の「考えることの放棄」の原因の一つとして存在していると思います。
テレビは人々の考える機会を削り始めたので、社会がおかしくなってきたというのは少し過激すぎますか・・・
ごめんなさい。
ですが、もしテレビ局すらこの事に気づいていないとしたら非常にたちが悪いと思います。
自覚している悪影響よりも、自覚できていない悪影響の方が深刻ですから・・・
だんだん論が過激になってきました。
べつに扇動者とかじゃないです、ただの日記なので皆さん受け流してください。
お粗末さまでした。