ウラジオストクからアメリカへ送った手紙 エレノア・プレイ | 日本と東南アジアに興味のあるウラジオスク人の生活のブログ

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私は日本と東南アジアに興味があって、時々印象のことの記事を書きたいと思います。それに、ウラジオ人としてウラジオストクの生活も書きたいと思います。よろしくお願いします!

皆さん、こんにちは!ウラジオのリリアンです

 

皆さん、海外へ行って長い時間あそこにすんでみたいんですか?って、長い時間は何でしょうか?一年間か、二年間か、五年間、一生ぐらいか… 

 

例えば、エレノア・プレイはウラジオストクに三十六年間住んでいたですけど、プレイさんの出身はメイン州でした。エレノアはメイン州でフレデリック・プレイと結婚して、ご主人の仕事なので、1894年にウラジオストクへ来ました。エレノアはその前に小さい町に住んでいたので、ウラジオスクはあまり発達しなかったのに、最初に見て感動しました。アメリカの友達のところへウラジオストクについての手紙を多く送っていました。プレイさんの手紙はあのころのウラジオストクの生活について調べられるので、役に立ちました。プレイさんは「この町は私のように愛する人がほとんどいないと思う。私は人に笑われるけど、仕方がないね。ウスリー湾とアムール湾が見えないところに住んでいるのは思いづらいだから。」と一回書きました。残念ながら、1930年にプレイさんは失業者になって、上海市の家族の家へ行かなければなりませんでした。革命があって、それからご主人は亡くなったのに、プレイさんはぎりぎりウラジオストクを投げたくなかって、失業のことだけで引っ越すことにしました

 

さ、エレノアの手紙を少し見てみましょうか?

 

プレイさんは手紙を二千五百通ぐらい書いておきました。全部調べるのは少し難しいと思うけど、少しだけ見ていきましょう

 

最初に、プレイさんはウラジオストクの気候で不満だったそうです。1895年、プレイさんは「私にとって、ウラジオスクの気候は最もひどいのよ。開化した世界は六月と七月夏に当たる天気なのに、私たちの家は風が強くて寒いし、天気がまずい!」と書いていました。まあ、東アジアに当たる気候かもしれませんか。現代、ウラジオストクの六月は日本の梅雨のように天気がありますけど、七月は今しばしば蒸し暑くて、プレイさんの時代の天気と少し違うと思います。それにしても、ウラジオストクへ行ったら、六月ジャケットとかさをもっていって、七月ならもジャケットとみがるな洋服を持っていったらいいのではないかとおもいます

 

プレイさんはウラジオスクに住みながら、ニコライ2世というロシアの最後の皇帝の就任式をはじめロシアの歴史やロマノフ家の統治の終幕や革命の目撃者になりました。例えば、就任式について、「今日は大きい祝賀会だったわ。各旗をあげるし、各船がぬってあるし、私さえ楽しめる花火もあった。花火は、『ニコライ』と『コルニロフ』と『ナヒモフ』と『モノマフ』という船のカノン砲からさせた。花火はときどきうるさすぎた。ニコライ2世は就任したから一年だったら、昨日士官は諒闇のバンドをはずさされた。」と書きました

 

ウラジオスクはモスクワからとおくても、ここさえ祝賀会がありました。でも、ニコライ二世は就任する時、アレクサンドル3世が亡くなったので、ニコライ2世が就任したことの祝賀会をすぐにさせるのはダメでした。それで、諒闇のために、一年間待たなければなりませんでした

 

では、『ニコライ』と『コルニロフ』と『ナヒモフ』と『モノマフ』って、どんな船でしょうか?みていきましょう

写真が古いのに、大きい船でしょうね

『ニコライ』で、ニコライ1世にちなんで名前をつけられました

Эскадренный броненосец «Император Николай I»

『コルニロフ』で、当時に当たらないのではないでしょう

『ナヒモフ』で、もっとモダンなイメージがあると思われます

«Адмирал Нахимов» в 1899 году

 

『モノマフ』で、『ナヒモフ』のようですね

Крейсер Владимир Мономах.jpg

もっとくわしくなりたいけど、船の知識がほとんどなくて、すみません

 

ウラジオスクはアジアなのに、いろいろな文化があります。たとえば、独国とロシアの伝統は強かったです。1908年6月15日、プレイさんは『先週の日曜日は三位一体という祭りだったが、今日はウィットマンデーなのだよ。独国とロシアの伝統のとおり、全てが青い枝で飾ってあると言うまでもないんだ。』と書きました

 

ウラジオスクはロシアの町で、ほかのロシアの町の通りに、ハリストス正教会は国家に最も支えられました。例えば、仕事のために、時々ハリストス正教会の伝統にしたがらなけらばなりませんでした。1895年、プレイさんは「今は四旬斎だから、教会へ行く兵卒の組をよく見ている。各組は、聖餐を受けるために、三日間朝と夜教会へ行かなければならない。」と書きました

今、もちろん、そのことがないですし、ハリストス正教会とルーテル教会の祭りはそう人気ではありません。かえって、マースレニツァをはじめ教会に関しない祭りの方が人気です

 

ハリストス正教会ばかりでなく、ルーテル教会もありました。1909年、プレイさんは「新しいルーテル教会の聖化の日付は日曜日となるはずだから、私たち古い教会に集まって、短い送別会を行うことになる。そして、庭から聖化される新しい教会へ行くつもりだ。新しい教会は煉瓦から作ったら、とてもきれいで、この町のあたりにいい建物だわ。」と書きました。

その教会はまだあるそうです。本当にきれいですね。きれいで、独国の伝統にしたがってただしいほど、この教会は1997年から『独国の文化の海外の記念館』とよばせていただきました。また、独国からオルガンを届いていただきました。今も、教会へ行ければ、このオルガンの音楽が聞けます。この教会へ行く人は音楽が好きなようで、時々音楽会をします。オルガンばかりでなく、ギターも聞けます

Лютеранская церковь Св. Павла во Владивостоке: описание, история, фото,  точный адрес

プレイさんの手紙はその本から取りました。ロシア語ですが、ほんやくしてみました

Письма из Владивостока. 1894-1930 — Элеонора Лорд Прей

簡単ですが、それは以上です。皆さん、どうですか?一番興味深いことがあるのでしょうか?どうでもいいですよ!観光地とか自然とか伝統とか…

この手紙に興味があれば、コメントで教えてください!今度大好きなことを話しましょう!

では、またね!