今日の朝読書
蔡温

あ〜新里堅進さん
絵も描写も上手い✨

どの本も
サクサク読めるし
素晴らしいなぁ

おすすめです

蔡温は1682年10月25日生まれ

那覇の久米村で最高実力者の総役の地位にいた志多伯天将(したはく てんしょう)、唐名・蔡鐸(さいたく)の次男として生まれました。


少年時代は反抗的で怠け者だったのですが、17歳で学問に目覚め、20歳頃までには論語をはじめとする多くの書物を読み、19歳で通事(通訳)に任命されました。


27歳には進貢在留役になり、現地通訳として清の福州へ就任します。そこで出会った「湖広の者」と名乗る隠者から「書物を読み知識を習得しただけでは何の役にも立たない」と指摘を受け実学の思想に目覚めました。


そして、琉球へ帰国後まもなく自ら琉球北部を視察して歩きました。



30歳で、当時の皇太子・尚敬の教師である世子師職兼務近習役を任命されます。尚敬王が即位すると、国師と呼ばれる地位に就任。国師は琉球王国の歴史において蔡温以外誰も就任したことのない地位で、琉球王国全体を指導する役割でした。



1719年、蔡温が38歳で末吉親方だった頃、清からの冊封船が到着した際に大量の貨物を持ち込み、琉球王府に買取を要求しました。当時の琉球には買い取るだけの財力がなく清の従者500人と騒動が起きました。対応を任された蔡温は、琉球国中から物品を集め、貨物の評価に立ち合いこの騒動を収めたのです。


1726年、尚敬王とその配下305名による琉球北部視察を行なっています。


1734年
対立していた平敷屋朝敏が蔡温を批判する文書を薩摩藩に投書する事件が起こり、朝敏と配下15名が処刑されています。


羽地大川の水害の際には、3ヶ月で河川改修を行いました。森林資源保護を行い植林を奨励し、農業用水路の整備を進め、土地所有を明確にし、暴風に対する食糧備蓄制度を充実させました。


そして、農民を組合に所属させ納税の連帯責任を負わせることで農民同士の協力を促し、相互監視による税収の安定化をはかりました。この組合組織はのちに、ユヒマワル、ユイマールと呼ばれるようになります。


また、名護に「三府龍脈碑」を建立しました。


沖縄に、こんな凄い政治家が居たなんて!
と感動しますね





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