読谷村に「艦砲ぬ食ぇー残さー」の歌碑があります
艦砲ぬ喰ぇ残さーの歌碑
沖縄 県 中頭 郡 読谷 村 楚辺 1909, 1909 字楚辺 読谷村 中頭郡 沖縄県 904-0304
https://goo.gl/maps/LnVdWCb5w1ZJpwEz6
沖縄戦で家族を失った悲しみを歌った
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑
2013年6月23日沖縄戦で家族を失った悲しみを歌った沖縄民謡の名曲「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑が作詞作曲した比嘉恒敏さんの出身地、読谷村楚辺のユウバンタ内に完成しました。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑除幕式で歌碑建立実行委員長の池原玄夫氏は、「この歌碑が、世界中に戦争の悲惨さと平和の尊さを発信する記念塔の役目を果たしてくれる事を願っております。」と挨拶しました。
除幕式では、恒敏さんの娘4人でつくるコーラスユニット「でいご娘」の皆さんによる演奏に合わせ、「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の合唱が行われました。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、笑いを誘う歌詞や軽快なリズムの中に、家族を失った悲しみや平和を願う心を歌い、多くの人の共感を呼びました。
実行委員長の池原玄夫さんは「一人一人の中に艦砲のような物語がある。この歌が子や孫の時代になっても歌い継がれて欲しい」と語りました。
読谷村観光協会サイトより
作詞作曲された比嘉さんは、長男と父を、疎開船「対馬丸」への米軍の魚雷により亡くし、次男と妻を出稼ぎ先の大阪大空襲で失ったそうです。戦後沖縄へ戻り、荒廃した古里を前に、家族を亡くした孤独感をこの歌で表現したそうです。
比嘉さんは、残念ながら1973年、飲酒運転の米軍人の運転する車に追突され、再婚された妻さんと共に亡くなられました。
歌詞 訳: 朝 比呂志
一、若さる時ね戦争ぬ世
若さる花ん咲ちゆさん
家ん元祖ん親兄弟ん
艦砲射撃ぬ的になてぃ
着るむん喰えむん むるねえらん
スーティーチャー喰で暮らちゃんや
(うんじゅん我んにん
汝ん我んにん艦砲の喰い残さ)
訳)
若い時分には戦争ばかり
若い花も咲かずじまい
家屋敷、ご先祖、肉親
艦砲射撃の的になってしまい
衣食何もかも失い
蘇鉄を糧にして暮らしを立てたもの
(あなたも私も
おまえもおれも艦砲の喰い残し)
二、神ん仏ん頼ららん
畑や金網 銭ならん
家小や風ぬうっ飛ばち
戦果かたみてぃ すびかってぃ
うっちぇーひっちぇーむたばってぃ
肝や誠るやたしがや-
神も仏も頼れず
田畑は金網囲いで日銭にもならず
ボロ家なんぞ暴風にいかれ
米軍のくすね物で捕まり
したたかにいたぶられ
沖縄の人の心は正直なれど
三、泥ぬ中から立ちあがてぃ
家内むとぅみてぃ 妻とぅめーてぃ
産子ん生まりてぃ 毎年産し
次男 三男 チンナンビー
哀りぬ中にん 童ん達が
笑い声聞き 肝とぅめーてぃ
泥の中から起ち直り
家みたいなものをたて妻をめとり
子供も生まれ年子つづき
次男三男つぎつぎと
苦難の道ではあれ
子らの笑い声に心を落ち着かせる
四、平和なてぃから幾年か
子ぬ達んまぎさなてぃ居しが
射やんらったる山猪ぬ
我が子思ゆる如に
潮水又とぅ んでぃ思れー
夜ぬ夜ながた 眼くふぁゆさ
平和の世を迎え 何年経ただろうか
子らも成長していく
射ち損ないの猪が
我が子を案じる如く
苦い潮の水は二度との想いで
夜っぴ眠れぬ日もあり
五、我親喰ゎたる あぬ戦争
我島喰ゎたる あぬ艦砲
生まり変わてぃん 忘らりゆみ
誰があぬじゃま しー出ちゃら
恨でぃん 悔やでぃん 飽きじゃらん
子孫末代 遺言さな
わが親喰ったあの戦
わが島喰らったあの艦砲
生まれ変わったとて忘れるものか
誰があのざまを始めた
恨んで 悔やんで まだ足りない
子孫末代 遺言しよう
ボタンを押して
曲を流しながら動画を撮りましたので
よろしければご覧ください
読谷海岸へおしよせる米艦船群
1945年(昭和20年) 4月1日、アメリカ軍は比謝川河口を中心として南北10キロ余りの海岸から上陸してきました。それはあきらかに北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)攻略を目指したものでした。
アメリカ軍は1400〜1500隻の艦船と183000人の兵員で上陸を行い、ほとんど無抵抗のうちに上陸し、その日のうちに2つの飛行場は占領されてしまいました。
アメリカ軍は海・空・陸から地形が変わるほどの激しい艦砲射撃を行い、この戦闘が「鉄の暴風」と呼ばれ、緑豊かな島は焦土と化した。
説明板より
戦後68年が経過し、沖縄戦の実相が時代とともに風化していくことが危惧されている今日、改めて戦争の過ちを繰り返さないため、沖縄戦体験の継承が課題となっている。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は1971年頃、故、比嘉恒敏氏が作詞作曲した沖縄民謡で1975年、恒敏氏の4人娘、民謡グループ「でいご娘」がレコーディングし県内で大ヒットした。
歌詞の中には戦中、戦後の沖縄戦体験者の思いが綴られていて艦砲射撃によって犠牲になった人々への哀悼と共に、悲惨な沖縄戦を生き残った"うちなーんちゅ"の
戦争を恨み平和を願う心情が綴られ「恨でぃん 悔やでぃん 飽きじゃらん 子孫末代 遺言さな」と結ばれている。
悲惨な沖縄戦の実相を伝える象徴として、この地から全世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信するため「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑を建立する。
2013年 6月23日
説明板より
今日は8月15日
沖縄にとって1945年の8月15日は
終戦とは、はっきり言い切れない日です
なぜなら、宮古周辺、八重山では8月15日まで戦闘が続いていて、日本軍が武装解除したのは9月上旬でした
日本政府は8月14日にポツダム宣言を受諾しましたが、沖縄ではまだ戦闘がつづいていたのです
9月2日東京湾のミズリー号で日本が連合軍に対し公式に降伏調印をし、沖縄では9月7日、現在の嘉手納基地において正式に降伏調印式が執行されました
それでもなお、沖縄では
戦争が終わった事を知らずに
地下に広がるガマ(洞窟)に身を潜めた住民や日本兵が
まだ残っていました。
「戦争は終わったんだ」と説得に来た人の声も信じる事が出来なかったのです
訓練をまともに受けたことのない学生から老人までもが招集され、不足した兵力を補うため戦場へ出て行き、1人10殺の闘魂を叩き込まれ多くの命が散っていきました
無差別攻撃を仕掛ける目の前の米軍、スパイ容疑で住民を殺し、壕を追い出し食糧強奪する、味方のはずの日本軍
助け合えるはずの人々が、死の恐怖に苦しみ、
人でなくなり狂ってしまう戦争
米軍が鬼畜だとか
日本軍が非道だったとか
そういう意味ではなく
そこから何かを学びたい
憎しみ合い、奪い合い
恨み合い、殺し合いから
何かを得る事はできたのでしょうか
戦争から75年、ますます忘れ去られていく記憶
二度と繰り返さない為にも
わたしを含め、戦争を知らない世代こそ
うわべだけの学習でなく
生の声を聴き、心に刻み
これからの未来を生きる次の世代へ
伝えていかなければならないと
思います
あらためて
亡くなられた全ての方の
ご冥福をお祈りいたします
最後までお読み頂きありがとうございました。
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