バスに乗って
戦跡地巡りをしていると
年齢問わずリクエストが来る
歌の一つがこの歌です
「さとうきび畑」
場所はこちら
「さとうきび畑」の歌碑
沖縄戦から19年経った1964年6月に「さとうきび畑」の作詞作曲者・寺島尚彦は34歳で初めて沖縄を訪れ、地元の人の案内で、激戦地であった南部・摩文仁のサトウキビ畑に立ちました。この時のことを寺島尚彦はこのように書き残しました。
車から降りて土の道をどのくらい歩いただろうか、気がつくと私の背丈よりずっと高く伸びたサトウキビ畑の中に埋れているのだ。熱い南国の日差しと抜けるように青い空。
その時だった、「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています。」天の声のように言葉が私に降りかかり、一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波うつサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ。
轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者達の怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。
寺島尚彦は2年近くかけてサトウキビ畑をわたる風の音「ざわわ」という言葉にたどり着き66回繰り返される「ざわわ」に思いを込め、1967年、「さとうきび畑」は生まれました。
そして半世紀近く経った今も、多くの歌手や合唱団によって全国で歌い継がれ、普遍的な世界平和を希求する名曲として、世代を超えて人々の心の中に染み込んでいきます。
住民の4人に1人が亡くなるという未曾有の被害をもたらした沖縄戦において、読谷村は「昔から 海の向こうからいくさがやってきた」地点のひとつです。歌碑は「さとうきび畑」歌碑建立実行委員会により建立され、読谷村に寄贈されました。
作曲家・寺島尚彦のプロフィール
1930年6月4日生まれ、東京出身。「さとうきび畑」など作詞も多数。東京芸術大学音楽学部作曲科卒業後、コンボバンド「寺島尚彦とリズムシャンソネット」を結成、ピアニストとしてNHK「♯さん♭さん」「なかよしリズム」などのテレビやラジオで活躍。
作品は「みんなのうた」や「全国高校音楽コンクール」課題曲をはじめ、学校の教科書などに数多く提供。全国の学校の校歌も手掛ける。
作曲以外にも演奏会の企画制作、コラム、エッセーの執筆、講演活動を行い、同時に大学でも教鞭をとり多くの演奏家を育てた。生涯現役を貫き、2004年3月23日永眠。
説明板より
大きな歌碑
押すと「さとうきび畑」が流れてきます
曲を流しながら
動画撮影しましたので
よろしければご覧ください
1.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで
2.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
昔海のむこうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしのなかで
3.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしのなかで
4.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終わりがきた
夏の陽ざしのなかで
5.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える
母の子守の歌
夏の陽ざしのなかで
6.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た
夏の陽ざしのなかで
7.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声を探しながら
たどる畑の道
夏の陽ざしのなかで
8.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このままみどりの波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしのなかで
9.ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで
10.ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ
波のように押しよせる
風よ悲しみの歌を
海に返してほしい
夏の陽ざしのなかで
11.ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない
歌詞を書きながらも、
涙がこぼれます
私が泣いているのでしょうか
それとも
泣けなかった
誰かの代わりに流れる涙でしょうか
歌碑の後ろは、さとうきび畑
話は変わりますが
私の一族は久米島出身です
小学生の頃は夏休みになると
フェリーに乗って久米島に渡り
おじーおばーの住む家によく
泊まりに行ったものです
さとうきび畑が広がり
美しい海と空が広がり
近所の方がゴーヤーを持ってきたり
おばーが三線を弾いたり
私の中の「沖縄」は
まさにそれでした
明るく のどかで 牧歌的
笑って踊って 楽しく歌って
それが私にとっての「沖縄」
「戦争」は、教科書の中の言葉に過ぎませんでした
中高生になった頃
両親から、幼かった頃に体験した
沖縄戦の話を聞くようになりました
戦闘、爆撃により、全民家のうち20%が破壊
でも、それよりも
とてもショックだったのが
日本軍による住民虐殺の話し
当時の沖縄では戦況が悪化するにつれ
「沖縄人スパイ説」が流れていました
久米島に偵察で上陸した米軍に
捕まった住民が
米軍から「降伏勧告状」を持たされ日本軍に渡すようにと釈放されました
持っていかなければ
殺されると思った男は
その勧告状を守備隊に届けました
ところが、兵曹長は彼をスパイとみなし銃殺刑に処します。それを聞いた妻はショックのあまり川に身投げ。
その母親も寝込み亡くなりました。
なんとこの事件が起きたのは
牛島満司令官が亡くなった
6月23日(慰霊の日)より後の
6月27日
沖縄戦は
終わってなどいなかったのです
悲劇はさらに続きます
数日後には、
他にも米軍によって
拉致されていた住民と
その家族
米軍がばら撒く投降ビラを持っていた者も
寝返りとして処刑
アメリカ軍人から
お菓子の施しを受けた幼い子供も
家族も
斬り込み攻撃の生き残りで部隊に戻ってきた兵員も
そして、終戦を迎えた8月15日よりさらに後
8月18日
沖縄本島から
投降を呼びかける為に
戻ってきた仲村渠さんは
戦争が終了した事を
伝え歩いていましたが
日本軍に見つかり
1歳の子供を含む家族3人処刑
私の叔父と叔母は、
仲村渠さんの投降の呼びかけで
当時、自殺を留まったのだそうです
そして、8月20日
スパイ容疑をかけられた
朝鮮人家族7人
一家全員が刀により処刑
山から降りればスパイと見なすと脅す日本軍
山から降りなければ攻撃すると勧告する米軍
間に挟まれ、前も後ろも地獄だったと
久米島では、
米軍による住民の死者1名
日本軍による死者は20名を超えます
戦後、兵曹長は、
「時代が時代だった、
日本兵として当然の事をした。
良心の呵責も無い。」
とインタビューに答えています
ちなみに、
私は当時の日本や軍や個人に対して恨めしい気持ちが強くあるという事ではありません
住民を助けた日本兵のお話も
捕虜になった住民に手当てをした米軍の話も
逆に住民に無差別攻撃した米軍の話も知っています
ただ、この久米島事件の
話を聞き
ああ、
今の時代に生きていて良かった
と思う一方で
もうあと少しで
戦争を知らない世代ばかりの時代がやってくる
だれも戦争の恐怖を知らない
だれも恐ろしさを知らない
そしてまた いつか
同じことが
繰り返されるのではないか
そう思いました
そうならない為にも
戦争を知らない世代こそが
過去から何かを学ぶべきなのだと
思います
私は体験者ではないですし
体験者のように伝えることは
出来ません
そこまで深い知識も
ありません
だからといって
伝える事を辞めてしまえば
そのうちに人の記憶から
忘れられてしまうのでしょう
おじーおばーから両親へ
両親から私へ
わたしから息子へ
次の世代へと
命のリレーを繋ぐように
命の儚さ
平和に生きることの意味も
伝えていけたらと思っています
沖縄だけでなく、日本だけでなく
世界中が平和でありますように
「風に涙はかわいても
この悲しみは消えない」
戦後75年
亡くなられた
全ての方のご冥福を
お祈りいたします
最後までお読みいただき
ありがとうございました
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