皆さんハイタイニコニコ

バスガイドのシャーバー千亜希です!
いつも良いねありがとうございます照れ

沖縄が好きなので、沖縄へ訪れる方々にも沖縄の魅力を知っていただきたいと思い、日々、沖縄のことを勉強中です。

※これは、過去に参加したバスツアーの記録です



以前、
琉球新報カルチャーセンターで
賀数仁然さんの歴史講座を
受講していました


その
琉球新報カルチャーセンター主催

おでかけ講座

金丸の野望〜農民から国王へ〜

に参加した時の写真記録です



講師の嘉数仁然さんは
琉球史研究家
ラジオやテレビで大活躍しています

いつもお話が面白くて
引き込まれます

まるでその時代を生きていたかのように語るので
歴史に詳しくなくてもハマりますよ〜


※ネタバレにならないように
賀数仁然さんならではの
ディープなご案内の内容は
秘密✨
気になる方はいつか
参加してみてくださいねっ


「金丸」かなまる

金丸は、後の尚円王。伊是名村生まれの農民でした。
干ばつがあった時、金丸の田んぼだけが干上がらなかった事から、水泥棒と疑いをかけられ、島から追い出されてしまいました。一説によると非常に美男子だった為、女性に人気過ぎて村の青年達から憎まれた為という話もあるそう。



沖縄本島に渡り、尚泰久に支えました。1453年越来王子だった尚泰久が国王として即位した為、金丸は国王の右腕として絶大な権力をふるい「御物城御鎖之側(王府の外交と那覇の監督官)」という重要な役職も任されるほどになっていました。


尚泰久王の次の尚徳王にも仕えましたが、尚徳王は家臣と意見があわず、金丸は内間の領地に隠棲しました。


尚徳王が亡くなると、家臣達は次の王に金丸を推挙し首里城に迎えました。1469年、国王となった金丸は尚円王と名乗り第二尚氏王統がはじまったのです。




梅雨の頃だったので
この日はあいにく
朝から天気が悪くて💦

琉球新報社天久ビルに集合して
目指したのは沖縄市🚌

大通りでバスを降りて越来グスクへ


途中 見かけたワンちゃんが
凄くかわいい💕





こちらは「ヌンドゥンチャー
祭祀を司る神女 ノロが祭祀をする所で
祠があります






越来グスク跡に到着




越来グスクは、現在の越来保育所のある石灰岩丘陵上(標高80m前後)に立地していました。古老によると、かつては現在よりも高い山だったといわれており、頂上からは東西の海が見えたといわれています。地元ではギイクグシクとよんでいます。


第一尚氏第六代目の王である尚泰久や、第二尚氏第二代目の王、尚宣威が、それぞれ即位以前に居城していたことで知られています。また、阿麻和利を討伐した鬼大城も、その功績により居城していたと伝えられています。


これまでの発掘調査により、14C〜15C後半を中心とする多量の貿易陶磁器や刀の鍔、切羽、鉄釘などの金属製品などが出土しました。

また、掘立柱建物跡と考えられる柱の穴が発見されていますが、グスク全体を知る手がかりとなる外壁の石積みはまだ確認されていません。

説明板より





令和元年、なんと国指定名勝「アマミクヌムイ」に追加✨✨

琉球創世の神アマミクが越来グスクを造ったと「おもろさうし」に歌われていることから、アマミクゆかりの地として評価されたそうです

「アマミクヌムイ」とは、琉球国がまとめた四つの本「おもろさうし」「中山世鑑」「琉球国由来記」「聞得大君御殿並御城御規式之御次第」に「アマミク」がつくったと記されている聖地を沖縄県が候補として選び、国が名勝として指定したものです。


「アマミク」は神様の名前です。世の始まりにアマミクが天から降り立ち、琉球のあちこちに聖地を造ったという神話が琉球国時代から伝えられています。また、「ムイ」は沖縄のことばで高く盛り上がった場所を指します。


「広報おきなわ」より参照





周辺の文化財マップもあります







尚泰久と、それに仕えた金丸が過ごした城がここにあったんですね。金丸が王位に着いた後、金丸の弟の尚宣威も越来城に封ぜられ越来王子となりました。



越来グスクからは作りかけの勾玉も出てきているそうです。


鳥居と祠 「ギークヌウガンジュ」
「火ぬ神」と「越来城殿」

地図はこちら



歩いて越来グスク周辺をまわりました



「ターチューガー」



俗に「イシガー」と呼ばれています。
現在の井戸は昭和3年に越来村が模範衛生集落に指定されたのを機会に造られたそうです。水汲み用に、吸い上げポンプが2台取り付けられた為に「ターチューガー」と呼ばれるようになりました。正月元旦の若水取りに使われたり、出産の際の産湯の水を汲んだそうです。






越来の白椿


第一尚氏第六代目の王、尚泰久は、琉球を統一した尚巴志の五男にあたり、1454年に国王に即位。万国津梁の鐘などを造らせるなど熱心な仏教信者でもありました。「護佐丸・阿麻和利の乱」が起きたのが尚泰久王時代です。

その尚泰久が即位する前、越来グスクに約20年ほど住んでいたそうですが、その頃、越来の村娘でノロの世利久との間に第一子が産まれました。それをとても喜び家を建て住まわせ、白椿とミカンの木を送り植えたのだそうです。


ミカンの木は枯れてしまいましたが、白椿はなんと沖縄戦の艦砲射撃にも負けず、近年まで咲いていたそうです。その白椿も残念ながら枯れてしまったのですが、枯れる直前に枝を挿木で増やし、こちらと、こどもの国などに植えたそうです。今も、1月から2月頃に白い花を咲かせます。









車に乗って「尚宣威の墓」に移動












尚宣威は金丸(尚円王)の弟にあたります。
尚円が王位に就いた後、越来の領主となり越来グスクに居城します。尚円王の死後、世継ぎであった尚円の息子・尚真が幼かったことから、群臣に推され第二尚氏第二代目の王位に就きました。


ところが、、、新王を慶賀する「君手擦りの儀」で神女による「神の信託」(策略なのか?神の意思なのか?)のためわずか半年で退位し、13歳の尚真に王位を譲ります。その後越来グスクに戻りますが、まもなく失意のうちに亡くなりました。

国王であるにもかかわらず、尚真王が造営した墓陵・玉陵(タマウドゥン)ではなく、越来グスク近くに墓があります。


5歳で父母が亡くなり、9歳で伊是名島を兄の金丸と共に出て、苦労の人生だったでしょう。
謙虚で徳も高いと言われた尚宣威、策略なのかそうでないのか真意はわかりませんが悲しい結末です。


在位6ヶ月の国王

切ないですね。


地図はこちら



この後はバスで沖縄市運動公園内の
パークレストランに行って昼食〜ナイフとフォークコーヒー



のんびりランチした後は

西原町嘉手苅へ移動🚌



国指定史跡「内間御殿」

もうこの頃には結構な雨模様💦
ザァザァ降ってました💦




雨で、説明板も見えにくいですね💦



内間御殿は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。

1454(景秦5)年、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの15年間この地に住んでいたと考えられています。


尚円王は即位から7年後の1476(成化12)年に亡くなりますが、その後約190年経った1666(康熙5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。


これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。


内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことがうかがえます。このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、2011(平成23)年2月に国の史跡に指定されました。


説明板より

すみません💦
説明板ひじょ〜に見えにくいので
またいつか晴れた日に写真撮って来ますね。








なかなかの雨です☂️☔️


沢山の拝所がありました



地図はこちら



再びバスは那覇に戻り、那覇軍港を見ながら走ります

現在の那覇軍港の所にあるのが御物グスクです

天候が良くなく、この時は写真が撮れませんでしたのでいつか追記しますね


琉球王朝時代に、海外貿易品を貯蔵した首里王府の倉庫で昔は海中の小島でした。1884年に物屋展示場となり、のちに風月楼という料亭がそこに建てられました。戦後は米軍施設内に取り込まれ、今は那覇軍港内にあり城郭の一部とアーチ門が残っています。また、周辺かは多量の青磁や白磁などが出土しており、かつて海外と盛んに交易していたことを知る上で、とても重要な城跡です。



金丸の職場ですね
金丸はここの御物城御鎖之側という、王府の貿易と那覇の行政を掌る役につきました。いまの時代だと貿易長官と那覇市長を兼ねるくらいに凄いんですって。




そこからまた移動して
今度は崇元寺へ



崇元寺下馬碑の説明版


崇元寺は臨済宗の寺で山号を霊徳山といった。王朝時代の国廟で、天孫氏をはじめとする歴代国王の神位が安置され、冊封使が来た時には新王冊封に先立って先王を祀る論祭が行われた。


かつて崇元寺は国宝に指定されていたが、太平洋戦争で正廟をはじめとする木造建造物は全て焼失した。

第一門および石垣は、正面中央の切石積み三連のアーチ門とその左右に延びる両掖門を備えた琉球石灰岩のあいかた積みの石垣であり、沖縄の石造りアーチ門の代表的なものである。


石門の東に立つ石碑が「下馬碑」で、戦前は西にも同じものがあり、国の重要美術品に指定されていた。表はかな書き、裏は漢文で、この碑のところから下馬することを命じている。また、碑に「大明嘉靖六年丁亥七月二十五日」とあり、この年が西暦1527年にあたるので、崇元寺の創建はこの頃ではないかと考えられている。

説明板より引用




下馬碑の説明をする賀数仁然さん



表面





裏は漢文になっています


崇元寺の門の中は
残念ながら空っぽ
かつての国宝は
戦争で焼かれてしまいました



立派な木


石門



この崇元寺の側に、御嶽(拝所)があります
馬鞭御嶽と呼ばれています


そこにまつわるエピソード

昔、泊に安里大親清信という人が住んでいました。ある日安里は白髪の老人に出会い、お茶に誘われました。もてなされた翌日その場所へ行ってみましたが白髪の老人の家が見つかりません。


しかしまた、その老人が現れお茶に誘われました。そこで安里は帰り際に目印として馬の鞭を残して帰宅しました。


翌日、来てみると馬の鞭は残っていましたがそこには家などなかったのです。その老人は神で、ここに家を建てるようにとお告げを受け、そこにお屋敷を建てたのだそうです。その屋敷が現在の崇元寺にあたります。



金丸が御物城御鎖之側の職場に通勤する際、この安里の家の前を頻繁に通っていたそう。家の前を通った馬に乗る金丸の足に金のアザを見つけた安里大親は、「貴方には高貴な相がある」と金丸に言いました。


しばらくして尚徳王が亡くなり、
首里城で後継者を選ぶ重臣達の側には何故か安里大親の姿が。突然、安里大親が神がかったように叫んだそうです。「虎の子は虎、悪王の子は悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主!」それに対して一同が「ヲーサーリー」と唱和し、第一尚氏の王族ではない金丸が国王として擁立されたそうです。



安里大親は、1458年に起きた「護佐丸 阿麻和利の乱」で自害した護佐丸の兄弟だと言われています。
中城城を襲い一族の命を奪った首里王府への恨みを抱いていたのでは?と

安里大親は、金丸が尚円王即位後、安里村の地頭職に任じられています。

ちなみに、
崇元寺からやや歩いた所には、安里大親と金丸がクーデターの計画を練っていたといわれる碁打御嶽という密会場所もあります。密会場所という割には今世まで残るくらいあからさまなんですね?不思議

別の機会に写真は載せますね




うう〜ん
大河ドラマのような、欲と恨みと権力と複雑な人間模様があったんでしょうか〜?

地図はこちら

さてさて、バスに乗り
最後に「玉陵」へ


地図はこちら↓↓
玉陵マップ

玉陵

玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となりました。

墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体の作りは、当時の板葺き屋根の宮殿を現した石造建造物になっています。墓域は2442平方メートル。

沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。


玉陵パンフレットより引用



本当は写真沢山撮りたかったんですが

物凄い土砂降り💦雨雨雨
この時は残念ながらこれだけ💦
また、別の機会に写真載せますね。







玉陵碑も、この時は雨で撮れず
ですのでパンフレットの写真を載せておきます。

この碑文は1501年に建てられたもので、玉陵に葬られるべき人々を規定したものです。尚真王外8人の名前が記され、この書き付けに背くならば、"天に仰ぎ、地に伏して祟るべし"と結んでいます。碑文には長男・次男の名が見えず、王室内の勢力の対立があり、廃されたと見られています。

パンフレットより引用



この玉陵のお話でも宇喜也嘉(オギヤカ)が登場します。オギヤカは、20歳の頃当時50歳の金丸の元へ嫁ぎました。

1476年に金丸こと尚円王が62歳で没すると、オギヤカの子・尚真が幼いという事で尚円王の弟・尚宣維が即位します。ところが半年後に行われた即位式で、新王を讃えるはずの神女が尚宣維ではなく、尚円と尚真を讃える神歌を唱えました。(オギヤカの策略?!なのか?!)

尚宣維は、「私が王に相応しくない為、神がお怒りになった」と、退位し、13歳の尚真が王となります。そして母后オギヤカは尚真の代わりに実権を握り国政を支配しました。オギヤカ32歳の時でした。


オギヤカは、当時、琉球各地で神の代弁を務めていた神女達を王府の管理する組織に作りかえました。「聞得大君」という最高位の神職を設けて長女を初代の聞得大君に任命しています。政祭一致の基礎を作ったのです。


玉陵造営の際は、尚円王とオギヤカの子孫のみが葬られるべきと記され、尚宣維などの血統以外の者は除かれていて、これもオギヤカの意思なのでしょうか?


ですが、玉陵の中の骨壺にはオギヤカの名が見当たりません。


オギヤカは、国政を一手に握るほど頭の良い女性だったのだなぁ〜


尚真王は、中央集権体制を確立させました。各地の力を持っていた按司を首都・首里に集居させ、地方には役人を派遣して領地を管理させました。首里に住む按司には収入を保証し位階を与え身分に応じてハチマキの色を決め、さらに王を補佐する三司官を置きました。

また、士族の教養の為、三線を奨励しました。

1500年に八重山諸島のオヤケアカハチの乱を平定、1522年には与那国島を征服し版図を広げました。




このオギヤカさんあれこれ悪く書かれてますが実際のところどうだったんでしょうかね。



こんなに功績を残した尚真王を陰で支えていたのが母オギヤカなのかしら。20歳の時、50歳の金丸の元へ嫁ぎ、金丸が亡くなった後は、子供のために生きたのかなと(あたたかい母親目線で)勝手に思いたい。何でも良い方に考えてしまいます笑。



が、陰謀を企み実権を握っていた女帝というイメージが定着してますね。本当のところが気になります。






バスの中でも外でも楽しくお話聞きながら素晴らしいバスツアーでした♪♪


バスで行ける観光地だけでなく、歴史にまつわる色んな所を学びたいなぁ〜と思いました💕



参加者の皆様、
非常に熱心にメモとったり質問したりしてましたよ〜


今はコロナウィルスの影響で
全然バスツアーありませんが💦
いつか、また参加したいものです

最後までお読み頂きありがとうございました😊



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