ハイタイ〜
バスガイドをしています
シャーバー千亜希です爆笑



沖縄が好き
沖縄を訪れる方々にも、同じように沖縄を好きになって頂きたい💕
そんな想いでバスガイドをしています

生まれ育った沖縄をより深く知りたいと日々勉強中です

コロナ禍でなかなか沖縄旅行に来れない方も多いと思います

少しでも沖縄を旅している気分になっていただけたら嬉しいです!✨


今日は、宜野湾にある史跡

中山の王、察度王にまつわる拝所
森の川
黄金宮
ご紹介します


こちらが森川公園
息子が小さい頃、数回遊びに来ました。

不思議で厳かな雰囲気

森の川


駐車場に車を停めると歩いてすぐのところに

宜野湾市指定名勝

森の川の湧泉


ここで天女が沐浴したという羽衣伝説が残されています。

昔、奥間大親(オクマウフヤ)という男が、森の川で沐浴中の天女を見初め、その羽衣を隠してしまいます。
奥間大親は羽衣をなくして困っている天女を自分の家に連れ帰りました。天女は奥間大親の妻となり、一男一女をもうけます。ところがある日、子供が羽衣のありかを口ずさんで歌っているのを聞き、羽衣を見つけると天に戻ってしまいました。

生まれた男の子が、察度といい、後に本島中部地域を治める中山の王になったと言われています。










子供がおじーちゃんと虫取りをして遊んでいました



側に石門があります




中にあるのが西森碑記
西森御嶽です







この石碑は高さ120cm、幅30〜60cm、暑さ10〜22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。
尚清王(在位1527年〜1555年)の第七子を初代とする向氏伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号1725年)に建立したものである。

碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親とが出会い一男一女が生まれた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村の野国掟(のぐにうっち)の娘で、名を城の大按司志良礼(うふぁんししられ)といい、尚清王の夫人である。私たち子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。

これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷き詰め、泉を囲み、門を造った。
また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4メートル)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。

大清雍正3年9月吉日、向和憲垣花親方朝理・向良顕伊江按司朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
碑文の末尾の人物は三司官の向和声を含め、いずれも伊江家の子孫たちである。

平成4年3月 宜野湾市教育委員会


こちらはユタの修行場にもなっているそうです



側には森川之塔


マヤーアブ顕彰碑

激戦だった沖縄戦で幸いにも戦果を免れた森川丘陵の中腹に自然洞窟マヤーアブがある。沖縄戦で真志喜区も戦果に巻き込まれました。区民達は米軍上陸直前にマヤーアブの中央部に空気孔を開けるなど避難壕として整備し、そこに区民約300人が避難し命を守ることができました。戦争の記憶を風化させない為、マヤーアブを命の守護地として顕彰し、後世の人々に伝えていく。とあります。



米軍が上陸し嘉数高地に向かう手前ですが、この周辺は幸いにも戦果を免れたようです






そこから車で10分以内の距離にあるのが

黄金宮です



ここは、中山の王となった察度が住んでいた屋敷跡です。

くがになーと呼ばれています



天女の子と言われる察度は、ある日、勝連按司の娘が婿選びをしているのを聞き、勝連に行き、「娘さんを嫁に下さい」と頼みました。按司とその家来は大笑いし追い返そうとしました。その時、物陰から若者を見ていた娘は「この若者は只者ではありません。結婚させてください。」と頼みました。娘を信頼していた按司は二人の結婚を許しました。


二人は大謝名にある若者の家へと向かいました。その家の垣根は壊れ、雨漏りがしていました。しかし、よごれたカマドをよく見ると黄金で作られていました。不思議に思って尋ねると、察度の畑に沢山有ることが解り、二人は黄金を拾って貯えました。そしてこの地に楼閣を造り、金宮と名付けました。


当時、牧港には日本の船も出入りしていたので察度は鉄を買い入れ、それを農民に与えて農具を買い入れました。察度はやがて人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王となりました。琉球王朝と中国明朝との貿易を始めたのも察度です。人々は彼の素晴らしさを讃え、この地を聖地とし現在まで篤く信仰してきました。

説明板より


察度王は、明の太祖洪武帝の招諭に応じて、1372年、弟の泰期を明に派遣し朝貢貿易を始めました。中国の歴史書に初めて登場する琉球の王が察度王なんですね。また、朝鮮国との国交もはじめます。1392年には中国人を渡来させて、貿易業務を委託させ、人材登用を実施し、察度は琉球の貿易の基礎を築き上げました。




説明版

グスク時代の頃に造られたと考えられる東西薬15m、南北約10m、高さ約2mの石垣があり、また、黄金宮付近には鳥居や石燈籠があり、南側には松林が川の側まで広がっていたと伝わっています。また、近くには広場もあり、6月のウマチーでは、稲の神酒を9月にはイモの神酒を供え、それを皆に配ったそうです。





説明板を読むと、昔はかなり広い場所だったようですね。
今はひっそりと住宅地の中にあります。


黄金宮



察度王が住んだ浦添グスクのお話はこちら
沖縄旅行は那覇バスへ✨

最高の旅になりますように精一杯ご案内いたします💕

シャーバー千亜希


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