『ママ、ひとりでするのを手伝ってね!』 by 相良敦子 | ゆる~りMalaysia風★マルチリンガルっ子の育ち方【乳幼児編】

ゆる~りMalaysia風★マルチリンガルっ子の育ち方【乳幼児編】

多言語社会で生まれ育つと、ホントにいろんな言語ができるようになるの?

元backpacker&語学教師、現在専業ママが観察する日マ・ハーフの息子の成長記録。クアラルンプールの育児・教育事情。モンテッソーリを中心にした幼児教育。


ずっと前から読みたいと思っていた本が手に入り読破しました~。


モンテッソーリの幼児教育 ママ,ひとりでするのを手伝ってね!/相良 敦子
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2歳が近づくとやってくる「イヤイヤ期」「反抗期」。
「自分でやりたい!」「手を出すな!」とばかりに無謀なことをしようとする。
しかしまだ一人ではうまくいかないので、泣いて怒る。


こんなんがうちも日常です。


汚いから、危ないから、ケガをしそうだから、どうせできないんだから・・・とつい止めてしまうことも多々あった。
(>>>モンテッソーリによるとそれは成長の妨害で
「それは遊ぶものじゃないから、触らないで!」と私は言い、息子はどうしても「やる」と駄々をこねる。
実際「後片付け・掃除がやっかいだから」とかいう勝手な私の言い訳もあるのよね。


こんな戦いは本当に骨が折れる・・・


しかし、そんなに頑張る必要はなかった~。
基本、やりたいようにやらせればいい。(掃除なんざ、その子の成長のためなら気にするなって?)


好奇心を大事にする。できなくても失敗させて、またトライさせて、成功に導くようにさりげなく助けるなど。


危険であれば、やや安全な類似品でやらせるとか。

自分で選んでやりたいと思ったものは、とにかくイイこと


ダメダメ言うより、そっちの方がお互い楽だし、うまくいく。


口出しせず、手出しせず、でもじっと後ろから見守り、さりげなく助けたり、環境を整えたりする
大人は我慢強く、忍耐強く「黒子」に徹しないと



何もできないから何でもかんでもお世話をやってあげてた新生児時代。
それを卒業して、今度は自立していく幼児期。

自分でできるように、今度はこちらの手をひっこめて、子どもにやらせる。失敗させる。何度も試行錯誤させる。
この親の手のひっこめがとても難しい。



子ども目線で、子ども主導で・・・これは「語りかけ育児」にも書かれていた点と共通します。




ではいつものように、印象に残った部分を引用させてもらいます。



モンテッソーリ曰く
「子供の知能は手を使わなくてもある水準に達します。しかし、手を使う活動によって子供の知能はさらに高められ、その性格は強められます。逆に、子どもが手を使えるものを見いだせず、手を使って周囲にかかわる機会をもたない場合、また、手を使いながら深く集中する体験をしたことのない子供は、幼稚な段階にとどまり、人格はきわめて低いものとなります。
そんな子供は、素直になれなかったり、積極性を欠いたり、無精で陰気な性格になってしまうのです。ところが、自分の手で作業できた子供は、明瞭な性格とたくましい発達を示します。」


子どもが大人に求めている手伝いとは、「自分一人でできるようになる」ことへの配慮なのです。
大人が子供の代わりにしてやるのではなくて、子どもが自分でするように援助してやらなければなりません。



「教育の基本原則は、子どもと大人はちがうということを知ることです」

子どもと大人は、具体的にどのように違うのかをよく理解していないから、大人は子どもを自分と同じように考えて無理な要求をします。
大人は子どもに対しては勝手で、おうへいで、盲目です。子ども期を生きている人間が、自然から重大な課題とそれを実行する力をもらっていることを本気で知ろうとはしないのです。子ども期を生きている人間は、大人の支配下にあるようで、実は、決して大人の支配に屈しません。大人の支配よりもはるかに強い自然の力に支配されています。自然のプログラムに従い、各時期ごとに自然から課された宿題を成し遂げねばならないのです。=自然から課された宿題。


自然からの宿題。

子どもが小学校に入学すると、親はわが子が学校からもらってくる宿題のことを気にします。「宿題をしてから遊びなさい」「もう宿題はできてるの」など。

子どもの学校の宿題にあんなに関心のあるお母さんが、小学校に上がる前のわが子の重大な自然からの宿題には無関心であるばかりか、それを妨害さえしがちなのです。大人が考えて大切だと思うことを、押し付けても良いと思いがちです。ピアノ、水泳、英語、バレエ、漢字、算数など「今のうちから習っておく方が将来役に立つ」と熱心に思いめぐらし、子どもに付き添って歩きます。そうしながら、お母さんは「良い親」であると自認し、「子供のためになっている」と思い込みます。それは決して悪いことではありません。でもそれらによって、根本的にたいせつなことが忘れられたり、侵されたりしてしまうことが残念なのです。

幼児期固有の特別の生命力があります。そしてこの時期独特のエネルギーの発揮の仕方があり、そのエネルギーを百パーセント出しきって獲得しなければならない事もあるわけです。「自然から課されている宿題」を大人は知らなければなりません。


子どもはこの宿題を「勉強机」でするのではなく、日常生活で(五感を総動員して動きながら)する。



習い事の話。
まだ小さいうちは子どもが自分で選ぶことはできない。
いいかどうかも体験してみないとわからない。しばらく様子を見てみないとわからない。
だから、何がこの子に合ってるのだろう、何がこの子は好きなんだろうと・・・・最初はいろいろやらせてみたくなるよね~。
逆に嫌がったり、行きたくないのに無理やり連れて行ったりするのは、したくないけど。
可能性を広げたいけれど、習い事ばかりでは自由時間は減る。(シュタイナーの本にも書いてあった)
その子が自分で何をしたい!何をしたくない!とはっきり言えればいいけれど。
ママに喜んでもらうために、ホントは楽しくないけど行ってる子もいるだろうしね。

まず小さいうちは日常のことをいろいろ親と一緒に家庭でやるのが習い事(?)として最適なんでしょうね。





3歳までの主な敏感期


1)吸収する心
外界の見るもの、聞くもの、触れるものすべてを、まるで写真を撮る速さのように積極的に吸収する。
さまざまの印象を内面に貯めていきます。3歳以後は、新しいものを得るより、むしろ3歳までに貯めたもろもろの印象を整理するのです。ですから、3歳までに美しい言葉や音楽、いつも愛されているという確かな安心感、安定した雰囲気、豊かな文化や自然が身辺にあることが望ましいのです。

2)秩序感
・順序
・所有物
・習慣
・約束


体内の秩序感 (筋肉をどう使い、どう動けばいいのかの法則)

精神の秩序感 (外界のものを区別し、集合し、分類するメカニズムを発展させる。知性の働きと結びつく。思考していく土台)


子どもにとって外界の秩序は、魚がその中で泳ぐ水に相当する重要な物。この宇宙の中でどう動けばよいかなど、自分の行動と理解を確かめていきます。
子どもにとって秩序があることは、落ち着くことができ、安心して動くことができる条件なのです。
自立していくための羅針盤。必要な道しるべ。
日常生活で繰り返す活動にも、わかりやすい順序や段階があるなら、子どもは自分が生きる場所や行動の中に秩序を見出して安定し、それはやがて、確かな知性や精神性の土台となっていきます。



確かに秩序があるというのは安心します。大人でも。
ルールに沿っていつもの順番でやる。そうするとそれを極められる、落ち着いてできる、というのも納得。
法則や秩序にのっとりながら(ガイドラインですね)、自分で決めて自分でいろいろできるようになっていく。
これが全くの放任・自由とは全然違うところで。
そういう環境を整えるのが親の役目。








困り者の状態
強い子のタイプ:乱暴、凶暴、反抗的、不器用、がさつ、落ち着かない、集中できない

弱い子のタイプ:消極的、無気力、自分から行動しない、大人の誘導や指示を待つ、怖がり、不安、依存心、神経質、無表情


原因>身体的な基盤が形成される六歳までに、体を形成するエネルギーと精神的エネルギーが統一できなかった。周りにいる大人が、子どもが自分で体を使い、心を働かせてしようとしていることを、妨げたり、取り上げたり、せかしたり、ほったらかしたりしたことが原因。大人が肩代わりしてなんでもやってあげることも一つの原因。

>>しかし、豆選びや砂の作業を満足いくまで取り組ませたら、変わった!


途中で止めなければならない時には不愉快さが残る。とくに子どもは、一つの周期をやり遂げるまでは気がすみません。しかし、気のすむまでやり通すと自分から止めます。そして、心身のエネルギーを統一できる活動を集中してやり遂げた後は子どもは良い状態に変わるのです。
その子の奥底から必ず現れる子供の高い資質。




モンテッソーリ曰く
「人間は仕事によって形成されます。仕事は他のもので代用できません。幸福によっても優しい愛情でもできません。他方、逸脱発育(上記のような問題行動)は罰でもよい手本でも除かれません。人間は手を働かす仕事によって自分を形成します」

子どもの中心的興味は「遊び」ではなく、むしろ自分を成長させる「仕事」なのです。


「遊び」とは大人が見ていいと選んだ玩具をポンと与えて遊ばせる、などを指すと思うのだけれど。
このモンテッソーリでいうところの「遊び VS 仕事」についてはまだ私も完全に理解していないような気がするので、また勉強を続けたいと思います。




理論としても、方法としてもモンテは本当に魅力的だけど、現実問題必ず考える点がある。
幼稚園はモンテッソーリのお仕事をやるだけでいいのか。
いわゆる「教科の勉強の準備」はしなくていいのか、そしてモンテの小学校というのは稀なので(マレーシアには無いでしょう)、普通の小学校に入ったら、アプローチが違うので戸惑わないか、不適応を起こさないのかということ。




幼児期だけモンテッソーリで、小学校以降、ふつうの学校に入れて困らないでしょうか?

最初の数ヶ月は適応に苦労するが、長い目で見るとモンテの子達の方が伸びる。「主体的に学ぶ態度」が出てくるそう。

先生から見て「良い子」とは、言われたことだけをこなす。=主体性がない



(一斉教育の子供たちと比較して)
モンテッソーリ教育の成果
・数学的な考え方
・言葉の能力
・動作のしなやかさ
・信頼される人柄

自分を訂正できる>自己教育力>自立した思考


自分で興味を持ったことを深く突きつきとめていく姿勢は、専門の勉強をするときにとても役に立つと思うけど(高等教育)。

まずは小学校。一斉授業で、数教科を同時進行に勉強して、みんなと同じようにテストされて点数がついてうんぬん・・・
「学ぶ姿勢」がしっかり身についている自立した子なら、心配することはない、とはいうけれど。

現実問題、卒園までに自分の子がそこまでになって小学校準備が整ってくれるのか、まったく見えませんー
もし中途半端にしか(モンテの目指すところまで)成長できてなかったら、どうすんだとか考えてしまいます。

ネットでモンテ卒の偉人についての記述もある反面、経験者談やよく言われるモンテの短所も少しあったので読むようにはしています




21世紀は機械文明がますます人間の手や脳の代わりをする時代。
その結果、人間はますます不器用になり、不器用は同時に人格的な未熟さや不調和をもたらす。



今やiPadやiPhoneで、タッチパネルでいろんなことが操作できる時代。(これも指の運動!?)
うちの息子を含め、1、2歳の子でさえお茶の子さいさい。
いいんだろうか~

便利っちゃ便利だけど、やっぱり室内にこもるだろうし、デジタル世界は時間を忘れて没頭してしまう。リアルな社会性も育たず。
その上、子供は歯止めがきかない気がする。
だから、とても危機感を覚えます。だからといって、まったくシャットアウトするのも難しい現実。


なるべく気をつけてできる限りのアナログ生活・室内遊びより外遊びをもっとさせたいのですが~
・・・・かなりの葛藤がいつもありますね。


とにかく、これからも自分で勉強しつつ(まだ入口に立っただけ)、どんどん家庭でモンテのお仕事系のことを導入したいと思います。


ちなみにこの本は理論とともに、実際どんなことがお仕事になるのかイラスト付きでたくさん載っていてPracticalですよ。



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