心療内科に行っても何も変わらず、この先私はどうなってしまうのだろうという不安が常にあった。
毎日気分に波があり、アップダウンを繰り返した。
夫への不信感がありながら、夫が側に居てくれることに安心する。
次第に自分への嫌悪感が湧いてきた。
信じることが出来ないこと。
その信じられない相手に支えてもらわないと生きていけない私。
一緒に生きていくには信じるべきなのに…
それが出来ない自分に嫌気がさしていた。
でも信じるということは頑張ってすることなんだろうかと思うようにもなった。
鞄を見てから常に夫を疑いの目で見てきた。
でも真っ黒ではない。
これまでに私が知り得た情報は全てあやふやなもの。
どうにでも取れるものばかり。
裏切りの証拠を探し始めたらどんなことでも黒く見える。
こじつけられるのだ。
逆に何もしていないことを証明することは不可能なんだとわかった。
本人でない限りわかり得ないこと。
私がどう見ているかで全てが変わる。
長い時間をかけてようやく疑うことの無意味さを理解した。
もしも本当は裏切られていて、夫が上手く隠し通せる人間だとしたら、夫が私よりも上手なだけ。
運も味方しているのだとしたらそれは夫の[徳]のような気がしてきた。
それならばそれはもう私がどうこう出来る問題ではない。
存在するかしないかもわからないことに不安を持つよりも、存在するものを見た方が良いと思えるようになった。
そして、無理して信じることはないとも思った。
私も夫も人間。
過ちを犯すこともある。
裏切られたとしても自分がどうありたいかを考えたいと思うようになった。
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現在の夫の行動は私にしてみれば逆効果に見えることがある。
例えばスマホのポップアップ機能をオフにしていること。
私が不安定になってからスマホを開かないとLINEやメッセージが見れなくしている。
私が簡単に目にすることで不安にならないようにしているのだと解釈している。
けれど、やましいことがないのなら、堂々としていれば私も気にしなくなるのに、わざわざ隠していると捉えられそうなことをするのは逆効果。
そのことも女心がわからない人なんだなぁと感じるだけで深く考えないようになった。
ある意味信じているのかもしれない。
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夫を疑うことはこの考え方で大きく変わった。
私はカウンセラーでもヒーラーでもないから正しいかどうかはわからない。
けれど、自分で腑に落ちて苦しくない方法が見つけられるのならそれは私にとっては正解のように思う。
また苦しくなったらその時はその時に考えたら良いことだと今は思う。
でも私の課題はこのことだけではないと徐々にわかってくるのもこの頃からだった。