推しのためにはこうしたほうがいい。


そんな意見が沢山流れているのを見ました。


推しのために、という感情は少し怖いなと、

それを見ながら思いました。


自分が使うお金とその対象。

費やす時間とその中身。


それを決めるのは推しではなく自分だし、

それは忘れたらダメなことだと思うのです。




あなたのためを思って。


そんな言葉を自分が投げかけられたとき、

そこに生まれるのは必然的に感謝…なのかな。


頼んだ覚えはない、と思うこともあるだろうし。

あなたがそうしたかっただけだろう、とかも。


もちろん素直に嬉しいこともあります。

感動して涙することだってあるかもです。


では、その差は何なのか。


それはあなたのためにと相手が取った行動が、

自分も望む結果に繋がるか否か、だと思います。


なので行動する前に結果はわからないはず。


相手が推しではなく親友でも、恋人でも、

配偶者でも、子どもでも、多分そうです。


24時間相手のことを考えていたって、

正解なんて事前にはわからないはずです。


でもだからこそ考えるんだよ、なんていうと、

矛盾してる気もするし難しいのですけど。


何が言いたいって推しのためになるかは、

誰にもわかりはしないってことです。



だから個人が決めることは出来ないはずの、

推しのためにどう行動するべきなのか、

何が推しのためなのか、で喧嘩する。


その喧嘩は推しのためだと胸を張る。


そんな馬鹿なことがあるかと思うのです。



推しのために自分がしたいと思ったこと。


考え抜いて出した答えと行動の結果と責任は、

もれなく自分にあるんのではと思うのです。



推しのためではなく自分のため。

自分がしたいことをしているだけ。


そんな風に考えて行動した人はきっと、

推しに裏切られたとは思わないはず。


ここまで読んでくれたあなたの中にもし、

推しのため、という気持ちがあるなら。



その根源は自分のためではないのか、

改めて考えてみて欲しいです。


推しのためを言い訳にして、盾にして、

誰かを傷つけたりしていないか。


そもそもそれは推しためになっているのか。


考えてみるキッカケになったら嬉しいです。



ここらは一応、念のためですけど。


自己責任だから何を言ってもいいとか、

自己責任だから何をしたっていいとか。


そういうことが言いたいわけではないです。


誰かを批判するということは、

批判される覚悟が無いとズルくて。


推しのためにで誤魔化すことなく、

自分の意見として責任が持てないなら、

お互い否定しあうのはどうなんだろうなって。


誰のことを好きも嫌いも自由ですけど、

正義や大義なんて、そこには無いと思うので。