猛暑の中、歩くだけで疲れてしまう私です。
こんな中インフラの工事も含め現場作業に従事している方々、
農作業、畜産業、漁業等の自然や生物相手のお仕事の方々、
厳しい自然環境であっても、私達が生きる為に不可欠な事業に従事して下さる方々に頭が下がる思いです。
最近、職場が変わりました。
慣れない業務なので、学び覚える日々です。
残念ながら
職場の人間関係は良いとは言えません。
良く言えばキャラが立つ方が多いかと。
正直に言えば愚痴や不満しか出ない様な職場の人間関係。でもプラスの側面があります。
環境の悪さが教えてくれる当たり前の事、「この世の真理」的な気づきを得ています。
真理①
利害関係や明らかな場合
上下関係がハッキリしている場合
お互いの関係性を構築されている場合
を除いて
他人の『正しさ』を押し付けられるのは
負の感情しか抱かせない。
(メリットはほとんどなく、押し付けた側の自己満足でしかない)
私は、今の職場では白紙状態なのて同じ職位の方だけれども、業務に先に従事されている、先輩に当たる方に仕事を教わっています。
業務のマニュアルやルールを状況に応じて説明して貰っています。
単純に言えば教える側は『正しい』のです。
私は先輩に当たる方の言う事を一から十まで従順に聞きます。白紙状態からの吸収は、それが一番効率的だと思っているからです。
従順に聞いているのは、先輩に当たる方と関係性が構築された訳でもなく、上司だからという訳でもなく業務のマニュアルや組織のルールに沿っているものを教えていただいているからという理由だからです。
なので、業務の範囲から逸脱したもの、私の仕事の取り組み方、私の仕事に対する姿勢、職業倫理に口出しされると、この限りではありません。
個人的、主観的な感情や倫理観を根拠基準とした
「○○はする必要ない(なぜなら、私がしないから)」
「△△した方がいい(なぜなら、私がそうだから)」
というアドバイス本当、不快感しか抱かせないものだと思います。
私はあなたじゃないし
あなたは私じゃない。
あなたが『正しい』と思う事を
私がスルーして
私がどう思われようが、
私の責任です。
私がスルーして
あなたが不快に思うのは、
私の責任ではないです。
あなたの感情の動きでしかないです。
私の範疇であることさえ、自分の『正しさ』を理由に口出しされる、
例えば
私は間違いがあると、自分が再びミスをしない様に、その間違いをメモや付箋で、目に見える所に残すのですが
「そんなの必要ない」という、その方の『正しさ』「それを見る事ない」というその方の『感想』を押し付けてくる。
私の机上の鉛筆やマーカー、押印の判子の置き方が、その方の『正解』ではない「私はこうしているから」という理由だけで並べ方無理強いしてくる。
業務の本質とは全く関係ない。
効率化、合理化にもなっていない。
けれど
その方は「モニさんのことを思ってるんです」「これが正しいに決まっている」と押し付けてきます。
そこはかとなく私に忍び寄る不快感…
そんなやり取りの後日
「えっ?!」とある考えが浮かびました。
私の子供への一部の言動やブログに書いた感想(アンチに纏わりつかれたブログ)は『クソバイス!』と受け取られていた。そして、それは仕方がない事なのでは。と。正に腑に落ちたのです。
自分が『正しい』と思っている事を
自分から見て『正しくない事をしている』と感じる人に押し付ける必要はあるのか。
『正しい』と思っている事を押し付けるより、そうしたいと感じる自分の中にある違和感、不快感を意識してみるのが先とか?
まあ、そんな、こんな考えている私は面倒くさい人なのですが🌀
とはいえ
•『正しさ』を押し付ける相手の気持ちもわからないわけでもない。けれど私は「イラッ」としますよ。
•あなたは「私のやり方が気に入らない」私は「あなたのその言動が気に入らない」
分かり合えないです、多分。
「分かり合えないわなぁ、」っ思いながら一旦、相手の情緒が落ち着くのをとにかく待ち(出来れば、無表情で)
そして「そうなんですね」(聞きました。)という体でいるのが、一番無難な気がしています。
これは所謂、処世術‼️の一つですよね。
「処世術」とは狡猾なイメージがあったのです。けれど相手の気持ちもわからんでもない。(受容はするが、理解も納得もしない)という、年を経て得たこの知見。
この知見に親和性が高いものが「処世術」だと思っています。
「処世術」今更ながら、必要だと思います。