オリンピックの男子バレーボールの試合は普段はバレーボールの試合を見る機会のない私でも、のめり込む様に見てしまいました。
最終的には接戦になったのもあり、とても白熱した素晴らしい試合でした。
このオリンピックという舞台に全てを賭けている選手の姿は『男子バレーは人気あるみたいねぇ』と安易な気持ちで見始めた私の気持ち、感情を揺さぶり、目を離す事も出来ないくらい夢中にさせたのでした。
日本代表選手の勝利への強い想いが画面越しでも伝わっていたと思います。
また代表選手達の高い技術力や身体能力、途切れる事のない集中力は、選手達の日頃の鍛錬を物語っていて、試合を観戦している人達を圧倒するものでした。
そういう状況はテレビでは、何かの演出をするのが、昭和からのデフォなのでしょうか。
試合を見ている方々には、それぞれのポイントで立ち上がる感情、噛み締めている想いがあると思うのです。
その日の試合を放送するテレビから
このシーン、感動するでしょ。
この瞬間こそ、待ち侘びてたものでしよ。
まるで『感動』を誘う様に、むしろ押し付ける様に試合の合間に『感動』を挟んでくる。
私には、それがあの時の試合風景にとても不釣り合いな感じがしたのです。
そして、その実況を聞くと、試合の内容とは関係無く冷めてしまうのでした。
感動を押し付けられるのは、小学生の頃から苦手でした。
自分の感情をコントロールされる様な感じがしたからです。
皆んなが感動しても、私には全く刺さらないこともある。
私はとても心震える程感動していても、他の人には、それに何も感じないこともある。
人の感性は、その人固有のものですよね。
他人や周りに合わせる必要もないし、
他人や周りに合わせられるものでもないと思っています。
私は他人の『感動』に
安易に乗らない、乗れないです。
それは私の欠点なのかもしれません。
私らしいと思いますが…